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雨が雪に変わる時
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クリスマス月に突入。
小学校は月半ばくらいに終業式だし、沙織の世話をどうしようと悩んでいた。
心優しいけやきさんが気を回して、もし良かったら平日の昼間はうちで預かろうかと言ってくれた。まるで沙織をたらい回しにするような罪悪感が過ったが、いやいや、いくらなんでも梟荘に沙織ひとりをぽつんと置き去りにするわけにはいかないと自分の気持ちに蓋をした。
沙織は小学一年生にして、たらい回しの悲劇のひとだ。
どこの誰だかわからない実母から、今のお母さんに引き渡されたのが赤ちゃんの頃。沙織の実のママはどこかのお嬢様で、若い時に妊娠して極秘で沙織を生んだとか。里子に出した先が、今のママというわけらしい。
つまり、沙織の親権は、ちゃんと今のお母さんの元にある。
貧しい上に色々事情があって、一人で生きてゆかなくてはならない沙織のママは、沙織を引き取って、凄く幸せだったらしい。
沙織も優しいママの子になって、本当に幸せだった。貧しいのと、実の子ではないという噂のせいで、沙織は今よりもっと小さい時から好奇の視線にさらされて来た。保育園では噂好きのママたちの注目の的だったそうだ。
(ひとつには、沙織がずば抜けて愛らしくてデキる子で、目立ってしまうからだろうなあ)
人間の原動力には様々なものがあるけれど、妬みというのも物凄いエネルギーになる。
沙織が輝くほど、周囲のひとたちは沙織に興味を持ち、探り、面白いネタを掘り起こしては、ああなんだ、あの子は自分以下じゃないかと安心するのかもしれない。
泥の中で蓮の花のつぼみを辛抱強く保ち続けているようなところが、沙織にはある。
こんな小さい子が、どうしてここまで耐えて、しかも客観的にものごとを捉えることができるのだろうかと、つくづく思う。沙織を見ていると、名作童話の悲劇の主人公みたいに、夭逝してしまうんじゃないかと心配になる。
「フランダースの犬」のネロが、まるで神様から愛でられるように召し上げられてしまうみたいに。
「あの子さー、姫だよー」
いつか、優菜がぼそっと呟いたことがあった。
お古のジーパンと、ディスカウント品の赤いトレーナーを着て、インスタントラーメンをすする沙織を見て、姫だと優菜は言った。
**
沙織の終業式の日が近づく一方で、わたしのほうは、辞めると心に決めた校正のアルバイトを、まだ引きずっていた。
辞めると決めるのは簡単だったけれど、いざ辞めたら自分の稼ぎ分が劇的に減る。じゃあ夜のコンビニの仕事を増やせばいいと思うけれど、そうなったら、毎日のように優菜に頼らなくてはならなくなる。
今は、優菜は週に二度だけきちんと普通の時間に帰宅してくれる。そして、沙織の面倒を見てくれている。
本当は優菜は、毎日のように英会話スクールの彼に貼りついていたいはずだ。
ストーカー行為を増長させたいわけではないけれど、優菜が好きでそうしているのを妨げているというのは、やっぱり罪悪感があった。
優菜がどの程度、迷惑行為に走っているのか知らなかったけれど、探偵を放ってまで娘の行状を調べた優菜のご両親からによれば、まだグレーゾーンにとどまってくれているという。
優菜は誰かを殺したり傷つけたりするようなひとではない。
ご両親は、優菜がエキセントリックな行為に走ることよりも、救いようのないくらいに傷ついて命を絶ってしまう方を心配しているのかもしれなかった。
今の優菜が最も心を楽にして生きて行ける場所が梟荘ならば、じゃあお願いします、という感じで、優菜のご両親は、このヘンテコな雑居生活に目を瞑ってくれている。
(あー……辞めたいな)
校正アルバイトの職場は日に日に居づらくなった。芽衣さんがいる日は特に、押しのけられている感が強かった。
きらきらとしたクリスマスの話題に混じり、きゃらきゃら笑う芽衣さんの高い声が耳障りでしょうがなかった。芽衣さんも、わたしのことを嫌っている様子を隠さなくなってきた。
