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木曜日
泥濘の木曜日 3
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雨はもう上がっていた。
山ピーにはコインランドリーの前で降ろしてもらった。
「入果、それじゃまた明日な。――加地先生、二十五歳のCA! 絶対に約束しましたからね? もし破ったら、今度は大量のちくわパン持って保健室に押しかけますから!」
わかったわかったと、ハエを追い払うようにシッシッと手を振るミユキ先生。
「御馳走様でした。おやすみ!」
あたしは感謝の意を表して両手でバイバイする。
山ピーの黒いスポーツセダンがテールランプ五回点滅させて行ってしまう。……アイシテル? まさかね……。
あたしは鳥肌が立った。ややツンドラきたわ。
「アレ、何の意味だと思います?」
「考えるのも気色悪い。『オ・ム・ラ・イ・ス』にしとこう」
あたしのオムライス、そんな扱いですか……。
洗濯機が回ってる間、あたしとミユキ先生はコンビニで買ったアイスを食べながらいろんな話をした。……ミユキ先生は勿論、日本円を所持していた。
学校の話、ショパンの話、映画の話、体育祭の話、お笑いの話、料理の話、そしてコイバナ……。
残念ながら恋の話はあたしから提供できるネタは何一つなかった。
だから、あたしは聞き役に徹する。
ドラマは観ないけど、まるでドラマに出てくるようなゴージャスな恋愛をミユキ先生は現実世界でしてた。
でも、それは大学に入ってしばらくしてからだって。
「私が瀬戸くらいの頃、男なんて怖くてまともに見れなかった」
意外だった。
今なんて、山ピーや校長先生まで手玉に取ってるのに。
「変わるきっかけとかあったんですか?」
「あるよ。シロエのバッグ買ったら自分が劇的に変わった」
「え、それだけ?」
お、当たったとアイスの棒を見ながらミユキ先生は頷いた。
「私はそれまでブランド物に何の興味もなかった。そのシロエのバッグだって何に惹かれたのかわからない。でも、気づいたらバイト代つぎ込んで衝動買いしてた。友達と旅行行くためのお金だったんだが」
「友達って……男の人?」
「当然、女だよ。中学時代からの同級生。当時の私と似たような冴えない地味なコだった。……多分、そのコと旅行に行きたくなかったんだろう。だから、本能的にシロエのバッグを買ったんじゃないかな」
何だかその人かわいそうだ。
気づくと、ミユキ先生があたしの目をじっと見てた。
あたしはドキッとする。
「今、その人のこと『かわいそう』と思ったな。図星だろ?」
「えぇッ? どうしてわかったんですか?」
「わかるよ。相手の目を凝視すれば大体のことがわかる。今日だって山下先生の目を見たら、普段とは違うなってわかった。後は質問攻め。二、三のこと訊いたら後は向こうが勝手に白状する。……そうだ。石舟校長と山崎先生がどうして私のためにパンを買うのか不思議に思わんか?」
「あ、思います! ずっとそのこと考えてました」
ミユキ先生、珍しくニヤッと笑って「内緒だからな」と釘を刺す。
「二人とも『何とか禁煙したい』って私のところに相談しに来たんだ。だから私は提案した。『もし禁煙に失敗したら私にパンを買うっていう罰ゲームはどうです?』って。……それぞれ簡単に乗ったよ。仮に煙草を吸ったところでバレやしないと高を括ったんだろう。私と会うのは校内だけだから。ところが、私の眼力にかかればちょろいもんだ。不意に『吸ってませんよね?』と訊いて見つめ続けたら、目は逸らすわ言葉に詰まるわ赤くなるわで嘘ついてんのバレバレだよ。向こうから『もうやめましょう』って懇願するのも時間の問題だな。……あ、校長はもう放免したんだっけ」
おかしくなって、あたしは声を出して笑った。
まさか校長先生までそんなことになってたなんて……。
「あ、でも山ピーは煙草吸わないですよ?」
「山下先生は私の手違いだ。頼まれても断ればよかったのに」
ホントそう思う。
でも、嫌がってそうに見えなかったな。案外、ミユキ先生に命令されて喜んでんじゃないの? Mの属性アリだ。
「で、ミユキ先生はシロエのバッグでどう変わったんです?」
