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嫌われ者

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 休みがちの芽衣さんが、わりと真面目に出勤するようになったこともあって、わたしはますます追い詰められていった。
 芽衣さんからの「あんたのこと大嫌い」という意思表示は、とても巧妙に、わたしだけに伝わるよう仕組まれている。
 表情、目つき、なにか仕事上の事で話かけられる時の鋭い感じ。
 それから、周囲を上手に巻き込んで、わたしが部屋に入ってくるとそれまで和気あいあいと盛り上がっていた会話がぴたりと止む等、折に付け「あんたのこと大嫌い」がひしひしと伝わるのだった。

 在宅ワークのことや、昼間のアルバイトを別に探すことを考えていたのは、まだ余裕が僅かに残っていた時のこと。
 もはや我慢の限界がきたわたしは、結局、次の仕事のめどもたたないまま、担当の社員さんに辞めたい旨を伝えてしまった。

 「えー、辞めるの」
 比較的フレンドリーな社員さんなので、辞めたいと言われてそれを四角四面に受け取ることはせず、まずはサクッと話を聞かれた。
 「まあ、事情があるんだと思うから引き留めることはできないけれど、せっかく力になってくれていた校正さんを一人失うのは痛いので、不満や悩みがあるなら教えて」
 そう言われた。

 ちょうど、出入り口をふさがれた建物の中で、一方的に殴り続けられて、しかもそれに声一つあげることを許されないまま耐えていたかのような心地になっていたわたしは、理性が押しとどめる暇もなく、差し出された藁一本に全力でしがみついたのである。
 バイト達が仕事をする部屋とは別の、パーテーションで仕切られた小さな空間に通されて、その綺麗な社員さんと向かい合い、わたしは人間関係の悩みをあらいざらい打ち明けた。

 ぐずぐすとわたしが話し続けている間、パーテーションの外では忙しそうに会話する社員さん達の気配が蠢いている。
 
 聞かせてと言っていた割に、社員さんはどんどん嫌な表情になってゆき、最後にぼそりと、まあそういうことなら仕方がないねと言った。
 その時わたしは、何か不本意なレッテルを貼られたことを感じた。
 話してみてと言われて打ち明けて、結局傷つけられる経験は、初めてではない。その度に、ああ、やってしまった、なんて浅はかだったんだろうと後悔する。
 どうしてわたしは、「一身上の都合で辞めたいのです、申し訳ありません」と、ひたすら言い続けて、無難に辞めることができなかったのか。

 「結局ねー、人間関係って一番どうにもならないものだしねー」
 と、社員さんが投げ捨てるように言うので、動揺していたわたしは、「でも、早川さんの態度はやっぱり変でした」と、言わなくてもいいことを言ってしまった。

 「お給料は今日までの分をいつも通り、翌月末払いで振り込みますね」
 ぱしん、と、払いのけるような感じで、社員さんは言った。
 もはや一刻も早くこの職場から脱出したくてならなかったわたしは、裏返った声で、今日はもう早退します、昨日までの分で結構ですから、と叫んだ。

 「山崎さんね、そんな無責任だから嫌われるんじゃないの」
 社員さんは、さっきまで見せていた、温かさと親しみが溢れる表情をかなぐり捨てていた。容赦がない顔つきで、上から鋭くわたしを見下ろしている。
 猛禽類に、おまえなんか美味しくないから食べる価値もないと後足で砂をかけられたような屈辱を、わたしは感じた。

 「あなたの悩みを聞いて思ったけどね、結局あなた、うちでは嫌われ者なんでしょ。ただそれだけ。嫌われ者が嫌われながら仕事をするのは当然のことだけど、それが苦痛なら、ここにいてもしょうがないわ」
 うちは人の和を大事にする職場だしね、和を乱す人はちょっとね。ではね。

