人を咥えて竜が舞う

よん

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第2章

世界の均衡と蜂蜜酒 4

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 ヒエンにはそれがすぐに呑み込めなかった。
 ユージンという大男にとってもそれは初耳だったようだ。

「……ど、どーゆーことだ、臣長殿よ? オレはその女を強いかどうか見極めるだけでここに呼ばれたんじゃねぇのか?」
「オマエも騙されたクチか。ウチかてその女に護身術教えるために、はるばるナニワームから船乗って来たんや。……嘘なんはわかってたけどな。それにしても、えらい話が違うやんか」
「秘密のミッションですから仕方ありません。これはここにいる私達三人しか知らないことです。事前にあなた達に教えれば、確実に他の者に洩れていました」

 チル臣長はそこでいったん言葉を切って補足する。

「キラース騎兵は何か感づいていたようですが」
「ああ、さっき来たあの伊達男か。……ふふん、馬鹿な奴だぜ」
「な、何やて?」

 ヒエンはユージンに腹を立てるより、ここに来たキラースが今どこにいて何をしているのかが気になった。

「おい、キラースがどうかしたんか? アイツ、ウチがここに到着したことを報告しに来ただけやろ?」

 ユージン、さっきのお返しとばかりヒエンの問いに答えず、

「必死だな、娘。野郎に惚れたか?」

 と、口笛を吹いて冷やかした。
 一気に顔が真っ赤になる。
 耳たぶが熱い。
 それをごまかそうと、ヒエンはすぐに質問する相手を変えた。

「おい、チル! キラースに何してん? アイツはオマエの忠実な家来やろ?」

 チルは冷ややかに唇をゆがめる。

「どうでしょう? 私の下した命令を実行しない部下は忠実とは言いかねます」

 ヒエンはその意味をすぐに察した。

「オマエの指示通り、このウチを襲わんかったからか? アイツはどうなってん?」
「どうもしません。あの者は報告を終えると、自ら私の配下を辞してどこかへ行ってしまいました。しかし、そのようなつまらないことはこの際どうでもよいのです」
「つ、つまらない? どうでもええやて……?」

 肩を震わせるヒエン、怒りのあまり言葉を失ってしまう。
 冷静なチルはコクリと頷く。


「世界の均衡が崩れようとしています。個人の行き先などにかまっている場合ではないくらい、事態は逼迫しているのです」
「均衡が崩れる? そりゃ穏やかじゃねぇな。具体的にどんな?」

 ユージンはシャックリをしながら訊いた。

「じきに戦争が起きます」

 チルは感情を込めずにそう言った。
 それを聞いたヒエンは背筋が凍り、ユージンはゴクリと唾を呑みこんだ。

「それって信憑性あるのか?」
「あなたもザールの人間ならわかるはず。彼らは密かに軍備拡張を推し進めつつ、聖生神の崩御をひたすら待っているのです。聖生神亡き後、カリスマ性のカケラもない道楽息子のジョーイ皇子がシバルウ十七世となり、三百年続いた泰平の世を無事に引き継げると思いますか?」
「無理だな」

 ユージンは即答する。

「あの馬鹿皇子が王になり聖生神として奉られるんなら、代わりにこのオレが即位してもいいくらいだ。あんな中年の酩酊皇子を慕う民衆なんて一人もいやしねぇよ。……だがな、ザール公も馬鹿じゃねぇぜ。オレはザール公の命令に背きその結果として国外追放の身となったが、それでいて今もあのお方は希代の名君だと思ってる。わざわざ負け戦を仕掛けたりしねぇぞ」

 チルは哀しそうに首を横に振った。

「その通り。ザール公は賢帝なのです。自ら孤立する道を選んだりはしません」

 すると、ユージンは真剣な顔つきでチルに詰め寄った。

「まさか……テフランドと?」

 チルは頷く。

「それに加え、イニアもシバルウ王家の謀反に加わるでしょう。私が知る限り、遠く離れたナニワーム以外……大陸三公国が近いうちに密約を結ぶと推算しています。後はタイミングの問題です」
「証拠は?」
「証拠はありません。あくまで推算です。しかし、私はザール公国に密偵を放っているので、好ましくない情報がどんどん入ってきます。彼らは今、巨大な攻城兵器を量産しています。単なるモニュメントにしてはいささか物騒すぎやしませんか?」

 返す言葉もないユージン。

「私が注視しているのは、ザールによるテフスペリア大森林の大規模かつ不必要な伐採です。これはずっと以前から行われていたことですが、ここ数年は異様にその激しさを増しています。テフランド領内の木を他国のザールがあれだけ欲しがる理由は一つしかありません。攻城兵器だけでなく、破城槌やカタパルト、櫓を組むのにも大量の木材を要します。勿論、個々の兵の武器にも木は欠かせません。硬い岩盤の山岳地帯に囲まれるザール公国にとって、野放しとなっているテフランド西部の大森林は格好の場なのです」

