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宝の山
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沙織ちゃんにどうかと思って。お古だけど、貰ってくれる?
例によって、何かのついでを装って梟荘を覗きに来てくださったけやきさんが、ものすごく大きくて重そうな紙袋を二つ、玄関に置いた。ああ、お古か、娘さんがいっぱいおられるもんなあ。わたしはほのぼのとしたけれど、すぐに全然ほのぼのできないことに気づいた。
パステルカラーのセーターや厚いズボン、愛らしい花柄のダッフルコート。
殴られたような顔をしていたかもしれない、わたしは。
けやきさんはニコニコとお古を差し出しながら、どう、嫌じゃなければ、と言った。
「もし沙織ちゃんの気に入らなかったら、捨ててね」
と、けやきさんは言うと、自宅に帰っていった。梟荘の前に停まっていたワゴンカーが音を立てて去ってゆく。玄関には、ひんやりとした空気とけやきさんの優しい匂いが残っていた。
しまった。ああ、申し訳ない。
わたしは時計を見る。四時前か。近所の安衣料品店で、子供用のものが売っていたと思う。
いつだってわたしは表面しか見ていない。見えているものだけでクルクルと悩んだり、安心したりしている。つくづく、自分の至らなさを思った。
沙織の持っている衣服。どれも、つんつるてんではなかったか。しかも、この寒空の下、今日はカーデガンを羽織っただけで出ていった。
集団登校の他の子たちは、何を着ていただろう。まだアノラックは大仰すぎるが、ウインドブレーカーかジャンパーくらいは着ていたに違いない。
そればかりか、沙織は淡い色合いのロンTを着ていたと思う。ボトムはハーフパンツだったかもしれない。靴下も、あの子は一体何足持っているんだろう。
気になったら、なにからなにまで心配になって来た。
靴。足のサイズはいくつだったか。多分小さくなったまま無理やりはいている。学校の内履きは一体どんなものを使っているんだろう。つま先に色がついたバレエシューズだった気がするけれど、今学期中、一度もうちに持ち帰っていない。さぞ汚れているのに違いない。
考えるときりがなくなってきた。
そうだ、沙織の髪の毛。前髪が伸びすぎていた。沙織はピンで留めていたけれど、他の女の子はお花やハートがついた、可愛いパッチンを使っているのではないか。同じ小学校の子たちを時々見かけるけれど、キャラクターのついたヘアゴムの子もいたと思う。
沙織が通う小学校は、女子のお洒落に大らかだ。中には親の趣味だろうけれど、カラーリングしている子もいたかもしれない。さすがに、そこまではしてやれないが、せめてきちんと髪の毛を揃えてやって、可愛いパッチンを買ってやらねば。
いやいや、もっと基本的な事はどうだろう。
玄関先に、けやき家の女子たちのお古が入ったバッグと取り残されながら、打ちのめされたようにわたしは立ち尽くしていた。
シャツは。パンツは。洗濯している限り、破れたり不潔だったりするものは使っていないが、サイズが小さくなっている可能性大だ。
ああそうだ、歯ブラシがもう広がっていなかったか。
沙織が梟荘に来てから、半年ほど経っている。
それまで、わたしが沙織のためにしてやったことと言えば、沙織の母親から渡されたお金を使って勉強部屋やベッドを整えてやったこととか、学校に挨拶に行ったこととか、運動会を弁当持参で見に行ったこととか。
あとは、毎日ごはんを食べさせたり、風呂の用意をしてやったり、それくらいかもしれない。
それで保護者気取りだったんだから、なんて間抜けかと思う。子供は、この一瞬も心身が成長し続けているということを、わたしは考えもしなかった。
とりあえず、玄関先でもらった紙袋をひっくり返し、内容物を確認した。
