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最終章 恋のあとさき
75話(挿絵あり)
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帰りが遅くなるかもしれないということは家族に話してきてある。
それでも心配はかけたくないから、まだ学校にいることを知らせるメールだけは送っておいた。
私道入り口に着くと、今来た道を振り返る。
梅香苑に続く道一点を見つめていると、
「お嬢様、外にいられてはお身体に障ります」
声をかけてくれたのは警備員さんだった。
「ツカサが来るのを待っているだけなので……」
「それでしたら、何もないところではありますが警備室へ入られてください。中にいても外の様子はご覧いただけます」
「きっと、待っても十分くらいだと思います。だから……大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
警備員さんはさらに何か言おうとしたけれど、私は背を向けることで意思を通した。
時計が七時五分を指したとき、遠くにツカサの姿を見つけた。
数十メートル離れたところから目が合う。
ツカサは不機嫌そうな表情で、こちらへ向かってやってくる。
でも、視線を合わせた状態でこちらへ向かってくるからといって、安心はできない。
藤山にある自宅へ帰るためにはここを通らなくてはいけない。だから進行方向を変えないだけであって、私の話を聞いてくれる保証はないのだ。
自分の前を通過されたらどうしよう……。
ツカサが一歩踏み出すたびに不安は膨れ上がる。
すぐ近くまで来て、ツカサは足を止めた。
「何……」
「話、する時間、もらえる?」
緊張の極限で、思うように言葉を発せなかった。
ツカサは数秒沈黙して、
「かまわない。……カフェに行こう」
カフェへ向かって歩き始めたツカサを、コートの袖を引張って引き止める。
「ごめん、人のいないところで話したい。……梅香苑のベンチでもいい?」
「寒いけど?」
「大丈夫」
答えてから気づく。
「ごめんっ、ツカサが寒いっ!?」
「いや、俺は大丈夫だけど……寒さは身体に堪えるんじゃない?」
「……私は大丈夫」
ツカサは何か言いたそうだったけれど、それ以上何を言うことなく私の前を歩き始めた。
ツカサは人の行き来が少ない小道を選び、その奥にあるベンチに座った。そこへ行く途中、ツカサが自販機で飲み物を買い、今は私の手の中でカイロの役割をしている。
「話って?」
待ち伏せていたのは私なのに、改めて訊かれると困ってしまう。
ただ、ツカサが好きだと伝えたいだけなのだ。
こういうとき、前置きにはどんな言葉が相応しいのだろう。
ふたりの間を冷たい風が吹き抜けていく。けれど、不思議と寒いとは感じない。
隣にツカサがいるだけで、何もかもが違うように思える。
人気がないところでは、一緒にいる人の存在をより強く感じるものなのだと知った。
「翠、時間がかかるなら――」
「っ……好きっ」
帰ると言われるのも場所を変えると言われるのも、明日へ先延ばしにされるのも、すべてが嫌だった。
そしたら、口をついたのは気持ちを表す二文字の言葉だけだった。
ツカサの表情が完全に固まってしまったことに気づいて慌てる。
「突然でごめんなさい。でも……すごく好きなの。好きっていう言葉以外にどんな言葉で伝えたらいいのかわからなくて――ごめんなさい……」
気持ちを伝えてるのは難しい。難しいうえに、どうしてこんなに悲しいのか……。
少し考えれば答えはすぐに出た。
今好きだと伝えたところでツカサの留学はもう決まっているのだ。一緒にいられるのは三月末まで。
だから、悲しい――
「……翠はなんでいつも唐突なんだ」
息を吐き出すのと同時にそう言われた。
「多少の行動予測くらいさせろよ……」
「……そんなこと言われても」
困る。自分だってこんなつもりはなかった。でも、いざツカサが前にいると何から話したらいいのかわからなくて、でも気持ちを伝えたい思いは強くて、気がついたらこうなっていたのだ。
「ほかに言うことは……?」
「……ごめんなさい」
「何に対して?」
「よくわからない……たくさんありすぎて」
「それ、一つひとつ話すことができたら謝罪も受け付けるんだけど……」
言われて一つひとつを思い浮かべる。
「あまりにも多いから、一括りにしてもいい?」
「……翠は几帳面なのか大雑把なのかわからないな。とりあえず言ってみれば?」
「……答えを出さなかったこと。私が出した答えはツカサの答えにはなっていなかったこと。ごめんなさい」
いざ口にしてみると、あまりにも言葉が足りない気がして慌てて言葉を継ぎ足す。
