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水面下
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沙織の母親が勤めている小さい会社が、有名で大きな企業グループに買収されたことは聞いていた。
けやきさんも、もしかしたら良い風に転ぶかもしれないと言っていた。
しかし、現実にそれが起きてみると、心の準備ができていなかったことに気づく。
沙織は小さな子供であり、こんなふうに親から離れて他人の中で生活しているのは不自然だった。
やっと今、少しずつのびのび子供らしくなってきた沙織である、また新しいところに行くのかと思うと胸が痛んだ。友達もできたようだし、おしゃまな表情も出てきている。わたしたちも最初は腫れ物に触るように沙織を扱っていたが、今では口げんかも普通にする、家族の一員だ。時間をかけて、沙織は梟荘の子になった。
けれどその、遠く離れた、どこにあるのか分からない小さな町で、お母さんと暮らす沙織を想像すると、それが一番良いことなのではないかと思えた。
沙織の母親が告げた日は急で、ほとんど時間が残されていなかった。
なんとなく沙織の部屋を開けて中を覗いたら、春を感じさせる陽光がレースのカーテンを透かして入ってきている。朝、空気の入れ替えにガラス戸を少し開いたままにしていた。部屋は外気が流れ込んでいて、かなり冷えている。ゆらゆらと揺れる白いカーテンの模様がカーペットの上に影を落としていた。
静かに窓ガラスを締めて部屋を出た。
学校の教科書だけではない。この部屋には、僅かだけど梟荘で過ごした沙織の時間が染みついている。
勉強机や子供用ベッド、ベビータンスなどは、その見知らぬ町に送ってあげようと思った。
ベッドにはお菓子のおまけのシールがぺたぺた貼られていた。勉強机には、鉛筆で宿題をした跡が残っている。
クリスマスにあげた、おおきなうさぎのぬいぐるみは大事そうにベッドに寝かされており、まるで自分がそこの主みたいな顔をしていた。
(荷造りしなくちゃなあ)
寒い部屋で息を吐いたら、こっぽりと白い煙になった。
日が迫っていた。段ボールの調達、必要なものの整理、学校への連絡。色々な雑多なことが頭に浮かんでくる。凍り付いた脳味噌は、ようやく解凍されてきたらしい。
ああそうだ、けやきさんに連絡しなくちゃだわ、と気が付いたわたしは、大急ぎで黒電話に向った。
**
何から手を付けて良いか分からない状態だったが、ひとつ、またひとつと進めてゆくうちに、実はわたしがしなくてはならないことは、そう多くないことが分かった。
焦りながら電話をしたら、けやきさんのうちには既に連絡が行っており、「ああ、良かったわね」と、のほほんとした調子で言われたので拍子抜けした。受話器の向こう側で、けやきさんは落ち着いている。寂しさや、小さい子供の運命が幸せな方に向かい始めていることへの感慨。ひととおりの感情の波を通り抜けた気配が漂っている。
いつ連絡来たんですか、と聞いてみたら、ついさっきよ、と言われた。梟荘の廊下の鳩時計を見たら、恐ろしいほど時間が過ぎている。沙織の母親の電話を受けてから、ずいぶん経っていた。
「おひなさまの日だわねー」
けやきさんがいつもの調子で言った。3月3日のお昼に沙織は梟荘を発つ。あと一週間を切っている。
「ひな祭りのお祝いをしてから送り出してあげられるじゃない。週間天気予報を見たら、その日は晴れだったわ」
けやきさんの優しい提案に、わたしはそうかと思った。ひな祭りのお祝いをして、沙織とママの門出を祝福する。最後にとびきりの笑顔でさよならするのだ。
良い考えだ、さすがけやきさん。
多分、学校にも連絡が行ってるんじゃないかしら、とけやきさんは言ったが、念のためわたしは沙織の小学校にも電話してみた。
