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第二部 外からの誘い
その6 三階にいる
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激痛が下腹部を走り、生ぬるいものが大量にしたたり落ちる。
(イナクナレバイイ)
そう思っていたはずなのに。ただの厄介な異物であり、今後の心配しかなかったはずなのに。
(イナクナレバイイ)
「残念ですが、赤ちゃんは・・・・・・」
(ああ、違う違う違う)
マスクをした医師。掻把の手術。天井の眩しいランプ。
おなかに宿っていたのは、おぞましい前夫との不本意な行為の結果であり、それを生むことも育てることも、どうしても喜べなかった。
激しい悪阻や体調不良は、下腹部に宿った異物の自己主張であり、これでもかと追い詰めるように、忘れたいことを思い出させた。だから、由紀子はほとんど憎悪していた。
宿った、小さな生命を。
(イナクナレバイイ)
(ああ、違う違う)
(イナクナレバイイ)
(違う、違うの、違う違う)
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
その後悔も懺悔も、空を漂い当てがない。由紀子の胎内のゆりかごには、もう何も存在しない。
**
どの子も平等に、抱きしめられるために、生まれてくるというのに。
**
目が覚めた時、由紀子は泣きじゃくりの最中だった。ひくひくと嗚咽しながら、夜の寝室に気づいた。今、自分はあたたかなベッドで休んでおり、隣室には妹と妹の幼い娘が眠っていることを、後から追いつくように思い出した。
暖房が効いた部屋は、パジャマでも十分にあたたかだった。
ふかふかとした絨毯に素足を降ろすと、サイドテーブルに置いておいた水差しからコップに注いで飲んだ。ぬるい水は、由紀子の喉を通り過ぎ、悪夢を遠のかせた。
叫び声のようなものが聞こえた。
はっと、由紀子はコップを落とした。コップは足音に転がり、飲みかけの水が絨毯に染みた。
(そうだ、声を聞いて夢から醒めたんだ)
悪夢にうなされる由紀子だったが、叫び声を聞いて現実に戻ったのだ。
また、叫び声が聞こえた。ばたばたと廊下を走り回る音を聞き、由紀子は慌てて寝室から飛び出した。仄かな足下照明が穏やかだ。
奈津子が走り回っている、叫びながら。由紀子は胸騒ぎを覚えた。
香代美に、なにかが起きたのか。
「姉ちゃん、姉ちゃん」
悲鳴をあげながら奈津子がこちらに呼びかけた。二階のどん詰まり、階段室の前で激しく手招きをしている。それを見て、由紀子は、自分の不安が的中したことを感じた。
階段室の扉が半開きになっている。
「香代美ちゃんに何かあったの」
「姉ちゃん、あの子、こっから上に行ったみたい」
奈津子は階段室の中を指さしている。暗がりでも分かるほど、青ざめていた。
はっと目覚めたら、隣で寝ていたはずの香代美が消えていた。さっきから藪家荘の一階や二階を探し回っていたが、階段室の扉が開いているのを今見つけた。恐らく、香代美は三階に行ったのだ――奈津子は今にも階段室に飛び込みそうだった。
落ち着きなさい、と、由紀子は奈津子の肩を掴んだ。
階段室は暗黒の闇だ。しかも、急な角度だった。照明もつけずに上まで行くのは危険すぎる。
由紀子は奈津子を押しのけると、階段室の入り口の壁を手探りし、照明のスイッチを見つけた。ぱちんと音を立てて、陰気な濃いオレンジの照明が落ちた。塔のような造りの階段室は、昼間より更に謎めき、人をよせつけないように思われた。
由紀子は耳を澄ましてみた。
ことりとも、音はしない。もし、人が上に上っているならば、何らかの音が聞こえるはずだ。しかし今、階段室は不気味なほど静かである。
「きい、き」
・・・・・・聞こえた。
ふと見ると、奈津子が目を大きく見開いていた。それで、由紀子は、このゆりかごの音を、奈津子も聴き分けているのだと思った。
「ねえ奈津子、あんたにも聞こえる」
