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さいごの日

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 飛び起きたら、まだ真夜中だった。
 こちこちと秒針の音が聞こえてくる。目覚まし時計の文字盤が、緑色に光っていた。
 
 雪は、三月の幕開けとともに緩やかに溶け始めた。月が替わると同時に春の気配が濃厚になる。まだ寒い日々は続くけれど、吹き抜ける風は緩い。
 ざざざ、と、屋根雪が落ちる。水色のカーテンを透かして、その大きな影が見えた。
 冬の夜はどこか青味を帯びている。外はまだ闇だったが、うっすらと群青色がかかっていた。布団から体を起こしながら、わたしは自分がひどく汗ばんでいることを知った。

 (またか)

 ぶつぶつの玉の汗が毛穴から噴き出している。
 長袖のパジャマの袖をまげると、ひょろっとした腕に気持ちの悪い汗がつぶつぶと見えた。顔も頭もびしょびしょに濡れている。
 悪夢の内容は忘れたが、寝汗をかくほど、わたしは怯えていた。

 「ふー……」
 溜息をつきながら起き上がり、タンスをそっと開いて着替えを出した。時刻を見ると午前3時である。もう一度眠ろうと思えばできそうだったが、布団の中は汗で湿っていた。
 全く疲れが取れない体をなだめつつ、動く。タンスから出したのは下着一式と、普段着。もうパジャマは着ない。

 まだ眠りの中にいる梟荘の暗い廊下を忍び足で歩き、風呂場まで行く。
 優菜も沙織も夢の中にいるだろう。特に沙織は、今日はママが迎えに来て、遠いところまで電車に乗ってゆかねばならない。電車を何度も乗り換えて、バスや徒歩も交えて、新居にたどり着くのは夕方位になるだろう。しかもその後、梟荘から送ったタンスや勉強机の類が一気に届けられ、運送業者さんを迎えなくてはならないのだ。
 (沙織、お疲れ)
 今日という日は、きっと沙織に取って、凄まじく疲れる一日になる。十分に寝て体力をつけて。
 「さおりの部屋」というハートマークを横目に、わたしは脱衣場に入った。

 ぱちんと電気をつけると、洗面台の鏡がぼんやりと光った。
 わたしは前からこの鏡が嫌いである。精神的に追い込まれた時、時々目の錯覚が映ることがある。なぜかいつもこの鏡だ。
 梟荘は古い家だし、けやきさんの持ち物になる以前に、全くの他人が住んでいた時期があったかもしれない。色々な歴史が染みついているのだ。だから、夜更け、誰も見る人がいない時間に、梟荘は時折、謎を見せる。

 幸い、今、その嫌な鏡には、おかしなものは映らなかった。

 汗で前髪がべっとりとくっついた、青い顔のわたしが見返しているばかりである。こうしてみると、幽霊さん以上にわたしは薄気味悪い見た目だ。
 服を脱いだらあまりの寒さに叫びそうになった。大急ぎで風呂場に入り、熱いシャワーで体を洗った。

 シャワーを浴びて、身体を拭いて、ドライヤーで髪を乾かしている間に、気持ちはずいぶん落ち着いた。
 今、何時くらいだろう。朝の4時が近いなら、そろそろ台所でお湯を沸かしてもいいかもしれない。外に出て散策してみようか。
 早朝、誰も起きていない時間は、嫌いではない。普段着を身に着け、寒いから上に一枚フリースの袖なしを着て、脱衣場を整えた。足ふきマットを洗いたいなと思いながら顔をあげたら、ああ、やっぱりか、と思った。
 その油断を狙っていたかのように、洗面台の鏡には、そこにないはずのものを映し出していたのだった。

 母が。
 まさに、マイ・マザーが、糞真面目な顔をしている。怖い顔をしていた。それは、学校時代、赤点を取って帰った時の顔と同じだった。
 だから言ったでしょう、あんた最近身を入れて勉強していなかったじゃないの、ほんとにどうしてわからないの。

 怖い顔の母が、鏡の向こう側でこう言った。
 「情け無用って言ったでしょう」

 何のことか理解するまで時間がかかった。

 鏡の中の母は、どうしようもない馬鹿を憐れむような目をして、やがてすうっと消えた。気が付いたら鏡はただの鏡に戻っていた。ぼんやりとした蛍光灯の光に照らされた、狭い脱衣場を映し出しているだけだった。