用件を告げたら学年主任の先生が出てきた。電話に出るなり、しみじみとした調子で「寂しくなりますが良かったですねえ」と言われたので、ああやっぱりもう連絡済だった、と悟る。
沙織のママはきちんとした人だ。
こういうママだから、あんなしっかりした沙織が育つんだろう。
梟荘で保護者代理を気取っていたわたしだが、沙織のためにしてやれることは、もうほとんど残っていなかった。
電話を切ってから、しばらくわたしは茫然としていた。
寒い廊下で立ち尽くして、どれくらい時間が経っただろう。たまたま今日が、夜勤バイトの日ではなかったことが救いだった。
そうだ、優菜に連絡しようと思い、携帯電話から優菜にメールを飛ばした。仕事中だからメールに気づくのはずいぶん後だろうと思っていたら、思いのほかすぐに返信が来て、こいつは一体なにをしているんだと拍子抜けした。
真面目に仕事をしなさいよ、優菜。
「今日は早く帰る」
とまで返信メールに書いてあったが、帰ってきて一体なにをするつもりだ、と苦笑する。
混乱していた頭は鎮まった。今夜、こちらから沙織の母親に電話をして、荷物について話さなくてはならない。運送屋に手配するのは簡単だが、なにしろ日にちが迫っている。予約とか、色々面倒くさいことがあるんだろう。わたしは世間知らずなので、その手のことがよく判らない。
ああ、段ボール。それからビニール紐とかクラフトテープが必要だった。
わたしはそれで、スーパーマーケットに行くことにする。外気にあたり、せっせと歩いているうちに、更に頭も冷えるだろう。
時刻を見たら、そうそうのんびりしていられない時間になっていた。ゆっくりしている暇は、もう、なかった。
**
引っ越しても、沙織の持ち物は全部きちんと持たせてやりたい。
ぎりぎりまで学校には通うだろうから、教科書だけは机の本棚に残しておいてやる。えんぴつ立て、手動のえんぴつ削り。ああ、こういうの用意してやった、これはあそこの百均で買ったやつだ、と、色々と懐かしくなった。
沙織は梟荘に来たのも唐突だったけれど、去るのもいきなりだ。小学一年生の女の子で、持ち物があんまりないと聞いたわたしは、まず歯磨き一式を用意しに走ったものだ。子供向けのキャラクターがプリントされた小さい歯ブラシは、スーパーで簡単に手に入った。女の子だというし、ピンクでいいだろうと思って買ったアレは、もう今は処分している。現在、沙織が使っているのは黄色い歯ブラシ。
沙織の母親は、きちんとお金をくれた。沙織の身の回りのものは、これで揃えて欲しいと頭を下げられた。
莫大な金額ではなかったが、それが彼女にできる精一杯の心づくしであることは、その質素な様子を見たら伝わった。
ママ、行ってらっしゃい。涙一筋見せずに、あの日、沙織は梟荘の玄関先で母親を見送った。夏前のことで、きゃしゃな肩が薄いワンピースに包まれ、ゆっくりと歩いて去っていった。
青い綺麗な空。あたたかな風。遠いところにママは行く。身内に宛てのない沙織は、会ったこともないわたしたちに預けられた。あの日から沙織は梟荘の一員だった。
ともすれば、頭の中をぐるぐるめぐる思い出に浸って、立ち止まってしまう。
大きなスーパーで必要なものを揃え、段ボールをひもで括って脇に抱えて梟荘に戻る。小春日和の太陽が照る下、濡れた地面を踏みしめて歩いた。どんどん沙織のことが思い出された。
風邪を引いた日は、わたしも優菜も沙織のことばかりしていた。
熱を出してシャツを着替えなくてはならなくなった段階で、やっとわたしたちは沙織の着替えがとても少ないことに気づいた。女児用シャツを大急ぎで買いに行った閉店間際の時間。
わたしたちは、決して良い母親代わりではなかった。否、母親代わりだなんてとんでもないことだった。
がちゃっと音がしたので飛び上がった。
あの、早川芽衣事件以来、わたしは梟荘の玄関が開く音に過敏に反応する。施錠したはずだけど、と恐る恐る見に行ったら、なんと優菜が息せき切って帰ってきていた。
