龍馬暗殺の夜

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近江屋

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 慶応三年十一月十五日(旧暦)
 京都河原町近江屋にて。

「坂本先生、中岡先生がお見えになりました」

 元力士で今は龍馬の世話役である山田藤吉がふすまを開けた瞬間、部屋主は挨拶代わりに派手なクシャミをやらかした。

「何だ、龍馬。ますます風邪をこじらせているじゃないか」
「な、な、中岡。はよう襖を閉め……ハ、ハ、ハ、ハクションッ!」
「言われんでも閉める。藤吉、随分と火鉢が弱いぞ。下で炭をもらってこい」
「へい!」

 巨体を縮込ませながらドスドスと階段を下りる藤吉、襖を閉めないまま退室したことに生真面目な中岡は露骨な舌打ちをする。

「冬だというのにアイツときたら汗をかいてやがる。道理で部屋が寒い筈だ。これだから太った男は……」
「中岡。かさねがさねすまんが、はよう襖を閉めてくれんかのう」
「おお、すまんすまん」

 慌てて襖を閉め、中岡は神妙な面持ちで龍馬の側に寄る。

「散々な誕辰たんしんだな。明日は新政府綱領八策の件で永井殿やかつ殿に会う日じゃなかったのか?」

 小首を傾げた龍馬は「ん、たんしん……? すっかり忘れちょった」と洟をかむ。

「無理もない。おまえは体調不良にもかかわらず、越前に京にと奔走し過ぎたのだ。御苦労だったな」
「おまんほどでもないぜよ。ところで、中岡」
「何だ?」
「ワシは幾つになったがじゃ?」
「……ッ!?」

 これにはさすがに中岡も呆れて絶句するも、虚ろ目の龍馬は手についた洟を袖に擦りつけてそれを遣り過ごす。

「まあ、どうでもええがじゃ。けんど、こうして籠っちょると、げにまっこと侘しいのう。酒でも呑まんとやっちょれんぜよ」
「龍馬、酒はよせ。風邪が長引く」
「ほんなら、精のつく料理でも食わせてくれんかのう。このままじゃと、明日は勝先生に風邪をうつしてしまいそうじゃ」
「その前に俺にうつす心配をしろ。ところで何が食いたいのだ? 峰さんを使いに出そう」

 峰さんとは書店菊屋の長男、鹿野峰吉のこと。中岡や龍馬に心酔しており、この時はまだ齢一七であった。

「ほうじゃのう。ワシが長崎で誕生日を迎えた時、グラバー邸では祝いにチキンが出た」
「チキン……では、軍鶏しゃも鍋だな。それならあったまるし精もつく。――峰さん! 峰さん!」

 暫くして階段を駆け上がる音がし、スッと襖が開く。

「中岡先生、何でございましょう?」
「うん、すまんが使いに出てくれないか。龍馬が腹を空かしている」
「わかりました。……坂本先生。何を御所望でしょう?」

 龍馬が口を開く寸前、大きく鼻孔が膨らんでまたも派手なクシャミを連発した。

「うわ、龍馬! せめて口を塞ぐか顔を背けるくらいしろ! 本当に風邪がうつる!」

 龍馬は洟を垂らしながら、中岡に詫びつつ更なるクシャミを見舞う。

「み、峰さん、ワシはし、軍鶏が食いたいがじゃ。すまんが、ちくと行って……ハ、ハ、ハクションッ!」

 そんな龍馬の様子を見て峰吉は思案する。
 今から買い出しにここを発ったとして、戻ってからそれを近江屋の下女に調理させたのでは時間がかかり過ぎてしまう。空腹の龍馬をそれまで待たせるのは不憫な気がした。

「坂本先生、恐れながらここを出てほんの目と鼻の先に私の知り合いの家があります。そちらで食事を取ってはいかがでしょうか?」

 龍馬が答える前に中岡は「駄目だ」とそれをにべなく却下する。

「どうしてぜよ?」

 立ち上がった龍馬は既に行く気でいる。

「そのフラフラの状態で敵に襲われたらどうするのだ? いくら北辰一刀流の達人とはいえ、今のおまえではまともに太刀打ちできんぞ」
「わかっちょる。ほじゃき、ワシは丸腰で行くき」
「どんな理屈だ。……実は俺もここへ来る途中に新撰組に出くわしたのだ。女装していたから事無きを得たのだが」
「おまんの趣味に救われたな」
「断じて趣味などではない! おまえも変装くらいして外に出ろ。京にはおまえや俺を斬りたくてウズウズしている連中だらけなのだぞ!」
「けんどのう、腹が減ってはどうにもならんがじゃ」

