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四六篇
宇田島貞子 其の壱
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今にして思えば、母の不摂生は自らを罰するためだったのではないか。
ろくすっぽ帰宅せず、酒に入り浸る日々を繰り返していた(おかげで僕と次彦は小学生の時点であらゆる家事をこなせるようになったが)。
たまに会えばいつも泥酔しており、それでいて目を真っ赤に腫らして彼女は泣いていた。決していい飲み方とは言えやしない。
その点、アル中だった父ではあるけれど、彼の酒は幾分か陽気な一面も見せていた。時折、臨時の小遣いもポンとくれた。
だが、母は違う。
恰も懺悔のように、好きでもない酒を無理に呷っていた節がある。洗面所で嘔吐している場面に何度か遭遇したが、その後ろ姿は苦しみを甘んじて受け入れているような印象があった。
僕と次彦が大学を卒業して家を離れると程なくして母は戻ってきたが、そこでも彼女と酒の関係は変わらなかった。
母は酒を愛していなかったが、それ以上に父に対しては無関心でさえいた。よくもこの二人から僕と次彦が生まれたものだと、当時は首を捻ったものだ。
奇しくも父と同じ肝臓癌で亡くなった母は、余命告知を受けてからは誰にも相談せずに淡々と葬儀の手配を済ませていて、知らぬ間に喪主を長男である僕に指名していた。
実母ということで職場から一週間の忌引き休暇をもらって久しぶりに富山から帰京したが、突然の知らせだったので次彦は航空券の手配ができずにブラジルに留まったままだ。
何故だかわからないが、次彦は母から避けられていた。
彼女は彼に対して視線さえ合わさなかったが、それは憎悪のような悪感情ではない気がした。どちらと言えば、負い目に近い。
どのみち、母も次彦もお互い対面は望んでいないのは明白だった。航空券の有無は後付けでしかない。
いいよ、こっちは一人で大丈夫だから。
僕は地球の裏側にいる次彦にそう伝えると、彼は元気なく礼を言うだけで精一杯だった。
唯一の住人であった母が亡くなったことで、必然的に世田谷の実家を売却しなければならなくなった。
どう考えてもこの一週間で解決できそうもないので、また改めて休暇を取って東京へ来なければならないだろう。
僕と次彦と爽子……思い出の0系新幹線が東海道新幹線での運用を先月終了させた。こうして少しずつ、東京は僕にとってずっと遠い土地になっていくんだなと感傷的になる。
Radio Ga Ga
ラジオもカセットテープも0系新幹線も、みんなみんな過去の物となっていく。
今後、Queenもそうなっていくのだろうか。
ベーシストのディーコンが引退した。絶対的存在感のフレディが死んだと同時に、彼の中でQueenは死んだのだ。
僕の中での母は生前から既に死んでいた。
彼女の人生とは果たして一体何だったのだろう?
交流の少なかった母らしく、弔問客も数少なかった。寂しい通夜と葬儀、出棺を終えて漸くほっと一息をついていた夕刻。明日は役所で諸々の手続きを済ませてから不動産屋と打ち合わせをしなければならないなと、母が残していったバーボンを喉に流し込んでいた時だった。
喪服姿の年配の女性がやって来た。
妙だな、と思わぬ訪問に様々な違和感を抱く。
品位に満ちていたその女性は、とても母のような飲んだくれと接点があるようには思えないのが一点。
葬儀場ではなく、あえて全ての行事を終えた後で意図的に実家を訪れたのも不可解である。
まるで、人目を避けるかのように。
彼女には温かい煎茶を出したが、僕は彼女に断った上でバーボンのまま相対させてもらった。
母と同年代のその女性は仏壇に手を合わせ焼香を済ませると、僕に一枚の名刺を渡した。
……産婦人科医院の理事?
その立派な肩書きに僕はますます混乱してしまう。
横浜だと? 高木家には縁もゆかりもない土地だ。
「失礼ですが、宇田島さんは母とはどのようなご関係で……?」
「私と芳美さん……それに、博一さんとはかれこれ三十年来のお付き合いでした」
三十年来……おまけに、母だけでなく父とも?