寒空の下で食べるお弁当は自由であると同時に切ない。
温かな室内で休憩することができないことが情けなかった。ちらほら雪が舞う日の昼は、公園で弁当を広げる人は、さすがにあまりいない。
外で食べるのが好きだから公園でごはんを食べているのと、いたたまれないから公園に逃げてきているのとでは、天と地ほどに気持ちが違う。
溜息すら凍ってしまいそうな寒さの中で、足を擦り合わせ、肩をすくめながら温かいお茶を抱きしめ、冷たい弁当を口に入れる。
背後のテナントビルの二階では、暑いくらいにあたたかな室内で、バイトさんたちが芽衣さんを中心に、笑いながらお昼休みを過ごしているというのに。
辞めないで続けるという選択肢は、なかった。
けれど、辞めるには越えなくてはならない壁がある。
昼間のアルバイトをもう一つ決めるか。
それとも、優菜に頭を下げて、週に四度くらい早く帰ってきてもらって、コンビニの夜勤の回数を増やすか。
どちらにも決まらないまま、校正アルバイトを辞めてしまうほど、わたしは思い切りが良くないのだった。
(昼のバイト、別のやつを探そうかなー)
結局、そっちのほうに気持ちが傾いた。これ以上優菜を縛ることはできないと思った。
希望としては、優菜に、今抱えている良くない執着を断ち切ってもらって、その英会話スクールからも足を洗ってもらって、仕事が終わったらすぐに帰ってきてくれる健全な生き方をしてもらえれば最高なのだけど。
そうなれば、わたしの事情ともマッチして、全てが上手くいくんだけどなあ、なんて、勝手にわたしは思っていた。
12月に入った途端に寒さが増した。
ちらちら雪が舞う位ならまだしも、その日は凍るような雨がしとしと降っており、とても公園のベンチで弁当を広げられる状態ではなかった。
その日は芽衣さんが出勤していて、絶対に室内でご飯を食べたくない事情があった。
わたしはちょっと考えて、今日はお昼はいいから、新しい仕事を探してみようかな、と前向きに動くことにした。幸い、芽衣さんがいる日はいつも、食欲が激減している。今日も、そんなにご飯を食べたいとは思えない。
折り畳み傘の入ったバッグを下げて部屋を出てゆくとき、輪になってゴハンを食べている中の何人かが、ちらっと鋭い視線をこちらに投げかけたような気がした。その中には、芽衣さんの、あの怖い、虚ろで自分以外のなにも映していなさそうな目も混じっていた。
「おっどろいた、あの人、今日みたいな日でも意地でも外でゴハン食べる気だよ……」
テナントの階段は濡れていた。
室内は暖房が効いていても、廊下や階段は身震いするほど寒い。お昼を外で食べるらしい社員さん達に混じりながら外に出ると、痛い位に冷たい雨が降っていた。
昼休みは1時間。
すぐそこにコンビニがあった。
無料の求人誌がいつも置いてある。今週の号を、わたしはまだ読んでいなかった。
イートインのコーナーで熱いコーヒーでも飲みながら、職探しをするのは、とても良い考えだとわたしは思った。
「はふ」
吸い込んだ息のせいで気管がやられそうだ。空気は恐ろしいほどに冷えていた。その冷気を纏いながら温かなコンビニに転がり込み、早速無料の求人誌を三冊手に取った。
既に行列ができていたレジにならび、熱いブラックコーヒーを手に入れて、ぎゅうぎゅうに込み合って煙草臭い、イートインコーナーに割り込む。
恥も外聞もない。左にはどこぞの会社の営業マンとおぼしき脂っこい男性、右にはだらしない恰好をしてスマホをいじりまくるニート風の女が足を開いて座っていた。その間に、窮屈そうに丸椅子が空いていて、わたしは迷わずそこに自分の体を押し込んだのだ。
「……」
おじさんは申し訳程度に体をずらしてくれたが、ニート風の女の方は、つうんとこちらに背を向けてスマホをいじり続けている。開いた足は直してくれないので、嫌でもわたしの膝に当たった。
最悪な環境だけど、とにかくわたしは仕事探しに集中することにする。
自分の都合に合う日勤のアルバイト。
事務は無理だと思う。
工場内軽作業の募集を色々眺めているうちに、在宅ワークに心が大きく傾いた。
もちろん、お金は安い。