由紀子が言いかけた時、奈津子は唐突に階段室から通路に走り出て、「香代美っ、あんたって子は」と、怒鳴った。
奈津子の叫び声は藪家荘じゅうに反響し、わんわんと跳ね返るようだった。
ぱちん、と、ほっぺたを叩く音が聞こえたかと思ったら、うわんと泣きじゃくる香代美の声がした。
由紀子が通路に出て来た時、しゃがみこんだ奈津子がパジャマ姿の香代美を抱きしめていた。香代美はわんわん泣きじゃくっており、何を言っているか分からなかった。スリッパもはかない素足は寒そうだった。
由紀子は階段室を振り向いた。
「きいきいきい」
やはり、まだ鳴り続けている。ゆりかごの軋みは、いつもより激しく聞こえる。
その音は、通路に居てもはっきり聞こえるほどだった。
奈津子は香代美を見つけたことで興奮し、外のことなど眼中にないのだろう。
由紀子は階段室の照明を落とした。そして、香代美を叱り続ける奈津子を促し、とりあえずは温かな寝室に戻した。
わんわん泣きながら手を引かれて歩く香代美は、なにかを手に持っていた。
なんだろう、と、由紀子はよほど足を止めさせて確認しようかと思ったが、奈津子があまりにも興奮しているので、引き留められなかった。
「トイレならお部屋にあるでしょう。心配させるようなことばかりしてっ」
奈津子は言いながら、客室を開き、香代美を中に押し入れた。そして、由紀子を振り向き、申し訳なさそうな顔をした。
ごめんなさい、真夜中に。
奈津子が柄にもなくしおらしく謝るので、由紀子は苦笑した。
「そんなことより、香代美ちゃんを見てあげて。どこまで行ったんだろうね、怪我とかしていない、暗い中を歩いたんだろうから」
由紀子は言い、自分もするっと奈津子たちの客室に紛れ込んだ。部屋は暖かく、仄かな照明に照らされて、快適だった。さっきまで母子が寝ていたベッドは、一部分がくぼみ、包布がめくれている。スリッパが置き去りにされているのに気づき、由紀子は奈津子の足元を見た。香代美が素足であるのと同じように、奈津子も裸足で走り回ったらしかった。
ベッドに香代美を座らせ、体のあちこちを調べている奈津子の様子を、由紀子は無表情に眺めた。
香代美は泣きじゃくっており、奈津子はまだ怒りながら、必死になって奈津子の体を調べていた。
(親子・・・・・・)
**
(イナクナレバイイ)
(いいえ、ずっといて。ここにいて。戻って来て。待ってるから)
待っているから。このゆりかごは、あなたのために、ずっと空けてあるのだから。
「ママ。マ、マ」
ママといたい。ママといたいの。ママ、ママ。
**
「姉ちゃん、これ」
奈津子に声をかけられて、由紀子は我に返った。
悪夢の続きを見ているような浮遊感を未だ抱きながら、由紀子は奈津子を見た。奈津子は青い顔をして、手に持ったものを由紀子に差し出している。
プリンだった。
昼間、スーパーで買ったプリンアラモード。一つだけ残っていたものだ。
「香代美、下の台所まで行って、冷蔵庫からこれ出してきたんだって」
そう言うと、奈津子は眉間にしわを寄せて、ベッドに座る香代美を振り返った。香代美は目を真っ赤に泣きはらし、まだしゃくりあげている。
由紀子はそっとプリンを受け取ると、香代美の側に来て絨毯に膝をついた。俯く香代美を覗き込み、静かに、どうしてプリンが欲しかったの、と問いかけた。
「おなかが空いたの」
と、由紀子が優しく聞くと、香代美は顔を上げた。澄んだ瞳だった。
「違うよ」
香代美ははっきりと言った。
「まだ自分だけプリンを貰っていない、頂戴って言われたから、持って行ってあげようと思ったの」
またそんなこと言ってぇ――奈津子が悲壮な声で呟き、頭を抱えている。
由紀子はチラッと奈津子の様子を眺めてから、もう一度香代美を見つめた。嘘をついている目ではなかった。
「あなただけプリン貰ってずるい、羨ましいって、本当に悲しそうだったから」
香代美は言葉を付け足した。そして、気がかりそうに母親のほうを盗み見た。香代美なりに、母の顔色を伺っているらしかった。
「その子は、香代美ちゃんが寝ている側まで来て、プリンの事を言ったの」
と、由紀子は静かに優しく問いかけた。