冬物の衣類がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。流石けやきさん、沙織のサイズをだいたい把握している。取り出して広げてみても、沙織の体にちょうど合うか、少し大きいか位だ。
大急ぎでわたしは頭の中に必要なものを書きだす。
冬用のパジャマを取り急ぎ二着。
靴下、パンツと長袖シャツ、ウインドブレーカー、歯磨き用ブラシ、髪の毛のパッチン止め。
ちょうど週末だから、明日は沙織を連れて靴屋に行って、サイズ合わせをしよう。それから、できれば床屋に連れて行って髪を揃えてもらう。
お金にゆとりがあるわけではなかったが、沙織の必需品を揃える位は、何とかなった。
沙織が帰ってくるまでに急げとばかり、一枚はおって財布を尻ポケットに突っ込んで外に出た。曇天が重苦しい。忍び寄るような寒さだ。なるほど、もうじき本格的な冬になるのに違いなかった。
(けやきさん、ありがとうございます)
気づかせてくれて。沙織について、取り返しのつかない後悔をしないで済むよう、ヒントを下さって、本当にありがとう。
歩いてニ十分のところに安い衣料品店がある。
ディスカウント品も売っているから、びっくりするほど安いものもある。愛用している店だが、そういえば今まで沙織のための買い物に来たことなんか一度もなかったな。
(結局、わたしは自分の事ばかり……)
ぎゅうぎゅうに品物が詰め込まれているような凄い店の中である。買い物かごが品物にぶつかりまくる。小さい店舗に詰め込めるだけ詰め込んだ感があるこの店は、どこか昭和のにおいがした。
子供服のコーナーで必死になって物色しているうちに、あれもこれもと止まらなくなった。ハンカチひとつ、ポケットティッシュひとつ、わたしは気を配ってやれていなかった。今まで沙織は、古臭いハンドタオルと保険の宣伝が印刷された、枚数の少なくなったティッシュを使っていたと思う。
「ご入学ですかー」
もりもりになった買い物かごをレジにどすんと置き、鼻息荒くしているわたしに、レジのおばあちゃんが高い声で言った。きっと今の時期、ちょっとでも安いうちにと学校用品を買い集める保護者が多いのだろう。なるほど、わたしくらいの年齢の女なら、小さい子が一人、二人いても不自然ではない。
沙織の母親と思われながら沙織のものを買うのは、なんだか切ない気がした。
そして、遠く離れたところに出稼ぎしなくてはいけない、沙織の母親の事を想った。多分、こういう細やかなことをとても気にして、毎日のように心配しているのに違いなかった。
(あー、申し訳ない……)
「いえー、そういうわけじゃないんですけど」
わたしは曖昧に笑った。おばあちゃんも、にこにこと笑った。それ以上会話は続かずに、無事にレジを済ませた。
店を出ると、ひううと身を切るような風が襲ってきて、思わず肩をすくめる。これはマズイ、きっと沙織は寒いだろう。
慌てて梟荘に帰ると、夕ご飯の支度もしないまま、お古でもらったばかりの分厚いカーデガンをわきに抱えてダッシュした。下校の時刻である。帰ってくる沙織を捕まえて、これを着せてやろう。そう思った。
**
下校は朝の集団登校と同じグループではない。
一年生は一年生同士、同じ方向同士集まって帰っている――と、沙織の学校で先生から聞かされている。
急ぎ足で学校に向っているうちに、小学生たちが賑やかに下校しているのと何度もすれ違った。二人だったり三人だったり。男の子たちは傘を振り回したり、ふざけながら歩いてゆく。女の子たちはお喋りしながら、ゆっくりと帰ってゆくのだった。
子供たちの装いを眺めて、今日自分が買いそろえた品物を思い出し、とりあえず、まあなんとか恰好がつきそうだなと安堵する。安いものばかり、そこにあるものを大急ぎで買ったけれど、この子供たちの中に入っても見劣りはしなさそうだ。