 しょうがないなと、中岡は峰吉に訊ねる。

「そこの主はどんな奴だ? 信用に足る男なのか?」
「勿論でございますが、男ではありません」
「……」

 三人の中に妙な間ができる。

「……峰さんの女か?」
「私の姉です」
「美人かえ?」
「龍馬は黙ってろ。なあ、峰さん。俺はおまえを疑っているわけじゃない。しかし、俺が菊屋に下宿して以来、鹿野家の世話になって随分と久しいが、峰さんに姉がいるなど今の今まで聞いたこともないぞ」

 すると、峰吉は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

「峰さん、嘘はいかんちゃ。その女はおまんの情人やないがか?」
「さ、坂本先生! 私は決して嘘など申しておりません。本当に姉なのですが……実はその、腹違いの姉でして……」
「腹違いでそんなに赤くなるものか。……そうか、峰さんもまだまだ小僧と思っていたが、ついに情人を囲うようになったか」
「中岡先生! 信じてください! 本当に本当の姉なのです! 囲うだなんてとんでもない。姉は後家でして、駆け落ち同然で家を飛び出したものですから、戻るに戻れず一人寂しく陋屋ろうおくで暮らしているのでございます」
「そうか……」

 重い雰囲気が漂う中、中岡と峰吉が沈黙しているところ、龍馬は帯刀もせずいそいそと襖を開け我先にと階段へ向かいつつあった。

「待て、龍馬。一体何処へ行く気だ?」
「決まっちょる。峰さんの情人に酌をしてもらうがじゃ。ここは胡散臭くていかんきに」
「酒はいかんと言ったではないか!」
「坂本先生! だから誤解です!」
「誤解でも六階でもかまわん。峰さん、案内を頼む」
「……いいのですか?」
「困ったな」

 渋面を作る中岡だったが、退室しようとする男の袖を慌てて掴む。その手には粘り気のある何かが付着したが、今はそれどころではない。

「ちょっと待て、龍馬。本気で銃と剣は持たないのか?」
「心配いらん。何、飯を食いにちくと出るだけじゃ」

 龍馬が一旦こうなったら誰も止められないことを中岡は経験的に知っていたので、諦めるより他はない。
 だが、風邪引きの男をこのまま凛とした寒空の晩に出すわけにもいかない。
 況や、近距離とはいえ能天気な男は敵だらけの京の街へ丸腰で繰り出そうとしている。
 どうにかならんものかと考えを巡らせている折、炭の入った手炉を持つ巨漢が龍馬の行く手を阻むようにドスドス階段を上がってきた。

「閃いた!」

 中岡は戻ってきた藤吉に向かって「着物を脱いで龍馬を背負え」と命令する。
 龍馬と藤吉はポカンとして顔を見合わせる。

「中岡、いきなりどうしたがじゃ?」
「龍馬よ、わからんか? これに勝る名案はないぞ」
「はて、ワシにはわからん。阿呆じゃきに」
「変装が煩わしいのであれば、おまえは藤吉の一部になってしまえ。しかも藤吉は体温が高いから一石二鳥だ」

 これには龍馬や藤吉だけでなく、妙な提案を持ち出して後悔している峰吉もパアッと顔が晴れる。

「さ、さすがは中岡先生ですッ!」
「うん、確かに名案じゃのう。中岡はまっこと頭が切れる男ぜよ」

 褒められて悪い気はしない。
 ニヤつく顔を悟られぬよう、中岡は解いたばかりの女装に再び取り掛かるため先に階下へと向かい、峰吉もそれに続く。
 残る龍馬は着物を脱いで褌一丁になった藤吉の背中に飛び乗った。

「おお、おんしゃの背はほんに炬燵こたつみたいにほっかほかであったかいのう。これなら火鉢はいらんがじゃ」
「ありがとうございます」

 礼を言いながら、藤吉は大柄の龍馬を背にしたまま平然と着物を羽織って階段を下りて行く。

「わははははは、これは愉快じゃ! さっぱり前が見えん。まるで二人羽織ぜよ! どうじゃ? ワシは重くないがか?」
「重くはありませんが……坂本先生、後生ですから私の背に乗ったままクシャミは勘弁してもらえますか?」
「クシャミは我慢しよう。けんど、垂れる洟ばかりはワシにもどうにもならんき許しちゃってや」

 自分の汗ではない何かを首筋に感じながら、藤吉は素早く女に身を転じた中岡と峰吉と共に近江屋を後にした。

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