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4、小さな幸せと大きな幸せ

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最近ふと思うのは「私にとっての大きな幸せって何だろう」という事だ。

「障害者が恋愛をする事は健常者よりも難しいという話」という記事に書いたように、今のパートナーとは幸せになりたいと思えないし、幸せになれるとも思わない。だから当然、結婚したいという気持ちは全くない。これは相手に限らず誰とでもそうだ。(離婚を経験して結婚が必ずしも幸せとは限らないと身をもって知ったから)

推しを応援したり、ドラマや映画を見たり、文章を書いたりと、小さな幸せは沢山ある。「幸せのポイントカード」なるものがあって「小さな幸せ」を集めてある程度貯まると「大きな幸せ」と交換できますよ!みたいな制度があったらきっと面白いし、モチベーションが上がりそうな気がする。だが、もちろん現実にそんなものは存在しない。(小説にしたら面白そうではあるが)

日常にほんのちょっとの幸せがあればいいと思う人もいるかもしれない。もちろんそれも良いと思う。しかし、私はそれとは別に大きな幸せを手に入れたいという思いがある。私にとっての大きな幸せというのは辛くて苦しい毎日を生き抜く為の「糧」だ。「目標」「夢」という意味でもある。

人は皆、何かを糧にして生きている。それは家族や友人、恋人など人間関係だったり、好きな音楽、アーティスト、俳優、漫画やアニメなど人それぞれ。糧があるからこそ努力が出来るし、モチベーションも上がる。人間にとってなくてはならない大事なものである。

私にはかつて「作家になりたい」という大きな夢があった。当時はそれが私にとっての「大きな幸せ」だった。その為に小説を書き、文学賞やこのサイトで定期的に行われているコンテストに応募をした。残念な結果ではあったが、文学賞や公募に挑戦する事はやってみたい事のひとつだったので満足だった。

その後、縁あってYouTubeのとあるチャンネルでシナリオを書く仕事をするようになった。期間は半年もなかった(ような気がする)が合計20本の作品を書き上げる事が出来た。YouTubeなのでプロのライターという訳ではなかったが、この「シナリオライター」という仕事を通して「趣味を仕事にする」という事の厳しさを私は思い知った。

作家やライターなど「文章を書く仕事」には必ず出来上がった作品をチェックする人がいる。それが所謂「校正」とか「編集」とか言われるような人達だ。私にも担当さんが付いてくれており、毎回締め切りまでに作品を仕上げてチェックしてもらっていた。

チャンネルの立ち上げから校正を担当しているその方はとても仕事が出来る人だった。文章や漢字など細かな誤りを全て訂正し、シナリオの矛盾を的確に示し、良いシナリオには絶賛してくれた。飴と鞭の使い分けがとても上手な人で、私はその担当さんのおかげでだいぶ文章力を鍛えられたような気がする。何より、私の書いたシナリオを喜んでくれた人が沢山いたのはその担当さんのおかげだと思っている。

だが、このやり取りは精神の弱い私には毎回とても辛く、作品を送る度に「このシナリオで大丈夫かな……」とハラハラして、シナリオの矛盾を指摘される度にショックを受けながら必死で修正したものだった。「文章を書く仕事」をしている人なら誰でも通る道だし、慣れてしまえばいちいちショックを受ける事もなくなる。何より報酬が広告料から出ているとはいえ見てくれている沢山の人達がいる事を考えるとシナリオの矛盾は絶対にあってはならない。だから修正は必要な作業なのだ。それは私自身も充分理解していたのだが、他人から注意を受けたり指摘される事が苦手な私は最後まで慣れる事はなかった。

また、新しい話を作り続ける事の苦しさも初めて味わった。趣味だったら好きな時に自分のペースで書けるし、書けなくなったら中断する事も出来る。しかし、仕事だとそうはいかない。どんなにスランプに陥っても締め切りまでに何とか文章を絞り出し、知恵やアイデアを絞り出し、必死に書き上げなければならないのだ。スランプの症状は様々だった。文章が出て来ない日もあったし、そもそも話が思い浮かばない日もあった。

私は次第に追い込まれていった。あまりにも辛くて文章を書くことが嫌いになりそうだった。ちょうどその時、転職に向けて障害者向けの作業所に通う事を決めたのもあり、私はシナリオライターを辞めた。(担当さん達からは引き止められたが、私のシナリオを気に入ってくれての事だったのでとても複雑ではあった)

プロの作家になったら完全に文章が嫌いになってしまう。例え読んでくれる人がいなくても、自分が書きたいと思う話を自由に書いている方が幸せだと思い、私は作家になる夢を諦めた。好きな事を仕事にするというのは大変な事だとは聞いていたが、私は今回それを身を持って実感したのだ。現在は文章を書くことでストレスの発散をしたり、自分の気持ちの整理をする時に役立っている。

恐らくもう作家を目指す事はないと思うが、この経験は私にとって一生涯忘れらないものとなったのだった。(でも生涯に一冊は自分の本を出してみたいという思いは今もある)

では、今の私にとっての「大きな幸せ」とは一体何なのだろうか?様々考えている内に二つの事が浮かんだ。

ひとつはやはり「一生涯快適に暮らせる土地に住む事」である。もちろん良い土地、家に住むのは夢だが、私の収入ではたかが知れてるというのが辛い。だから高級でなくてもいいので自分の収入と障害にピッタリ合った終の住処を見つけたい。