だから、コンビニの夜勤をもう一日か二日増やす。それは、土日祝日のどれかだ。それなら、優菜の英会話スクールはお休みだ。いける。頼めるだろう。
せっかくの休日に、沙織の相手をしてやれないのは寂しかったが、これが最もベストな方法かもしれない。これなら自分的にも納得できる。
そうしよう。それなら、あの厭らしい校正のアルバイトの雰囲気から逃げられる。
冷静に考えれば、とても貧弱な選択肢であるはずなのに、追い詰められた状況下で、わたしはその考えに縋りつこうとした。ぎゅうぎゅうと左右から押され、煙草臭いし、足は常にぶつかるし、落ち着いてコーヒーも飲めやしない。おまけに、もうあと少ししたら、またあの感じの悪い職場に戻らなくてはならないのだ。
「……たるちゃん」
自分の姿を、身近なひとに観察されていた時の仰天って、なかなかである。
求人誌を睨みつけ、片手にコーヒーを握りしめた状態で、わたしは背後にその声を聴いた。さらっと髪の毛が流れる音がして、覚えのある香りが漂う。恐る恐る振り向くと、スーツ姿の優菜が目を丸くしてわたしの手元を覗き込んでいた。
優菜の派遣先も、この近辺らしいことは知っていたが、まさかこんなところで出くわすとは。
優菜は笑っていない目でわたしの手元を見ると、ちらっと自分の腕時計を見た。その仕草はスマートで、こうやって見たら優菜は普通に綺麗なOLなのだ。
「帰ってから聞かせて」
と、優菜は微かな声で言うと、ぎこちなく笑った。
その笑顔がどこか悲しげだったので、わたしは何も言えずに頷くしかなかった。
昼休みの時間に、たった一人、コンビニで求人誌とにらめっこをしている状況。
しかも優菜は、わたしが校正のアルバイトで苦しんでいることを知っている。
辞めたいのに辞められないのはなぜか。
夜勤のコンビニアルバイトを増やせないのはなぜか。
優菜は一瞬でなにかを察したのだと思う。
ほっそりとしたスーツの優菜がコンビニを出てゆくのを見計らい、わたしも椅子を降りた。
そろそろ昼休みが終わろうとしている。また、あの空気を吸うのもしんどい職場に戻らなくてはならない。いっそのこと、このまま逃亡して梟荘に籠りたい位だ。
**
仕事が終わり、逃げるように梟荘に帰ったら、へとへとになっていた。
今日は夜のバイトがない日だ。カレンダーを見ると、12月20日のところに赤丸がついていた。沙織の終業式の日。この日から冬休みが始まる印だ。
けやきさんのうちには、優しいお姉ちゃん達がいるし、みんな、沙織を可愛がってくれるだろう。実は何回か、沙織はけやき家にお邪魔したことがある。わたしの届け物に同行して、お座敷にあがってお茶を戴いたのだ。
「冬休みはけやきさんちだよ」
と言ったら、沙織は別に嫌な顔もせずに、うんわかった、と答えた。
(仕事を辞めたら、けやきさんちに沙織を預ける口実がなくなるなあ……)
校正バイトを辞めた暁には、けやきさんにもその旨を報告せねばならないが、多分けやきさんなら「そっか、わかったよ」で終わらせてくれる気がした。
完全無職になったとしても、家賃が振り込まれている限り、けやきさんは全てを大目に見てくれる。いや、もしかしたら家賃が滞ったとしても、けやきさんなら今すぐ出て行けとかは、言わないかもしれない。
自分の優柔不断やら、現実との折り合いがつかないやらで、冬休みを前に、わたしは宙ぶらりんな状態だった。
わたしの決意が色々な方向に影響を及ぼし、もしかしたら意図せず、誰かを振り回してしまうかもしれない。
きっとけやき家では今頃はもう、冬の間に沙織を預かる準備をしてくれているのに違いない。
梟荘は冷え冷えとしていた。
台所のストーブをつけて、お湯を沸かして暖を取った。無駄な暖房は使ってはいけないなあ、など、今更のようにわたしは考えた。
淹れたてのお湯で熱いコーヒーを飲んでいたら、廊下の黒電話が鳴った。
けやきさんだろうかと思い、急いで出てみたら、思いがけない人からだった。
「いつもお世話になっておりまして、本当にありがとうございます……」
県外に出稼ぎに出ている、沙織のママからだった。年末の挨拶かと思ったので、わたしも適当に、いえいえ、こちらこそです、などと言っておいた。