「早退したー」
と、優菜が言うので、わたしは転び掛けた。なにやってんのよ、仕事しなよー、と言ったら、だって、と言い返された。
「たるちゃん分かってる、もう五日しかないんだよー」
五日。
もうあと数日とか、あと少しとか考えていたわたしは、その具体的な数字を突きつけられて、改めてことの急さに驚いた。
五日だって。
スーツ姿のまま、優菜はつかつかと台所に上がり込んだ。それにつられてわたしも台所に入った。そういえば午後のお湯を沸かしていない。
やかんをガスにかけていると、優菜がいろいろ喋り出した。
「アルバイト休ませてもらいなよ。確か二日は夜勤だったんじゃないの」
はっとした。優菜の言うとおりだった。沙織と過ごす最後の夜に、アルバイトが入っている。井上さんに連絡しなくてはならなかった。
(申し訳ないなあ……)
井上さんなら事情を話したら、休むことを咎めたりはしないだろうけれど。
やかんのお湯が沸いて来たのでガスを止めた。ポットにお湯を淹れながらわたしは少し考えてみる。
「いいよー。普段通りにしようよ。バイトに行くよ」
こぽこぽとお湯が音を立てた。
かちんと、優菜がラジオを入れる。途端に、楽しそうな音楽が台所に流れ始めた。
「そうじゃなくてさあ」
じれったそうに、優菜は言った。
「この五日間、沙織から目を離すべきじゃないと思わない。おかしいよ色々と」
えっとわたしは聞き返した。
優菜には甘いミルクコーヒー。わたしにはブラック。
テーブルに出してやったら、ふうふうと優菜は啜った。普段着ではない、化粧もきちんとしたスーツ姿なので、違和感が半端ない。
名探偵のように、優菜は言った。
「沙織のママさん、どうしてこんなに急に動いたんだろう。いくら仕事先の事情が性急だとしても、子供がいる女の人相手に、普通ならもっと余裕をくれるとは思わない」
どういうことよ、と、わたしは問いかけた。同時に、なんとなく感じていた薄暗さが、優菜によって解き明かされつつある気がして、どきどきした。
優菜は梟荘の住人だけど、渦中からは微妙に離れたところにいる。あっぷあっぷしているわたしよりは、冷静にものを見ることができるのだろうか。
「早川芽衣だったっけ。沙織のママさんのところまで行って、なにか言ったりしてたりして」
熱いマグカップを持つ手が止まった。
愕然と、わたしは優菜を見つめた。優菜は綺麗にビューラーをかけた睫毛をぱっちり開いて、わたしを見返している。
ラジオのDJが午後のお知らせを楽しそうにしている。今日はドコソコのお店に来ていまーす、こちらでは今イベントが開催されていて……。
「なにかって、何をよ」
声がかすれた。
わたしの中で、色々なピースが自動的に動いてぱちぱちと一つの絵を作り上げようとしている。そうか、そうなのかもしれない。
一番最近届いた、赤文字のハガキ。あの消印は、沙織の母親が住む町の地名だった。
早川芽衣が、よりデスペレートになっていることは、あの事件でよく判っている。
優菜の言う通り、沙織の母親のところでも、なにかが起きたのかもしれなかった。危険を察して、沙織の母親は沙織を連れて遠いところまで逃げようとしているのではないか。
「どこに引っ越すって言ってたっけ」
スマホを出しながら、優菜は冷静に言った。
わたしは焦りながら、沙織の母親が告げた地名を教えた。無言で優菜は、その遠い北の土地を検索し、ぼそっと、凄く不便な場所だよ、と言った。
「いくら早川芽衣が暇人でも、ここまではなかなか行けないだろうなあ……」
優菜が言うには、確かにその辺鄙な土地に、件の有名企業の工場があるらしい。沙織の母親はそこで働くのだろう。
あんまり人に言いまわらない方がいいね、と、優菜は言った。
「障子に目あり、だっけ。早川芽衣に聞きつけられたら困るじゃない」
「考えすぎじゃないかなー」