「自信を得た。たったそれだけだがこれが大きい。自信を得たから相手の目だってしっかり見れるようになった。彼氏なんて簡単にできたよ。目を見て微笑むだけで向こうからホイホイ寄って来た。嘘のような本当の話」
「それはミユキ先生が美人だからですよ。普通の人には当てはまらない」
「違うな。私がもしあの時、シロエのバッグを買っていなかったら、今頃はまだあの地味なコの言いなりになっていたかもしれない。想像するだけでゾッとする」
ミユキ先生は当たり棒を「いる?」とあたしに訊いた。
勿論もらった。
カリカリ君じゃないけど嬉しい。
洗濯物を乾燥機に移す。手慣れたもんだ。
回り始めてから、あたしは話の続きを催促した。
「もういいだろ?」
「聞きたい!」
ミユキ先生は仕方ないというウンザリ顔で話してくれる。
「あの時の私は彼氏どころか女友達も少なかった。あのコに嫌われたくない一心で縋るように日々を生きていた。そんな私にとって、駅前のショップの棚に置かれてたシロエのバッグなんて手の届かない存在だった。輝いてたな。……シロエじゃなくてもいい。コーテでもファンディでもジパンジーでもロエバでも何でもよかったんだ。もっと言えば、それはバッグじゃなくてもよかった。財布でも時計でも何でもよかったんだ。あの時あのタイミングでそこにあった物……それがたまたまシロエのバッグだったに過ぎない。私なんかが一生手にすることのないと思ってたブランド物が自分の所有になった……その事実が私を変えたんだよ。私は今でもその女友達を否定していない。そのコに縋って生きてきたこれまでの自分自身を否定したんだ。――瀬戸」
「はい?」
「バッグなんて所詮ただの入れ物だ。機能さえ果たせばレジ袋だっていい。ブランドひけらかす人間なんぞ器が小さいヤツばかりだよ。ただ、そういう人間は少なからず自信を持って生きている。私には自分に誇れる長所なんて何もなかったから、シロエのバッグで無意識かつ人工的に"自信"を注入したんだ。"自信"とは即ち武器だ。"自信"があるから安物の時計でも恥ずかしくない。相手の目をちゃんと見れるようになったから、私は本当に素敵な人と巡り会うこともできた。これは自慢だよ」
これは自慢……そこまで堂々と言えるミユキ先生にあたしは心から感動した。
そしてあたしはこれから先、どう生きていいのかわからない。
あたしはそのまま考える。
かなり長い時間考えた。
答えはやはり見つからない。
「あたしもブランド物を身につけたら、自信を持って生きていけますか?」
「瀬戸には必要ない」
「……どうして?」
乾燥機が止まった。
ミユキ先生はあたしの髪を強めに撫でて言う。
「オマエは私と違う。注入など必要ない。何故ならオマエそのものがブランドだからだ」
「あたしがッ?」
ミユキ先生がゆっくり頷く。
「オマエは気づいてないが、既に"自信"は手に入れている。今はそれを失っているだけだ。後はそれを取り戻しさえすればいい。シロエのバッグを手にしたところで何も変わらんぞ」
*
事前にファミレス行くのわかってたら電車で来たのに……ミユキ先生はそう愚痴りながら、真っ赤なコンパクトカーに乗って帰って行った。
よっぽどビール飲みたかったみたい。
大きく両手を振るあたしの横には、不機嫌そうなキヅラガワがしかめっ面で立っている。
「もう少し早く戻って来い! 待ちくたびれたぞ!」
「ごめんなさい」
「まあ、雨が上がってよかったけどな」
相変わらず仏頂面のキヅラガワだけど、この二日でだんだん慣れてきた。
「さっさと布団敷いて寝てしまえ。オレは鍵かけて帰るぞ」
「待って。歯だけ磨かせてください」
「早くしろ! 一分だ!」
結局、今夜もキヅラガワが布団を運んでくれた。
「どうもすんませんね」
「うるさい! ギックリ腰になったら瀬戸のせいだぞ!」
「その時は責任取ってマッサージしますから」
「いらん! オイ、ここでいいのか?」
「十分です。後は自分で移動しますから」
あれ……昨日とは打って変わって畳がキレイ。
ワッシーに頼んどいたから掃除してくれたのかな。
そういや、とうとうワッシーに事情説明できなかった。……怒ってるだろうな。
キヅラガワ、腰をトントン叩きながら柔道場を出て行く。
残る一日よろしくお願いします。
体育館の扉まで見送って深々と頭を下げたあたしは、柔道場に戻って布団をズルズル引きずりコンセント付近まで持ってきた。
同じ失敗は許されない。
明日こそは絶対に四時起きだ!
