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桜の葉
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半月もすれば、堤防沿いの桜並木はちらほら蕾が開き始めるだろう。
三寒四温は早春の表現だ。時期的にややずれる。
真冬に重宝した黒のダウンジャケットも、まだまだクリーニングには出せない。
僕はすぐ風邪をひいてしまう体質だ。
酸味が苦手なので、1日に必要なビタミンC摂取量をサプリメントで賄っている。
睡眠時間だって十分に取っている。アルコールは晩酌程度、喫煙もやらない。
それに何と言っても人前には出ないこと。老人だらけの病院なんてもっての外だ。
ケータイで時刻を確認する。
コイツの登場で腕時計やデジカメは将来的に市場から消滅するかもしれない。
現に僕だって、長年愛用していたスイス製――ちょっとした値が張るブランド物――の腕時計を引き出しの奥に幽閉したままだ。
恐るべしケータイ……そのケータイもスマホによってじきに駆逐されてしまうのだが。
この僕自身、時代から排除されようとしている。今時、スマホも操れないなんて。
誰も困らない。
誰も僕を必要としていない。
歯車の代替品なんて幾らでもある、逆にそうじゃないと社会は回らない。
僕は錆びた歯車だ。杖がないと満足に歩けやしない。
日本中が桜の開花を心待ちにしているこの時期に、思えば僕は毎年のように躓いている。
星回りが悪いのか、それとも単に要領が悪いのか、ここ最近まともに新年度を迎えた記憶がない。
ただ、今回ばかりは深刻だ。
出遅れるどころか……。
そろそろバスが到着してもいい頃だが、鶴首して待っても事態は変わらない。
構わない。時間なら無限にある。誰も僕の時間なんて欲しがらない。
ダウンジャケットのポケットにケータイをしまうと、坂の下から頭の禿げた老人がこちらを目指して向かって来る姿が目に入った。
リハビリ友達だ。
三十は年上だろうか。杖の世話にはなっていない。
「おはようございます。今日は遅いですな?」
そう言う老人も、普段よりゆとりを持った通院である。
「ええ、朝は混み合いますからね」
「どうでしょう? 日によって違いますよ。まあ、私は暇だからどれだけでも待てますがね」
どういう意味だと勘繰る。
老人は立派に務めを果たした模範的歯車、自嘲する必要などない。僕とは暇の質が決定的に違う。
寒くないのか?
薄い紺のジャージに茶色のベスト、たすき掛けのショルダーバッグという格好はポカポカ陽気の昨日と全く同じだった。こっちは防寒対策でマフラーまでしているのに。
老人は眩しそうな目で僕の杖を見る。
「慣れましたか?」
「ええ」
慣れちゃいけない。本来ならば、今すぐ錆を落として社会の一部に組み込まれなきゃいけない。
老人と一緒にバスを待っている自分がもどかしい。
勿論、そんな感情はおくびにも出さない。
しまったばかりのケータイを取り出し、さっきと同じ時刻を確認してからまたポケットに入れる。
「桜には毒があります」
唐突に、使い古した歯車が言う。
「はあ……?」
「正確には桜の葉ですが。雨水が葉から生成される物質を吸って地面に落ちるので、桜の木の下には雑草が育ちにくいそうです」
何を言いたい? 年寄りは理解しがたい。
「でも、桜餅の葉っぱは食べますよね?」
「適量ならば問題ありませんが、食べ過ぎると肝臓に悪いのです」
「詳しいですね?」
「はい。私は整形外科に通ってますが、実は肝臓も患っているので神経質になって調べてみたんです。あの病院前の図書館で」
ああ、あるな。今後も利用する予定はないが。
「人間にも毒があると考えたことはありませんか?」
言葉に窮する。
老人にとってその毒とは肝臓を侵す病巣だろう。
「あなたにも毒がありますよ」
「でしょうね。この足が毒なのかはわかりませんが。でも、意味合いが違いませんか? 桜の葉の毒は我が身を守るためでしょう? 樹木医のお世話にならない部類ですよ」
「その通りです。あなたにも我が身を守る毒があるんです」
「……」
その刹那、春の陽だまりのような言葉が、僕の心臓をダウンジャケットごと突き刺した。
温かい。ダウンジャケットを脱ぎ捨てたくなる何かが体中に沁み入ってくる。
おもむろに頷いた老人は堤防の桜並木に目を移した。
僕もそれに倣い、まだ蕾だけの寒々しい桜を食い入るように見つめる。
暫しの沈黙。
やがて、渋滞で遅れたバスがやって来る。
老人は乗降口のステップに足を掛けた。
「では、また後で」
僕は老人に手を振った。
「乗らないんですか?」
「ええ」
僕の表情をどう解釈しただろう。
老人は微笑んで手を振り返した。
空気圧シリンダがプシューと音をたてて、派手にドアが閉まる。
バスが行ってしまうまで手を振り続けるほど暇ではない。
