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正月明けて
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3日の午前、夜勤明けでぼうっとしているわたしと、正月じゅう梟荘でDVDを見ながら食べまくっていた優菜の二人で、よれよれと初詣に至った。
近所の小さいお社。あまりにも優菜が、今年こそイイトシにならないかな、と呟いているので、そんなら行ってこようか、ということになった。
さくさくと音を立てるほどに雪が積もっており、車道は融雪でぐずぐずに濡れていた。今年は去年みたいに雪は酷くないけれど、少しでも積もったらやっぱり交通事情が違って来る。
「……県に行く汽車、運行大丈夫かなー」
と、その誰もいない静かなお社で手を合わた帰り、ぼそっと優菜は言った。
冬休みちゅうにちょっとふっくらしてしまった優菜である。明日から仕事始めのはずだが、スーツのスカートのことをさっきから心配していた。もともとキツメだったのよねー、と、ぶつぶつぶつぶつ呟いている。
スカートのことを気にする合間に、今夜の夜行列車の事を案じている。
沙織の母親が、出稼ぎ先に帰る汽車。
「大丈夫だよ。ママさんも分かってるんじゃないかな」
と、わたしは答えておいた。
ほとほとと、電線から雪の塊が落ちる。空は青かった。多分、この雪はまもなく溶けるだろう。
コンビニに寄ってあったかいもんでも買おうよー。
この期に及んでまだ食べる気なのか、優菜が言い出した。
「そうそう、たるちゃん、コンビニの夜勤回数、増やせば」
不意に言われたので、どきんと心臓が飛び上がった。隣を歩く優菜の顔は、わたしよりも少し高いところにある。なんとなく気まずそうに視線を逸らしながら、優菜は言った。
「わたしとの時間の兼ね合いでバイト回数増やせないんじゃないの。今のバイトたるちゃんに合ってるみたいだし、いいよ」
冬の晴れた空は甘い色をしている。
吐く息は雲と同じ色をしていて、高く昇って薄く消える。
向こう側の歩道を、柴犬を連れたおじいさんが散歩しており、わたしたちはなんとなくすれ違いざま、目で追った。犬はこちらなど見向きもせず、息をあげながら走ってゆく。
健やかな柴色の歩行と、優しいおじいさんの足取り。
「いいのー」
努めて元気よく、できるだけ呑気そうにわたしは言った。
「いいよー」
照れくさそうに優菜は言った。
「でもさ、週に四日くらいにして。一日だけ、わたしに頂戴」
どうあっても土日はわたしに家にいて欲しいらしい優菜は、そんな条件を付けた。
仕事といったって、夜不在にするだけだから、土日もなにも関係ないと思うのだけど、なにか優菜にはこだわりがあるみたいだ。
そして、平日一日だけは、優菜は妄想のシンデレラを演じたいと思っている。優菜の心は断末魔の悲鳴をあげていて、まだ納得できない、まだ断ち切れない執着が優菜を偽物の恋につなぎ留めている。
「いずれ、週五日とも大丈夫にするから。今年じゅうに、きっとそうするから、今はお願い」
と、優菜は言った。
一瞬、なんて良い話だろうとわたしは思ったが、まてよと考え直した。
だとすると、優菜は少なくとも今年一年は、実家に戻る気はないということか。
(梟荘のかりそめ家族はまだ続くんだな)
それは、わたしにとって、ちょっと嬉しいことかもしれなかった。
**
初詣もどきに行き、コンビニのおでんを梟荘で食べた。その夕方、ママに連れられて沙織が梟荘に戻って来た。
行った時と同じように、大きなうさぎを抱っこして、つやつやとした赤い頬をしている。寂しくて悲しい思いではちきれそうな目をしているが、態度はいつもの沙織だった。
元気よく、ただいま、と言って中に入って来た。
「おみやげあるよー」
にこにこしている。その可愛い顔を見ていると、胸が締め付けられた。優菜に至ってはすでに涙腺が崩壊しかけており、一度部屋に戻って盛大に洟をかんでいた。
宿題したー。したよ、もう終わってるー。
どこまでも元気に楽しそうに演じる沙織の背中を押して、優菜が待つ台所に誘導した。台所の小さいテレビで、できるだけ楽しいアニメのDVDを選んで流す予定である。沙織のためにケーキも用意してあった。
