人を咥えて竜が舞う

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第6章

チルの会議 11

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 結局、一睡もしなかった。
 じっと南の空を凝視するヒエンが、全身でオレンジ色の朝日を浴びている時だった。

 凱旋門近くの角笛が不吉に鳴った。

 それよりもずっと前に、ヒエンは竜の姿を捉えている。
 彼女の短い生涯はいよいよ終わりを迎えようとしている。


 竜の背中に一人の少年が乗っている。


 咥えられているのではない。

 少年は馬を操る騎士の如く竜にまたがっているのだ。
 それは竜が人間と和睦を結んだと見做してもおかしくない、祝福すべき光景である。
 群衆の悲鳴が一気に歓喜へと変わった。
 市場は大騒ぎで竜の飛来を歓迎している。
 見知らぬ者同士、抱き合って喜んでいる。
「聖生神様、万歳!」の声があちこちで起こっている。
 感激のあまり泣き崩れる者もいる。
 誰も待避壕に避難しない。
 ここの見張り兵達は角笛を鳴らすことすら忘れてしまっている。
 この時ばかりは人類が一つになっている。
 大陸は希望と安堵に満ちていた。
 その歓喜の渦に、英雄である少年を大空から落とそうと竜が昨晩まで企んでいたことを知る者はヒエンとミチルだけだ。

 竜はまっすぐ主城に向かっている。

 ダストは見張り塔に佇むヒエンを確認した。
 ルクは少年の生還を驚きと喜びで迎えたが、横のヒエンに笑顔がないことに気づいた。
 それどころか、手を振って彼女の名を叫ぶダストを全く見ていない。
 ヒエンは一歩も動かず、上目遣いで竜を鋭く睨んでいる。

(ま、まさか、ヒエン殿が竜をここへ呼んだのか……?)

 只事ではない。
 竜がこのままダストを降ろしても一件落着とはいかないと察知したルク、群衆同様感激している三人の見張り兵に向かって、

「退けッ! ここは我らの出る幕じゃない! 竜の恐ろしさを忘れたかッ?」

 と命令した。

 三人は揃ってルクよりも年上の兵だったが、その迫力に圧倒されて素直に階下へと消える。
 しかし、そう発言したルク自身は依然として塔に残った。
 ここまできて、自分がヒエンから離れるわけにはいかない。
 昨日の朝は飛行したままダストを咥え飛び去った竜だが、今日はそのダストを降ろすために塔の上へドシンという重たい音を響かせて着地した。
 長く太い尾を立てて両翼を閉じても全長は櫓ほどある。
 シーリザードと同じ藍色の硬そうな鱗で覆われている。
 ロング・ボウのようなグリーン・アイに瞳はなく威圧的だ。

「ヒエン! 無事に戻ったよ! クイーンといい話ができたんだッ!」

 嬉々とした表情でダストが竜の背から飛び降りると、まっすぐヒエンに駆け寄ろうとする。
 しかし、飛び出したルクがそれを阻むようダストの前に立ちふさがった。

「……え、何?」
「私にはあなた以上に事情がわからない。ただ、ここからはもうあなたの入る余地はありません。あなたがここに降り立つずっと以前から、ヒエン殿と竜の駆け引きは既に始まっているのです。その証拠にヒエン殿は帰還したあなたを意識していない」
「え?」

 信じられないとばかりダストはヒエンを見るが、ルクの言う通り彼女はダストのことなど眼中になかった。
 竜も同様、生贄にもならない使者にもはや関心がない。
 今まさに何かが起ころうとしている。
 それが何なのかは定かではないが、ヒエンと竜との間に一触即発の空気が流れているのは疑いの余地もなかった。

「さあ、こっちへ!」

 混乱するダストを強引に石段へと連れていくルク、そこにいる人物に「あッ!」と驚かされてしまう。
 何と、白装束の巫女――ミチルが昨日に続いてまたもや立っていた。
 ずいぶんやつれている様子だ。
 おそらく、ヒエンやルク同様に一睡もしていないのだろう。
 高所恐怖症のミチルは震えながらも気丈に振る舞い、ダストに労いの会釈をする。

「ご無事で何よりです。しかし、残念なことに今回の交渉は最初からお芝居だったのです。竜とクイーンはあなたを欺いて民衆の前で殺そうと考えていました。ヒエンはそんなあなたを救ったのです。そして、駆け引きの第二幕はとうに開いているのです」
「そ、そんなッ? そんなこと……う、嘘ですよねッ?」