わたしはコーヒーを啜った。
優菜の推理は鋭い。わたしは誰にも、あの日、梟荘に早川芽衣が乱入してきたことを言っていない。けれど優菜は、このあまりにも急な事態と早川芽衣を結び付けた。
あのさー、怖がらせるかと思って言わなかったけどさ。
優菜は甘いコーヒーを飲んでしまってから言った。
「たるちゃん、梟荘の前とか後とか、見慣れない車がよく通りかかるの気づいてた」
心臓が凍り付きそうになった。
優菜はじっとわたしを見ている。賢い目だった。
「わたしは気になってた。登下校中の沙織に、今まで幸い、なにもなかったみたいだけど、それは多分、たるちゃんがこまめに迎えに行ってるからだと思う」
熱いコーヒーのマグをテーブルに置いた。
引っ越し業者の予約まだだよね、と言いながら優菜は立ち上がる。スマホを片手にしていた。
タンスも勉強机もベッドも布団も、なにもかもを、沙織とママさんが引っ越し先に到着するのとほぼ同時位に送り届けてやらなくてはならない。優菜はきびきびと沙織の勉強部屋に入り、うっわ、たるちゃん何やってんの、余計な事してるよー、と悲鳴を上げた。
「引っ越し業者に任せておけばいいんだよー。段ボールに詰めるもの、間違ってるー」
**
ぽたぽたと軒下から水が落ちて、台所の流しの窓にきらきらと映った。
思考停止になるほど驚愕して、わたしは椅子から立ち上がり、湯気を立てているコーヒーを見つめる。
小学校のグラウンドで体育をしている子供たち。
緑色のフェンスに華奢な指をからませ、優雅に化粧した顔を近づけて中を見つめている綺麗な女の人がいたかもしれない。
もしかしたら。
もしかしたら。
これは妄想だ。現実にそれを見たわけではない。それに、もし本当にそんな場面があったのだとしたら。
(なんて恐ろしいことだろう)
沙織が狙われているなんて、そんな。
「たるちゃーん、運送業者は××にしといたから」
沙織の勉強部屋から、優菜が怒鳴るように叫んだ。
ラジオのDJが時刻を告げる。わたしは頭をぶんぶんと振った。
沙織を、迎えに行こう。時間である。
けやきさんも、もしかしたら良い風に転ぶかもしれないと言っていた。
しかし、現実にそれが起きてみると、心の準備ができていなかったことに気づく。
沙織は小さな子供であり、こんなふうに親から離れて他人の中で生活しているのは不自然だった。
やっと今、少しずつのびのび子供らしくなってきた沙織である、また新しいところに行くのかと思うと胸が痛んだ。友達もできたようだし、おしゃまな表情も出てきている。わたしたちも最初は腫れ物に触るように沙織を扱っていたが、今では口げんかも普通にする、家族の一員だ。時間をかけて、沙織は梟荘の子になった。
けれどその、遠く離れた、どこにあるのか分からない小さな町で、お母さんと暮らす沙織を想像すると、それが一番良いことなのではないかと思えた。
沙織の母親が告げた日は急で、ほとんど時間が残されていなかった。
なんとなく沙織の部屋を開けて中を覗いたら、春を感じさせる陽光がレースのカーテンを透かして入ってきている。朝、空気の入れ替えにガラス戸を少し開いたままにしていた。部屋は外気が流れ込んでいて、かなり冷えている。ゆらゆらと揺れる白いカーテンの模様がカーペットの上に影を落としていた。
静かに窓ガラスを締めて部屋を出た。
学校の教科書だけではない。この部屋には、僅かだけど梟荘で過ごした沙織の時間が染みついている。
勉強机や子供用ベッド、ベビータンスなどは、その見知らぬ町に送ってあげようと思った。
ベッドにはお菓子のおまけのシールがぺたぺた貼られていた。勉強机には、鉛筆で宿題をした跡が残っている。
クリスマスにあげた、おおきなうさぎのぬいぐるみは大事そうにベッドに寝かされており、まるで自分がそこの主みたいな顔をしていた。
(荷造りしなくちゃなあ)
寒い部屋で息を吐いたら、こっぽりと白い煙になった。