玄関先で沙織の母親が寒々しいコート姿で頭を下げている。
色々と、聞きたいことがあった。
「どうぞ、座敷におあがりください。汽車の時間まで、ゆっくりしてください」
沙織ママは恐縮しながら梟荘にあがった。玄関に脱いだ古いパンプスは、中底が破れていた。その傷んだ靴を、丁寧にそろえてから、ほっそりとしたママは梟荘の廊下を行った。
三十分ほど前に、座敷の達磨ストーブに点火しておいた。
部屋は十分に温まっていた。テーブルの上にはお茶菓子と、ポットがある。わたしは障子を開いた。
中庭の雪はもう溶けている。ぐじゅぐじゅに濡れた地面に落ち葉が張り付いていて、松の葉には滴が虹色に輝いていた。もうじき空は赤く燃えるだろう。夕焼けが近づいていた。
(今日、沙織はどんなふうにママと過ごしたのだろう)
座布団をしいて向かい合いながら、お茶を勧めた。
「伺いたいことがありまして」
思い切って、わたしは切り出した。下手に時間を取るわけにはいかない。沙織とママに取って、汽車の時間までの僅かな時は、この上なく貴重であるはずだ。
聞きたい事だけを聞いて、すぐに切りあげるつもりだった。あとは、沙織とママの時間にしてもらえば良い。
やつれた顔の母親は、長い睫毛をあげた。その眼は優しいけれど、強かった。
**
やっと寝たよー。
自分も欠伸をしながら、優菜が沙織の部屋から出て来た。疲れた顔をしている。
しっかりしていると言っても、小学一年生だ。やっぱり、ママと別れたら涙が出た。母親が梟荘を去ってからしばらくの間、ママ、ママと泣き叫んで手が付けられなくなった。
どんな楽しいアニメでも、ゲームでも、沙織の気を紛らわすことはできなかった。わたしと優菜は目を見合わせて、泣きたいだけ泣かせるか、という結論に至った。沙織のことで手を焼くのは、初めての事だった。
「梟荘にぽいっと預けられた初めての日は、こんなふうじゃなかったよね」
台所のテーブルにどっかり座り、ココアを飲みながら、優菜は言った。
そうだな、と、わたしも頷く。疲れた顔の母親に連れられて、今日からこの子をよろしくお願いしますと背中を押されてはいって来た時の沙織は、どこまでも気丈で健気だった。
「いいことじゃないかなー」
わたしもまた、自分用にコーヒーを淹れながら言った。
沙織は自分を出し始めている。もしかしたらこれからは、少しずつ我儘で、悪い子の沙織が出てくるかもしれない。
泣きじゃくる沙織をなだめながら、とりあえずパジャマに着替えさえ、布団に押し込み、背中をポンポンし続けていた優菜は、可哀そうだけど流石にもういい、と、苦笑した。
子供向けDVDがテーブルに散乱しているので、さりげなく片づけて積み上げて置いた。今週中にレンタルに返しに行かなくては。
かわりにラジオをつけた。穏やかなリクエスト曲が流れていた。
その80年代風のバラードを聴いていると、あの夜のコンビニが懐かしくて仕方がなくなってくる。80年代の曲と言えばコンビニを思い出すほどだ。今流れているバラードもお店で流れていたかもしれない。思わずため息が出た。
少し間を置いてから、わたしは話し出していた。
沙織の母から聞いた事実は、おおむね予想通りであった。
早川芽衣というひとは、体も心も弱いところのあるお嬢さんらしい。主に、心の方ではないかと思われたが、芽衣を溺愛してやまないご両親にとっては、身体が弱いかわいそうな子、ということになっているそうな。
その愛らしくも可哀そうなお嬢さんは見栄っ張りで甘ったれで好き放題に育ち、なんでもほしいものを手に入れていらっしゃった。そして、十代の頃に妊娠して沙織を産んだ。
いくらなんでも溺愛する娘が誰の子かわからない子供を産んだなど、公にできないご両親は、里子に出すことにした。近しい間柄のひとでは情報が漏れてしまうからいけない。つてのつて、できるだけ遠くて縁もゆかりもないような女性が好ましかった。
そして、沙織の今のママに、白羽の矢が当たったという。
「六年ぶりなんです」
目を伏せてお茶の湯呑で手を温めながら、沙織のママは言った。
視線はテーブルの上に落ちている。
沙織を売り払ってから、六年の間、手紙ひとつ電話一本寄越さなかった早川芽衣から、突然連絡があったという。一体なんの用だろうと思ったら、お金を渡されて戸惑ったそうだ。