「私、秋斗さんのこともツカサのことも失いたくなかったの。同時に、傷つけたくないとも思ってた。でも――本当は自分が傷つくのが怖くて答えを出せなかったのかもしれないって……退院前にツカサに言われるまで気づけなかったの。教えてくれて――ありがとう」
もう遅い――きっと遅すぎたんだ。
でも、教えてくれたから気づけた。それなら、お礼だけでも伝えたい。
思えば、ツカサには色々なことを教えてもらってきた。
いつも側にいて、いつも厳しくて、でも、たくさんのことを教えてくれた人。
どれほどこっぴどく突き放しても、そのあとには必ず手を差し伸べてくれる人だった。
不意に、過去の経験に怯え足を踏み出せなくなってしまったときのことを思い出す。
病院までの道のりをツカサが付き添ってくれたあのとき――「今」を見て先に生かせ、と教えてくれた。それでも怖いと思うなら、何度でも上書きしてくれると、壊れるたびにリカバリーしてくれると言ってくれた。
「……ツカサ、嘘、つく?」
「さぁ、どうかな……」
「嘘に、しないで――私が壊れるたびにリカバリーしてくれるって言ったの……無効にしないでっ」
コーンポタージュの缶を握る手に力がこもる。視線はツカサの方を向いてはいなかった。
枯れた葉に固定したままツカサの反応を待つ。
反応が返ってくるまでの時間は恐怖以外の何ものでもない。
こんなに前の話を持ち出して、留学しないでと言っているのと変わらない。側にいてほしいと言っているのと変わらない。
こんなこと、言うつもりなかったのに。どうして――
「翠」
声をかけられてもツカサの方を向くのが怖かった。返される言葉が怖かった。
言うだけ言って、返事をもらう心構えなんてできていなかった。
「翠」
頑なに下を向いていると、強引に身体の向きを変えられた。その拍子に手から缶が落ちる。
トサ、と地面に落ちる缶を、意識して目で追う。
顔だけは直視しないように、目だけは合わせないように必死に顔を背けていると、
「いい加減こっちを向け」
低い声で言われ従ってしまう。
恐る恐る隣に座るツカサを、目の前に座るツカサを見ると、とても真剣な目をしていた。
「悪い。嘘はつく……というか、ついた」
その言葉に胸が抉られ目尻に涙が滲む。
「違う……そうじゃない。泣く前に最後まで聞いてほしい」
……何、を?
「俺は留学しない」
どういう、こと……?
留学することが嘘なの? それとも、留学をしないことが嘘なの?
どっち……?
「翠が……翠が動かないなら、何をしても動かないなら留学するつもりでいた。それは話したとおり、三月末で退学届けを出すつもりでいた。でも――翠は動いた……。だから、留学の話はなしだ」
「留学、しない……? 本当に……?」
「必要のない嘘はつかない」
涙が滲むではすまなくなった。涙は次々と頬を伝いだす。
「だから、あの約束は有効……。翠の側にいる。またバカなこと考えて空回りして泣いていたら、いつだってリカバリーしてやる。それは嘘じゃない」
留学しないということにほっとして、側にいてくれるという言葉に涙が止まらなくなる。
「泣くな……」
言われて胸に引き寄せられた。
ピタリとくっつくとあたたかく感じた。そのぬくもりを求めるようにツカサの背に手を回す。
ここにいる……ツカサがいる。手の届くところに――
(イラスト:涼倉かのこ様)
確かな実感を貪欲に欲し、手に力をこめた。なのに、反する力が加えられる。
「そんなに泣くな……」
目が合うと、ツカサの顔が近づいてきてキスをされた。
「くちびる……つめたい」
「翠も。……目、瞑ってくれると助かるんだけど……」
言われて、ぎゅっと目を瞑った。
「そんなに力入れなくてもいいけど……」
言われた直後、また唇が重なった。
好き、大好き。ツカサが好き……。
唇が離れ、再度抱きしめられる。
「好き……大好き……」
ツカサは何も言わない。けれど、身体に回された腕から力を感じる。より強く抱き締めてもらえるだけで十分だった。
「寒くないか……?」
「ツカサがあたたかいから……寒くない」
答えてまたキスをされる。
そうして何度キスを交わしたかわからない。数えられないほどキスをしたのか、数えられるほど余裕がなかったのか……。
ただ、とても幸せだと思った。
好きな人と一緒にいられることが。好きな人に触れられることが。キスをすることが、とても幸せなことだと思えた。
怖く、なかった……。もっと、と思った。
ツカサから離れたくない、このままずっと放さないでほしい。
「好き……」
「何度言うつもり……?」
「わからない……」
でも、私も訊きたい。
私が「好き」と言うたびにキスをしてくれる。それはいつまで続けてくれるの……?