水着を干し、制服を脱いでTシャツと短パンの寝着になる。
今朝は迂闊だった。
それにしてもワッシーめ! 乙女のパンツ姿に悲鳴上げるって失礼にも程があんぞ!
アイスと一緒にコンビニで買った朝食のパンとカフェオレ、それにケータイを枕元に置いて準備完璧。
消灯して布団に入る。
実質、明日で最後。
両親からは相変わらず連絡がない。
あたしにとってそれはありがたい。
電話かかってきてもウザいだけだし、今の時点では話すことなんてない。
話したって感情的になるだけなのは目に見えてる。
気持ちを整理するための家出だし声なんて聞きたくない。メールですら邪魔だ。
でも、ほったらかしなのもどうかと思うよ……なんてワガママなあたし。
何だかんだで、あたしのこの家出って多くの大人を巻き込んでる。
友達だっていろいろ違和感を抱き始めてるし、もうホントにリミット内に居場所を決めなくちゃなんない。
だけど、時間はいたずらに過ぎゆくばかり。何にも決まってない。
家出してよかった?
ミユキ先生からいろんな話を聞けたのは収穫だけど、それを教訓にできるかどうかはまた別問題。
決めるのはあたしなんだ。
自信か……。
潜在的に眠るあたしの自信。
仮にその自信を取り戻せたとして、それがあたしの決断に繋がるとは思えない。
そりゃ、自信喪失の今よりはずっといいけど、どう転んだところで生活環境がガラッと変わる事実だけは避けられないもんね。
自信を得たからって赤の他人と同居できる?
軽蔑してる親から生活費を出してもらって一人暮らし?
そんなに神経図太くないよ。
現実から逃げてるだけの家出。
しかも、学校に守ってもらってるヌルイ家出。
恵まれすぎ?
そんなのわかってるし。
こんなの家出に該当しないのかもしれない。
これだけ特別扱いしてもらって、それなのにまだ何も決められない。
妥協しなきゃいけないのか。
自分の気持ちを押し殺して生きなきゃいけない?
甘いんだ、この考え方からして。
妥協とか自分の気持ちを押し殺すとか親に屈するなんて発想自体甘いんだよ。
あたしは未成年で扶養されてる身。
ゴチャゴチャ言わないで親に従えばいいんだ。
親が自分に黙って浮気してたって、それをとやかく言う資格はあたしにない。
だって、どう転んだって一人じゃ生きてけないんだもの。
親に捨てられたら何にもできない。
学校だって通えないしプールで泳ぐなんて夢のまた夢。
どうにかして日銭を稼ぐだけで一日が終わっちゃう。
気づいてた。
あたしのやってることって結論の先延ばし以外何でもない。
大人はズルイ。でも強い。
そして、あたしは弱い。子供だから。
悔しいけど、この仕組みは絶対に覆らない。
ならば大人になろう。
それまでの辛抱だ。
辛抱してズルイけど強い大人になろう。
なかなか眠れない。
あたしは布団から出て、横になったまま柔道場の小窓を開ける。
涼しい。
雨は止んでるけど、分厚い雲が相変わらず夜空を覆っている。
虫の鳴き声。それは独りを実感させる哀しい音だ。
どこに落ち着こうと居場所なんてない。
今、この瞬間でさえあたしはどこにも属さずフワフワ浮遊してる。
雨でグチャグチャになった校庭。
泥濘にはまったあたしは体を残してそこから浮遊する。
幽体離脱の妄想……これって正確には願望なのかもしれない。
あたしはリアルの中で初めて存在する。
理不尽な大人が支配する残酷な世界に。
山ピーにはコインランドリーの前で降ろしてもらった。
「入果、それじゃまた明日な。――加地先生、二十五歳のCA! 絶対に約束しましたからね? もし破ったら、今度は大量のちくわパン持って保健室に押しかけますから!」
わかったわかったと、ハエを追い払うようにシッシッと手を振るミユキ先生。
「御馳走様でした。おやすみ!」
あたしは感謝の意を表して両手でバイバイする。
山ピーの黒いスポーツセダンがテールランプ五回点滅させて行ってしまう。……アイシテル? まさかね……。