「本当にありがとうございます。沙織を育てて下さって……これは心ばかりですけれど」
甘やかで優し気な声で、芽衣は言い、お金の封筒を握らせようとしたという。
そのお金で沙織を返してほしいという言葉があったわけではない。
だけど、お金を受け取ってしまったら、早川芽衣と沙織に、妙な関係が生じてしまう。
お金の力は強烈だ。芽衣は、その力の使い方を知っているらしい。
「要するに、芽衣さんは、沙織と何か関りを持ちたがっている。ちょっとした関わりでも、それを足掛かりに、もっと近づこうと考えている」
わたしはそう言って、この話を切り上げた。
しいんと沈黙が落ち、それを埋めるようにラジオが流れた。
バラードは終わり、代わりに次のリクエストが流れた。外では少し風が出てきたようだ。枝が揺れる影が、暗い台所の窓に僅かに映った。
「変だよー、図々しい、おかしい」
と、優菜はココアをもう一杯入れながら言った。ほっぺたがぷりぷりしている。仕事が始まったら自然に痩せるだろうけれど。
怒った顔で、優菜は呟いた。
「絶対に、その女に、沙織を近づけちゃいけないよね」
わたしは曖昧に頷いた。
早川芽衣と言うひとが、母性豊かな人とは思えない。アラサーという年齢を想えば、恐らく周囲の知人たちが結婚し、子供を持ち出す頃だろう。他の人たちが幸せそうに子供を抱いているのを見て、自分も欲しくなったのか。分からないけれど。
「きちんと結婚して子供を産んで、沙織のことを忘れるのが一番健全だと思うけれどね」
わたしは言った。
本当に、それが一番良いことのように思えた。早川芽衣にとっても、沙織にとっても、沙織のママにとっても。
そして、どういうわけか、早川芽衣に逆恨みされているらしい、わたし自身にとっても。
沙織の側にいるものが妬ましいのかもしれない。芽衣さんにとっては。
「沙織を返しなさいよ」
と、芽衣さんの怖い目が脅迫しているような妄想が沸いた。その眼が背後からじいっと冷たくわたしを観察しているような気がして、ぞっとした。
明日から通常の日々が始まる。沙織の冬休みはまだ少し続くけれど。
結局、正月ちゅうに、母から連絡は来なかった。実はわたしは、人の母のことを心配している場合ではないのだった。
もう寝ると言って自室に引っ込む優菜を見送ってから、わたしはマイ・マザーのことを、少し思った。
近所の小さいお社。あまりにも優菜が、今年こそイイトシにならないかな、と呟いているので、そんなら行ってこようか、ということになった。
さくさくと音を立てるほどに雪が積もっており、車道は融雪でぐずぐずに濡れていた。今年は去年みたいに雪は酷くないけれど、少しでも積もったらやっぱり交通事情が違って来る。
「……県に行く汽車、運行大丈夫かなー」
と、その誰もいない静かなお社で手を合わた帰り、ぼそっと優菜は言った。
冬休みちゅうにちょっとふっくらしてしまった優菜である。明日から仕事始めのはずだが、スーツのスカートのことをさっきから心配していた。もともとキツメだったのよねー、と、ぶつぶつぶつぶつ呟いている。
スカートのことを気にする合間に、今夜の夜行列車の事を案じている。
沙織の母親が、出稼ぎ先に帰る汽車。
「大丈夫だよ。ママさんも分かってるんじゃないかな」
と、わたしは答えておいた。
ほとほとと、電線から雪の塊が落ちる。空は青かった。多分、この雪はまもなく溶けるだろう。
コンビニに寄ってあったかいもんでも買おうよー。
この期に及んでまだ食べる気なのか、優菜が言い出した。
「そうそう、たるちゃん、コンビニの夜勤回数、増やせば」
不意に言われたので、どきんと心臓が飛び上がった。隣を歩く優菜の顔は、わたしよりも少し高いところにある。なんとなく気まずそうに視線を逸らしながら、優菜は言った。
「わたしとの時間の兼ね合いでバイト回数増やせないんじゃないの。今のバイトたるちゃんに合ってるみたいだし、いいよ」
冬の晴れた空は甘い色をしている。
吐く息は雲と同じ色をしていて、高く昇って薄く消える。
向こう側の歩道を、柴犬を連れたおじいさんが散歩しており、わたしたちはなんとなくすれ違いざま、目で追った。犬はこちらなど見向きもせず、息をあげながら走ってゆく。
健やかな柴色の歩行と、優しいおじいさんの足取り。
「いいのー」
努めて元気よく、できるだけ呑気そうにわたしは言った。