「聞いたこともない。申し訳ないけれども、僕は両親の交友関係には大変疎いのです。そればかりじゃありません。僕にとって、あの二人はとにかく謎が多すぎるのです」
「そうでしょうね。でもそれは、彼女達が任務に忠実だったことを意味するのです」
僕はグラスの琥珀色を空にし、たっぷりと間を置いてから「任務?」と訊いた。
何やら穏やかじゃない。
「ええ、任務。その任務はこの私にも課せられていましたが、実は私が本日こちらへお邪魔すること自体、もはや重大な規律違反なのです」
「なるほど。だから、人目を忍んでこのタイミングで訪問されたのですね?」
「そうです。……ねえ、一彦さん」
僕は面食らった。
初対面の相手に、随分と親しみを込めて名前を呼ばれたからだ。
「そちらは私のことなんて知らないでしょうけれど、私は一彦さん、それに次彦さんのことをよく存じ上げております」
フェアじゃない。
僕はいささか不快だった。まずい酒のせいもあるけれど、僕は目の前の宇田島貞子という女性に少なからず嫌悪を抱かずにはいられなかった。
「宇田島さん。僕にはその任務が何を意味するのか見当もつきませんが、どうやらそれは今のところ耳にしない方がいいような気がするんです。あなたもわざわざ、その規律違反とやらをこれ以上犯さずとも……」
すぐさま彼女が遮った。
「私もそう思っていますし、今でもこの訪問を後悔しております。できることならば、すぐにでもお暇したいのです。ですが、私は芳美さんに責められました。『あんたには息子達に説明する義務がある』って」
説明!
僕は天井を仰いで首を振った。
「僕達にコソコソ隠れてあなたや両親が何をしていたかわかりませんが、そんなことは今更知りたくありません。僕は北陸で高速道路を造ってるし、弟は中南米に棲息する蛙の研究に没頭している。順風満帆とは言えないまでも、僕達はそれぞれお互いの道をお互いの速度で歩んで慎ましやかに生きているんです。お願いですから、これまでのようにそっとしておいてくれませんか?」
「……あなたはともかく」
今度は宇田島貞子が静かに首を振って言う。
「次彦さんはこのまま生き続けることが不可能なのです。私はそれを伝えに来たのよ」
ろくすっぽ帰宅せず、酒に入り浸る日々を繰り返していた(おかげで僕と次彦は小学生の時点であらゆる家事をこなせるようになったが)。
たまに会えばいつも泥酔しており、それでいて目を真っ赤に腫らして彼女は泣いていた。決していい飲み方とは言えやしない。
その点、アル中だった父ではあるけれど、彼の酒は幾分か陽気な一面も見せていた。時折、臨時の小遣いもポンとくれた。
だが、母は違う。
恰も懺悔のように、好きでもない酒を無理に呷っていた節がある。洗面所で嘔吐している場面に何度か遭遇したが、その後ろ姿は苦しみを甘んじて受け入れているような印象があった。
僕と次彦が大学を卒業して家を離れると程なくして母は戻ってきたが、そこでも彼女と酒の関係は変わらなかった。
母は酒を愛していなかったが、それ以上に父に対しては無関心でさえいた。よくもこの二人から僕と次彦が生まれたものだと、当時は首を捻ったものだ。
奇しくも父と同じ肝臓癌で亡くなった母は、余命告知を受けてからは誰にも相談せずに淡々と葬儀の手配を済ませていて、知らぬ間に喪主を長男である僕に指名していた。
実母ということで職場から一週間の忌引き休暇をもらって久しぶりに富山から帰京したが、突然の知らせだったので次彦は航空券の手配ができずにブラジルに留まったままだ。
何故だかわからないが、次彦は母から避けられていた。
彼女は彼に対して視線さえ合わさなかったが、それは憎悪のような悪感情ではない気がした。どちらと言えば、負い目に近い。
どのみち、母も次彦もお互い対面は望んでいないのは明白だった。航空券の有無は後付けでしかない。
いいよ、こっちは一人で大丈夫だから。
僕は地球の裏側にいる次彦にそう伝えると、彼は元気なく礼を言うだけで精一杯だった。
唯一の住人であった母が亡くなったことで、必然的に世田谷の実家を売却しなければならなくなった。
どう考えてもこの一週間で解決できそうもないので、また改めて休暇を取って東京へ来なければならないだろう。
僕と次彦と爽子……思い出の0系新幹線が東海道新幹線での運用を先月終了させた。こうして少しずつ、東京は僕にとってずっと遠い土地になっていくんだなと感傷的になる。
Radio Ga Ga
ラジオもカセットテープも0系新幹線も、みんなみんな過去の物となっていく。
今後、Queenもそうなっていくのだろうか。
ベーシストのディーコンが引退した。絶対的存在感のフレディが死んだと同時に、彼の中でQueenは死んだのだ。
僕の中での母は生前から既に死んでいた。
彼女の人生とは果たして一体何だったのだろう?
