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 めっきり寒くなった。
 梟荘の裏庭には何本か庭木が植えてある。綺麗に紅葉で、座敷の縁側から眺めれば、ちょっと贅沢だ。
 
 (落ち葉そうじしなくちゃなあ)

 朝の空気は痺れるほど冷たい。開け放たれた障子戸から座敷に、開いた襖から梟荘の廊下へと、綺麗な空気は流れる。
 この梟荘の昭和昭和した感じは、温かみがあった。
 もちろん適度に近代化している。長い廊下には明かり取りの窓がついていたから、お洒落なアパート等によくあるような、昼間でも電気をつけなくては真っ暗、ということはなかった。
 お台所にはテーブルがあって、食器棚も据え付けられている。流しの高さも丁度良かった。なにより有難いのは、ガスコンロがあることだ。
 
 昔から、わたしはガスで料理してきた。
 母は工場の夜勤で家を留守にしがちだったし、小学校の頃から料理はだいたいわたしの役目だった。
 あの、かちっと回してボッと青い炎がつく瞬間が良い。一日の始まりにお湯を沸かす時に、あの青い炎を見ると、すっと心が指定の位置に落ち着く気がする。

 夜は夢を見ても、朝起きてから夢心地でいる余裕などない。進め進め。日々なにかしら戦いがある。生きろ生きろ。
 ガスを使うと、日々の戦いに挑んでいるように思えてくる。

 空気の入れ替えをしつつ、軽く掃除機をかける。
 お座敷を綺麗にしてから廊下にも掃除機を繰り出す。ずらっと並ぶ部屋は三つ。おかしなことに、梟荘の個室は、まるであつらえたかのように、わたしたちの人数分あるのだった。
 残り二名はまだ夢の中か。もう三十分もすればご飯も炊けるし、その頃には朝食の支度も整うだろう。今日は平日だし、いいかげん起きてもらわないと。
 なにしろ、わたしにも都合がある。
 梟荘の中にまだ誰か残したまま出かけるのは、なにか気がかりだ。まるで忘れ物をしたような気分になるから、やっぱり最後の一人は自分がいい。かちっと梟荘の鍵をしめて、ポストの中にそれを隠してから、さあ行くぞと出かける。
 そうでなくては、心配事を一つ、取り残したみたいになる。

 ずうん。
 お掃除は順調に進む。
 コード式の掃除機は、時々コードがひっかかったり、掃除機の本体が壁にぶつかったりして、ガコンガコン派手な音を立てる。

 部屋の中にも伝わらないはずはないのに、みんなよく寝ていられるなあと思う。

 台所にも掃除機をかけて、終了。
 冷え冷えとした空気が家中に染みわたり、気持ちが良い。ふうを息を吐くと、毬みたいな白が廊下に溶けた。
 
 寝ぼけて起きてくる連中にも、良い目覚ましになるのではないか。
 掃除機を片づけてから台所の玉暖簾をかきわける。お湯はもう沸かしてあるし、炊飯器はしゅーしゅー音を立てていた。
 目玉焼きとお味噌汁の作成に取り掛かる。ついでに夜のごはんの下ごしらえもしておこう。冷凍庫の中には鶏肉があった。筑前煮でもしようか。

 凍った鶏肉をテーブルに置いた時、がたんと音がした。
 誰かが部屋から出て来たらしい。時計を見ると、いつもよりも十分ほど早い。今日は早起きだなと思いながら味噌汁用の鍋に煮干しを入れていると、じゃらじゃら玉暖簾をくぐって優菜が入って来た。