あたしは鳥肌が立った。ややツンドラきたわ。
「アレ、何の意味だと思います?」
「考えるのも気色悪い。『オ・ム・ラ・イ・ス』にしとこう」
あたしのオムライス、そんな扱いですか……。
洗濯機が回ってる間、あたしとミユキ先生はコンビニで買ったアイスを食べながらいろんな話をした。……ミユキ先生は勿論、日本円を所持していた。
学校の話、ショパンの話、映画の話、体育祭の話、お笑いの話、料理の話、そしてコイバナ……。
残念ながら恋の話はあたしから提供できるネタは何一つなかった。
だから、あたしは聞き役に徹する。
ドラマは観ないけど、まるでドラマに出てくるようなゴージャスな恋愛をミユキ先生は現実世界でしてた。
でも、それは大学に入ってしばらくしてからだって。
「私が瀬戸くらいの頃、男なんて怖くてまともに見れなかった」
意外だった。
今なんて、山ピーや校長先生まで手玉に取ってるのに。
「変わるきっかけとかあったんですか?」
「あるよ。シロエのバッグ買ったら自分が劇的に変わった」
「え、それだけ?」
お、当たったとアイスの棒を見ながらミユキ先生は頷いた。
「私はそれまでブランド物に何の興味もなかった。そのシロエのバッグだって何に惹かれたのかわからない。でも、気づいたらバイト代つぎ込んで衝動買いしてた。友達と旅行行くためのお金だったんだが」
「友達って……男の人?」
「当然、女だよ。中学時代からの同級生。当時の私と似たような冴えない地味なコだった。……多分、そのコと旅行に行きたくなかったんだろう。だから、本能的にシロエのバッグを買ったんじゃないかな」
何だかその人かわいそうだ。
気づくと、ミユキ先生があたしの目をじっと見てた。
あたしはドキッとする。
「今、その人のこと『かわいそう』と思ったな。図星だろ?」
「えぇッ? どうしてわかったんですか?」
「わかるよ。相手の目を凝視すれば大体のことがわかる。今日だって山下先生の目を見たら、普段とは違うなってわかった。後は質問攻め。二、三のこと訊いたら後は向こうが勝手に白状する。……そうだ。石舟校長と山崎先生がどうして私のためにパンを買うのか不思議に思わんか?」
「あ、思います! ずっとそのこと考えてました」
ミユキ先生、珍しくニヤッと笑って「内緒だからな」と釘を刺す。
「二人とも『何とか禁煙したい』って私のところに相談しに来たんだ。だから私は提案した。『もし禁煙に失敗したら私にパンを買うっていう罰ゲームはどうです?』って。……それぞれ簡単に乗ったよ。仮に煙草を吸ったところでバレやしないと高を括ったんだろう。私と会うのは校内だけだから。ところが、私の眼力にかかればちょろいもんだ。不意に『吸ってませんよね?』と訊いて見つめ続けたら、目は逸らすわ言葉に詰まるわ赤くなるわで嘘ついてんのバレバレだよ。向こうから『もうやめましょう』って懇願するのも時間の問題だな。……あ、校長はもう放免したんだっけ」
おかしくなって、あたしは声を出して笑った。
まさか校長先生までそんなことになってたなんて……。
「あ、でも山ピーは煙草吸わないですよ?」
「山下先生は私の手違いだ。頼まれても断ればよかったのに」
ホントそう思う。
でも、嫌がってそうに見えなかったな。案外、ミユキ先生に命令されて喜んでんじゃないの? Mの属性アリだ。
「で、ミユキ先生はシロエのバッグでどう変わったんです?」
「自信を得た。たったそれだけだがこれが大きい。自信を得たから相手の目だってしっかり見れるようになった。彼氏なんて簡単にできたよ。目を見て微笑むだけで向こうからホイホイ寄って来た。嘘のような本当の話」
「それはミユキ先生が美人だからですよ。普通の人には当てはまらない」
「違うな。私がもしあの時、シロエのバッグを買っていなかったら、今頃はまだあの地味なコの言いなりになっていたかもしれない。想像するだけでゾッとする」
ミユキ先生は当たり棒を「いる?」とあたしに訊いた。