私はキスをねだるように、「好き」と言い続けた。
「翠……もう八時。さすがにこれ以上は身体に良くない」
言われて渋々ツカサから離れる。
「マンションまで送っていく。その前に家に連絡」
「はい」
家に連絡をすると唯兄が「迎えに行こうか?」と言ってくれた。
私は思わずツカサの顔を見てしまう。
するとツカサが携帯を手に取り、
「自分が送るから不要です」
言うなり切ってしまうから少し笑った。
「何?」
「ううん……ツカサと唯兄っていつもこんな感じだなって思っただけ」
「……これは唯さんが悪いと思うけど?」
確かに、唯兄は少しツカサをいじりすぎだと思う。だから、私は笑うに留めた。
「手……つないでもいい?」
訊くと、返事の代わりに手がつながれた。
「待って……」
不思議そうな顔をするツカサを前に、手袋をはずす。と、
「なっ……寒いだろ!?」
「寒くない……。ツカサの手、あたたかいもの」
あたたかいからなんて建前。ただ、ツカサの手に直接触れたかっただけ。
素手でツカサの体温を感じたかった。
梅香苑と桜香苑は外灯のほか、小道の両脇にフットライトのような照明も点いている。
けれど、それらはあたりをぼんやりと照らしてくれる程度で、人の顔がはっきりと見えるほどに明るくはない。
ひとたび小道を外れれば、その先は真っ暗だ。
少し前までは暗闇が怖くて仕方なかったけれど、今は不思議と恐怖を感じない。
会話なく歩いていても手がつながれている。ツカサが隣にいる。
ただそれだけで、私は無条件に安心してしまう。
心がふわふわとしたものに包まれている感じ。
あまりにも柔らかく形を捉えることは難しいけれど、この感情に名前があるとしたら「幸せ」――
「……しあわせ」
たった四文字の言葉を口にしてみると、今までに感じたことのない歯がゆさがあった。
「何が?」
まさか訊かれるとは思っていなくて、顔が熱くなる。でも、きっとこんな暗がりではわからない。
「隣にツカサがいることが……。手、つないで歩けることが。……幸せ」
「……安いな」
「え?」
「もっと貪欲になれば?」
少し考えてから「好き」と小さく口にすると、ツカサは歩みを止め、そっと触れるような優しいキスをしてくれた。
ツカサ……私、すごく欲張りよ?
ずっとこのまま手をつないでいたいと思うし、何度でもキスをしてほしいと思ってる。
それに、この時間が終わらなければいいのに、とか。マンションがもっと遠くにあったらいいのに、とか。
そんなことを考えるほどには欲張りなのだけど、どう話したら信じてくれる……?
