龍馬暗殺の夜

よん

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おもしろき洗濯あるのみ

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「来ないで。……撃ちます」
「震えちょる」
「何がです?」
「お先さんの声、お先さんの右腕、お先さんの心……お先さんの全てじゃ」
「適当なことを……。あなたに私の何がわかると言うのです?」
「何もわからんが、おまんにそれが撃てんことだけはわかる。脅しにすらなっちょらん」

 その指摘を受けて初めて気づく。確かに震えていた。
 悔しいが認めざるを得ないと、お先は唇を噛む。
 それにしても、何とも不思議なオーラを放つ男だ。
 そこには威圧的な態度もなければ、幾許の悲壮感も漂っていない。
 あるのは"無"のみだった。
 それに対し、龍馬の双眸に映る己の姿にお先はたまらなく惨めな気分になった。まるで鷹の前の雀である。
 それでも、お先は「止まりなさい」と強気で押し通す。

「こう見えても、私には射殺の経験があります。ですが、坂本先生や中岡先生は我々に……」「ハックションッ!」
「――ひッ!!」

 吃驚して、危うく引き金にかかる人差し指が動くところだった。酒を飲んで温かくなったのか、今まですっかり鳴りを潜めていたクシャミをまさかこんな修羅場で出すとは……お先は本気で龍馬を睨みつけた。

「あ、危ないじゃないですかッ! 一体全体、あなたには緊張感というものがないんですか?」

 ズズズと洟をすする龍馬に悪びれた様子はまるでない。

「緊張はしちょるけんどクシャミはまた別問題ぜよ。ついでに白状すると今ので屁もこいてしもうた」
「何となッ? わ、強烈に臭いぞッ! おまえというヤツは……」 

 龍馬の後ろに立つ中岡は慌てて後退する。藤吉もそうしたかったが、龍馬に遠慮してあえて平静を装っている。

「わはははははは! 中岡、すまんちや! 酒を呑んで尻の穴が緩うなったがじゃ」
「失敬な! 俺に向かって放屁するなら、最初から俺の盾など買って出るな!」
「じゃき、こうして謝っちゅうやいか」

 銃口を向けられた龍馬はもはや隙だらけ、お先に背を向け中岡にぺこぺこ謝っている。その滑稽な仕草にとうとう堪え切れずに藤吉もゲラゲラ笑い出してしまった。

(……何なの、この寸劇じみたやりとりは? 私一人シリアスで馬鹿みたいじゃない)

 やがて時間差で龍馬から生まれた屁がお先の鼻孔に達すると、もはや自分もその中に加わらざるを得なかった。

「さ、坂本先生ッ! 何を食べたらこんな……ヤだ、本当に臭い!」
「ワシャ、今日はお先さんの焼いた柳葉魚しかまともに食っちょらんぞ。そのうち、中岡もワシと同志になるがじゃ」
「冗談じゃない! 屁の同志などお断りだ!」
「"土佐勤王党"改め、"土佐屁こき党"じゃな」
「……プッ」

 二人の馬鹿な会話に思わず吹き出したお先だったが、龍馬がすかさず「おお! お先さんもワシらと同志じゃ!」と、口から漏れた今の音を屁扱いにする。

「ち、違いますッ! 今のは……中岡先生、濡れ衣ですってば!」

 真っ赤な顔で必死に否定するお先の弁明は、龍馬と藤吉の笑い声に掻き消されてしまう。一方、中岡はお先が本当に屁を放ったと信じ込みドン引きしてしまっている。

「違うって言ってるのに……もう!」

 屁の件は心外だが、それでもお先は今の状況がとても心地良かった。
 こうなれば自動拳銃オートマチックなど無用の長物でしかない。元々、護身用として携帯していただけで、彼らに危害を及ぼす積もりなどなかった。

(もう大丈夫だよね。我々はこの人達に縋るため時空を超えて来たんだもの。それに武器で脅したところで我々の真意は何も伝わらない……。そうだよ。武器なんかに屈しないってわかってるからこそ、我々はこの人達を選んだんだしね)