沙織のママはしかし、こんなことを言い出したのである。
「クリスマスから年始にかけて長期の休暇が取れましたので、そちらに戻ります。その期間だけでも、沙織と一緒に過ごすことができたらと」
知り合いが経営する旅館が、仕事を手伝うという条件付きで、休暇の間じゅう、無料で泊めてくれると言っており、沙織と一緒にそこで生活できるのです。新年の四日にわたしはまた、仕事に帰りますので、三日の日に沙織をまたお預けに伺います。
ほんの僅かな日々だけど、沙織とママが一緒に過ごすことができる。
とても良いことのはずなのに、わたしは何か、頭がかき回されるような、歯車が回り始めたかのような混乱を覚えていた。
けやきさんにも連絡しなくてはならない。
何だか、色々なことが一気に起こり始めているような気がする。
黒電話の受話器の向こう側で、沙織のママが一生懸命にお礼の言葉を述べているのを、わたしは愕然として聞いていた。
ああそうだ、わたしはきっと、恐れているんだ。ある日、こんなふうに唐突に、沙織のママが沙織を連れ帰ってしまって、二度と沙織と暮らすことがなくなる。沙織はきっと笑顔で幸せそうにママの手を握り、ママも何度もこちらに頭を下げて、感謝の限りを表現しながら、そして、二人は去ってゆくのだ。
「ただいまー、たるちゃん、雨が雪になって来たよー」
沙織が玄関を開いて無邪気に叫ぶ。ああ、沙織を迎えに行くのを忘れた、とわたしは唇を噛んだ。
ちょうどその時、ママからの電話は終わったばかりで、受話器はツーツーと虚しい音を響かせていた。
「あー、電話だ、誰からだったのー」
お古のオレンジ色のアノラックのファスナーを開きながら、沙織が駆け寄ってきた。
小学校は月半ばくらいに終業式だし、沙織の世話をどうしようと悩んでいた。
心優しいけやきさんが気を回して、もし良かったら平日の昼間はうちで預かろうかと言ってくれた。まるで沙織をたらい回しにするような罪悪感が過ったが、いやいや、いくらなんでも梟荘に沙織ひとりをぽつんと置き去りにするわけにはいかないと自分の気持ちに蓋をした。
沙織は小学一年生にして、たらい回しの悲劇のひとだ。
どこの誰だかわからない実母から、今のお母さんに引き渡されたのが赤ちゃんの頃。沙織の実のママはどこかのお嬢様で、若い時に妊娠して極秘で沙織を生んだとか。里子に出した先が、今のママというわけらしい。
つまり、沙織の親権は、ちゃんと今のお母さんの元にある。
貧しい上に色々事情があって、一人で生きてゆかなくてはならない沙織のママは、沙織を引き取って、凄く幸せだったらしい。
沙織も優しいママの子になって、本当に幸せだった。貧しいのと、実の子ではないという噂のせいで、沙織は今よりもっと小さい時から好奇の視線にさらされて来た。保育園では噂好きのママたちの注目の的だったそうだ。
(ひとつには、沙織がずば抜けて愛らしくてデキる子で、目立ってしまうからだろうなあ)
人間の原動力には様々なものがあるけれど、妬みというのも物凄いエネルギーになる。
沙織が輝くほど、周囲のひとたちは沙織に興味を持ち、探り、面白いネタを掘り起こしては、ああなんだ、あの子は自分以下じゃないかと安心するのかもしれない。
泥の中で蓮の花のつぼみを辛抱強く保ち続けているようなところが、沙織にはある。
こんな小さい子が、どうしてここまで耐えて、しかも客観的にものごとを捉えることができるのだろうかと、つくづく思う。沙織を見ていると、名作童話の悲劇の主人公みたいに、夭逝してしまうんじゃないかと心配になる。
「フランダースの犬」のネロが、まるで神様から愛でられるように召し上げられてしまうみたいに。
「あの子さー、姫だよー」
いつか、優菜がぼそっと呟いたことがあった。
お古のジーパンと、ディスカウント品の赤いトレーナーを着て、インスタントラーメンをすする沙織を見て、姫だと優菜は言った。
**
沙織の終業式の日が近づく一方で、わたしのほうは、辞めると心に決めた校正のアルバイトを、まだ引きずっていた。