考えても考えても言葉が見つかることはなく、私は手に力をこめた。
「伝われ」と念じて力をこめると、同じくらいの強さで握り返される。
自分に都合よく「伝わった」と解釈したいけれど、本当は伝わっていなくてもいいの。
その代わり、覚えていてほしい。
ツカサが隣にいるだけで幸せなこと、ずっとずっと覚えていてね――
今まで感じたことのない「幸せ」を噛み締めながら、一歩一歩を踏みしめる。
学校が楽しいと思うのとは別の感情。数ヶ月先に花が咲くのを楽しみにしているのとも違う。
心がほんのりと色づくようなあたたかさ。
胸がドキドキしていて忙しないけれど、不安を感じるものではない。
何より、手から伝わるぬくもりが、何もかもを上回る安心をくれる。
隣を見上げれば好きな人の顔があり、その上には幾多の星が瞬いている。
こんなにも星がきれいに見えるのは、好きな人が隣にいるから……?
それとも、想いが通じたから……?
「空、何かある?」
ツカサは不思議そうに空を見上げ、私に視線を戻す。
ツカサの目にはこの星空がどんなふうに映ったのだろう。
「翠?」
「……あのね、星が降ってきそう。そのくらいキラキラ瞬いて見える」
ツカサは再度空を見上げ、
「実際、星が降ってきたら大変なことになると思うけど……」
そのコメントに、病院の屋上から花火を見た日のことを思い出す。
また、同じような会話をする日が来るだろうか。
少し考えて頭(かぶり)を振る。
何度繰り返してもかまわない。
言葉を交わせる距離にツカサがいてくれるなら、そのときの私も幸せだと言い切れるから。
それでも心配はかけたくないから、まだ学校にいることを知らせるメールだけは送っておいた。
私道入り口に着くと、今来た道を振り返る。
梅香苑に続く道一点を見つめていると、
「お嬢様、外にいられてはお身体に障ります」
声をかけてくれたのは警備員さんだった。
「ツカサが来るのを待っているだけなので……」
「それでしたら、何もないところではありますが警備室へ入られてください。中にいても外の様子はご覧いただけます」
「きっと、待っても十分くらいだと思います。だから……大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
警備員さんはさらに何か言おうとしたけれど、私は背を向けることで意思を通した。
時計が七時五分を指したとき、遠くにツカサの姿を見つけた。
数十メートル離れたところから目が合う。
ツカサは不機嫌そうな表情で、こちらへ向かってやってくる。
でも、視線を合わせた状態でこちらへ向かってくるからといって、安心はできない。
藤山にある自宅へ帰るためにはここを通らなくてはいけない。だから進行方向を変えないだけであって、私の話を聞いてくれる保証はないのだ。
自分の前を通過されたらどうしよう……。
ツカサが一歩踏み出すたびに不安は膨れ上がる。
すぐ近くまで来て、ツカサは足を止めた。
「何……」
「話、する時間、もらえる?」
緊張の極限で、思うように言葉を発せなかった。
ツカサは数秒沈黙して、
「かまわない。……カフェに行こう」
カフェへ向かって歩き始めたツカサを、コートの袖を引張って引き止める。
「ごめん、人のいないところで話したい。……梅香苑のベンチでもいい?」
「寒いけど?」
「大丈夫」
答えてから気づく。
「ごめんっ、ツカサが寒いっ!?」
「いや、俺は大丈夫だけど……寒さは身体に堪えるんじゃない?」
「……私は大丈夫」
ツカサは何か言いたそうだったけれど、それ以上何を言うことなく私の前を歩き始めた。
ツカサは人の行き来が少ない小道を選び、その奥にあるベンチに座った。そこへ行く途中、ツカサが自販機で飲み物を買い、今は私の手の中でカイロの役割をしている。
「話って?」
待ち伏せていたのは私なのに、改めて訊かれると困ってしまう。
ただ、ツカサが好きだと伝えたいだけなのだ。
こういうとき、前置きにはどんな言葉が相応しいのだろう。
ふたりの間を冷たい風が吹き抜けていく。けれど、不思議と寒いとは感じない。
隣にツカサがいるだけで、何もかもが違うように思える。
人気がないところでは、一緒にいる人の存在をより強く感じるものなのだと知った。