日が迫っていた。段ボールの調達、必要なものの整理、学校への連絡。色々な雑多なことが頭に浮かんでくる。凍り付いた脳味噌は、ようやく解凍されてきたらしい。
ああそうだ、けやきさんに連絡しなくちゃだわ、と気が付いたわたしは、大急ぎで黒電話に向った。
**
何から手を付けて良いか分からない状態だったが、ひとつ、またひとつと進めてゆくうちに、実はわたしがしなくてはならないことは、そう多くないことが分かった。
焦りながら電話をしたら、けやきさんのうちには既に連絡が行っており、「ああ、良かったわね」と、のほほんとした調子で言われたので拍子抜けした。受話器の向こう側で、けやきさんは落ち着いている。寂しさや、小さい子供の運命が幸せな方に向かい始めていることへの感慨。ひととおりの感情の波を通り抜けた気配が漂っている。
いつ連絡来たんですか、と聞いてみたら、ついさっきよ、と言われた。梟荘の廊下の鳩時計を見たら、恐ろしいほど時間が過ぎている。沙織の母親の電話を受けてから、ずいぶん経っていた。
「おひなさまの日だわねー」
けやきさんがいつもの調子で言った。3月3日のお昼に沙織は梟荘を発つ。あと一週間を切っている。
「ひな祭りのお祝いをしてから送り出してあげられるじゃない。週間天気予報を見たら、その日は晴れだったわ」
けやきさんの優しい提案に、わたしはそうかと思った。ひな祭りのお祝いをして、沙織とママの門出を祝福する。最後にとびきりの笑顔でさよならするのだ。
良い考えだ、さすがけやきさん。
多分、学校にも連絡が行ってるんじゃないかしら、とけやきさんは言ったが、念のためわたしは沙織の小学校にも電話してみた。
用件を告げたら学年主任の先生が出てきた。電話に出るなり、しみじみとした調子で「寂しくなりますが良かったですねえ」と言われたので、ああやっぱりもう連絡済だった、と悟る。
沙織のママはきちんとした人だ。
こういうママだから、あんなしっかりした沙織が育つんだろう。
梟荘で保護者代理を気取っていたわたしだが、沙織のためにしてやれることは、もうほとんど残っていなかった。
電話を切ってから、しばらくわたしは茫然としていた。
寒い廊下で立ち尽くして、どれくらい時間が経っただろう。たまたま今日が、夜勤バイトの日ではなかったことが救いだった。
そうだ、優菜に連絡しようと思い、携帯電話から優菜にメールを飛ばした。仕事中だからメールに気づくのはずいぶん後だろうと思っていたら、思いのほかすぐに返信が来て、こいつは一体なにをしているんだと拍子抜けした。
真面目に仕事をしなさいよ、優菜。
「今日は早く帰る」
とまで返信メールに書いてあったが、帰ってきて一体なにをするつもりだ、と苦笑する。
混乱していた頭は鎮まった。今夜、こちらから沙織の母親に電話をして、荷物について話さなくてはならない。運送屋に手配するのは簡単だが、なにしろ日にちが迫っている。予約とか、色々面倒くさいことがあるんだろう。わたしは世間知らずなので、その手のことがよく判らない。
ああ、段ボール。それからビニール紐とかクラフトテープが必要だった。
わたしはそれで、スーパーマーケットに行くことにする。外気にあたり、せっせと歩いているうちに、更に頭も冷えるだろう。
時刻を見たら、そうそうのんびりしていられない時間になっていた。ゆっくりしている暇は、もう、なかった。
**
引っ越しても、沙織の持ち物は全部きちんと持たせてやりたい。
ぎりぎりまで学校には通うだろうから、教科書だけは机の本棚に残しておいてやる。えんぴつ立て、手動のえんぴつ削り。ああ、こういうの用意してやった、これはあそこの百均で買ったやつだ、と、色々と懐かしくなった。