沙織は可愛い部類の子だと思う。磨けば子役になりそうな顔立ちだ。おまけに宿題も真面目にするし、テストの点も悪くはないから学校でクラスメイトに引けを取ってはいないだろう。
塾に通ったり、通信教育を取ったりしていなくても、沙織はそれなりにやれている。出来の良い子だ。
そうなのだ。
わたしは、沙織があまりにもスマートに振舞っているから、これで良いのだ、うまくいっていると思っていたのだ。見抜くことができていなかった。
授業参観のプリントを見せてくれず、当日になって学校を休んだことも、鳥頭のように忘れてしまっていた。
あ、沙織だ、間に合った、と見覚えのある白いカーデガンを見つけて走り寄ろうとして、わたしは急ブレーキをかけた。頭の中で警鐘が鳴り響き、反射的にブロック塀に身を隠した。
一年生と三年生の下校グループだろう。四人いる。三人がわいわいクソ生意気な顔をしてはしゃいで歩く後ろを、三歩くらい離れた位置で、沙織は歩いていた。
子供たちは身を潜めているわたしの前を通り過ぎようとしている。
得意そうに喋りまくっている三年生二人と、その子分みたいにちょこちょこ歩く一年生。知っている子もいる。そうだ、集団登校の三年生だ。
三人の子供の横顔は、小悪魔のように意地悪く見えた。つうんと、自分たち以外のものをはじくような空気を放ちながら、昨日見たキャラクターアニメの話で盛り上がっている。
目の前を通り過ぎる時、三年生の一人がこういうのが聞こえた。今時、デ〇ズニーランドに行ったこともないなんて信じられなーい。
そうしたら、残りの二人も合わせて、そーよねー、信じられなーい。きもーい。と、言った。
きもい。
茫然として、わたしはその嫌な単語が子供の口から無造作に放たれるのを聞いた。
きもい、キモチワルイ。人間が人間に対して使って良い言葉ではないと思う。けれど、ある種の人たちは平然とその言葉を使う。口と言うライフルに恐ろしい言葉の弾丸を詰め込んで、楽しそうに笑いながらそれを連射する。きもい、きもい、きもい。
(自分たちを普通と見なし、その勝手に作ったラインに到達していないものを異様と決める。そしてそれをキモイと言う)
人間はすごく狭い了見で色々なラインを設けて、勝手な理由を作って人を差別する。
こうやって拳を震わせるほど腹を立てているわたしでも、きっと、そういうことを日常的にしている。
パンクしそうな頭を持て余した。
きもいきもいと聞こえよがしに言われて、三歩離れた距離でそれをずっと聞きながら帰らなくてはならない沙織。
冗談ではなかった。そんなもん、これ以上聞き続ける必要はない。言うのは勝手だが、聞きたくないという気持ちも尊重されるべきではないか。
わたしは沸騰した心をオトナという蓋でどうにか押さえつけ、今にも通り過ぎようとする子羊みたいな沙織の腕を握った。
沙織は立ち止まり、静かな目でわたしを見上げた。その瞬間、わたしの中でなにかが弾けた。
「これから毎日、迎えに行く」
沙織のランドセルを取って、カーデガンを着せてやりながら、わたしは小さい声で言った。
ちらっとこちらを振り向いたけれど、別に気にする様子もなく、三人の子供たちはまた賑やかに騒ぎながら去っていった。カラフルなランドセルがどんどん遠ざかってゆく。
沙織は黙ってランドセルを受け取って背負い直した。
その表情が端正であるほど、わたしの心は引き裂かれていくようだった。こんな現実、誰が想像できただろう。
「もう学校行かなくていい」
と、歩きながら、ついにわたしが吐き出した。
「そういうわけには行かないでしょ」
沙織が幼い声で穏やかに反論して、耐えきれずわたしは鼻をすすった。
完全に立場が逆転した格好でわたしたちは梟荘にたどり着いた。ひんやりした家の中に入ると、全くいつもと変わらない様子で沙織が、部屋に入っていった。
その靴下の裏は真っ黒で、靴はつま先が割れており、おまけに泥に着けられてそのまま乾いたみたいな染みが残っていた。