 髪の毛ぼさぼさ。ピンクのスエットを着て、ぼうっとしている。入ってくるなり、たるちゃん寒いよと文句を言った。

 「座敷の戸を全開にしてあるから」
 と言ったら、ええー、と非難の声があがった。

 あまりにもガタガタ寒そうにしているから、ほうじ茶を出してあげた。

 サンリオ柄のマグカップは湯気を立てている。ありがとー、と言いながら両手でそれを包み込んで、ふうふうと飲み始めた。そんなに寒いかね。

 従姉妹の優菜28歳。
 つい先月、家出して梟荘に転がり込んできた。
 家出と言っても28歳の女のことだ。実家のほうも、家出先が梟荘だということを知っていて、呆れながらも「悪いね、よろしく」と言っている。
 いいかげん、結婚して子供でも生んでしまえば親御さんも安心なさるだろうに。

 その、甘ったれ世間知らずの優菜が、今朝に限って早起きして、わたしに何の用だろう。
 味噌汁に、冷凍オクラとお豆腐を入れる。さっと味噌を溶き入れて完成。
 フライパンに油を流して卵を割り入れて。じゅわーっといい音が台所に響いた。

 優菜は立ったままお茶を飲んでいた。
 なんか言いたそうだなと思っていたら、「あのさー」と言ってきた。
 「たるちゃん知ってる。沙織のこと」

 ん、と手を止めた。
 蓋をしたフライパンはじゅうじゅうばんばん賑やかに騒いでいる。
 振り向いたら、優菜は鼻の上に皺を寄せて前髪をかき上げていた。だらだらのスエットの襟元から覗く鎖骨が薄く影を作る。
 もったいないな、綺麗なのに。

 ふとした拍子に、優菜の女っぽさが見える。そんな瞬間、いつもわたしは、今優菜が置かれている状況を想う。そして惜しむ。なんて勿体ないんだろうかと。

 「沙織がどうしたって」
 と、聞き返した時、ぱたぱたスリッパの音が近づいてきて、ひょこんと台所に小さい沙織が顔を出した。
 プリンセス柄のパジャマを着て、髪の毛を三つ編みにして。
 
 生真面目な黒い目に、思い詰めたような光をたぎらせて、沙織はわたしたちの前に姿を現した。
 優菜は言いかけた言葉をお茶と一緒に飲み込んで、わたしに目くばせした。
 じゅー、ぽんぽんぽんっ。
 フライパンでは卵の白身が破裂している。

 「たるちゃん」
 と、沙織はわたしの名を呼んだ。

 「今日、学校休む」

**

 優菜は、「ほらね」という顔つきでわたしに流し目を送った。
 わたしは無言でガスコンロの火を消すと、テーブルを回って沙織の前に来た。しゃがんでやると、やっと目線が同じになる。

 沙織の、小さい顎。
 寝乱れた前髪を気にもせず、沙織はぐっと口をへの字に曲げた。今にも泣きそうな顔だけど、泣いていない声で、もう一度、沙織は言った。

 「学校、休ませて。たるちゃんが電話して」

 小さい拳はぶるぶる震えているし、パジャマに包まれた足は踏ん張っている。
 沙織は全身を緊張させていた。

 「まあ、ごはんでも」
    

 と、とりなすように優菜が言った。マグカップを置いて、あたふたとテーブルに食器を並べている。たるちゃんごはんよそっていーい、と聞いてくるので、いいよ、と答えた。
 クルックー、クルックー。
 廊下の鳩時計が時刻を告げていた。かちっと、優菜が台所の小さいテレビの電源を入れる。とたんに、朝の番組が賑やかに始まった。

 沙織はいよいよ追い詰められたような目をしている。

 携帯電話を取り出しながら、今日のバイト料の事を考える。あーあ、参ったなー、ちっくしょう。一度に色々なことを思った。
 そもそも、どうしてわたしはこんな厄介な状況に立たされているのか、ということや、いきなりプッツンして上京した、うちの母親のこととか。
 ほんの数秒の間に、ぐるぐる一気に考えて、結局いつものように、ああ、つまりは自業自得だ、なるべくしてなった状況だ、というところに思考が落ち着いた。

 すっと息を吸い込んでから、沙織の頭に手を置いた。
 「いいよ、わかった」
 と、わたしが言うと、沙織は大きく息をついた。
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