「いいよー」
照れくさそうに優菜は言った。
「でもさ、週に四日くらいにして。一日だけ、わたしに頂戴」
どうあっても土日はわたしに家にいて欲しいらしい優菜は、そんな条件を付けた。
仕事といったって、夜不在にするだけだから、土日もなにも関係ないと思うのだけど、なにか優菜にはこだわりがあるみたいだ。
そして、平日一日だけは、優菜は妄想のシンデレラを演じたいと思っている。優菜の心は断末魔の悲鳴をあげていて、まだ納得できない、まだ断ち切れない執着が優菜を偽物の恋につなぎ留めている。
「いずれ、週五日とも大丈夫にするから。今年じゅうに、きっとそうするから、今はお願い」
と、優菜は言った。
一瞬、なんて良い話だろうとわたしは思ったが、まてよと考え直した。
だとすると、優菜は少なくとも今年一年は、実家に戻る気はないということか。
(梟荘のかりそめ家族はまだ続くんだな)
それは、わたしにとって、ちょっと嬉しいことかもしれなかった。
**
初詣もどきに行き、コンビニのおでんを梟荘で食べた。その夕方、ママに連れられて沙織が梟荘に戻って来た。
行った時と同じように、大きなうさぎを抱っこして、つやつやとした赤い頬をしている。寂しくて悲しい思いではちきれそうな目をしているが、態度はいつもの沙織だった。
元気よく、ただいま、と言って中に入って来た。
「おみやげあるよー」
にこにこしている。その可愛い顔を見ていると、胸が締め付けられた。優菜に至ってはすでに涙腺が崩壊しかけており、一度部屋に戻って盛大に洟をかんでいた。
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どこまでも元気に楽しそうに演じる沙織の背中を押して、優菜が待つ台所に誘導した。台所の小さいテレビで、できるだけ楽しいアニメのDVDを選んで流す予定である。沙織のためにケーキも用意してあった。
玄関先で沙織の母親が寒々しいコート姿で頭を下げている。
色々と、聞きたいことがあった。
「どうぞ、座敷におあがりください。汽車の時間まで、ゆっくりしてください」
沙織ママは恐縮しながら梟荘にあがった。玄関に脱いだ古いパンプスは、中底が破れていた。その傷んだ靴を、丁寧にそろえてから、ほっそりとしたママは梟荘の廊下を行った。
三十分ほど前に、座敷の達磨ストーブに点火しておいた。
部屋は十分に温まっていた。テーブルの上にはお茶菓子と、ポットがある。わたしは障子を開いた。
中庭の雪はもう溶けている。ぐじゅぐじゅに濡れた地面に落ち葉が張り付いていて、松の葉には滴が虹色に輝いていた。もうじき空は赤く燃えるだろう。夕焼けが近づいていた。
(今日、沙織はどんなふうにママと過ごしたのだろう)
座布団をしいて向かい合いながら、お茶を勧めた。
「伺いたいことがありまして」
思い切って、わたしは切り出した。下手に時間を取るわけにはいかない。沙織とママに取って、汽車の時間までの僅かな時は、この上なく貴重であるはずだ。
聞きたい事だけを聞いて、すぐに切りあげるつもりだった。あとは、沙織とママの時間にしてもらえば良い。
やつれた顔の母親は、長い睫毛をあげた。その眼は優しいけれど、強かった。
**
やっと寝たよー。
自分も欠伸をしながら、優菜が沙織の部屋から出て来た。疲れた顔をしている。
しっかりしていると言っても、小学一年生だ。やっぱり、ママと別れたら涙が出た。母親が梟荘を去ってからしばらくの間、ママ、ママと泣き叫んで手が付けられなくなった。
どんな楽しいアニメでも、ゲームでも、沙織の気を紛らわすことはできなかった。わたしと優菜は目を見合わせて、泣きたいだけ泣かせるか、という結論に至った。沙織のことで手を焼くのは、初めての事だった。
「梟荘にぽいっと預けられた初めての日は、こんなふうじゃなかったよね」
台所のテーブルにどっかり座り、ココアを飲みながら、優菜は言った。
そうだな、と、わたしも頷く。疲れた顔の母親に連れられて、今日からこの子をよろしくお願いしますと背中を押されてはいって来た時の沙織は、どこまでも気丈で健気だった。
「いいことじゃないかなー」
わたしもまた、自分用にコーヒーを淹れながら言った。
沙織は自分を出し始めている。もしかしたらこれからは、少しずつ我儘で、悪い子の沙織が出てくるかもしれない。