すう、はあ、と息を何度も吸って吐く。
お古の紙袋を持って台所に入り、ストーブをつけてラジオの電源も入れた。
お湯をまだ沸かしていないことに気づいてヤカンをガスコンロにかける。ガスの炎を見ているうちに、少しずつ心がならされていった。
(今日見たことは、金輪際忘れまい。忘れてはなるまい)
これは、子供たちや学校を責めるためではなく、自分自身への戒めだ。あまりにも沙織を放置していたことへの謝罪だった。
ごめんごめん、悪かった、申し訳ない、沙織。ごめん。沙織のママ。
とりあえず、出来る範囲で下校時間には沙織を迎えに行こうと思う。
それから、もっと沙織のことを見てやるようにしようと思う。
とりあえずは、今日はオムレツとシチューを作ろうと思う。きっと、身体以上に心が凍れている、沙織のために、沙織の好きなものを作ろうと思う。
ポットにお湯を移し替えているうちに、出遅れた涙が熱く滲んだ。今まで沙織が見せてくれた愛くるしい笑顔ばかりが浮かんで、泣けて仕方がなかった。
(神様、どうか沙織をあまり虐めないでやって)
だけど、コーヒーを飲みながら、お古の衣服の名前を沙織用に書き直してゆく作業をしているうちに、涙は乾いた。
愛らしい衣服達には愛が込められている。けやきさんから、子供たちへの愛。あったかく過ごせるように、可愛らしく見えるように。
ふいにわたしは、遙か昔に、母に連れられてワゴンセールのセーターを買ってもらったことを思い出した。オレンジの猫ちゃんと、白いウサギちゃんのセーター、どっちにする?
季節が変わる毎に愛は積み重ねられるように、衣服が用意される。
ああ、これなんか沙織によく似合う。一着を取り出してほれぼれと眺めているところに、たるちゃーん、今日のおやつなに、と、沙織が宿題を持って台所にやってきた。
そして、テーブルに積まれた山のようなお古を見て、目をくりくりに見開いた。
「明日好きなの着な」
と、わたしが言うと、沙織はとびきりの笑顔を見せた。お古の山は、宝の山。
「お姫様みたい」と、沙織は両頬に手を当てて、そう言った。
例によって、何かのついでを装って梟荘を覗きに来てくださったけやきさんが、ものすごく大きくて重そうな紙袋を二つ、玄関に置いた。ああ、お古か、娘さんがいっぱいおられるもんなあ。わたしはほのぼのとしたけれど、すぐに全然ほのぼのできないことに気づいた。
パステルカラーのセーターや厚いズボン、愛らしい花柄のダッフルコート。
殴られたような顔をしていたかもしれない、わたしは。
けやきさんはニコニコとお古を差し出しながら、どう、嫌じゃなければ、と言った。
「もし沙織ちゃんの気に入らなかったら、捨ててね」
と、けやきさんは言うと、自宅に帰っていった。梟荘の前に停まっていたワゴンカーが音を立てて去ってゆく。玄関には、ひんやりとした空気とけやきさんの優しい匂いが残っていた。
しまった。ああ、申し訳ない。
わたしは時計を見る。四時前か。近所の安衣料品店で、子供用のものが売っていたと思う。
いつだってわたしは表面しか見ていない。見えているものだけでクルクルと悩んだり、安心したりしている。つくづく、自分の至らなさを思った。
沙織の持っている衣服。どれも、つんつるてんではなかったか。しかも、この寒空の下、今日はカーデガンを羽織っただけで出ていった。
集団登校の他の子たちは、何を着ていただろう。まだアノラックは大仰すぎるが、ウインドブレーカーかジャンパーくらいは着ていたに違いない。
そればかりか、沙織は淡い色合いのロンTを着ていたと思う。ボトムはハーフパンツだったかもしれない。靴下も、あの子は一体何足持っているんだろう。
気になったら、なにからなにまで心配になって来た。
靴。足のサイズはいくつだったか。多分小さくなったまま無理やりはいている。学校の内履きは一体どんなものを使っているんだろう。つま先に色がついたバレエシューズだった気がするけれど、今学期中、一度もうちに持ち帰っていない。さぞ汚れているのに違いない。