勿論もらった。
カリカリ君じゃないけど嬉しい。
洗濯物を乾燥機に移す。手慣れたもんだ。
回り始めてから、あたしは話の続きを催促した。
「もういいだろ?」
「聞きたい!」
ミユキ先生は仕方ないというウンザリ顔で話してくれる。
「あの時の私は彼氏どころか女友達も少なかった。あのコに嫌われたくない一心で縋るように日々を生きていた。そんな私にとって、駅前のショップの棚に置かれてたシロエのバッグなんて手の届かない存在だった。輝いてたな。……シロエじゃなくてもいい。コーテでもファンディでもジパンジーでもロエバでも何でもよかったんだ。もっと言えば、それはバッグじゃなくてもよかった。財布でも時計でも何でもよかったんだ。あの時あのタイミングでそこにあった物……それがたまたまシロエのバッグだったに過ぎない。私なんかが一生手にすることのないと思ってたブランド物が自分の所有になった……その事実が私を変えたんだよ。私は今でもその女友達を否定していない。そのコに縋って生きてきたこれまでの自分自身を否定したんだ。――瀬戸」
「はい?」
「バッグなんて所詮ただの入れ物だ。機能さえ果たせばレジ袋だっていい。ブランドひけらかす人間なんぞ器が小さいヤツばかりだよ。ただ、そういう人間は少なからず自信を持って生きている。私には自分に誇れる長所なんて何もなかったから、シロエのバッグで無意識かつ人工的に"自信"を注入したんだ。"自信"とは即ち武器だ。"自信"があるから安物の時計でも恥ずかしくない。相手の目をちゃんと見れるようになったから、私は本当に素敵な人と巡り会うこともできた。これは自慢だよ」
これは自慢……そこまで堂々と言えるミユキ先生にあたしは心から感動した。
そしてあたしはこれから先、どう生きていいのかわからない。
あたしはそのまま考える。
かなり長い時間考えた。
答えはやはり見つからない。
「あたしもブランド物を身につけたら、自信を持って生きていけますか?」
「瀬戸には必要ない」
「……どうして?」
乾燥機が止まった。
ミユキ先生はあたしの髪を強めに撫でて言う。
「オマエは私と違う。注入など必要ない。何故ならオマエそのものがブランドだからだ」
「あたしがッ?」
ミユキ先生がゆっくり頷く。
「オマエは気づいてないが、既に"自信"は手に入れている。今はそれを失っているだけだ。後はそれを取り戻しさえすればいい。シロエのバッグを手にしたところで何も変わらんぞ」
*
事前にファミレス行くのわかってたら電車で来たのに……ミユキ先生はそう愚痴りながら、真っ赤なコンパクトカーに乗って帰って行った。
よっぽどビール飲みたかったみたい。
大きく両手を振るあたしの横には、不機嫌そうなキヅラガワがしかめっ面で立っている。
「もう少し早く戻って来い! 待ちくたびれたぞ!」
「ごめんなさい」
「まあ、雨が上がってよかったけどな」
相変わらず仏頂面のキヅラガワだけど、この二日でだんだん慣れてきた。
「さっさと布団敷いて寝てしまえ。オレは鍵かけて帰るぞ」
「待って。歯だけ磨かせてください」
「早くしろ! 一分だ!」
結局、今夜もキヅラガワが布団を運んでくれた。
「どうもすんませんね」
「うるさい! ギックリ腰になったら瀬戸のせいだぞ!」
「その時は責任取ってマッサージしますから」
「いらん! オイ、ここでいいのか?」
「十分です。後は自分で移動しますから」
あれ……昨日とは打って変わって畳がキレイ。
ワッシーに頼んどいたから掃除してくれたのかな。
そういや、とうとうワッシーに事情説明できなかった。……怒ってるだろうな。
キヅラガワ、腰をトントン叩きながら柔道場を出て行く。
残る一日よろしくお願いします。
体育館の扉まで見送って深々と頭を下げたあたしは、柔道場に戻って布団をズルズル引きずりコンセント付近まで持ってきた。
同じ失敗は許されない。
明日こそは絶対に四時起きだ!
