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富山篇

リュウグウノツカイ

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 啓蟄けいちつ間近の月曜日早朝、屋外では冷たそうな小雨がシトシト降っている。
 思春期真っ只中の僕は同室の女性の一挙一動にドキドキしながらも、それを悟られないよう黙々と用意された朝食をとっている。
 そこにパジャマ姿のまことが寝惚け眼を擦りながらやって来て、ほぼ本能的にテレビのリモコンをつけた。
 それと同時に物静かな雨音が遮断され、僕と爽子さわこさんの間に漂っていた濃いガス状の壁は何処かへと霧散していった。
 ホッとしたような、それでいてやや落胆の感情が複雑に入り混じる。
 尤も、相手の心境までは定かじゃないけれど。

 富山湾でリュウグウノツカイが定置網に掛かったニュースが流れている。
 幻の深海魚と呼ばれるそれは今冬に入って既に十匹も捕獲されており、この異様な事態に「もしや天変地異の前兆では?」という巷のデマを、眼鏡を掛けたいかにも賢そうな専門家が過去のデータを提示し落ち着き払って否定していた。

「……おはよぉ、フミ兄」

 咀嚼そしゃくし終え、僕も五つ下の誠に「おはよう」と返す。

「あら、起きてきたの? まだ早いわよ」
「早く……ないもん」

 懸命にアクビを噛み殺しながら、九歳の誠は三人分の弁当を作っている母親さわこさんに強がりを言ってのける。決められた就寝時間を遥かにオーバーして深夜までPSPに耽った過ちを、彼は今になって激しく後悔しているに違いない。 
 
「フミ兄、リュウグウノツカイが捕まったらヤバいんでしょ?」
「どうして?」
「だってさ、そのうち大きな地震が起きるってみんな騒いでるもの。深い海に住んでるリュウグウノツカイは、地震が起きそうだから上まで逃げて来たんだって」
「迷信だよ。現に今、テレビでは『起きない』って否定してるじゃないか」
「そんなの気休めさ。そうなったら"げんぱつ"は大丈夫なの?」

 専門家の意見より風評を信用しちゃうんだな。好奇心旺盛な彼の年齢だと無理もない。

「その前に、富山ここに原発は一基もないから」
「でも、お隣にあるから他人事じゃないよ? まったくリュウグウノツカイって"ふきつなししゃ"だよな」 

 随分と生意気な口を利くようになったな、と思わず苦笑してしまう。腕組みがまるでさまになってないし。
 
 誠は知らない。
 不吉な事象は富山湾などではなく、実際この魚満うおみつ上空に浮かんでいるという非現実的リアルを。

 勿論、僕はその事実を打ち明けたりはしない。
 誠に限らず、誰一人として僕の証言なんて信用しないのはわかりきっている。
 絶対的マイノリティは馬鹿みたいに適当に笑って過ごせば(とは言え、僕は笑うタイプではないけれど)、それだけで世の中は安泰だ。平穏無事に暮らす彼らに、わざわざ一石を投じて世の秩序を乱す必要はない。

 僕同様、爽子さんも末っ子のませた振る舞いに笑いを噛み殺しながら、誠愛用の赤いマグカップにホットミルクを淹れてやる。
 その際、僕はさりげなくベージュのセーターが大きく膨らんだ彼女の胸を盗み見た。
 姑息で不潔な人間だと、我ながら思う。
 救いはその自覚がこの僕自身にあること。故に、その先へ進むことはない。現時点では。

「マコもそんな難しいことを考える年齢としになったのね。でも、お兄ちゃんの邪魔しちゃダメよ。これ飲んでもう一眠りしてらっしゃい」
「やだ。僕にもお味噌汁と目玉焼きをちょうだい。フミ兄と一緒に朝ごはんを食べるんだから」
「僕はもう食べ終わったよ。お母さんの言う通りもう一眠りしてきたら?」

 眠くないってば、あくまでそう言い張る誠は仏頂面で「外はまだ暗いし雨だけど?」と僕に確かめる。本当に行くの、そう問い詰めるように。

「たいした降りじゃないよ。それより、誠は自分の心配をすべきじゃないかな。学校で居眠りしたくなかったら、すぐにベッドへ戻った方がいい」
「だったら、一緒の時間に起きて僕と朝ごはん食べてよ? フミ兄ともっとお話したいんだ」

 これが誠の本音だ。
 リュウグウノツカイや原発事故なんて、実際のところどうだっていいのだろう。

「それは無理だって。朝ごはんなら、僕じゃなくてもお姉ちゃんがいるだろ?」
「フミ兄がいい……。リク姉は女だもん。おまけにスマホばっかいじってるし」

 でも、彼女はだよ、とは口が避けても言えやしない。何故ならそれは高木家のタブーだからだ。
 寝グセの残る誠の髪を優しく撫で、どうにか納得させて再び寝床へと向かわせる。
 朝食を済ませた僕は爽子さんに「御馳走様」を告げ、お茶碗とお碗とお皿を重ねて台所に持っていく。

 僕は自宅から学校まで走って通学している。
 時間にして僅か二十分の距離、さすがにそれだと物足りない。
 だから県道135号線を一度離れて魚満市のシンボルとも言うべき大観覧車が見える海岸まで走って、更には総合公園を抜けてから再び県道へと戻りUターン……これがいつものジョギングコースだ。少しの休憩を含めたっぷり二時間かけて走る。
 中学の校門を潜るのが、いつも決まって八時二十分。
 予鈴までの間、黒の防水バックパックからタオルを取り出して汗を拭き、その後はジャージから制服に着替える。登校日はそれの繰り返し。
 このままだと今日は合羽カッパを着用してのジョギングになりそうだから、普段よりも早めに出た方がいい。至極真っ当な理由だ。でも、それは表向き。

 歯を磨いた後に弁当を受け取り、玄関に座って靴紐を結んでいた背後に、何やら不快な気配を感じる。
 それは爽子さんでも誠でもなかった。

 三つ上の女子高生――理玖りくだ。
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