香代美はそうだとも違うとも言わなかった。言葉に詰まり、困惑したように視線をさ迷わせている。夢でも見たのか。耳元で幻聴めいたものを聞いたか。幼い香代美は、自分の身に起きた現象を表現する術を持たない。
由紀子は話を切り替えた。
「プリンをあげれば、その子は満足するのかしら」
香代美は少し考えてから「満足ってなに」と言った。由紀子は辛抱強く「プリン貰ったらもう、香代美ちゃんの事をずるいって言わないかな」と、言葉を変えた。
香代美は首をかしげていたが、やがてぽつりと言った。
「どうだろう。わからない。けれど、今欲しいんだって。明日じゃ嫌なんだって。そう言ってた」
**
姉ちゃんだけお菓子食べてずるいずるい、なっちゃんも食べたかった。
由紀子の脳裏には、自分と奈津子が幼かった日々を思い出している。そうだ、子供はそういうものだ。たとえ、自分の分を残して置いてもらっていても、先に家族みんなでおやつを食べてしまっていると判ったら、駄々をこねたくなる。
奈津子が昼寝をしている間、由紀子が先におやつを食べてしまったことがあった。奈津子の分のおやつは残っており、「これ食べなよ」と勧めているのにも関わらず、昼寝から醒めた奈津子はなきわめき、しばらく機嫌が戻らなかった。
そんなことが、あった。
きい、き。きい、きい。
ゆりかごは訴えている。
香代美は悩まし気に、由紀子が持つプリンを眺めた。
わかった、おばちゃんが持って行ってあげるよ、と、由紀子は言い、立ち上がった。
「三階にいるんだよね」
と、由紀子は念を押すように言った。香代美はうん、と、頷いた。
**
「姉ちゃん」
プリンを持ち、通路に出た由紀子を追って、奈津子が飛び出した。
「待って、今こんな夜中だし、あのこ、いつものアレが出てるだけだから、ほんとに構わないで。休んで」
由紀子は軽く首を横に振った。
「プリンの賞味期限、近いのよ」
そう言った由紀子に、奈津子はけげんな顔をした。
「まさか本当に誰かが三階にいるわけじゃないんでしょう」
奈津子は解せないというふうだ。当然だろう、と、由紀子は思った。
「三階に置いてくるだけよ、これを」
由紀子はプリンアラモードのカップを奈津子にちらつかせた。
「明日、明るくなってから、また取りに行くわ。とにかく今、これを三階に置いて来れば、それで香代美ちゃんが納得して休んでくれるんだから、いいじゃない」
**
奈津子たちの寝室から、ぶつぶつと未だ子供を叱る声が漏れ聞こえるのを背中で感じながら、由紀子は歩いた。
そして、さっき入ったばかりの階段室の扉を開き、改めて照明をつけた。しいんとした階段室はやはり不気味だった。
きい、き。
ゆりかごが、呼んでいる。
由紀子はそっと、急ならせん状の階段を上り始めた。手すりを掴み、一歩一歩、足元を確認しながら。
古い手すりは埃が被っており、全体的に階段室は饐えた匂いがした。
上へ、上へ。
きいきい。
ゆりかごが鳴り続けている。由紀子はついに三階まで登り切った。そこは狭苦しいフロアになっており、階段の正面から少し外れた場所に、ごく小さな木の扉があった。
他に部屋らしいものが見当たらないのを確認してから、由紀子はそっと、扉のノブを握った。
錆びている。
扉は粘っこく重たかった。押しても動かなかったが、引いたら嫌な音を立てて扉は動いた。恐らく部屋になっているそこは、暗黒の闇の中に沈み、今はなにも見えない。凄まじいまでの埃っぽさや、空気が籠って独特の臭いを放っているのが、たまらなく苦痛だった。
足を踏み入れるのがためらわれたので、由紀子は部屋の入口にプリンを置いた。
それから無言で扉をしめ、階段を降りかけた。
きい。
今までになく近い場所でその音を聞いた。由紀子は思わず振り向いた。扉は沈黙している。
ごんごんと打ち鳴らすように心臓が不穏に走っていた。
手すりにしがみつくようにして、階段を降りた。体が妙に強張り、何度か階段を踏み外しかけた。
やっとのことで二階までたどり着き、階段室から通路に出た瞬間、由紀子は走り出していた。ばたばたと走り、奈津子たちの寝室の前を通り過ぎ、自室に飛び込んだ。