辞めると決めるのは簡単だったけれど、いざ辞めたら自分の稼ぎ分が劇的に減る。じゃあ夜のコンビニの仕事を増やせばいいと思うけれど、そうなったら、毎日のように優菜に頼らなくてはならなくなる。
今は、優菜は週に二度だけきちんと普通の時間に帰宅してくれる。そして、沙織の面倒を見てくれている。
本当は優菜は、毎日のように英会話スクールの彼に貼りついていたいはずだ。
ストーカー行為を増長させたいわけではないけれど、優菜が好きでそうしているのを妨げているというのは、やっぱり罪悪感があった。
優菜がどの程度、迷惑行為に走っているのか知らなかったけれど、探偵を放ってまで娘の行状を調べた優菜のご両親からによれば、まだグレーゾーンにとどまってくれているという。
優菜は誰かを殺したり傷つけたりするようなひとではない。
ご両親は、優菜がエキセントリックな行為に走ることよりも、救いようのないくらいに傷ついて命を絶ってしまう方を心配しているのかもしれなかった。
今の優菜が最も心を楽にして生きて行ける場所が梟荘ならば、じゃあお願いします、という感じで、優菜のご両親は、このヘンテコな雑居生活に目を瞑ってくれている。
(あー……辞めたいな)
校正アルバイトの職場は日に日に居づらくなった。芽衣さんがいる日は特に、押しのけられている感が強かった。
きらきらとしたクリスマスの話題に混じり、きゃらきゃら笑う芽衣さんの高い声が耳障りでしょうがなかった。芽衣さんも、わたしのことを嫌っている様子を隠さなくなってきた。
寒空の下で食べるお弁当は自由であると同時に切ない。
温かな室内で休憩することができないことが情けなかった。ちらほら雪が舞う日の昼は、公園で弁当を広げる人は、さすがにあまりいない。
外で食べるのが好きだから公園でごはんを食べているのと、いたたまれないから公園に逃げてきているのとでは、天と地ほどに気持ちが違う。
溜息すら凍ってしまいそうな寒さの中で、足を擦り合わせ、肩をすくめながら温かいお茶を抱きしめ、冷たい弁当を口に入れる。
背後のテナントビルの二階では、暑いくらいにあたたかな室内で、バイトさんたちが芽衣さんを中心に、笑いながらお昼休みを過ごしているというのに。
辞めないで続けるという選択肢は、なかった。
けれど、辞めるには越えなくてはならない壁がある。
昼間のアルバイトをもう一つ決めるか。
それとも、優菜に頭を下げて、週に四度くらい早く帰ってきてもらって、コンビニの夜勤の回数を増やすか。
どちらにも決まらないまま、校正アルバイトを辞めてしまうほど、わたしは思い切りが良くないのだった。
(昼のバイト、別のやつを探そうかなー)
結局、そっちのほうに気持ちが傾いた。これ以上優菜を縛ることはできないと思った。
希望としては、優菜に、今抱えている良くない執着を断ち切ってもらって、その英会話スクールからも足を洗ってもらって、仕事が終わったらすぐに帰ってきてくれる健全な生き方をしてもらえれば最高なのだけど。
そうなれば、わたしの事情ともマッチして、全てが上手くいくんだけどなあ、なんて、勝手にわたしは思っていた。
12月に入った途端に寒さが増した。
ちらちら雪が舞う位ならまだしも、その日は凍るような雨がしとしと降っており、とても公園のベンチで弁当を広げられる状態ではなかった。
その日は芽衣さんが出勤していて、絶対に室内でご飯を食べたくない事情があった。
わたしはちょっと考えて、今日はお昼はいいから、新しい仕事を探してみようかな、と前向きに動くことにした。幸い、芽衣さんがいる日はいつも、食欲が激減している。今日も、そんなにご飯を食べたいとは思えない。
折り畳み傘の入ったバッグを下げて部屋を出てゆくとき、輪になってゴハンを食べている中の何人かが、ちらっと鋭い視線をこちらに投げかけたような気がした。その中には、芽衣さんの、あの怖い、虚ろで自分以外のなにも映していなさそうな目も混じっていた。
「おっどろいた、あの人、今日みたいな日でも意地でも外でゴハン食べる気だよ……」
テナントの階段は濡れていた。
室内は暖房が効いていても、廊下や階段は身震いするほど寒い。お昼を外で食べるらしい社員さん達に混じりながら外に出ると、痛い位に冷たい雨が降っていた。