 いつからうちの鏡はスカイプマシンになったのでしょう。
 今見たものは、幽霊ではない。母からの通信である。
 こういう現象がどういう仕組みで起こるのか想像もつかないが、魔女修行を積んだひとなら可能なのかもしれなかった。

 情け無用。
 母は多分、早川芽衣のことを言っている。2月に母は電話をくれた。その時に警告じみたことを言ったではないか。あれは芽衣さんのことなのだろう。
 
 わたしは自分を振り返った。情けをかけたのかもしれない。絶対に隙を見せてはならない相手だったのかもしれない。
 脱衣場の電気をけして、そろそろと台所に向かいながら、一度は引いた汗がまた浮き出してきた。

 夜に恐ろしい夢を見て飛び起きるのは、あの、コンビニに芽衣さんが押しかけて来た日以来、続いていた。
 沙織に会わせて、と、芽衣さんは懇願し、わたしはそれを退けた。そのことへの罪の意識が、わたしを苦しめているのだろう。

 けれど、罪の意識だけではなく、怯えもある。

 情けないことに、わたしは早川芽衣が怖かった。どおんと大きな存在感、ひとをひとと思わぬふるまい。にもかかわらず、世の中の大多数の人からちやほやされる権利を産まれながら持ち合わせている彼女。
 その早川芽衣を、わたしは敵に回している。
 あの時、沙織に会わせてという懇願を受け入れていたら、もしかしたら敵ではなくなったかもしれない。なあなあと、着かず離れず、無難な関係のまま、通り過ぎてくれたかもしれないのだった。

 「わたしは欲しいものは絶対に欲しいのよ。邪魔するひとは許せないのよ」
 どんな悪夢だったのか、わたしはいつも思い出せない。断片的に残っているのは、地を這うような、芽衣さんの囁きだった。目をぐっと開き、悪鬼の形相でわたしを睨み据える、あの顔。

 例え、ある人がとても異常で、迷惑な自分勝手な人だったとして、世の中の大多数の人がその迷惑の被害にあっていない場合、特に問題視されない。逆に、被害に遭うごく少数の人のほうが、おかしいと見なされる。
 おかしな仕組みが社会にはまかり通っている。
 心の底から、わたしは、芽衣さんが遠いところに行ってほしい、もう二度とわたしの前に現れないでほしいと祈った。社会的地位と言い、人からちやほやされて味方が多い点といい、わたしが戦って叶う相手ではないとよく判っていた。

**

 台所でお湯を沸かして、ストーブをつけて温めた後、長靴をはいて外に出た。

 空は朝の傾向を見せ始め、明けの明星を残して星は全部引けていた。流れる風はまだ夜の香りがした。
 あちこちから、ばたばた雪が落ちる音が聞こえる。電線からは雪が落ち続け、梟荘の前の小路の雪だまりには長細い雪が落ちた跡があった。
 
 そんなに大層な積雪ではないが、雪かきをする余地はある。
 昨日まで道の雪は固く凍っていて、ママさんダンプが通らない状況だった。まだ寒い早朝なのに、今長靴で踏んでみると梟荘の前の雪は、ずいぶん緩んでいる。

 ざあ、ざあ、と、ママさんダンプを使っていたら、身体が熱くなった。寝起きの時の汗とは違う汗がにじんで来る。
 やがて空はぐわっと明るくなり、甘いオレンジ色とピンク色に染まった。朝焼けの下で雪を片づけ続け、空が青くなるころには梟荘の前の道は、だいたい綺麗になっていた。

 この道を通って、今日は、沙織はママと遠くに行く。
 黒いタクシーに乗って、駅まで行って、電車に乗って旅に出る。もう、帰らない。

 なんとなく胸が熱くなって、門をくぐった。
 ママさんダンプを梟荘の壁に立てかけて、玄関にアノラックをひっかけて台所に入ったら、そこには目をがんがんに覚醒させた優菜が普段着姿になって座っていた。
 ねぼすけ優菜が、完璧に身支度を整えている。気合が入っていた。

 朝ごはんなに、と言うので、わたしは戸惑った。
 「あるものでいい」と答えたら、「沙織の最後の朝ごはんだよ」と言われた。さすがに呆れた。

 「最後って、沙織は今日で死ぬんかよ」
 と言い返した。そして、笑ってしまった。

 「いつも通りだよ。座敷にお雛様出してるでしょ、今日はあそこでお祝いするから。何時から始める」

 沙織の母親から電話があった日のうちに、わたしと優菜はひな人形を引っ張り出していた。電話がなかったら、もしかしたら飾ることすら忘れていたかもしれない。
 そのひな人形は、いつからあるのか分からない代物だ。わたしが小さい頃、ひな人形なんかうちにはなかった。梟荘に越してきてから、母はその立派で年代物っぽい怖いひな人形を飾るようになったのだけど、もしかしたら、けやきさん経由で手に入れた誰かのお古なのかもしれない。

