人を咥えて竜が舞う

よん

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第2章

世界の均衡と蜂蜜酒 5

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 このチルの一言が興奮するユージンの熱を一瞬で奪ってしまった。

「な、何だとッ?」

 声を震わせながら、ユージンはチルに詰め寄って彼女の華奢な両肩をガッシリ掴んだ。

「そ、それじゃあ何か? ザール公が発表したことは全部デタラメだって言いてぇのか?」

 大男のものすごい剣幕にもチルはどこまでも落ち着いていた。

「デタラメではありません。ザール公の指示した検視結果から判断すれば、それは間違いなく正しいことなのです」
「??? どーゆーことだ? 臣長殿は何が言いたいのかさっぱりわかんねぇよ!」

 混乱するユージン。
 チルは彼の丸太のような両手を静かにどける。

「だから言ったでしょう。一刻も早くシーリザードを生け捕りしてください、と。それが叶えば、私はこの世界に住む人々に"シーリザード人間説"を見事に証明してみせます。そして、そのことで崩れかけた世界の均衡を少しでも立て直せると私は自負しています」

 チルは棒立ちのユージンから離れて石壁の隅の棚へと移動する。
 そして引き出しを開けると、パンパンに膨らんだ革袋を取り出し、それらをユージンとヒエンに一つずつ手渡した。
 ズシリと重い。

「とりあえずの軍資金です。金貨で二百枚ずつ入ってます」
「に、二百枚……ってぇと、に、二十万ギリドだとッ?」
「マ、マジかいやぁッ?」

 ヒエンもその途方もない額に驚いた。
 イニアの使者から貰った移動費は一万ギリドだが、それでさえヒエンが今まで手にしたことのない大金だ(そのうち、七千ギリドは実家に置いてきた)。
 イニア港までの船賃が千九百六十ギリドで、イニア港からシバルウ王国凱旋門前までの馬車賃 (乗らなかったが)が金貨一枚の千ギリド、ニーリフの"浮雲亭"一泊一食付きで五十ギリド、さっきまでユージンが飲んでいた蜂蜜酒一瓶はせいぜい六十ギリド程度である。
 二十万ギリドといえば、下級の憲兵が一年稼ぐ給料よりまだ多い。
 二人が驚くのも無理はない。
 庶民ならば、金貨などそうそうお目にかかれない希少な硬貨なのだ。

「そんなに驚かないでください。二人にこれからやってもらおうとする任務にしては、私はむしろ少なすぎると思っています。しかし、これ以上渡すと却って旅の邪魔になってしまうでしょう。無論、成功報酬はこの比ではありません」 
「……ま、まだ引き受けると決めたわけじゃねぇけどよ」

 ユージンは思わず垂れるヨダレを黒のガントレットで拭きながら、

「一応訊いとくが、そ、その成功報酬ってのは幾ら払うつもりだ?」
「幾らでも。あなた方が望むのであれば、私の資産をそっくりそのまま差し上げてもかまいません」

 それを聞いたユージンは飛び上がって「やるやるやるやるオレやるッ! 是非ともこのオレ達にやらせてくださいッ!」

 などと、勝手にヒエンの分まで承諾してしまった。
 だが、ヒエンは浮かれることなく好条件を提示したチルを睨みつける。

「話がうますぎる。ウチは信用せん」
「逆の立場なら私だって信じませんね」

 チルにとってその返事は想定内だった。

「どのみち、計画が失敗すれば私はギロチンで首を刎ねられる運命なのです。家臣頭とはいえ、誰にも相談なく勝手に行動を起こそうとしているのですからね。死んでしまえば、お金など何の役にも立ちません」
「もし成功したら?」
「仮定の話は無意味でしょう。バラ色の夢を見る前に……」

 そこで言葉を切って、革袋の中身に興奮するユージンに一瞥をくれてからチルは話を続ける。

「まずあなた達はシーリザードをどのようにして生け捕りにするかを具体的に考えなくてはなりません。私にできることは……ヒエン、あなたにユージン・ナガロックという最高のパートナーを引き合わせることだけ。そして今のところ、私の役目はここで終わりました。策を授けることは何一つとしてできません」
「最高のパートナー?」

 ヒエンは怪訝な表情で大金に目が眩んで小躍りする中年の白髪オヤジを見た。

「……アレがか?」

 チルは深々と頷く。

「ユージン・ナガロックは超一流の傭兵です。大陸最強の組み技系格闘家グラップラーと評してもよいでしょう。彼はシーリザードを素手で殺せる唯一の戦士なのです」

 もう一度、ヒエンはユージンを見る。
 革袋にブチュブチュとキスをしている様が、目を背けたくなるほどみっともない。
 おまけに超一流の不細工ときている。
 単なる酔っ払いで、金の亡者と評する方が的確だろう。

