へその緒JCT

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富山篇

赤味噌カツサンド

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 勿論、自慰のことまでは口に出さない。
 注文のコーヒーについてきた豆菓子を食べるでもなく、ただただその袋をぼんやり見つめながら返事を待った。
 やがて、彼女は口を開く。

「どうしてそこまで明確に覚えてるの? フミヒコにとって何か特別な日とか?」
「そうだね。プライベートなことなんで、詳しくは言わないけれど」
「だからぁ、そこを乗り越えて話してくんなきゃ、あたし達は永遠に秘密を共有できないよ」
「僕は構わない。そっちのために黙っているんだ」
「だったら、尚更話すべきだと思うな。こっちが要求してるんだし」
「後悔しない?」

 彼女が力強く頷いたところを確認し、根負けした僕は正直に告げることにした。

「いけないとは思いつつ、若干十歳にも拘わらず我慢できなくなって母のことを考えながら射精したんだ。その瞬間、僕はへそを失い、そしてアレが上空に姿を現した」
「………………………っ!」

 ほら、絶句。
 だから言ったのに。何が"秘密を共有"だよ。
 見る見る紅潮して俯いたまま硬直する彼女には、僅かながら罪悪感を覚えてしまう。やはり、黙っているべきだったんだ。
 重たい空気が二人を覆う。
 仕方がないので、飲みたくもないコーヒーに口をつけながら、カメダ珈琲店から見えるへその緒に目を止める。

 爽子さんを想って射精をしたあの日を境に、正真正銘この僕は高木家の一員である資格を失った。
 血は繋がらなく家族に拘らなくとも、僕はまだ居候としてあの場に留まることができたのに、劣情に負けた僕は自らそれを絶ってしまった。
 とはいえ、それは僕の内面上の問題であり、高木家の人達は以前と変わらぬ距離感で今尚接してくれているけれど。


「ママ! やっと、りくにもができたんだねっ!」


 その射精より更に五年ほど遡る。
 当時、まだ若干八歳だった理玖の発言である。悪気なんてあるわけがない。
 いわんや、産まれてきた誠の責任である筈もない。
 僕が悪い。やっと自分にも家族ができたと思った。でも、僕はではなかったし、家族でもなかった。
 一瞬でも憎悪の感情が湧いたら終わりだと思った。
 だからこそ、どうしても高木家を好きで在り続けなければならなかった。

 でも、どうやって……?

 例えば、爽子さんだ。
 理玖のあの発言に思わず愛娘を叩いてしまった爽子さんを母親としてではなく、どのようにして接すれば嫌いになれないで済むだろうか?

 そこから僕は母親と思い込もうとしていた彼女を、自衛策の一環として憧れの女性として見るようになった。
 やがて僕はろくな発育を待たずして性に目覚めてしまう。
 そこで生まれた葛藤。
 悶え苦しんだ日々を走ることで解決しようと試みたのだが、現状、解決には程遠い。

「予想外に生々しい回答だったけれど」

 その言葉に僕は現実へと戻される。

「正直に話してくれてありがとう。そして、フミヒコのその感情は間違っちゃいないよ」
「慰めはいらない。世間的にエディプス・コンプレックスはタブー中のタブーとされている」
「えでぃ……何、ソレ?」
「語源はギリシア神話だよ。端的に言えば、息子が実母に欲情し実父を嫉妬すること。ただし、僕の場合はそれとはいささか異なるけどね」
「異なるのは知ってるわ。だから言ったでしょう。『間違ってない』って」

 彼女の顔色はすっかり元に戻っている。美味しそうに黒のスイーツを一口、パクリ。

「何故、そう言いきれる?」
「フミヒコとその女の人は実の親子関係じゃないからよ。従って、エディーナントカは成立しない」

 ちょっと待て。

「どうして、僕と爽子さんの続柄について知っているんだ?」
「あたしは知ってることは知っている。知らないことも勿論あるけどさ。例えば、あのバケモノの目的とかはサッパリわかんない。……ヤバくない?」

 そう言って、彼女は再び窓を指さした。

、ちょっとずつ下界へと降りてきてるよね?」
「特に臍帯が二本に増えてから」
「意外! そんな段階で気づいてたんだ。その割にとても冷静に見えるんだけど?」
「一人で騒ぐのは虚しい」
「でしょ!? だから不安なあたしはこの孤独を回避するため、懸命になって同志を探したの。絶対、校内にいるって確信あったもん。頭のアンテナがそう教えてくれたからね。……で、"のぞみの湯"の養女であるあたしはなりふり構わず、学校の男子生徒に自腹切って入浴券を配りまくって、番台からまじまじ観察してたの。そしたら、学校中ですっかり変人扱いよ。当たり前だけど。……で、ここで問題。あたしは番台で男子の何を確認してたでしょーか?」
の有無」
「そゆこと♡」

 この時、彼女は確かにウインクしたのだろう。
 けれど、残念なことにまるで様になってない。両目ともギュッとつむっていたからだ。あたかも猫のウインクを連想させる。

「わからないな」
「ん、何が?」
「へその確認なら、水泳の授業中に盗み見すればいい」
「じゃ、逆に訊くけどさ。例えば、フミヒコは水泳の授業中に女子の胸とか見れるの?」
「どうして胸なんだ?」
「だって、ビキニのスク水なんてないでしょ。おヘソは隠れてるからあえて胸にしたの」
「……見れないな」

 僕は素直に認めた。

「でしょ? あたしだってそうだよ! しかもこっちは切実な理由でおヘソの確認をしたいだけなのに、目線が場所ポジション的に男子の股間だと誤解されちゃうじゃん!」

 ならば、銭湯の番台の方がモロじゃないか。覗きは犯罪だし。
 そう指摘しようとした時だった。

「あ、すみませーん!」

 彼女はスッと挙手して、隣のテーブルを拭きに来た店員を呼び止める。

「赤味噌カツサンド一つ、追加で」

 驚いた。僕は確かに食べないと言った筈だ。
 オーダーが通ってしまった後で、僕は少しだけ彼女を睨む。

「知らないよ。助けないから」
「大丈夫だって。お金ならあたしが払うから」
「そういう問題じゃない。悪いけど、僕は一口もいらないよ」
「あたしだってクロノワールあるからいらないし。……

 含みのあるその言い方にますます苛立ちを覚えてしまう。僕らしくもない。もはや、盗み見の話題をするのも馬鹿らしくなった。

「それなりの長話は覚悟している。それでも、僕は食べるわけにはいかないんだ」
「まさか、この後で大好きな"ママ"お手製の夕食を食べられるとでも?」

 どういう意味だろう。
 暫く黙っていると、彼女はニンマリ顔を近づけてこう言った。

「赤味噌カツサンドはね、あたし達の最後の晩餐になるの。……食べれないかもだけど」

 それから暫くして、注文した赤味噌カツサンドがテーブルに届く。
 彼女は僕達の空になった弁当箱をキッチンペーパーで丁寧に拭き、それをぎゅうぎゅうに詰めた。
 不可解ながらもそれを受け取り、バックパックにしまおうとした時だ。

 理玖がイタズラで忍ばせたのだろうか?
 それにしても、今の今までその存在に気づかなかったのも妙だ。

 シロク……おまえの役割は一体何だ?
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