真夜中の訪問者

星名雪子

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第二話 真夜中の訪問者

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トイレの中は思ったよりも明るかった。でも、落書きや虫の死骸などがあって公衆トイレらしい気味の悪さもあった。

出入り口付近は外の風が入り込むため、とても寒い。だから、一番奥の個室に入った。暖房も何もないが外にいるよりはマシで、少しホッとした。腕時計に目をやると、間もなく夜の11時を回ろうとしていた。何となく携帯を取り出しておそるおそる電源を入れてみた。

「うわ……やっぱり」

母からの嵐のような着信とメールの通知が表示され、ギョッとした。母には申し訳ないと思いながらもメールも開けずに再び電源を切ってバックに放り込んだ。便器の蓋を閉じてその上に座り、ぼんやりと考え込んだ。

私は一体、これからどうすればいいんだろう。家に帰る気は全くない。かと言って行く当てもない。このままここで夜を過ごすしかない。じゃあ、夜が明けたら……?

考えるのが面倒臭くなってやめた。公園の公衆トイレで夜を明かすなんてどう考えても普通じゃないし、色々な意味で危険だ。不審者に襲われるかもしれない。幽霊に遭遇するかもしれない。でも、この時の私には全てがどうでも良かった。襲われて殺されても構わないし、幽霊に遭遇することも別に何とも思わなかった。今思えば、明らかに精神に異常を来たしていたのだ。

もうすぐ深夜だというのに、公衆トイレの利用者は意外と多かった。この日は金曜日の夜ということもあり、この近くの店で飲んだり遊んだりしている人が多いのだろう。皆、一度入っては用を足してすぐに出て行った。当たり前だが、長居する人は一人もいなかった。

それから数時間後。疲れのせいか眠気に襲われてうとうとしていた私は、誰かの話し声で目が覚めた。それは公衆トイレの外から聞こえた。出入り口付近で若い男女が話をしている。どんな話をしているのかは聞き取れなかった。

腕時計を見ると、深夜1時。こんな時間まで公園で遊んでいるなんて、最近の若者は元気だなぁなどとぼんやり考えていると、

「ちょっと待っててね!」

足音と共に女の声がした。トイレに入るため連れの男に一声掛けたようだ。女は出入り口に近い個室に入った。しばらく物音がする。またすぐに出て行くのだろうと、私は思っていた。

しかし、それっきり何の音も聞こえなくなった。深夜の広い公衆トイレの中は、しん、と静まり返っている。私は息を殺して女が個室を出るのを待ち続けた。でも、1時間、2時間が経っても女が出ていく様子はなかった。それどころか、まるで人の気配が感じられない。外にいるはずの連れの男が「まだ?」とか「どうした?」などと女に呼び掛ける様子もない。こんなに待たされたら間違いなく声を掛けるはずだ。

(おかしいな……もう出て行った?でも、ドアを開ける音もしなかった……)

私は咄嗟に上を見上げた。「姿を消したと思ったら、上から見下ろしていた」などという心霊話によくある現象を思い出したからだ。しかし、当然そこには何もおらず、古びた電灯が時折チカチカと点いたり消えたりしているだけだった。

個室から出て確かめようとドアの鍵に手を掛けたが、躊躇ためらった。さっきの女が個室に入っていてもいなくてもどちらにせよ異常だ。途端に背筋が寒くなった。海面を覗き込んだ時よりも遥かに強い恐怖。先程まではあんなに、幽霊に遭遇しても何とも思わない、などと思っていたのに。

私は腕時計に目をやった。深夜3時。あと2、3時間もすれば夜が明けるだろう。怖いことに変わりないが、夜中に確認するよりは幾分いくぶんマシだ。私は夜が明けるのを待つことにした。その間、公衆トイレの中で物音がすることは一度もなかった。

どこからか鳥のさえずりが聞こえた。待ちくたびれてうとうとしていた私はその爽やかな鳴き声で目を覚ました。天井近くの窓から差し込む太陽の光が、夜が明けたことを告げていた。依然いぜんとして、しん、と静まり返った公衆トイレの中。私はバッグを掴み、深呼吸をすると思い切って個室のドアを開けた。

辺りを見渡したが、誰もいない。ひとつひとつ個室を確認してみたが、ドアは全て開けられており、人の気配は全く感じられなかった。

「どういうこと……?」

人間ではない何か。

そう思った瞬間、背筋がゾクッとした。私は反射的にトイレを飛び出した。当然、外に連れの男はいない。私は逃げるようにその公園を後にした。

街中に出ると少しホッとした。昨日まであれだけ世間との接触を拒んでいたのに。公衆トイレでの一夜の体験が私を世間に引き戻したのかもしれない。

ふと、酷く空腹なことに気づいた。そういえば昨晩から何も食べていない。ちょうど某ハンバーガーショップがあったので、入ることにした。

「いらっしゃいませ!店内でお召し上がりでしょうか?」

若い女性店員はハキハキした口調で満面の笑みを浮かべながら話しかけて来た。自分も接客業をやっていることもあり、愛想の良い店員に対してはこちらも笑顔で対応するようにしている。しかし、この時はとてもそんな余裕はなく声を出すのがやっとだった。無表情で申し訳ないなと思いながらも何とか返事をした。

「……はい」

「ご注文は何になさいますか?」

「えーっと……」

疲れ切っていたのでメニューを選ぶ余裕すらない。たまたま目についた一番安いハンバーガーセットを注文した。死んだような目、疲れ切った表情をしている私を何かがおかしいと思ったのか、女性店員は少し不思議そうに見つめて来た。その視線がその時の私には酷く痛かった。

ハンバーガーの味はあまり感じられず、パサパサしたバンズはまるで乾いたスポンジを口に入れているようだった。何とか全てたいらげると、母に「ごめん、今から帰る」とだけメールをして店を出た。

駅へ向かう途中、再び海辺の公園の前を通った。太陽が昇ったばかりの真冬の空は澄み、朝焼けのオレンジ色に染まっていた。海面は朝日に照らされてキラキラ輝き、静かな波音が心地よく響き渡っていた。昨晩、恐怖を感じた仄暗ほのぐらい海面などどこにも見当たらない。

もしかしたら幻聴だったのかもしれない。精神を病んでいると幻覚や幻聴を見聞きすることもあるからだ。しかし、誰かに聞いたところではっきりとした答えを得られるわけがない。だから、今となっては全てが謎のままである。

あれから10年以上が経つが、今でも海辺の公園の前を通る度に私はこの時のことを、鮮明に思い出すのである。
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