水着を干し、制服を脱いでTシャツと短パンの寝着になる。
今朝は迂闊だった。
それにしてもワッシーめ! 乙女のパンツ姿に悲鳴上げるって失礼にも程があんぞ!
アイスと一緒にコンビニで買った朝食のパンとカフェオレ、それにケータイを枕元に置いて準備完璧。
消灯して布団に入る。
実質、明日で最後。
両親からは相変わらず連絡がない。
あたしにとってそれはありがたい。
電話かかってきてもウザいだけだし、今の時点では話すことなんてない。
話したって感情的になるだけなのは目に見えてる。
気持ちを整理するための家出だし声なんて聞きたくない。メールですら邪魔だ。
でも、ほったらかしなのもどうかと思うよ……なんてワガママなあたし。
何だかんだで、あたしのこの家出って多くの大人を巻き込んでる。
友達だっていろいろ違和感を抱き始めてるし、もうホントにリミット内に居場所を決めなくちゃなんない。
だけど、時間はいたずらに過ぎゆくばかり。何にも決まってない。
家出してよかった?
ミユキ先生からいろんな話を聞けたのは収穫だけど、それを教訓にできるかどうかはまた別問題。
決めるのはあたしなんだ。
自信か……。
潜在的に眠るあたしの自信。
仮にその自信を取り戻せたとして、それがあたしの決断に繋がるとは思えない。
そりゃ、自信喪失の今よりはずっといいけど、どう転んだところで生活環境がガラッと変わる事実だけは避けられないもんね。
自信を得たからって赤の他人と同居できる?
軽蔑してる親から生活費を出してもらって一人暮らし?
そんなに神経図太くないよ。
現実から逃げてるだけの家出。
しかも、学校に守ってもらってるヌルイ家出。
恵まれすぎ?
そんなのわかってるし。
こんなの家出に該当しないのかもしれない。
これだけ特別扱いしてもらって、それなのにまだ何も決められない。
妥協しなきゃいけないのか。
自分の気持ちを押し殺して生きなきゃいけない?
甘いんだ、この考え方からして。
妥協とか自分の気持ちを押し殺すとか親に屈するなんて発想自体甘いんだよ。
あたしは未成年で扶養されてる身。
ゴチャゴチャ言わないで親に従えばいいんだ。
親が自分に黙って浮気してたって、それをとやかく言う資格はあたしにない。
だって、どう転んだって一人じゃ生きてけないんだもの。
親に捨てられたら何にもできない。
学校だって通えないしプールで泳ぐなんて夢のまた夢。
どうにかして日銭を稼ぐだけで一日が終わっちゃう。
気づいてた。
あたしのやってることって結論の先延ばし以外何でもない。
大人はズルイ。でも強い。
そして、あたしは弱い。子供だから。
悔しいけど、この仕組みは絶対に覆らない。
ならば大人になろう。
それまでの辛抱だ。
辛抱してズルイけど強い大人になろう。
なかなか眠れない。
あたしは布団から出て、横になったまま柔道場の小窓を開ける。
涼しい。
雨は止んでるけど、分厚い雲が相変わらず夜空を覆っている。
虫の鳴き声。それは独りを実感させる哀しい音だ。
どこに落ち着こうと居場所なんてない。
今、この瞬間でさえあたしはどこにも属さずフワフワ浮遊してる。
雨でグチャグチャになった校庭。
泥濘にはまったあたしは体を残してそこから浮遊する。
幽体離脱の妄想……これって正確には願望なのかもしれない。
あたしはリアルの中で初めて存在する。
理不尽な大人が支配する残酷な世界に。
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