へその緒JCT

よん

文字の大きさ
上 下
38 / 41
四六篇

宇田島貞子 其の壱

しおりを挟む
 今にして思えば、母の不摂生は自らを罰するためだったのではないか。
 ろくすっぽ帰宅せず、酒に入り浸る日々を繰り返していた(おかげで僕と次彦は小学生の時点であらゆる家事をこなせるようになったが)。
 たまに会えばいつも泥酔しており、それでいて目を真っ赤に腫らして彼女は泣いていた。決していい飲み方とは言えやしない。
 その点、アル中だった父ではあるけれど、彼の酒は幾分か陽気な一面も見せていた。時折、臨時の小遣いもポンとくれた。
 だが、母は違う。
 恰も懺悔のように、好きでもない酒を無理に呷っていた節がある。洗面所で嘔吐している場面に何度か遭遇したが、その後ろ姿は苦しみを甘んじて受け入れているような印象があった。

 僕と次彦が大学を卒業して家を離れると程なくして母は戻ってきたが、そこでも彼女と酒の関係は変わらなかった。
 母は酒を愛していなかったが、それ以上に父に対しては無関心でさえいた。よくもこの二人から僕と次彦が生まれたものだと、当時は首を捻ったものだ。

 奇しくも父と同じ肝臓癌で亡くなった母は、余命告知を受けてからは誰にも相談せずに淡々と葬儀の手配を済ませていて、知らぬ間に喪主を長男である僕に指名していた。
 実母ということで職場から一週間の忌引き休暇をもらって久しぶりに富山から帰京したが、突然の知らせだったので次彦は航空券チケットの手配ができずにブラジルに留まったままだ。

 何故だかわからないが、次彦は母から避けられていた。
 彼女は彼に対して視線さえ合わさなかったが、それは憎悪のような悪感情ではない気がした。どちらと言えば、負い目に近い。
 どのみち、母も次彦もお互い対面は望んでいないのは明白だった。航空券チケットの有無は後付けでしかない。

 いいよ、こっちは一人で大丈夫だから。

 僕は地球の裏側にいる次彦にそう伝えると、彼は元気なく礼を言うだけで精一杯だった。

 唯一の住人であった母が亡くなったことで、必然的に世田谷の実家を売却しなければならなくなった。
 どう考えてもこの一週間で解決できそうもないので、また改めて休暇を取って東京へ来なければならないだろう。
 僕と次彦と爽子……思い出の0系新幹線が東海道新幹線での運用を先月終了させた。こうして少しずつ、東京は僕にとってずっと遠い土地になっていくんだなと感傷的になる。


 Radio Ga Ga


 ラジオもカセットテープも0系新幹線も、みんなみんな過去の物となっていく。
 今後、Queenもそうなっていくのだろうか。
 ベーシストのディーコンが引退した。絶対的存在感のフレディが死んだと同時に、彼の中でQueenは死んだのだ。

 僕の中での母は生前から既に死んでいた。
 彼女の人生とは果たして一体何だったのだろう?
 交流の少なかった母らしく、弔問客も数少なかった。寂しい通夜と葬儀、出棺を終えて漸くほっと一息をついていた夕刻。明日は役所で諸々の手続きを済ませてから不動産屋と打ち合わせをしなければならないなと、母が残していったバーボンを喉に流し込んでいた時だった。
 喪服姿の年配の女性がやって来た。

 妙だな、と思わぬ訪問に様々な違和感を抱く。

 品位に満ちていたその女性は、とても母のような飲んだくれと接点があるようには思えないのが一点。
 葬儀場ではなく、あえて全ての行事を終えた後で意図的に実家を訪れたのも不可解である。
 まるで、人目を避けるかのように。
 彼女には温かい煎茶を出したが、僕は彼女に断った上でバーボンのまま相対させてもらった。

 母と同年代のその女性は仏壇に手を合わせ焼香を済ませると、僕に一枚の名刺を渡した。

 ……産婦人科医院の理事?

 その立派な肩書きに僕はますます混乱してしまう。
 横浜だと? 高木家には縁もゆかりもない土地だ。 

「失礼ですが、宇田島さんは母とはどのようなご関係で……?」
「私と芳美よしみさん……それに、博一ひろかずさんとはかれこれ三十年来のお付き合いでした」

 三十年来……おまけに、母だけでなく父とも?