 うわべだけの温かい調子で最後を取り繕うと、言いたいだけ言った社員さんは、かつかつとヒールの音を響かせてオフィスに戻っていった。

 さっきから電話が鳴り続けている。多忙な職場なのだ。あの社員さんも、一秒後にはわたしのことなど綺麗に忘れて、必死で仕事を進めるのに違いなかった。

 ずたぼろに引き裂かれて、血の気が失せたわたしはよろよろとオフィスを出た。そして、校正のバイトが集まって仕事をしている、あの部屋に戻った。
 暖房がよく聞いた部屋では校正さん達が芽衣さんを囲んで話をしながら片手間に作業をしている様子だ。芽衣さんが来てから、静かだったはずの校正の仕事は、うわさ話が常に囁かれる、授業前の生徒たちみたいな状態になっていた。
 がらっとわたしが入ってきて、みんなじっと無言でこちらを見つめた。
 わたしも無言で自分の席に戻り、机の横にかけていた荷物を取り上げると、会釈ひとつしないで退室した。

 ばたんと扉をしめて、冷え冷えとした階段を降りてテナントを出る。外は今にも降り出しそうな曇天だった。
 白い息を吹き上げながらわたしは歩く。耐えながら仕事を続けても、ついに奮起して辞めてみても、何一つとして気持ちの良いことのない職場だった。
 
 そうしてわたしは、平日の昼間、こつこつと通い続けていた校正のアルバイトを失った。

**

 なんと、あの嫌なアルバイトが終わった日は、クリスマスだった。

 町中にクリスマスソングが鳴り響き、いたるところに緑と赤の飾りがきらきらしている中、ずたぼろに傷つけられたわたしは、とぼとぼと梟荘に戻った。
 
 ちょうど昨日、梟荘ではクリスマスケーキを食べて、沙織にプレゼントなどをして、ささやかなパーティーをしたところだった。そして沙織は迎えに来たママと手を繋いで、冬休みに乗り出していった。
 「沙織、旅館で人気者になりそうだなー」
 嬉しそうにママの顔を見上げながら赤い長靴で歩いてゆく沙織を見送って、優菜は呟いた。
 優菜は優菜で、派遣社員の冬休みを満喫する構えだ。正月明けまでのんびりするらしい。優しいご両親がいる実家に帰るのかと思ったけれど、優菜は梟荘に留まるのだと言った。
 
 網目が荒い白のセーターをざっくりと着こなして、優菜は両手でサンリオのカップを握って美味しそうにココアを飲んだ。
 テーブルにはケーキの食べ残しが残っていて、たった今まで沙織が座っていた席には、沙織の赤いエプロンが引っかかっていた。

 「沙織嬉しそうだったなー」
 わたしはブラックコーヒーを自分のために淹れて飲んでいた。心地よい熱さと苦さを味わいながら、母親と手を繋いで梟荘を去ってゆく沙織の後姿を何度も思い出した。

 沙織はまた戻ってくる。だけど、いずれは沙織は本当に梟荘から去る。その予行演習は、これから何度も繰り返されるのに違いない。

 たるちゃんご馳走様、美味しいごはんをいつもありがとう。
 そう言いながら、食器を重ねて流しまで持って来てくれる沙織。
 
 たるちゃん、お手伝いする。
 洗濯物を畳むときはいつだって走って駆けつけて、一緒になって畳んでくれた沙織。

 下校の時に意地悪な友達から仲間外れにされるので、わたしがお迎えに行ったら、目をきらきらさせて、仔犬みたいに飛びついて来た沙織。
 
 わたしには弱音を吐かない沙織。授業参観についての悩みをちらっと打ち明けたのは、わたしにではなく、優菜だった、沙織。
 
 カップを持ったまま、ぼうっとしていたわたしに、優菜が、たるちゃん沙織がいなくて寂しいんでしょ、と、声をかけて来た。
 にやにや笑っているけれど、優菜もまた、沙織の不在に戸惑っているのに違いない。小さな子供ひとりがいなくなっただけで、梟荘はがらんとしていた。

 わたしと優菜からのプレゼントは、大きなうさぎのぬいぐるみだった。沙織はそのぬいぐるみを大事そうに抱えて、冬休みに飛び込んでいった。

 玄関先に立つ母親にうさぎを見せながら、沙織ははしゃいだ。ママこれ貰ったの、うわーい。そんなに子供らしい顔をする沙織を、わたしも優菜も見たことがなかった。

 「子供作るなら、沙織みたいなのにする」
 と、優菜は言い、わたしは思わず笑った。誰との子供だよ、と、まぜっかえしてやった。

 ちかちか輝くクリスマスツリー。
 沙織が学校の図工の授業で作って来た、画用紙のクリスマスツリー。
 
 プレゼントの赤い包み紙を畳みながら、ふいにわたしは、目の前の優菜が遠くなってゆくように思った。
 遠い。沙織も優菜も。
 ここはかりそめの宿。二人とも、永久にここにいるわけではないのだと、わたしはその時、痛いほど感じた。