「はあ、はあっ」
喘鳴をあげながら、由紀子はベッドに倒れ込んだ。
そのまま、気を失うように、眠りに沈んだ。
(イナクナレバイイ)
そう思っていたはずなのに。ただの厄介な異物であり、今後の心配しかなかったはずなのに。
(イナクナレバイイ)
「残念ですが、赤ちゃんは・・・・・・」
(ああ、違う違う違う)
マスクをした医師。掻把の手術。天井の眩しいランプ。
おなかに宿っていたのは、おぞましい前夫との不本意な行為の結果であり、それを生むことも育てることも、どうしても喜べなかった。
激しい悪阻や体調不良は、下腹部に宿った異物の自己主張であり、これでもかと追い詰めるように、忘れたいことを思い出させた。だから、由紀子はほとんど憎悪していた。
宿った、小さな生命を。
(イナクナレバイイ)
(ああ、違う違う)
(イナクナレバイイ)
(違う、違うの、違う違う)
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
その後悔も懺悔も、空を漂い当てがない。由紀子の胎内のゆりかごには、もう何も存在しない。
**
どの子も平等に、抱きしめられるために、生まれてくるというのに。
**
目が覚めた時、由紀子は泣きじゃくりの最中だった。ひくひくと嗚咽しながら、夜の寝室に気づいた。今、自分はあたたかなベッドで休んでおり、隣室には妹と妹の幼い娘が眠っていることを、後から追いつくように思い出した。
暖房が効いた部屋は、パジャマでも十分にあたたかだった。
ふかふかとした絨毯に素足を降ろすと、サイドテーブルに置いておいた水差しからコップに注いで飲んだ。ぬるい水は、由紀子の喉を通り過ぎ、悪夢を遠のかせた。
叫び声のようなものが聞こえた。
はっと、由紀子はコップを落とした。コップは足音に転がり、飲みかけの水が絨毯に染みた。
(そうだ、声を聞いて夢から醒めたんだ)
悪夢にうなされる由紀子だったが、叫び声を聞いて現実に戻ったのだ。
また、叫び声が聞こえた。ばたばたと廊下を走り回る音を聞き、由紀子は慌てて寝室から飛び出した。仄かな足下照明が穏やかだ。
奈津子が走り回っている、叫びながら。由紀子は胸騒ぎを覚えた。
香代美に、なにかが起きたのか。
「姉ちゃん、姉ちゃん」
悲鳴をあげながら奈津子がこちらに呼びかけた。二階のどん詰まり、階段室の前で激しく手招きをしている。それを見て、由紀子は、自分の不安が的中したことを感じた。
階段室の扉が半開きになっている。
「香代美ちゃんに何かあったの」
「姉ちゃん、あの子、こっから上に行ったみたい」
奈津子は階段室の中を指さしている。暗がりでも分かるほど、青ざめていた。
はっと目覚めたら、隣で寝ていたはずの香代美が消えていた。さっきから藪家荘の一階や二階を探し回っていたが、階段室の扉が開いているのを今見つけた。恐らく、香代美は三階に行ったのだ――奈津子は今にも階段室に飛び込みそうだった。
落ち着きなさい、と、由紀子は奈津子の肩を掴んだ。
階段室は暗黒の闇だ。しかも、急な角度だった。照明もつけずに上まで行くのは危険すぎる。
由紀子は奈津子を押しのけると、階段室の入り口の壁を手探りし、照明のスイッチを見つけた。ぱちんと音を立てて、陰気な濃いオレンジの照明が落ちた。塔のような造りの階段室は、昼間より更に謎めき、人をよせつけないように思われた。
由紀子は耳を澄ましてみた。
ことりとも、音はしない。もし、人が上に上っているならば、何らかの音が聞こえるはずだ。しかし今、階段室は不気味なほど静かである。
「きい、き」
・・・・・・聞こえた。
ふと見ると、奈津子が目を大きく見開いていた。それで、由紀子は、このゆりかごの音を、奈津子も聴き分けているのだと思った。
「ねえ奈津子、あんたにも聞こえる」
由紀子が言いかけた時、奈津子は唐突に階段室から通路に走り出て、「香代美っ、あんたって子は」と、怒鳴った。
奈津子の叫び声は藪家荘じゅうに反響し、わんわんと跳ね返るようだった。
ぱちん、と、ほっぺたを叩く音が聞こえたかと思ったら、うわんと泣きじゃくる香代美の声がした。