考えるときりがなくなってきた。
そうだ、沙織の髪の毛。前髪が伸びすぎていた。沙織はピンで留めていたけれど、他の女の子はお花やハートがついた、可愛いパッチンを使っているのではないか。同じ小学校の子たちを時々見かけるけれど、キャラクターのついたヘアゴムの子もいたと思う。
沙織が通う小学校は、女子のお洒落に大らかだ。中には親の趣味だろうけれど、カラーリングしている子もいたかもしれない。さすがに、そこまではしてやれないが、せめてきちんと髪の毛を揃えてやって、可愛いパッチンを買ってやらねば。
いやいや、もっと基本的な事はどうだろう。
玄関先に、けやき家の女子たちのお古が入ったバッグと取り残されながら、打ちのめされたようにわたしは立ち尽くしていた。
シャツは。パンツは。洗濯している限り、破れたり不潔だったりするものは使っていないが、サイズが小さくなっている可能性大だ。
ああそうだ、歯ブラシがもう広がっていなかったか。
沙織が梟荘に来てから、半年ほど経っている。
それまで、わたしが沙織のためにしてやったことと言えば、沙織の母親から渡されたお金を使って勉強部屋やベッドを整えてやったこととか、学校に挨拶に行ったこととか、運動会を弁当持参で見に行ったこととか。
あとは、毎日ごはんを食べさせたり、風呂の用意をしてやったり、それくらいかもしれない。
それで保護者気取りだったんだから、なんて間抜けかと思う。子供は、この一瞬も心身が成長し続けているということを、わたしは考えもしなかった。
とりあえず、玄関先でもらった紙袋をひっくり返し、内容物を確認した。
冬物の衣類がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。流石けやきさん、沙織のサイズをだいたい把握している。取り出して広げてみても、沙織の体にちょうど合うか、少し大きいか位だ。
大急ぎでわたしは頭の中に必要なものを書きだす。
冬用のパジャマを取り急ぎ二着。
靴下、パンツと長袖シャツ、ウインドブレーカー、歯磨き用ブラシ、髪の毛のパッチン止め。
ちょうど週末だから、明日は沙織を連れて靴屋に行って、サイズ合わせをしよう。それから、できれば床屋に連れて行って髪を揃えてもらう。
お金にゆとりがあるわけではなかったが、沙織の必需品を揃える位は、何とかなった。
沙織が帰ってくるまでに急げとばかり、一枚はおって財布を尻ポケットに突っ込んで外に出た。曇天が重苦しい。忍び寄るような寒さだ。なるほど、もうじき本格的な冬になるのに違いなかった。
(けやきさん、ありがとうございます)
気づかせてくれて。沙織について、取り返しのつかない後悔をしないで済むよう、ヒントを下さって、本当にありがとう。
歩いてニ十分のところに安い衣料品店がある。
ディスカウント品も売っているから、びっくりするほど安いものもある。愛用している店だが、そういえば今まで沙織のための買い物に来たことなんか一度もなかったな。
(結局、わたしは自分の事ばかり……)
ぎゅうぎゅうに品物が詰め込まれているような凄い店の中である。買い物かごが品物にぶつかりまくる。小さい店舗に詰め込めるだけ詰め込んだ感があるこの店は、どこか昭和のにおいがした。
子供服のコーナーで必死になって物色しているうちに、あれもこれもと止まらなくなった。ハンカチひとつ、ポケットティッシュひとつ、わたしは気を配ってやれていなかった。今まで沙織は、古臭いハンドタオルと保険の宣伝が印刷された、枚数の少なくなったティッシュを使っていたと思う。
「ご入学ですかー」
もりもりになった買い物かごをレジにどすんと置き、鼻息荒くしているわたしに、レジのおばあちゃんが高い声で言った。きっと今の時期、ちょっとでも安いうちにと学校用品を買い集める保護者が多いのだろう。なるほど、わたしくらいの年齢の女なら、小さい子が一人、二人いても不自然ではない。