**

 クリスマス的にはイブが盛り上がるけれど、正式なクリスマスは今日だ。
 嫌になるほどクリスマスソングが流れるスーパーで買い物を済ませ、いつもより早い時間に梟荘に戻った。
 優菜は出かけていて留守だ。暖房を消して間がないのだろう、ほんのりと梟荘の中は温もっていた。

 物凄く嫌な思いが後を引いており、しばらく引きずりそうだった。
 校正のアルバイトから逃げたことは、わたしの心に、お前はダメ人間であり、だから誰かから嫌われて傷つけられることに甘んじなくてはならないのだという、重たい烙印を押した。

 誰かから理不尽な扱いを受けたとして、不満を訴える権利などお前にはないのだと、全人類から決めつけられたような心地だった。
 
 玉暖簾をくぐって台所のストーブをつけ、お湯を沸かしながら椅子に座る。テーブルに頬杖をついて、楽しそうに電球を点滅させるクリスマスツリーを眺めていた。
 しゅんしゅんと音を立てるやかんは、とても頼もしい味方だった。
 お前みたいなものはいらないと弾かれていても、台所に戻って来たら、かっちりと嵌め込まれる必要不可欠なパズルのピースの一つに、わたしはなる。
 
 やがてお湯が沸いてポットに移しかえる頃、気持ちが少し楽になっていた。
 なにはともあれ、明日からあの厭らしいアルバイトには行かないで良い、芽衣さんとは二度と関わらなくて済むのだという解放感がじわじわ沸いて来た。
 芽衣さんに会わないで済むという事実が、これほど自分に取って喜ばしいなんて、我ながらびっくりだった。
 なるほど、芽衣さんはわたしを憎んでいたかもしれないけれど、わたしも相当、芽衣さんが嫌だったらしい。フィフティフィフティ。なんだ、誰かに嫌われまくっているのはわたしだけじゃない、芽衣さんだってわたしに滅茶苦茶嫌われてるじゃん、と、今初めてわたしは気付いたのだった。

 (一生、芽衣さんを好きになることはない、いや、誰が嫌いでいることを止めてやるもんか)
 たとえみんながあの人をキレイカワイイよい子だと囃し立てようと、わたし一人だけは冷たい目をして、馬鹿じゃないのと呟いてやる。ざまあみろ、全人類のアイドルには、あの女は絶対になれない。なぜなら、徹底的に嫌っているわたしが、ここに生きているのだから。

 「大嫌い、死ねばいい、厄介者、人生の害虫、キモイキモイキモーイ」
 ぽんぽんと悪口が飛び出してきて、一言吐き出す度に、なんだか楽しくなった。それは病んだ楽しさだったけれど、重たくて、死にたいほど惨めなままでいるよりは遙かに良かった。

 (病んでもいい。誰が大嫌いな奴から、アホみたいに、傷をつけられ続けていてやるもんか)

 わたしはコーヒーを淹れた。
 ラジオではなく、お気に入りのCDを流した。
 上っ面だけだろうと、正気ではなかろうと、なんでも良かった。

 がちゃり。優菜が帰って来たらしい。
 あれ、たるちゃん帰ってるー、と、素っ頓狂な声が聞こえて来た。

 その時にはもう、わたしは戸棚からジャックダニエルを引っ張り出していた。
 多分、優菜なら一緒に盛り上がってくれるだろう。訳なんか聞かずに、きっと。

 (もし優菜が同じようにオカシクなったなら、わたしも無条件でノッテやるんだ)
 世の中がどんどん明るくカラフルに感じられてきたのは、酔いが回ってきたせいか。
 玉暖簾が揺れて、面食らった様子の優菜が顔を覗かせる。あんたも飲んできな、と、わたしは言った。

 ちゃぷん。芳香を放ち波打つ天国の液体。差し出したグラスを、きっと優菜は断らない。わたしは確信していた。
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