病院まで徒歩でどれくらいかかるだろう。午前診が終わってしまうかもしれない。
いいさ。
着くまでに、錆の欠片くらいは落としてやろう。
三寒四温は早春の表現だ。時期的にややずれる。
真冬に重宝した黒のダウンジャケットも、まだまだクリーニングには出せない。
僕はすぐ風邪をひいてしまう体質だ。
酸味が苦手なので、1日に必要なビタミンC摂取量をサプリメントで賄っている。
睡眠時間だって十分に取っている。アルコールは晩酌程度、喫煙もやらない。
それに何と言っても人前には出ないこと。老人だらけの病院なんてもっての外だ。
ケータイで時刻を確認する。
コイツの登場で腕時計やデジカメは将来的に市場から消滅するかもしれない。
現に僕だって、長年愛用していたスイス製――ちょっとした値が張るブランド物――の腕時計を引き出しの奥に幽閉したままだ。
恐るべしケータイ……そのケータイもスマホによってじきに駆逐されてしまうのだが。
この僕自身、時代から排除されようとしている。今時、スマホも操れないなんて。
誰も困らない。
誰も僕を必要としていない。
歯車の代替品なんて幾らでもある、逆にそうじゃないと社会は回らない。
僕は錆びた歯車だ。杖がないと満足に歩けやしない。
日本中が桜の開花を心待ちにしているこの時期に、思えば僕は毎年のように躓いている。
星回りが悪いのか、それとも単に要領が悪いのか、ここ最近まともに新年度を迎えた記憶がない。
ただ、今回ばかりは深刻だ。
出遅れるどころか……。
そろそろバスが到着してもいい頃だが、鶴首して待っても事態は変わらない。
構わない。時間なら無限にある。誰も僕の時間なんて欲しがらない。
ダウンジャケットのポケットにケータイをしまうと、坂の下から頭の禿げた老人がこちらを目指して向かって来る姿が目に入った。
リハビリ友達だ。
三十は年上だろうか。杖の世話にはなっていない。
「おはようございます。今日は遅いですな?」
そう言う老人も、普段よりゆとりを持った通院である。
「ええ、朝は混み合いますからね」
「どうでしょう? 日によって違いますよ。まあ、私は暇だからどれだけでも待てますがね」
どういう意味だと勘繰る。
老人は立派に務めを果たした模範的歯車、自嘲する必要などない。僕とは暇の質が決定的に違う。
寒くないのか?
薄い紺のジャージに茶色のベスト、たすき掛けのショルダーバッグという格好はポカポカ陽気の昨日と全く同じだった。こっちは防寒対策でマフラーまでしているのに。
老人は眩しそうな目で僕の杖を見る。
「慣れましたか?」
「ええ」
慣れちゃいけない。本来ならば、今すぐ錆を落として社会の一部に組み込まれなきゃいけない。
老人と一緒にバスを待っている自分がもどかしい。
勿論、そんな感情はおくびにも出さない。
しまったばかりのケータイを取り出し、さっきと同じ時刻を確認してからまたポケットに入れる。
「桜には毒があります」
唐突に、使い古した歯車が言う。
「はあ……?」
「正確には桜の葉ですが。雨水が葉から生成される物質を吸って地面に落ちるので、桜の木の下には雑草が育ちにくいそうです」
何を言いたい? 年寄りは理解しがたい。
「でも、桜餅の葉っぱは食べますよね?」
「適量ならば問題ありませんが、食べ過ぎると肝臓に悪いのです」
「詳しいですね?」
「はい。私は整形外科に通ってますが、実は肝臓も患っているので神経質になって調べてみたんです。あの病院前の図書館で」
ああ、あるな。今後も利用する予定はないが。
「人間にも毒があると考えたことはありませんか?」
言葉に窮する。
老人にとってその毒とは肝臓を侵す病巣だろう。
「あなたにも毒がありますよ」
「でしょうね。この足が毒なのかはわかりませんが。でも、意味合いが違いませんか? 桜の葉の毒は我が身を守るためでしょう? 樹木医のお世話にならない部類ですよ」
「その通りです。あなたにも我が身を守る毒があるんです」
「……」
その刹那、春の陽だまりのような言葉が、僕の心臓をダウンジャケットごと突き刺した。
温かい。ダウンジャケットを脱ぎ捨てたくなる何かが体中に沁み入ってくる。
おもむろに頷いた老人は堤防の桜並木に目を移した。
僕もそれに倣い、まだ蕾だけの寒々しい桜を食い入るように見つめる。
暫しの沈黙。
やがて、渋滞で遅れたバスがやって来る。
老人は乗降口のステップに足を掛けた。
「では、また後で」
僕は老人に手を振った。
「乗らないんですか?」
「ええ」
僕の表情をどう解釈しただろう。
老人は微笑んで手を振り返した。
空気圧シリンダがプシューと音をたてて、派手にドアが閉まる。
バスが行ってしまうまで手を振り続けるほど暇ではない。
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