由紀子が通路に出て来た時、しゃがみこんだ奈津子がパジャマ姿の香代美を抱きしめていた。香代美はわんわん泣きじゃくっており、何を言っているか分からなかった。スリッパもはかない素足は寒そうだった。
由紀子は階段室を振り向いた。
「きいきいきい」
やはり、まだ鳴り続けている。ゆりかごの軋みは、いつもより激しく聞こえる。
その音は、通路に居てもはっきり聞こえるほどだった。
奈津子は香代美を見つけたことで興奮し、外のことなど眼中にないのだろう。
由紀子は階段室の照明を落とした。そして、香代美を叱り続ける奈津子を促し、とりあえずは温かな寝室に戻した。
わんわん泣きながら手を引かれて歩く香代美は、なにかを手に持っていた。
なんだろう、と、由紀子はよほど足を止めさせて確認しようかと思ったが、奈津子があまりにも興奮しているので、引き留められなかった。
「トイレならお部屋にあるでしょう。心配させるようなことばかりしてっ」
奈津子は言いながら、客室を開き、香代美を中に押し入れた。そして、由紀子を振り向き、申し訳なさそうな顔をした。
ごめんなさい、真夜中に。
奈津子が柄にもなくしおらしく謝るので、由紀子は苦笑した。
「そんなことより、香代美ちゃんを見てあげて。どこまで行ったんだろうね、怪我とかしていない、暗い中を歩いたんだろうから」
由紀子は言い、自分もするっと奈津子たちの客室に紛れ込んだ。部屋は暖かく、仄かな照明に照らされて、快適だった。さっきまで母子が寝ていたベッドは、一部分がくぼみ、包布がめくれている。スリッパが置き去りにされているのに気づき、由紀子は奈津子の足元を見た。香代美が素足であるのと同じように、奈津子も裸足で走り回ったらしかった。
ベッドに香代美を座らせ、体のあちこちを調べている奈津子の様子を、由紀子は無表情に眺めた。
香代美は泣きじゃくっており、奈津子はまだ怒りながら、必死になって奈津子の体を調べていた。
(親子・・・・・・)
**
(イナクナレバイイ)
(いいえ、ずっといて。ここにいて。戻って来て。待ってるから)
待っているから。このゆりかごは、あなたのために、ずっと空けてあるのだから。
「ママ。マ、マ」
ママといたい。ママといたいの。ママ、ママ。
**
「姉ちゃん、これ」
奈津子に声をかけられて、由紀子は我に返った。
悪夢の続きを見ているような浮遊感を未だ抱きながら、由紀子は奈津子を見た。奈津子は青い顔をして、手に持ったものを由紀子に差し出している。
プリンだった。
昼間、スーパーで買ったプリンアラモード。一つだけ残っていたものだ。
「香代美、下の台所まで行って、冷蔵庫からこれ出してきたんだって」
そう言うと、奈津子は眉間にしわを寄せて、ベッドに座る香代美を振り返った。香代美は目を真っ赤に泣きはらし、まだしゃくりあげている。
由紀子はそっとプリンを受け取ると、香代美の側に来て絨毯に膝をついた。俯く香代美を覗き込み、静かに、どうしてプリンが欲しかったの、と問いかけた。
「おなかが空いたの」
と、由紀子が優しく聞くと、香代美は顔を上げた。澄んだ瞳だった。
「違うよ」
香代美ははっきりと言った。
「まだ自分だけプリンを貰っていない、頂戴って言われたから、持って行ってあげようと思ったの」
またそんなこと言ってぇ――奈津子が悲壮な声で呟き、頭を抱えている。
由紀子はチラッと奈津子の様子を眺めてから、もう一度香代美を見つめた。嘘をついている目ではなかった。
「あなただけプリン貰ってずるい、羨ましいって、本当に悲しそうだったから」
香代美は言葉を付け足した。そして、気がかりそうに母親のほうを盗み見た。香代美なりに、母の顔色を伺っているらしかった。
「その子は、香代美ちゃんが寝ている側まで来て、プリンの事を言ったの」
と、由紀子は静かに優しく問いかけた。
香代美はそうだとも違うとも言わなかった。言葉に詰まり、困惑したように視線をさ迷わせている。夢でも見たのか。耳元で幻聴めいたものを聞いたか。幼い香代美は、自分の身に起きた現象を表現する術を持たない。
由紀子は話を切り替えた。