昼休みは1時間。
すぐそこにコンビニがあった。
無料の求人誌がいつも置いてある。今週の号を、わたしはまだ読んでいなかった。
イートインのコーナーで熱いコーヒーでも飲みながら、職探しをするのは、とても良い考えだとわたしは思った。
「はふ」
吸い込んだ息のせいで気管がやられそうだ。空気は恐ろしいほどに冷えていた。その冷気を纏いながら温かなコンビニに転がり込み、早速無料の求人誌を三冊手に取った。
既に行列ができていたレジにならび、熱いブラックコーヒーを手に入れて、ぎゅうぎゅうに込み合って煙草臭い、イートインコーナーに割り込む。
恥も外聞もない。左にはどこぞの会社の営業マンとおぼしき脂っこい男性、右にはだらしない恰好をしてスマホをいじりまくるニート風の女が足を開いて座っていた。その間に、窮屈そうに丸椅子が空いていて、わたしは迷わずそこに自分の体を押し込んだのだ。
「……」
おじさんは申し訳程度に体をずらしてくれたが、ニート風の女の方は、つうんとこちらに背を向けてスマホをいじり続けている。開いた足は直してくれないので、嫌でもわたしの膝に当たった。
最悪な環境だけど、とにかくわたしは仕事探しに集中することにする。
自分の都合に合う日勤のアルバイト。
事務は無理だと思う。
工場内軽作業の募集を色々眺めているうちに、在宅ワークに心が大きく傾いた。
もちろん、お金は安い。
だから、コンビニの夜勤をもう一日か二日増やす。それは、土日祝日のどれかだ。それなら、優菜の英会話スクールはお休みだ。いける。頼めるだろう。
せっかくの休日に、沙織の相手をしてやれないのは寂しかったが、これが最もベストな方法かもしれない。これなら自分的にも納得できる。
そうしよう。それなら、あの厭らしい校正のアルバイトの雰囲気から逃げられる。
冷静に考えれば、とても貧弱な選択肢であるはずなのに、追い詰められた状況下で、わたしはその考えに縋りつこうとした。ぎゅうぎゅうと左右から押され、煙草臭いし、足は常にぶつかるし、落ち着いてコーヒーも飲めやしない。おまけに、もうあと少ししたら、またあの感じの悪い職場に戻らなくてはならないのだ。
「……たるちゃん」
自分の姿を、身近なひとに観察されていた時の仰天って、なかなかである。
求人誌を睨みつけ、片手にコーヒーを握りしめた状態で、わたしは背後にその声を聴いた。さらっと髪の毛が流れる音がして、覚えのある香りが漂う。恐る恐る振り向くと、スーツ姿の優菜が目を丸くしてわたしの手元を覗き込んでいた。
優菜の派遣先も、この近辺らしいことは知っていたが、まさかこんなところで出くわすとは。
優菜は笑っていない目でわたしの手元を見ると、ちらっと自分の腕時計を見た。その仕草はスマートで、こうやって見たら優菜は普通に綺麗なOLなのだ。
「帰ってから聞かせて」
と、優菜は微かな声で言うと、ぎこちなく笑った。
その笑顔がどこか悲しげだったので、わたしは何も言えずに頷くしかなかった。
昼休みの時間に、たった一人、コンビニで求人誌とにらめっこをしている状況。
しかも優菜は、わたしが校正のアルバイトで苦しんでいることを知っている。
辞めたいのに辞められないのはなぜか。
夜勤のコンビニアルバイトを増やせないのはなぜか。
優菜は一瞬でなにかを察したのだと思う。
ほっそりとしたスーツの優菜がコンビニを出てゆくのを見計らい、わたしも椅子を降りた。
そろそろ昼休みが終わろうとしている。また、あの空気を吸うのもしんどい職場に戻らなくてはならない。いっそのこと、このまま逃亡して梟荘に籠りたい位だ。
**
仕事が終わり、逃げるように梟荘に帰ったら、へとへとになっていた。
今日は夜のバイトがない日だ。カレンダーを見ると、12月20日のところに赤丸がついていた。沙織の終業式の日。この日から冬休みが始まる印だ。
けやきさんのうちには、優しいお姉ちゃん達がいるし、みんな、沙織を可愛がってくれるだろう。実は何回か、沙織はけやき家にお邪魔したことがある。わたしの届け物に同行して、お座敷にあがってお茶を戴いたのだ。
「冬休みはけやきさんちだよ」