沙織の母親と思われながら沙織のものを買うのは、なんだか切ない気がした。
そして、遠く離れたところに出稼ぎしなくてはいけない、沙織の母親の事を想った。多分、こういう細やかなことをとても気にして、毎日のように心配しているのに違いなかった。
(あー、申し訳ない……)
「いえー、そういうわけじゃないんですけど」
わたしは曖昧に笑った。おばあちゃんも、にこにこと笑った。それ以上会話は続かずに、無事にレジを済ませた。
店を出ると、ひううと身を切るような風が襲ってきて、思わず肩をすくめる。これはマズイ、きっと沙織は寒いだろう。
慌てて梟荘に帰ると、夕ご飯の支度もしないまま、お古でもらったばかりの分厚いカーデガンをわきに抱えてダッシュした。下校の時刻である。帰ってくる沙織を捕まえて、これを着せてやろう。そう思った。
**
下校は朝の集団登校と同じグループではない。
一年生は一年生同士、同じ方向同士集まって帰っている――と、沙織の学校で先生から聞かされている。
急ぎ足で学校に向っているうちに、小学生たちが賑やかに下校しているのと何度もすれ違った。二人だったり三人だったり。男の子たちは傘を振り回したり、ふざけながら歩いてゆく。女の子たちはお喋りしながら、ゆっくりと帰ってゆくのだった。
子供たちの装いを眺めて、今日自分が買いそろえた品物を思い出し、とりあえず、まあなんとか恰好がつきそうだなと安堵する。安いものばかり、そこにあるものを大急ぎで買ったけれど、この子供たちの中に入っても見劣りはしなさそうだ。
沙織は可愛い部類の子だと思う。磨けば子役になりそうな顔立ちだ。おまけに宿題も真面目にするし、テストの点も悪くはないから学校でクラスメイトに引けを取ってはいないだろう。
塾に通ったり、通信教育を取ったりしていなくても、沙織はそれなりにやれている。出来の良い子だ。
そうなのだ。
わたしは、沙織があまりにもスマートに振舞っているから、これで良いのだ、うまくいっていると思っていたのだ。見抜くことができていなかった。
授業参観のプリントを見せてくれず、当日になって学校を休んだことも、鳥頭のように忘れてしまっていた。
あ、沙織だ、間に合った、と見覚えのある白いカーデガンを見つけて走り寄ろうとして、わたしは急ブレーキをかけた。頭の中で警鐘が鳴り響き、反射的にブロック塀に身を隠した。
一年生と三年生の下校グループだろう。四人いる。三人がわいわいクソ生意気な顔をしてはしゃいで歩く後ろを、三歩くらい離れた位置で、沙織は歩いていた。
子供たちは身を潜めているわたしの前を通り過ぎようとしている。
得意そうに喋りまくっている三年生二人と、その子分みたいにちょこちょこ歩く一年生。知っている子もいる。そうだ、集団登校の三年生だ。
三人の子供の横顔は、小悪魔のように意地悪く見えた。つうんと、自分たち以外のものをはじくような空気を放ちながら、昨日見たキャラクターアニメの話で盛り上がっている。
目の前を通り過ぎる時、三年生の一人がこういうのが聞こえた。今時、デ〇ズニーランドに行ったこともないなんて信じられなーい。
そうしたら、残りの二人も合わせて、そーよねー、信じられなーい。きもーい。と、言った。
きもい。
茫然として、わたしはその嫌な単語が子供の口から無造作に放たれるのを聞いた。
きもい、キモチワルイ。人間が人間に対して使って良い言葉ではないと思う。けれど、ある種の人たちは平然とその言葉を使う。口と言うライフルに恐ろしい言葉の弾丸を詰め込んで、楽しそうに笑いながらそれを連射する。きもい、きもい、きもい。
(自分たちを普通と見なし、その勝手に作ったラインに到達していないものを異様と決める。そしてそれをキモイと言う)
人間はすごく狭い了見で色々なラインを設けて、勝手な理由を作って人を差別する。