もうひとつは「北海道旅行をする事」である。ただの旅行ではない。北海道の中で行きたい場所を全て回る。即ち「北海道一周旅行」だ。北海道についてはこれまで何度も住んでいた時の事をエッセイに書いたり、その時の体験を元に小説を書いて来たが、私にとって北海道はとても思い入れのある特別な土地だ。

住んでいた時は全く分からなかったが、北海道は一度出てしまうと再び訪れる事はかなり難しい。札幌の高校を卒業してから神奈川に移住して今年で20年。その間に北海道に行けたのはたったの2回である。理由は二つ。旅費が高額な事と時間がかかる為である。それなりに良い給料をもらえて有給なども取りやすい仕事をしていれば一年に一度のペースで行けるかもしれない。

だが、これまで様々なエッセイに書いて来たように私は障害の影響で正社員になった事がなく、ずっと非正規で働いて来た。お金も時間もなかった。(旅行より趣味を優先していた時期もあったというのもあるが)では、そんな私が何故、2回の北海道旅行が出来たのか。

1回目は高校を卒業して間もない頃だった。目的は高校時代の友人に会う為。20年前の事なので記憶が定かではないが、定山渓じょうざんけいの古い宿で一泊をして、翌日に友人の家に一泊をしたおかげで旅費を節約できたのだ。定山渓は北海道の西側に位置する今では温泉地として全国的に有名になったが、その頃はまだ寂れた温泉街だった。

もちろん温泉に入ったのだが、その記憶は一切なく、残っているのは部屋にカメムシが出没した事、カメムシを退治する為のガムテープ(敵に対して悪臭を放つのでティッシュで退治が出来ない)が部屋に常備されていた事、部屋には風呂トイレ洗面所がなく共同だった事というあまり嬉しくない記憶だ。北海道にはゴ●ブリがおらず快適だが、その代わり秋になるとカメムシが大量発生する。私にとって奴らは天敵だ。小学校の時に白い服を着ていたら窓から入って来たそいつに襲われたのだ。(奴らは白いものに反応する)授業中だったのでクラスは大パニック。私はその白い洋服を家に帰って速攻で捨てた。

それ以来奴らに対してトラウマを抱くようになった。一度、自宅ペンションの外壁にびっしりくっついているのを見た時は震え上がり、壁に近い外階段を上らずに柱をよじ登って家の中に入った事もある。

だから、旅館で再び奴に遭遇した時は絶望的な気持ちになった。しかし、そんな事でスタッフを呼ぶ訳にはいかず(呼ぶ人もいるかもしれないが私には無理だった)ガムテープを持ってしばらく格闘して、退治に成功。が、奴を貼り付けたガムテープを折り畳みゴミ箱に捨てるという行為すら気持ち悪かったので、奴を壁に貼り付け(はりつけともいう)にしたまま私は旅館を後にした。掃除に入ったスタッフは驚いたに違いない。

二日目に泊まった友人宅についてだが、友人は兄弟、姉妹が沢山いる大家族だった。だから家の中も凄まじい状況で、特に記憶に残っているのは風呂場に使い古され水垢がべったりくっついたシャンプーなどのボトルが積み重なっていた事である。あまりにもその光景が衝撃的だった為か残念ながらその他の記憶が一切ない。(その友人は現在音信不通)

2回目に訪れたのは30代前半頃。札幌ドームで行われる嵐のライブ遠征の為だった。「入院中に励まされたあの曲やこの曲」の記事でも少し触れたが、札幌ドームを埋められるアーティストは少ない。当時、絶大な人気を誇る嵐はチケット争奪戦が激しく、ファンクラブに入っていても取れない事が多かった。だからファン達は都市部よりもチケットを取りやすい地方公演に積極的に足を運んだ。私も例外ではなかった。その頃は実家暮らしだったし、家に入れる以外は給料の殆どを趣味に当てていたのでどうせ行くなら知っている土地が良いと思い切って札幌ドームを選んだのだ。

時間とお金の関係でライブ以外に行けたのは新千歳空港の中と、大通り公園ぐらいだったが、久々に訪れた北海道は私にとってとても感慨深いものだった。帰りの飛行機の中から外を見て懐かしさと離れる寂しさのあまり目頭が熱くなったほどだった。そして心に誓った。「必ずまた来る!」と。

話がかなり脱線してしまったが、私の中で北海道はそれぐらい訪れるのが難しくて貴重な土地なのである。住んでいる時に道内の色々な場所に行ったが、どれも幼い頃だったので記憶があまりない事がただただ悲しい。年齢的に次に訪れる時はそれが「人生最後の北海道旅行」になるかもしれない。だから、悔いの残らないよう行ってみたい場所を全て回り、一生の思い出にしたい。その中にはもちろん私が育った町も入っている。出来れば家族全員で行くのが私の夢であり目標である。(パートナーは何故か一緒に行く気満々なのだが、個人的には「一緒に行こうって言ったっけ?」という感じだし、その頃にはとっくのとうに別れている気がする)

何事もそうだが、努力は頑張った分しか成果が出ない。最近、様々考える中で気づいたのは実家を出た時と離婚した時は全く時間と心の余裕がなく、土地や物件が自分に合っているかきちんと粘って探して考えている時間がなかった。その為に最悪な場所に住んでしまった。

結婚した時はきちんと余裕を持って物件を探せたおかげでそれなりに良い物件に住む事が出来たし、土地も住みやすく快適だった。(同棲が決まったのは急だったが、準備期間はそれなりにあった気がする)つまり、努力をすればするほど成功した時に得るものは大きいという事だ。

だから、私はこの引っ越しに全てを賭け、全力で努力をするつもりだ。その先にある「大きな幸せ」を掴み取る為に。
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