と言ったら、沙織は別に嫌な顔もせずに、うんわかった、と答えた。
(仕事を辞めたら、けやきさんちに沙織を預ける口実がなくなるなあ……)
校正バイトを辞めた暁には、けやきさんにもその旨を報告せねばならないが、多分けやきさんなら「そっか、わかったよ」で終わらせてくれる気がした。
完全無職になったとしても、家賃が振り込まれている限り、けやきさんは全てを大目に見てくれる。いや、もしかしたら家賃が滞ったとしても、けやきさんなら今すぐ出て行けとかは、言わないかもしれない。
自分の優柔不断やら、現実との折り合いがつかないやらで、冬休みを前に、わたしは宙ぶらりんな状態だった。
わたしの決意が色々な方向に影響を及ぼし、もしかしたら意図せず、誰かを振り回してしまうかもしれない。
きっとけやき家では今頃はもう、冬の間に沙織を預かる準備をしてくれているのに違いない。
梟荘は冷え冷えとしていた。
台所のストーブをつけて、お湯を沸かして暖を取った。無駄な暖房は使ってはいけないなあ、など、今更のようにわたしは考えた。
淹れたてのお湯で熱いコーヒーを飲んでいたら、廊下の黒電話が鳴った。
けやきさんだろうかと思い、急いで出てみたら、思いがけない人からだった。
「いつもお世話になっておりまして、本当にありがとうございます……」
県外に出稼ぎに出ている、沙織のママからだった。年末の挨拶かと思ったので、わたしも適当に、いえいえ、こちらこそです、などと言っておいた。
沙織のママはしかし、こんなことを言い出したのである。
「クリスマスから年始にかけて長期の休暇が取れましたので、そちらに戻ります。その期間だけでも、沙織と一緒に過ごすことができたらと」
知り合いが経営する旅館が、仕事を手伝うという条件付きで、休暇の間じゅう、無料で泊めてくれると言っており、沙織と一緒にそこで生活できるのです。新年の四日にわたしはまた、仕事に帰りますので、三日の日に沙織をまたお預けに伺います。
ほんの僅かな日々だけど、沙織とママが一緒に過ごすことができる。
とても良いことのはずなのに、わたしは何か、頭がかき回されるような、歯車が回り始めたかのような混乱を覚えていた。
けやきさんにも連絡しなくてはならない。
何だか、色々なことが一気に起こり始めているような気がする。
黒電話の受話器の向こう側で、沙織のママが一生懸命にお礼の言葉を述べているのを、わたしは愕然として聞いていた。
ああそうだ、わたしはきっと、恐れているんだ。ある日、こんなふうに唐突に、沙織のママが沙織を連れ帰ってしまって、二度と沙織と暮らすことがなくなる。沙織はきっと笑顔で幸せそうにママの手を握り、ママも何度もこちらに頭を下げて、感謝の限りを表現しながら、そして、二人は去ってゆくのだ。
「ただいまー、たるちゃん、雨が雪になって来たよー」
沙織が玄関を開いて無邪気に叫ぶ。ああ、沙織を迎えに行くのを忘れた、とわたしは唇を噛んだ。
ちょうどその時、ママからの電話は終わったばかりで、受話器はツーツーと虚しい音を響かせていた。
「あー、電話だ、誰からだったのー」
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ライト文芸
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主人公ワクは、十七歳のある日、大好きな父親と別れ、生まれ育った家から、期待に胸をふくらませて旅立ちます。その目的地は、遥かかなたにかすかに頭を覗かせている「山」の、その向こうにあると言われている楽園です。
山を目指して旅をするという生涯を通して、様々な人との出会いや交流、別れを経験する主人公。彼は果たして、山の向こうの楽園に無事たどり着くことができるのでしょうか。
旅は出会いと別れの繰り返し。それは人生そのものです。
ノスタルジックな世界観、童話風のほのぼのとしたストーリー展開の中に、人の温かさ、寂しさ、切なさを散りばめ、生きる意味とは何かを考えてみました。
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