 チルは続ける。

「テフランド公国は領地が広大なわりに、その半数以上は未開の森林で占められています。シーリザードの上陸に備えて、湾岸防衛にも多くの兵を出さなければなりません。国防面から見ればテフランドは弱小なのです。ところが、ザール公国は大陸の北部に位置するので、シーリザードのために兵を配備する必要はありません。つまり、ザール兵は人間だけを討つ準備をすればよいのです」
「ようわからんな」

 黙って聞いていたヒエンだったが、ようやく口を開いた。

「ウチには政治とかシバルウーニの地形とかどうでもええ。戦争は困るけど、それとウチらがやらなあかん"シーリザードの生け捕り"に何の関係があんねん?」
「私は大局的に物事を見ています」
「その結果が"シーリザードの生け捕り"か?」
「それはあくまで過程でしかありません。私は更にその先を見据えています」

 ヒエンはイラッとして壁を平手で叩く。

「その先を説明せえ! あんなバケモン生け捕りするだけで戦争は回避されんのか?」
「おい、小娘。『生け捕りするだけ』だと? 気安く言うんじゃねぇよ」

 ユージンのシャックリはいつの間にか止まっている。

「オマエには海衛兵の経験なんて当然ないだろうから教えてやるが、シバルウ王国建国以前から今日に至るまで、シーリザードを生け捕りにした事例は一つとして残っちゃいねえ。奴を中途半端に生かしといたら必ずこっちが殺されるからな。……わからねぇのか? 臣長殿は無理難題をこのオレ達に吹っかけてんだよ」

 その言葉を受けてヒエンはチルを見たが、その表情は依然として氷のように冷え切ったままである。

「世界の均衡が崩れようとしています」

 強調するようにチルはそれを繰り返す。

「聖生神がお亡くなりになれば私は強力な後ろ盾を失い、道楽息子とその取り巻きに殺されるでしょう。しかし、それは問題ではありません」

 既に死を受け入れているチル、呆然と自分を見つめるヒエンに語りかける。

「若いあなたでも有名な伝承くらいは知っているでしょう? 『竜は南より飛来し、人を咥えて南へと戻る。海トカゲもまた南より渡りて人を喰らう。是即ち海トカゲもまた人なり』。……わかりますか? 大昔の人達は、シーリザードは竜によって連れ去られた人間の成れの果てと本気で考えていたのですよ」
「知ってる。死んだオバアに何回も聞いたし、島の年寄りはいまだにそれを信じてるからな」
「ところが、それが誤りだと実証してみせた人物がいます。現ザール公です」

 チルは説明の続きをザール出身のユージンに託した。

「オレが八歳の頃だ。よく覚えてる。親父の蜂蜜酒を初めてコッソリ飲んで力一杯にぶん殴られた年だったからな。いまだにその時できたタンコブが引っ込まねえ」
「今度はウチがタンコブ作ったろか? 余計な注釈はいらんねん」
「そう急くな。……ザール公は迷信や宗教が大嫌いだった。今でも聖生神という形而上都合よくでっち上げた存在をよく思っちゃいない」
「口を慎みなさい。私はその形而上都合よくでっち上げた神の巫女なのですよ」

 そうたしなめたチルも本気で怒ってはいない。
 白装束を脱いだ彼女自身、信仰心はとっくに捨てている。
 それを見抜いているユージンはニヤッと笑う。

「ザール公はシーリザードの屍骸を五体ほどテフランドから買い取って、それを優秀な医師団に命じて徹底的に解剖させた。骨格、臓器、歯の本数、血液、肌……どれをとっても人間のそれとは違っていた。外見は当然として中身だって似ても似つかなかったんだ。そうして、彼は"シーリザード人間説"が何の根拠もないデマだと世間に証明してみせた。これは大陸中全ての海衛兵にとって大きすぎるくらいの朗報だったんだ。何故だかわかるか?」

 少しだけ考えたヒエン。

「兵の士気?」
「そうだ。誰だって『コイツ、元は人間じゃねぇだろうな?』と思いながらシーリザードと対峙したら少なからず手加減しちまうだろ? だが、ザール公の歴史的な検視結果は兵の迷いを払拭させることに成功した。おかげで兵は家畜を屠るみてえに躊躇なくシーリザードを殺せるようになったんだ。これは間接的に多くの海衛兵の命を救ったってことになる。本当にスゲーお人だぜ。偉大なザール公こそ次期シバルウ王にふさわしい」

 ユージンはザール公のことを誇らしげに語るが、その彼自身、ザール公から追放処分を受けているという。
 妙なオッサンだとヒエンは思った。

「残念ですが、シーリザードは人間の成れの果てです」
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