沙織は梟荘に来たのも唐突だったけれど、去るのもいきなりだ。小学一年生の女の子で、持ち物があんまりないと聞いたわたしは、まず歯磨き一式を用意しに走ったものだ。子供向けのキャラクターがプリントされた小さい歯ブラシは、スーパーで簡単に手に入った。女の子だというし、ピンクでいいだろうと思って買ったアレは、もう今は処分している。現在、沙織が使っているのは黄色い歯ブラシ。
沙織の母親は、きちんとお金をくれた。沙織の身の回りのものは、これで揃えて欲しいと頭を下げられた。
莫大な金額ではなかったが、それが彼女にできる精一杯の心づくしであることは、その質素な様子を見たら伝わった。
ママ、行ってらっしゃい。涙一筋見せずに、あの日、沙織は梟荘の玄関先で母親を見送った。夏前のことで、きゃしゃな肩が薄いワンピースに包まれ、ゆっくりと歩いて去っていった。
青い綺麗な空。あたたかな風。遠いところにママは行く。身内に宛てのない沙織は、会ったこともないわたしたちに預けられた。あの日から沙織は梟荘の一員だった。
ともすれば、頭の中をぐるぐるめぐる思い出に浸って、立ち止まってしまう。
大きなスーパーで必要なものを揃え、段ボールをひもで括って脇に抱えて梟荘に戻る。小春日和の太陽が照る下、濡れた地面を踏みしめて歩いた。どんどん沙織のことが思い出された。
風邪を引いた日は、わたしも優菜も沙織のことばかりしていた。
熱を出してシャツを着替えなくてはならなくなった段階で、やっとわたしたちは沙織の着替えがとても少ないことに気づいた。女児用シャツを大急ぎで買いに行った閉店間際の時間。
わたしたちは、決して良い母親代わりではなかった。否、母親代わりだなんてとんでもないことだった。
がちゃっと音がしたので飛び上がった。
あの、早川芽衣事件以来、わたしは梟荘の玄関が開く音に過敏に反応する。施錠したはずだけど、と恐る恐る見に行ったら、なんと優菜が息せき切って帰ってきていた。
「早退したー」
と、優菜が言うので、わたしは転び掛けた。なにやってんのよ、仕事しなよー、と言ったら、だって、と言い返された。
「たるちゃん分かってる、もう五日しかないんだよー」
五日。
もうあと数日とか、あと少しとか考えていたわたしは、その具体的な数字を突きつけられて、改めてことの急さに驚いた。
五日だって。
スーツ姿のまま、優菜はつかつかと台所に上がり込んだ。それにつられてわたしも台所に入った。そういえば午後のお湯を沸かしていない。
やかんをガスにかけていると、優菜がいろいろ喋り出した。
「アルバイト休ませてもらいなよ。確か二日は夜勤だったんじゃないの」
はっとした。優菜の言うとおりだった。沙織と過ごす最後の夜に、アルバイトが入っている。井上さんに連絡しなくてはならなかった。
(申し訳ないなあ……)
井上さんなら事情を話したら、休むことを咎めたりはしないだろうけれど。
やかんのお湯が沸いて来たのでガスを止めた。ポットにお湯を淹れながらわたしは少し考えてみる。
「いいよー。普段通りにしようよ。バイトに行くよ」
こぽこぽとお湯が音を立てた。
かちんと、優菜がラジオを入れる。途端に、楽しそうな音楽が台所に流れ始めた。
「そうじゃなくてさあ」
じれったそうに、優菜は言った。
「この五日間、沙織から目を離すべきじゃないと思わない。おかしいよ色々と」
えっとわたしは聞き返した。
優菜には甘いミルクコーヒー。わたしにはブラック。
テーブルに出してやったら、ふうふうと優菜は啜った。普段着ではない、化粧もきちんとしたスーツ姿なので、違和感が半端ない。
名探偵のように、優菜は言った。
「沙織のママさん、どうしてこんなに急に動いたんだろう。いくら仕事先の事情が性急だとしても、子供がいる女の人相手に、普通ならもっと余裕をくれるとは思わない」
どういうことよ、と、わたしは問いかけた。同時に、なんとなく感じていた薄暗さが、優菜によって解き明かされつつある気がして、どきどきした。
優菜は梟荘の住人だけど、渦中からは微妙に離れたところにいる。あっぷあっぷしているわたしよりは、冷静にものを見ることができるのだろうか。