こうやって拳を震わせるほど腹を立てているわたしでも、きっと、そういうことを日常的にしている。
パンクしそうな頭を持て余した。
きもいきもいと聞こえよがしに言われて、三歩離れた距離でそれをずっと聞きながら帰らなくてはならない沙織。
冗談ではなかった。そんなもん、これ以上聞き続ける必要はない。言うのは勝手だが、聞きたくないという気持ちも尊重されるべきではないか。
わたしは沸騰した心をオトナという蓋でどうにか押さえつけ、今にも通り過ぎようとする子羊みたいな沙織の腕を握った。
沙織は立ち止まり、静かな目でわたしを見上げた。その瞬間、わたしの中でなにかが弾けた。
「これから毎日、迎えに行く」
沙織のランドセルを取って、カーデガンを着せてやりながら、わたしは小さい声で言った。
ちらっとこちらを振り向いたけれど、別に気にする様子もなく、三人の子供たちはまた賑やかに騒ぎながら去っていった。カラフルなランドセルがどんどん遠ざかってゆく。
沙織は黙ってランドセルを受け取って背負い直した。
その表情が端正であるほど、わたしの心は引き裂かれていくようだった。こんな現実、誰が想像できただろう。
「もう学校行かなくていい」
と、歩きながら、ついにわたしが吐き出した。
「そういうわけには行かないでしょ」
沙織が幼い声で穏やかに反論して、耐えきれずわたしは鼻をすすった。
完全に立場が逆転した格好でわたしたちは梟荘にたどり着いた。ひんやりした家の中に入ると、全くいつもと変わらない様子で沙織が、部屋に入っていった。
その靴下の裏は真っ黒で、靴はつま先が割れており、おまけに泥に着けられてそのまま乾いたみたいな染みが残っていた。
すう、はあ、と息を何度も吸って吐く。
お古の紙袋を持って台所に入り、ストーブをつけてラジオの電源も入れた。
お湯をまだ沸かしていないことに気づいてヤカンをガスコンロにかける。ガスの炎を見ているうちに、少しずつ心がならされていった。
(今日見たことは、金輪際忘れまい。忘れてはなるまい)
これは、子供たちや学校を責めるためではなく、自分自身への戒めだ。あまりにも沙織を放置していたことへの謝罪だった。
ごめんごめん、悪かった、申し訳ない、沙織。ごめん。沙織のママ。
とりあえず、出来る範囲で下校時間には沙織を迎えに行こうと思う。
それから、もっと沙織のことを見てやるようにしようと思う。
とりあえずは、今日はオムレツとシチューを作ろうと思う。きっと、身体以上に心が凍れている、沙織のために、沙織の好きなものを作ろうと思う。
ポットにお湯を移し替えているうちに、出遅れた涙が熱く滲んだ。今まで沙織が見せてくれた愛くるしい笑顔ばかりが浮かんで、泣けて仕方がなかった。
(神様、どうか沙織をあまり虐めないでやって)
だけど、コーヒーを飲みながら、お古の衣服の名前を沙織用に書き直してゆく作業をしているうちに、涙は乾いた。
愛らしい衣服達には愛が込められている。けやきさんから、子供たちへの愛。あったかく過ごせるように、可愛らしく見えるように。
ふいにわたしは、遙か昔に、母に連れられてワゴンセールのセーターを買ってもらったことを思い出した。オレンジの猫ちゃんと、白いウサギちゃんのセーター、どっちにする?
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ああ、これなんか沙織によく似合う。一着を取り出してほれぼれと眺めているところに、たるちゃーん、今日のおやつなに、と、沙織が宿題を持って台所にやってきた。
そして、テーブルに積まれた山のようなお古を見て、目をくりくりに見開いた。
「明日好きなの着な」
と、わたしが言うと、沙織はとびきりの笑顔を見せた。お古の山は、宝の山。
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