「聞いたこともない。申し訳ないけれども、僕は両親の交友関係には大変疎いのです。そればかりじゃありません。僕にとって、あの二人はとにかく謎が多すぎるのです」
「そうでしょうね。でもそれは、

 僕はグラスの琥珀色を空にし、たっぷりと間を置いてから「任務?」と訊いた。
 何やら穏やかじゃない。

「ええ、任務。その任務はこの私にも課せられていましたが、実は私が本日こちらへお邪魔すること自体、もはや重大な規律違反なのです」
「なるほど。だから、人目を忍んでこのタイミングで訪問されたのですね?」
「そうです。……ねえ、一彦さん」

 僕は面食らった。
 初対面の相手に、随分と親しみを込めて名前を呼ばれたからだ。
 
「そちらは私のことなんて知らないでしょうけれど、私は一彦さん、それに次彦さんのことをよく存じ上げております」

 フェアじゃない。
 僕はいささか不快だった。まずい酒のせいもあるけれど、僕は目の前の宇田島貞子という女性に少なからず嫌悪を抱かずにはいられなかった。

「宇田島さん。僕にはその任務が何を意味するのか見当もつきませんが、どうやらそれは今のところ耳にしない方がいいような気がするんです。あなたもわざわざ、その規律違反とやらをこれ以上犯さずとも……」

 すぐさま彼女が遮った。

「私もそう思っていますし、今でもこの訪問を後悔しております。できることならば、すぐにでもおいとましたいのです。ですが、私は芳美さんに責められました。『あんたには息子達に説明する義務がある』って」

 説明!

 僕は天井を仰いで首を振った。

「僕達にコソコソ隠れてあなたや両親が何をしていたかわかりませんが、そんなことは今更知りたくありません。僕は北陸で高速道路を造ってるし、弟は中南米に棲息する蛙の研究に没頭している。順風満帆とは言えないまでも、僕達はそれぞれお互いの道をお互いの速度で歩んで慎ましやかに生きているんです。お願いですから、これまでのようにそっとしておいてくれませんか?」
「……あなたはともかく」

 今度は宇田島貞子が静かに首を振って言う。

「次彦さんはこのまま生き続けることが不可能なのです。私はそれを伝えに来たのよ」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

びるどあっぷ ふり〜と!

高鉢 健太
SF
オンライン海戦ゲームをやっていて自称神さまを名乗る老人に過去へと飛ばされてしまった。 どうやらふと頭に浮かんだとおりに戦前海軍の艦艇設計に関わることになってしまったらしい。 ライバルはあの譲らない有名人。そんな場所で満足いく艦艇ツリーを構築して現世へと戻ることが今の使命となった訳だが、歴史を弄ると予期せぬアクシデントも起こるもので、史実に存在しなかった事態が起こって歴史自体も大幅改変不可避の情勢。これ、本当に帰れるんだよね? ※すでになろうで完結済みの小説です。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

入れ替わった恋人

廣瀬純一
ファンタジー
大学生の恋人同士の入れ替わりの話

CoSMoS ∞ MaCHiNa ≠ ReBiRTH

L0K1
SF
機械仕掛けの宇宙は僕らの夢を見る――  西暦2000年―― Y2K問題が原因となり、そこから引き起こされたとされる遺伝子突然変異によって、異能超人が次々と誕生する。  その中で、元日を起点とし世界がタイムループしていることに気付いた一部の能力者たち。  その原因を探り、ループの阻止を試みる主人公一行。  幾度となく同じ時間を繰り返すたびに、一部の人間にだけ『メメント・デブリ』という記憶のゴミが蓄積されるようになっていき、その記憶のゴミを頼りに、彼らはループする世界を少しずつ変えていった……。  そうして、訪れた最終ループ。果たして、彼らの運命はいかに?  何不自由のない生活を送る高校生『鳳城 さとり』、幼馴染で彼が恋心を抱いている『卯月 愛唯』、もう一人の幼馴染で頼りになる親友の『黒金 銀太』、そして、謎の少女『海風 愛唯』。 オカルト好きな理系女子『水戸 雪音』や、まだ幼さが残るエキゾチック少女『天野 神子』とともに、世界の謎を解き明かしていく。  いずれ、『鳳城 さとり』は、謎の存在である『世界の理』と、謎の人物『鳴神』によって、自らに課せられた残酷な宿命を知ることになるだろう――

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々

yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。

処理中です...