 夢ならば覚めてほしい。
 竜の背中に乗り、大空を舞いながら思い描いていたこと全てが否定されていく。

「それじゃ、僕は何のためにヒエンの代わりに……」
「もう考えるのはよしましょう」

 ミチルはダストの手を包むように優しく握る。

「人類はもはやヒエンに委ねるしかないのです。……我々は立会人になりましょう。三人で見守るのです。『世界の均衡』がどちらへ傾くかを」

 そして、ミチルは名前さえ知らない見張り兵の手も固く握った。


 ヒエンと相対する竜。
 互いにどちらも微動だにしない。
 だが、竜が首を伸ばして大きく口を開けた時、ヒエンは潔く前に進んで何と自らその中へと収まった。

「ヒエンッ! 何でだあああああああああああああぁ――ッ!」

 ダストが叫ぶ。
 ミチルは無言だが、心の中はダストと一緒だった。
 それでは死ぬ人間が変わるだけだ……。
 竜の口先で咥えられたヒエンは何の抵抗もなく、大空へ飛び立つその時を待っている。


 竜はこれ以上、人間を背中に乗せる芝居を拒絶した。
 あんな屈辱は一度で十分だ。
 愚かな群衆をこれだけ浮かれさせれば作戦は成功したも同然である。
 後はその頭上に小生意気な娘を投下すれば、人間共は一転してパニックに陥るだろう。
 どん底に叩き落とされた人類は己の無力さに絶望し、そして滅びの道へと突き進む。
 人類が一人残らず屍となった時、約束通り精霊達はこの地へと戻ってくる。
 人間によって奪われた均衡を今こそ取り戻すのだ……。

 竜が翼を広げて、塔の石床を蹴り上げる。
 巨体はフワリと宙を浮き、ヒエンを咥えたまま大空に舞った。
 それを黙って見ていたダストの頬に一筋の涙が伝う。

(こんなことになるなら僕が命懸けでやったことに何の意味があるんだ? 結局、僕はヒエンを守れなかった。……そうだよ。ヒエンは誰からも守られたくなんかなかった。ヒエンは最初から死ぬことを望んでたんだから……。わかってたよ。やっぱり、ヒエンは僕なんか頼ってなかったんだね。お節介でごめん。でも、何と思われてもいい。……ヒエン、お願いだから死なないでくれッ! 誰のためでもない。自分のために生きてくれッ!)

 竜に咥えられたヒエンの皮膚は、その鋭い歯によって傷つけられることはなかった。
 竜が甘噛みする理由は忌み嫌う人間の血で口内を汚したくないからだ。
 歯間に肉が挟まってしまう恐れもある。
 本来ならば、人間を咥えること自体おぞましい行為に当たる。
 しかしながら、竜族は霊長類のように手が自在に使えないので物を運ぶ手段は口以外にないのだ。
 交渉ではヒエンに屈した。
 その結果、竜はとうとうダストを殺せなかった。
 証拠はない。
 今の今もダストに精霊の血が流れているという話はハッタリだと信じている。
 にもかかわらず、竜はヒエンの提案を受け入れた。
 ヒエンの話に怖気づいたことはやはり否定できない。
 だが、それでもかまわない。
 下に落とす人間が誰であれ、目的が果たせればそれでいい。
 確かにヒエンに屈したかもしれないが、その言い負かされた相手を見世物として処刑するのはこれまた格別の喜びである。

 竜は格好のスポットを探してグルグルと旋回している。
 人間の穢れた赤い血が一番映える場所は……やはり白づくめの市場だろう。
 あそこなら大勢の人間が密集している。
 口を開けて馬鹿面で大空を見上げている人間共は相変わらず大はしゃぎしている。
 もはや、背中に乗った少年などいないというのに……。
 目を細めた竜は狙いを定め、ここぞという場所でいよいよ口を開こうとする。

 だが、どうしたことだろう?

 口が麻痺したようにそれ以上大きく開けない。
 竜に咥えられたまま、してやったりのヒエンが喋る。

「まだ気づかんのか? 図体デカいから神経が鈍いんやな。オマエの上顎と下顎、カタリウムの紐でガッツリ縛ってしもたわ」
「――――――ッ!」

 塔の上で待機していた時、ヒエンは事前に二本のカタリウムの紐を紋つなぎで長い一本にして、更にその端に固止め結びを作っておいた。
 竜に咥えられて口の中に収まったということは、同時にヒエンは相手の死角に入ったことを意味している。
 ヒエンはそこで存分に捕縄術の技を駆使することができた。
 胴体の動きは封じられていたが、両腕は自由だった。
 まず黒帯から束ねていたカタリウムの紐を取り出し、弛めた固止め結びの輪っかを下顎に掛けて強く結んだ上に更にもう一度巻いた。
 それから上顎に紐を通してグルリと巻き、それを更に下顎を巻いた部分にねじ結びを完成させた。
 普通の麻縄ならばこの程度の縛り具合で竜の口を封じることなど到底できないが、カタリウム製の紐は強度がケタ違いである。
 閉じることはできても、ヒエンを咥えている以上にその口を大きく開けることはできない。