 お先は静かに畳の上へ自動拳銃オートマチックを置き、土間にひざまずくとそのまま土下座した。


「御二方に申し上げたき儀があり、我々は遥々と"先"の世からこうして伺いました」


 突然何事かと、龍馬、中岡、藤吉はお先の次なる言葉を待つ。

「坂本先生、中岡先生……お願いでございます、汚れきった我々の国を今一度、洗濯してくださいませ」

 龍馬は膝をつき、お先が下げる頭を半ば強引に上げさせる。

「そ、それはワシが乙女姉さんに出した手紙の一節じゃな! どういてそれを知っちゅう?」
「そればかりではございません。……『第一義 天下有名ノ人材ヲ招致シ顧問ニ供フ 第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜イ現今有名無実ノ官ヲ除ク』……」
「何とッ!?」

 この時点で極少数しか知られていない新政府綱領八策を、お先は見事に諳んじてみせた。
 これには龍馬と中岡、度肝を抜かれるまでに驚いた。

「ちゃちゃちゃ! た、た、た、たまるかッ! そ、それまたこのワシが書いたもんやないがか! どういてそれをおまんが……?」
「そう簡単に御理解できないでしょうが、私はでございます。ですから、坂本先生や中岡先生の遺した言葉や文章は私に限らず、検索さえすれば誰でも知ることができるのです」
「……み、み、み、未来人となッ!?」
「はい」

 目を見開く龍馬は興奮のあまり涎と洟を垂らしながら、まだ混乱の真っただ中を彷徨う中岡に抱きついた。

「中岡ッ、聞いたか? 道理でお先さんは浮世離れしちょる筈じゃ! 未来人ならワシの知らん拳銃ピストールを持ってて当たり前じゃなッ!」
「……は、離れろ、龍馬。おまえはもしかして、この女の言うことを信じるのか?」
「無論じゃ!」
「馬鹿だな。未来人などあり得ん話じゃないか」
「それを言うなら、狐もあり得ん」
「狐は古来より目撃者が多くいる」
「古代人を信じ未来人を否定する……中岡よ、そら依怙贔屓えこひいきっちゅうもんぜよ」
「贔屓ではない! よし、わかった。狐はよそう。おまえはその女の法螺に乗せられているだけだ」
「何の為の法螺じゃ?」
「そこまでは知らん! 女に訊け!」

 ほうか、と頷く龍馬。

「ほんならお先さん、中岡にどっさり法螺を吹いちゃってつかあさい。ワシは拳銃ピストールと今の新政府綱領八策だけですっかり未来人の味方じゃき」

 はい、とクスクス笑うお先。

(さすがは坂本先生、想像を絶するほど頭が柔らかい。はもう少し時間を要したけど……。それに比べて、中岡先生はかなり手強そうだわ)

 あえて、お先は中岡に向かって話す。
 勿論、龍馬にも逐一理解してもらう必要がある。未来人肯定派の彼ではあるが、まだ何も知らないという点では中岡と全くの同レベルだ。

「中岡先生、まずはこの私が未来人であるという前提の元に話を聞いて頂かないと少しも理解できませんので、そこのところはどうか御了承くださいませ」
「既に限界だが訊ねてやろう。貴様が未来人だとすれば、"弟"と称する峰さんはどうなんだ? やはり未来人なのか?」
「いいえ、違います。御察しの通り、峰吉様と私は血縁関係にございません。更に白状するならば私は後家でも何でもありません。全ては、御三方を今日というこの日にここへ御招きするため峰吉様に近づき、そして騙しました。あの方の御尽力には本当に感謝しております」
「軍鶏を手に入れた峰さんは確かに俺達がいるここへ戻ってきた。……そうだな?」
「はい」
「では、峰さんは何故、近江屋へ向かわなければならなかった?」
「中岡先生が癇癪を起こし、三人揃って近江屋へ戻ったと嘘をつきましたから」
「また嘘か! チッ、やはり貴様は性悪の女狐だ! 龍馬、こんな女の言うことなど俺は信用せんぞ!」
「じゃき、お先さんの法螺に付き合えと言うちょろうが」

 ムッとした態度で中岡は胡坐をかいた。
 では、とお先は涼しい顔で最初の爆弾を投下する。

「中岡先生と坂本先生、そして山田様は既にこの時代から姿を消しております」
「な、何とッ!?」

 同時に声を上げる中岡と龍馬。世話役の藤吉はそれを我慢していたが、二人と同じくらい驚いている。

「正確に申すと山田様は明日、中岡様は更にその次の日に息を引き取るのですが、残念ながら坂本先生は誕生日のこの日に即死でございます。御三方の亡骸はこの後、霊山護国神社に葬られます」
「けんど、現にワシらはこうして生きちょるがぞ?」
「ええ、生きております。ですが、もしここにいらっしゃらず近江屋に止まっておいでならば、御三方は先程の夜討ちにあっておりました」