「早川芽衣だったっけ。沙織のママさんのところまで行って、なにか言ったりしてたりして」
熱いマグカップを持つ手が止まった。
愕然と、わたしは優菜を見つめた。優菜は綺麗にビューラーをかけた睫毛をぱっちり開いて、わたしを見返している。
ラジオのDJが午後のお知らせを楽しそうにしている。今日はドコソコのお店に来ていまーす、こちらでは今イベントが開催されていて……。
「なにかって、何をよ」
声がかすれた。
わたしの中で、色々なピースが自動的に動いてぱちぱちと一つの絵を作り上げようとしている。そうか、そうなのかもしれない。
一番最近届いた、赤文字のハガキ。あの消印は、沙織の母親が住む町の地名だった。
早川芽衣が、よりデスペレートになっていることは、あの事件でよく判っている。
優菜の言う通り、沙織の母親のところでも、なにかが起きたのかもしれなかった。危険を察して、沙織の母親は沙織を連れて遠いところまで逃げようとしているのではないか。
「どこに引っ越すって言ってたっけ」
スマホを出しながら、優菜は冷静に言った。
わたしは焦りながら、沙織の母親が告げた地名を教えた。無言で優菜は、その遠い北の土地を検索し、ぼそっと、凄く不便な場所だよ、と言った。
「いくら早川芽衣が暇人でも、ここまではなかなか行けないだろうなあ……」
優菜が言うには、確かにその辺鄙な土地に、件の有名企業の工場があるらしい。沙織の母親はそこで働くのだろう。
あんまり人に言いまわらない方がいいね、と、優菜は言った。
「障子に目あり、だっけ。早川芽衣に聞きつけられたら困るじゃない」
「考えすぎじゃないかなー」
わたしはコーヒーを啜った。
優菜の推理は鋭い。わたしは誰にも、あの日、梟荘に早川芽衣が乱入してきたことを言っていない。けれど優菜は、このあまりにも急な事態と早川芽衣を結び付けた。
あのさー、怖がらせるかと思って言わなかったけどさ。
優菜は甘いコーヒーを飲んでしまってから言った。
「たるちゃん、梟荘の前とか後とか、見慣れない車がよく通りかかるの気づいてた」
心臓が凍り付きそうになった。
優菜はじっとわたしを見ている。賢い目だった。
「わたしは気になってた。登下校中の沙織に、今まで幸い、なにもなかったみたいだけど、それは多分、たるちゃんがこまめに迎えに行ってるからだと思う」
熱いコーヒーのマグをテーブルに置いた。
引っ越し業者の予約まだだよね、と言いながら優菜は立ち上がる。スマホを片手にしていた。
タンスも勉強机もベッドも布団も、なにもかもを、沙織とママさんが引っ越し先に到着するのとほぼ同時位に送り届けてやらなくてはならない。優菜はきびきびと沙織の勉強部屋に入り、うっわ、たるちゃん何やってんの、余計な事してるよー、と悲鳴を上げた。
「引っ越し業者に任せておけばいいんだよー。段ボールに詰めるもの、間違ってるー」
**
ぽたぽたと軒下から水が落ちて、台所の流しの窓にきらきらと映った。
思考停止になるほど驚愕して、わたしは椅子から立ち上がり、湯気を立てているコーヒーを見つめる。
小学校のグラウンドで体育をしている子供たち。
緑色のフェンスに華奢な指をからませ、優雅に化粧した顔を近づけて中を見つめている綺麗な女の人がいたかもしれない。
もしかしたら。
もしかしたら。
これは妄想だ。現実にそれを見たわけではない。それに、もし本当にそんな場面があったのだとしたら。
(なんて恐ろしいことだろう)
沙織が狙われているなんて、そんな。
「たるちゃーん、運送業者は××にしといたから」
沙織の勉強部屋から、優菜が怒鳴るように叫んだ。
ラジオのDJが時刻を告げる。わたしは頭をぶんぶんと振った。
沙織を、迎えに行こう。時間である。
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