「そして、ヒエン・ヤマト」

 チルは道着の娘を指さした。

「あなたは誰よりも早く敵の動きを封じることができる。……凱旋門前で憲兵相手に派手な立ち振る舞いをやったそうですね。できれば、キラース相手にその腕前を披露してほしかったところですが」

(コイツ、まだ言うか……)

 再度その名前をチルが口にしたことで、ヒエンは出すつもりはなかったカードをここで切ることに決めた。

「オマエを広場の真ん中で緊縛したってもええで。その落ち着き払った綺麗な顔が苦痛と恥辱にゆがんだら、さぞかし愉快な"作品"になるやろな」

 ヒエンは捕縛した相手を"作品"と呼んでいる。
 それは画家の父親による影響だった。

「作品?」

 ヒエンは頷く。

「最高傑作になること間違いなしや。の澄まし顔のおねーさん」

 今まで常に沈着冷静を保っていたチルが一瞬だけ虚を突かれた顔を見せる。
 そのピンと張り詰めた空気に、浮かれまくっていたユージンも我に返って二人の女に目をやった。

「私が"海トカゲ"というナニワーム独特の表現を使ったからそう思うのですか? あれは各国共通の伝承なのですよ。知ってる者は確かに多くはないですが……」
「違う。そんな単純なもんやない。ウチは最初からオマエの喋り方に違和感を感じてたんや。無理してナニワームのナマリ隠して喋ってるんがウチにはようわかんねん。まぁ、こんな立派な王都のお城に暮らすんやったら、ウチらの言葉は少々下品すぎるからしゃあないけどな。……それとも」

 ヒエンは意味ありげにニヤリと笑う。

「素性を隠さなあかん理由でもあんのかな?」

 チルは感情を表に出さないで無言を貫いているが、怒っていることは明白だ。
 その視線から蒼白い炎がメラメラと燃えている。
 一方、ヒエンはその炎を全身に浴びつつ、こちらも無言で挑発し続けている。
 男社会で生き抜いてきた猛者のユージンも女同士の争いには慣れていなかった。
 彼はオロオロしながらも、これといった仲裁の言葉が浮かばなかった。

「……それで」

 口火を切ったのはチルだった。

「あなたは私に負けを認めて、おめおめとナニワームの汚い田舎町へ逃げるのですか?」
「言うてくれるやんけ、チル臣長殿」

 声を震わせたヒエンは二十万ギリドの入った革袋をおもいきり床に叩きつけて叫んだ。

「おい、ユージン! いつまでもこんな辛気臭いところにおったら時間の無駄や! ついてこい! ウチに考えがある!」
「も、もったいねえ」

 皮袋から飛び出た金貨をユージンはしゃがんで拾おうとする。

「はよ来い、ボケッ! そんなセコい金どうでもえぇわ! チル臣長殿のお望み通り、海トカゲ生け捕りにしてウチらで全財産ぶんどったらえぇやんけ!」

 一気に捲し立てると、ヒエンはさっさと部屋を出る。

「……考えがあるだと? マジかよ。頼りになるねえ、ウチのお姫様は」

 ユージンはニタニタ笑い、落ちた金貨を三枚拾ってからチルを見上げる。

「約束だぜ? オレ達がシーリザードを生け捕りしたら臣長殿の全資産を頂戴するからな」

 チルは落ち着いて頷く。
 ユージンはその顔に満足して部屋を出て行こうとしたが、もう一度しゃがんで床に転がる金貨を鷲掴みしてから慌ててヒエンを追った。

 一人その場に残ったチルは部屋を見回す。

 ひどい有様だ。
 倒された机に壊された椅子、蜂蜜酒の臭いが染み付いた白い絨毯の上には、善意を踏みにじられた金貨入りの革袋……。

 屈辱は一瞬で過ぎ去る。

 チルは……笑った。

 大声を出して、そのまましばらくカラカラと狂ったように笑いだした。
 その笑いが何を意味するのかは彼女にしかわからない。
 彼女の本質に潜む何かがそれを望み、そして彼女はそれに応じたのである。
 何事かと従者の女が一人の衛兵を連れ添って部屋に入って来た時、チルはいつものように落ち着き払っていた。
 そして、顔色一つ変えずに指示を出す。

「今すぐ絨毯と椅子を新調してください。……それから、そちらに落ちている金貨は適当に処分なさい。あなた達だけにわかるように、ね」
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