 思わず、龍馬と中岡が目を合わせる。

「やはり……。だからずっと言っていたんだ。『醤油屋の二階(近江屋)なんか危ない』とな」
「違うな。中岡、ワシらにとってあそこほど安全な場所はないぜよ」
「薩邸よりもか?」
「薩邸に匿ってもらうなど論外じゃ。……少なくとも、近江屋の人間だけはワシらを恨んじょらん。換言すりゃ、敵だらけのワシらにはもはや安全な場所などどこにも残っちょらせん」

 龍馬は中岡を指さし更に続ける。

「おまんもそうじゃが、薩摩の中心人物の多くが武力倒幕派じゃ。新政府から慶喜公を排除したがっちょる連中が、ワシの甘っちょろいやり方を歓迎しちょるとは到底思えん。幕府、薩摩、紀州、西欧列強、そして頭ン中はいまだ関ヶ原の容堂公率いる我が土佐藩……皆揃って血を流したがっちょる。それを阻もうとするこのワシは恰好の的ぜよ」
「だからと言って、あの薩摩が俺達に刺客を放つだろうか?」
「その辺は未来人に訊いてみよう。……どうじゃな、お先さん?」
「どうでしょう?」

 お先が首を傾げる。

「近江屋事件が未遂に終わったと仮定して、その後の薩摩が独自の刺客を放つかどうかは憶測の域に過ぎないので私にもわかりませんが、少なくとも、ここにいらっしゃる御三方を斬ったのは京都見廻組で間違いないと言うのが今日こんにちの定説です」 

 お先の説明にますます中岡は混乱に陥る。

「さっぱりわからん! 松平容保の放った犬が俺達を斬ったとして、それではここにいる俺達は一体誰なんだ?」
「中岡慎太郎先生と坂本龍馬先生と山田藤吉様でいらっしゃいます」
「では、斬られたのは?」
「中岡慎太郎先生と坂本龍馬先生と山田藤吉様のクローンでございます」

 初めて耳にする言葉に、三人は暫し頭が真っ白になる。

「……"クローン"とは何だ?」
「詳しい説明はいずれ時間をかけてじっくりさせて頂きますが……そうですね、御三方の分身とでも申しましょうか」
「それは影武者みたいなものか?」
「厳密に言えば全く違いますが、今はそのように解釈なさる方がよろしいかと」
「むうう……釈然とせんな」 

 喉元に魚の小骨が刺さったかの如くなかなかスッキリしない中岡とは裏腹、理論はともかくお先の話す概要だけはしっかり捉えている龍馬は御伽噺をせがむ子供みたいに目をキラキラさせている。

「た、た、た、たまるか! お先さん! 早う! 早う法螺の続きを!」


「法螺ではないぞ、坂本君。それに中岡君も」


「――ッ!? だ、誰じゃ?」
「ははは、俺だよ。薩長同盟と四境戦争では随分と世話になったな」

 声こそすれど、その姿はどこにも見えない。

 だが……。

「おもしろきこともなき世をおもしろく…………してやろうじゃないか。俺達の手でな。では、未来の日本で待ってるぞ」

 龍馬が凄い勢いで立ち上がる。

「た、高杉さんの声じゃあ――ッ!!!」

 龍馬の大絶叫にお先は目を潤ませて幾度も頷いた。

「まさか……な」

 中岡は引きつり顔で首をひねる。
 それもその筈、長州藩士の高杉晋作は七カ月前に肺結核で他界していたからだ。

「龍馬……一体どうなっている? 俺にはわからん。わからんことばかりだ」
「ワシにもわからん。けんど、おまんは賢すぎるが故に何も見えんのじゃ」

 龍馬はニコッと笑って、情けない表情で項垂れる中岡の肩に手をやった。

「阿呆になれ」



    ***************************



 おもしろき こともなき世を おもしろく
          高杉晋作(1839年~1867年)

 日本を今一度 せんたくいたし申候
          坂本龍馬(1836年~1867年)

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          中岡慎太郎(1838年~1867年)

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