「痛快やな。オマエ、自分が言うたこと覚えてるか? 『貴様のその減らず口、この儂が永遠に封じることを約束しよう』……今の状態どうや? 口を封じられてるんオマエやんけ。しかも、ウチはあん時に予告までしたったんやで。『オマエの目の前で好きなだけ見せたる』て。……どや? オマエの口先縛ってるカタリウムの紐が見えるか?」

 竜は怒りのあまり戦慄いている。
 己の不甲斐なさと人間の娘の無礼さに、喉の奥を唸らせて悔しさを表現した。

「今頃になって威嚇しても無駄やで。勝負アリや。オマエはこれで人を咥えることはできん。海トカゲも今おる奴らで最後や。のみならず、物を食うこともできんようなったオマエはこのままウチと一緒に死んでしまうんや」

 竜は何も言い返せない。
 唸るのが精いっぱいだ。

「師範に見てもらいたかったわ。オマエはウチが作った生涯最高の"作品"やからな。……どや、最後の晩餐でこのウチを食うてみるか? ウチもオマエの口から出られへん。どっちにしろ、このままここで死ぬ運命やか……ッ? な、何やあああああああああああああぁ――ッ!」

 突然、竜が猛スピードで進み出した。
 鼓膜が破れそうな激痛がヒエンを襲う。
 反射的に両耳をふさぐが気休めにもならない。
 まともに息もできないまま、時間と空間が音速で通り過ぎて行く。

 早くも海が見える。
 ヒエンを咥えた竜はあっという間にシバルウーニ大陸を離れて、南北のナニワーム島と竜観庁を通過し、再び広大な紺碧の海上へと出た。
 黒帯に挟まっていた最後の麻縄が凄まじい風圧によってその綺麗な海へと落ちていく。
 気がつけば、頭の鉢巻はとっくになかった。
 これは奇行じゃない。
 何らかの目的があって高速で移動しているだけだ。

(竜が向かう場所言うたら火山島一択や。そこにはウチが結んだカタリウムの紐を解く人物……クイーンがおるやんけッ!)

 この身動きの取れない状態でクイーンズ・ブレスを浴びてしまったら、ヒエン自身がシーリザードとなって人を襲うことになる。
 それだけは絶対に阻止しなければならない。

 しかし、どうやって?

 竜の口を封印し続けるには竜の操り人形であるクイーンを殺すしかない。
 クイーンを殺すには少なくとも竜の口から出なければならない。
 竜の口から出るには自分が結んだカタリウムの紐を自ら解き、なおかつ竜の甘噛みを解除させなければならない……。

(な、何やねん! どう転んでも竜の優位性は揺るがんやんけ!)

 とんちを利かせる時間を与えないよう竜が高速飛行しているのだとすれば、ヒエンはそれを上回るスピードで打開策を講じなければならない。
 一番いいのは、竜の口を封じたままクイーンを殺すことだがそれはあり得ない。

 竜とクイーンを接触させない……これも不可能。

 口の中にいたまま竜を殺す……胴体を咥えられた今の状態では絶対に無理だ。

(クソッ! せっかくウチが縛った竜の口はどっちにしろ解かれる運命にあるやんか!)

 では、カタリウムの紐を解くのは誰か?
 クイーン、もしくはヒエン自身だが、ヒエンがここで紐を解けば竜は当初の計画通り彼女を墜死させるだろう。
 それだと、竜もクイーンも今のままで人間が置かれた状況は何も変わらない。
 火山島に着き、クイーンがカタリウムの紐を解く。その先を想定しなければならない。
 幸いにも、結び目はヒエンの手元にある。
 クイーンは外から手を伸ばして結び目を解かなくてはならない。

(結び目を巡る攻防……いや、ウチは身動きできんから、いきなりクイーンに息を吹きかけられたらその時点で雌雄が決する。クイーンはウチが人間の心失うのを待ってからじっくり結び目を解けば……そやッ! その結び目がクイーンの手の届かんとこにあったらええやん!)

 今の位置ならば、クイーンは難なく結び目に触れることができる。
 その結び目を動かすには……少なくとも紐を解かなくてはならない。

(あかん! これも却下や!)

 絶望的だ。
 自分の命一つを捧げただけでは、竜の野望を食い止めることはできない。

 ヒエンが一晩で考え抜いた作戦も最後の最後で詰めが甘かった。


 万事休す。


 ヒエンは自分のことよりも、冒険の仲間やミチルのことを考えた。

(みんな……すまんな。為す術なしやわ。ウチはアホなりに考えたけどもう限界や。竜もクイーンも結局ウチは何のダメージも与えられんかった。……最低限、海トカゲになってそっちに戻ることだけは避けたい。そやからウチは今から舌噛んで自決する。卑怯なんは重々承知や。――サヨナラ)
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