交流の少なかった母らしく、弔問客も数少なかった。寂しい通夜と葬儀、出棺を終えて漸くほっと一息をついていた夕刻。明日は役所で諸々の手続きを済ませてから不動産屋と打ち合わせをしなければならないなと、母が残していったバーボンを喉に流し込んでいた時だった。
喪服姿の年配の女性がやって来た。
妙だな、と思わぬ訪問に様々な違和感を抱く。
品位に満ちていたその女性は、とても母のような飲んだくれと接点があるようには思えないのが一点。
葬儀場ではなく、あえて全ての行事を終えた後で意図的に実家を訪れたのも不可解である。
まるで、人目を避けるかのように。
彼女には温かい煎茶を出したが、僕は彼女に断った上でバーボンのまま相対させてもらった。
母と同年代のその女性は仏壇に手を合わせ焼香を済ませると、僕に一枚の名刺を渡した。
……産婦人科医院の理事?
その立派な肩書きに僕はますます混乱してしまう。
横浜だと? 高木家には縁もゆかりもない土地だ。
「失礼ですが、宇田島さんは母とはどのようなご関係で……?」
「私と芳美さん……それに、博一さんとはかれこれ三十年来のお付き合いでした」
三十年来……おまけに、母だけでなく父とも?
「聞いたこともない。申し訳ないけれども、僕は両親の交友関係には大変疎いのです。そればかりじゃありません。僕にとって、あの二人はとにかく謎が多すぎるのです」
「そうでしょうね。でもそれは、彼女達が任務に忠実だったことを意味するのです」
僕はグラスの琥珀色を空にし、たっぷりと間を置いてから「任務?」と訊いた。
何やら穏やかじゃない。
「ええ、任務。その任務はこの私にも課せられていましたが、実は私が本日こちらへお邪魔すること自体、もはや重大な規律違反なのです」
「なるほど。だから、人目を忍んでこのタイミングで訪問されたのですね?」
「そうです。……ねえ、一彦さん」
僕は面食らった。
初対面の相手に、随分と親しみを込めて名前を呼ばれたからだ。
「そちらは私のことなんて知らないでしょうけれど、私は一彦さん、それに次彦さんのことをよく存じ上げております」
フェアじゃない。
僕はいささか不快だった。まずい酒のせいもあるけれど、僕は目の前の宇田島貞子という女性に少なからず嫌悪を抱かずにはいられなかった。
「宇田島さん。僕にはその任務が何を意味するのか見当もつきませんが、どうやらそれは今のところ耳にしない方がいいような気がするんです。あなたもわざわざ、その規律違反とやらをこれ以上犯さずとも……」
すぐさま彼女が遮った。
「私もそう思っていますし、今でもこの訪問を後悔しております。できることならば、すぐにでもお暇したいのです。ですが、私は芳美さんに責められました。『あんたには息子達に説明する義務がある』って」
説明!
僕は天井を仰いで首を振った。
「僕達にコソコソ隠れてあなたや両親が何をしていたかわかりませんが、そんなことは今更知りたくありません。僕は北陸で高速道路を造ってるし、弟は中南米に棲息する蛙の研究に没頭している。順風満帆とは言えないまでも、僕達はそれぞれお互いの道をお互いの速度で歩んで慎ましやかに生きているんです。お願いですから、これまでのようにそっとしておいてくれませんか?」
「……あなたはともかく」
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