泣きじゃくる沙織をなだめながら、とりあえずパジャマに着替えさえ、布団に押し込み、背中をポンポンし続けていた優菜は、可哀そうだけど流石にもういい、と、苦笑した。
子供向けDVDがテーブルに散乱しているので、さりげなく片づけて積み上げて置いた。今週中にレンタルに返しに行かなくては。
かわりにラジオをつけた。穏やかなリクエスト曲が流れていた。
その80年代風のバラードを聴いていると、あの夜のコンビニが懐かしくて仕方がなくなってくる。80年代の曲と言えばコンビニを思い出すほどだ。今流れているバラードもお店で流れていたかもしれない。思わずため息が出た。
少し間を置いてから、わたしは話し出していた。
沙織の母から聞いた事実は、おおむね予想通りであった。
早川芽衣というひとは、体も心も弱いところのあるお嬢さんらしい。主に、心の方ではないかと思われたが、芽衣を溺愛してやまないご両親にとっては、身体が弱いかわいそうな子、ということになっているそうな。
その愛らしくも可哀そうなお嬢さんは見栄っ張りで甘ったれで好き放題に育ち、なんでもほしいものを手に入れていらっしゃった。そして、十代の頃に妊娠して沙織を産んだ。
いくらなんでも溺愛する娘が誰の子かわからない子供を産んだなど、公にできないご両親は、里子に出すことにした。近しい間柄のひとでは情報が漏れてしまうからいけない。つてのつて、できるだけ遠くて縁もゆかりもないような女性が好ましかった。
そして、沙織の今のママに、白羽の矢が当たったという。
「六年ぶりなんです」
目を伏せてお茶の湯呑で手を温めながら、沙織のママは言った。
視線はテーブルの上に落ちている。
沙織を売り払ってから、六年の間、手紙ひとつ電話一本寄越さなかった早川芽衣から、突然連絡があったという。一体なんの用だろうと思ったら、お金を渡されて戸惑ったそうだ。
「本当にありがとうございます。沙織を育てて下さって……これは心ばかりですけれど」
甘やかで優し気な声で、芽衣は言い、お金の封筒を握らせようとしたという。
そのお金で沙織を返してほしいという言葉があったわけではない。
だけど、お金を受け取ってしまったら、早川芽衣と沙織に、妙な関係が生じてしまう。
お金の力は強烈だ。芽衣は、その力の使い方を知っているらしい。
「要するに、芽衣さんは、沙織と何か関りを持ちたがっている。ちょっとした関わりでも、それを足掛かりに、もっと近づこうと考えている」
わたしはそう言って、この話を切り上げた。
しいんと沈黙が落ち、それを埋めるようにラジオが流れた。
バラードは終わり、代わりに次のリクエストが流れた。外では少し風が出てきたようだ。枝が揺れる影が、暗い台所の窓に僅かに映った。
「変だよー、図々しい、おかしい」
と、優菜はココアをもう一杯入れながら言った。ほっぺたがぷりぷりしている。仕事が始まったら自然に痩せるだろうけれど。
怒った顔で、優菜は呟いた。
「絶対に、その女に、沙織を近づけちゃいけないよね」
わたしは曖昧に頷いた。
早川芽衣と言うひとが、母性豊かな人とは思えない。アラサーという年齢を想えば、恐らく周囲の知人たちが結婚し、子供を持ち出す頃だろう。他の人たちが幸せそうに子供を抱いているのを見て、自分も欲しくなったのか。分からないけれど。
「きちんと結婚して子供を産んで、沙織のことを忘れるのが一番健全だと思うけれどね」
わたしは言った。
本当に、それが一番良いことのように思えた。早川芽衣にとっても、沙織にとっても、沙織のママにとっても。
そして、どういうわけか、早川芽衣に逆恨みされているらしい、わたし自身にとっても。
沙織の側にいるものが妬ましいのかもしれない。芽衣さんにとっては。
「沙織を返しなさいよ」
と、芽衣さんの怖い目が脅迫しているような妄想が沸いた。その眼が背後からじいっと冷たくわたしを観察しているような気がして、ぞっとした。
明日から通常の日々が始まる。沙織の冬休みはまだ少し続くけれど。
結局、正月ちゅうに、母から連絡は来なかった。実はわたしは、人の母のことを心配している場合ではないのだった。
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