 「3月3日じゅうに片づけないと、嫁に行くのが遅れるんでしょ」
 と、優菜が言うので、「もう十分に遅れてる」と、わたしは言った。

 「沙織は適切な年齢で嫁に行ってくれればいいね」と、大真面目に優菜が言った。適切な年齢って、なんだろう。

 ひな人形のことを思い出しながら、わたしは和やかな気分になった。

 味噌汁を作りながら、優菜、その棚にふがあるはずだから取って、と言った。ふと乾燥わかめの簡素な味噌汁。これまで何度も作って来た、沙織も何度も食べて来た。

 「ふー」
 と、優菜は言った。梟荘で三人で食べる最後の朝食の味噌汁が、ふ。文句があるような、これでいいような、微妙な顔だった。

 (全部通り過ぎてゆく。全部これでいい)
 味噌汁を作り、卵を焼く。
 沙織はもうすぐ起きてくるだろう。いつものアニメをテレビを見る。お着換えをして、復習をする。
 なんら変わらない。きっとそれは、新しいおうちに行ってからも同じように続く。
 続いてゆく。

 「コーヒー、飲む」
 わたしは、変な顔で押し黙っている優菜に声をかけた。

**

 朝ごはんの支度ができたから、もうだいぶいい時間だろうと思ったら、まだ朝の六時になっていなかった。
 あれっと言ったら、優菜がにやにやした。たるちゃん何時に起きたのよ、と言った。沙織が目をこすりながら起きてくるのは、もう少し先になりそうだ。
 
 「ちょうどいいから、お座敷の準備しておこうよ」
 と、優菜は言った。
 それでわたしたちは、まだ沙織が寝ている梟荘の廊下を忍び足で歩いて、お座敷に行った。
 じいんと痺れるほど寒いお座敷に、豪華なおひな様がどーんと飾られている。

 空気を入れ替えるために縁を開けたら、朝の空が見えた。
    
 雪が溶けて土が見えている中庭は、朝の露で輝いている。寒さと美しさが背中合わせになっていた。

 「寒い」
 と、優菜は一言いうと、達磨ストーブに火をつけた。
 
 わたしは台所からふきんを取ってくると、お座敷のテーブルを拭いた。
 今日はここでひな祭りのお祝いをするのだ。綺麗にしておきたい。
 優菜は縮こまりながら、座布団を出してきてテーブルの周辺に並べた。上座が沙織である。可愛いくまちゃんの座布団カバーがかかったやつを選んでいた。

 オードブルも、ケーキも、スーパーが開いたら取りに行ける。
 今できることは、取り皿を台所から出してお盆に乗せて置くことくらいか。
 お座敷の空気を入れ替えてから、わたしたちは台所に戻った。どのお皿にしよう、と言い合っているうちに、優菜があっと気づいた。

 「沙織のマグカップさー、持って行ってもらおうか」
 
 うさぎがプリントされた可愛いマグカップ。
 野菜ジュースを飲んだりお茶を飲んだりした。
 そのマグカップは、沙織が梟荘の住人であることの証であるような気がした。

 食器棚のコップ置きのところではなく、洗い場のコップ乾かしのところに、常にあって、必要な時にすぐに取れるようにしていた。

 同じように、わたしの緑のファイアーキングのマグも、優菜のサンリオ柄のマグも、棚ではなくて日常づかいできるその場所に、逆さになっておかれている。
 いつでも、三つ。他の食器とは違う扱いの、マグカップ。

 一瞬、わたしは、いいや、ここに置いておこうよ、また沙織が来た時のために、と言いそうになった。
 そして、遠いところに行ったら、もうここには戻ってくるはずがないのだということに、改めて気が付いたのだった。

 「そうだね、持って行ってもらおう」
 新聞紙にくるんで、プチプチクッションでくるんで、大事に持って行ってもらおう。
 そっとそのマグを手に取った時、ああ今日で最後なんだなと思った。

 「高校になっても大学になっても、そのマグ使えよって言って渡したらー」
 優菜が愛おしそうに、そのマグカップを手で包みながら、言った。

 朝の光が、流しの窓から強く差し込んで来る。眩しいほどだった。大事な、貴重な一日が始まろうとしている。
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