「プリンをあげれば、その子は満足するのかしら」
香代美は少し考えてから「満足ってなに」と言った。由紀子は辛抱強く「プリン貰ったらもう、香代美ちゃんの事をずるいって言わないかな」と、言葉を変えた。
香代美は首をかしげていたが、やがてぽつりと言った。
「どうだろう。わからない。けれど、今欲しいんだって。明日じゃ嫌なんだって。そう言ってた」
**
姉ちゃんだけお菓子食べてずるいずるい、なっちゃんも食べたかった。
由紀子の脳裏には、自分と奈津子が幼かった日々を思い出している。そうだ、子供はそういうものだ。たとえ、自分の分を残して置いてもらっていても、先に家族みんなでおやつを食べてしまっていると判ったら、駄々をこねたくなる。
奈津子が昼寝をしている間、由紀子が先におやつを食べてしまったことがあった。奈津子の分のおやつは残っており、「これ食べなよ」と勧めているのにも関わらず、昼寝から醒めた奈津子はなきわめき、しばらく機嫌が戻らなかった。
そんなことが、あった。
きい、き。きい、きい。
ゆりかごは訴えている。
香代美は悩まし気に、由紀子が持つプリンを眺めた。
わかった、おばちゃんが持って行ってあげるよ、と、由紀子は言い、立ち上がった。
「三階にいるんだよね」
と、由紀子は念を押すように言った。香代美はうん、と、頷いた。
**
「姉ちゃん」
プリンを持ち、通路に出た由紀子を追って、奈津子が飛び出した。
「待って、今こんな夜中だし、あのこ、いつものアレが出てるだけだから、ほんとに構わないで。休んで」
由紀子は軽く首を横に振った。
「プリンの賞味期限、近いのよ」
そう言った由紀子に、奈津子はけげんな顔をした。
「まさか本当に誰かが三階にいるわけじゃないんでしょう」
奈津子は解せないというふうだ。当然だろう、と、由紀子は思った。
「三階に置いてくるだけよ、これを」
由紀子はプリンアラモードのカップを奈津子にちらつかせた。
「明日、明るくなってから、また取りに行くわ。とにかく今、これを三階に置いて来れば、それで香代美ちゃんが納得して休んでくれるんだから、いいじゃない」
**
奈津子たちの寝室から、ぶつぶつと未だ子供を叱る声が漏れ聞こえるのを背中で感じながら、由紀子は歩いた。
そして、さっき入ったばかりの階段室の扉を開き、改めて照明をつけた。しいんとした階段室はやはり不気味だった。
きい、き。
ゆりかごが、呼んでいる。
由紀子はそっと、急ならせん状の階段を上り始めた。手すりを掴み、一歩一歩、足元を確認しながら。
古い手すりは埃が被っており、全体的に階段室は饐えた匂いがした。
上へ、上へ。
きいきい。
ゆりかごが鳴り続けている。由紀子はついに三階まで登り切った。そこは狭苦しいフロアになっており、階段の正面から少し外れた場所に、ごく小さな木の扉があった。
他に部屋らしいものが見当たらないのを確認してから、由紀子はそっと、扉のノブを握った。
錆びている。
扉は粘っこく重たかった。押しても動かなかったが、引いたら嫌な音を立てて扉は動いた。恐らく部屋になっているそこは、暗黒の闇の中に沈み、今はなにも見えない。凄まじいまでの埃っぽさや、空気が籠って独特の臭いを放っているのが、たまらなく苦痛だった。
足を踏み入れるのがためらわれたので、由紀子は部屋の入口にプリンを置いた。
それから無言で扉をしめ、階段を降りかけた。
きい。
今までになく近い場所でその音を聞いた。由紀子は思わず振り向いた。扉は沈黙している。
ごんごんと打ち鳴らすように心臓が不穏に走っていた。
手すりにしがみつくようにして、階段を降りた。体が妙に強張り、何度か階段を踏み外しかけた。
やっとのことで二階までたどり着き、階段室から通路に出た瞬間、由紀子は走り出していた。ばたばたと走り、奈津子たちの寝室の前を通り過ぎ、自室に飛び込んだ。
「はあ、はあっ」
喘鳴をあげながら、由紀子はベッドに倒れ込んだ。
そのまま、気を失うように、眠りに沈んだ。
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