「翠、時間がかかるなら――」
「っ……好きっ」
帰ると言われるのも場所を変えると言われるのも、明日へ先延ばしにされるのも、すべてが嫌だった。
そしたら、口をついたのは気持ちを表す二文字の言葉だけだった。
ツカサの表情が完全に固まってしまったことに気づいて慌てる。
「突然でごめんなさい。でも……すごく好きなの。好きっていう言葉以外にどんな言葉で伝えたらいいのかわからなくて――ごめんなさい……」
気持ちを伝えてるのは難しい。難しいうえに、どうしてこんなに悲しいのか……。
少し考えれば答えはすぐに出た。
今好きだと伝えたところでツカサの留学はもう決まっているのだ。一緒にいられるのは三月末まで。
だから、悲しい――
「……翠はなんでいつも唐突なんだ」
息を吐き出すのと同時にそう言われた。
「多少の行動予測くらいさせろよ……」
「……そんなこと言われても」
困る。自分だってこんなつもりはなかった。でも、いざツカサが前にいると何から話したらいいのかわからなくて、でも気持ちを伝えたい思いは強くて、気がついたらこうなっていたのだ。
「ほかに言うことは……?」
「……ごめんなさい」
「何に対して?」
「よくわからない……たくさんありすぎて」
「それ、一つひとつ話すことができたら謝罪も受け付けるんだけど……」
言われて一つひとつを思い浮かべる。
「あまりにも多いから、一括りにしてもいい?」
「……翠は几帳面なのか大雑把なのかわからないな。とりあえず言ってみれば?」
「……答えを出さなかったこと。私が出した答えはツカサの答えにはなっていなかったこと。ごめんなさい」
いざ口にしてみると、あまりにも言葉が足りない気がして慌てて言葉を継ぎ足す。
「私、秋斗さんのこともツカサのことも失いたくなかったの。同時に、傷つけたくないとも思ってた。でも――本当は自分が傷つくのが怖くて答えを出せなかったのかもしれないって……退院前にツカサに言われるまで気づけなかったの。教えてくれて――ありがとう」
もう遅い――きっと遅すぎたんだ。
でも、教えてくれたから気づけた。それなら、お礼だけでも伝えたい。
思えば、ツカサには色々なことを教えてもらってきた。
いつも側にいて、いつも厳しくて、でも、たくさんのことを教えてくれた人。
どれほどこっぴどく突き放しても、そのあとには必ず手を差し伸べてくれる人だった。
不意に、過去の経験に怯え足を踏み出せなくなってしまったときのことを思い出す。
病院までの道のりをツカサが付き添ってくれたあのとき――「今」を見て先に生かせ、と教えてくれた。それでも怖いと思うなら、何度でも上書きしてくれると、壊れるたびにリカバリーしてくれると言ってくれた。
「……ツカサ、嘘、つく?」
「さぁ、どうかな……」
「嘘に、しないで――私が壊れるたびにリカバリーしてくれるって言ったの……無効にしないでっ」
コーンポタージュの缶を握る手に力がこもる。視線はツカサの方を向いてはいなかった。
枯れた葉に固定したままツカサの反応を待つ。
反応が返ってくるまでの時間は恐怖以外の何ものでもない。
こんなに前の話を持ち出して、留学しないでと言っているのと変わらない。側にいてほしいと言っているのと変わらない。
こんなこと、言うつもりなかったのに。どうして――
「翠」
声をかけられてもツカサの方を向くのが怖かった。返される言葉が怖かった。
言うだけ言って、返事をもらう心構えなんてできていなかった。
「翠」
頑なに下を向いていると、強引に身体の向きを変えられた。その拍子に手から缶が落ちる。
トサ、と地面に落ちる缶を、意識して目で追う。
顔だけは直視しないように、目だけは合わせないように必死に顔を背けていると、
「いい加減こっちを向け」
低い声で言われ従ってしまう。
恐る恐る隣に座るツカサを、目の前に座るツカサを見ると、とても真剣な目をしていた。
「悪い。嘘はつく……というか、ついた」
その言葉に胸が抉られ目尻に涙が滲む。
「違う……そうじゃない。泣く前に最後まで聞いてほしい」
……何、を?
「俺は留学しない」
どういう、こと……?
留学することが嘘なの? それとも、留学をしないことが嘘なの?
どっち……?
「翠が……翠が動かないなら、何をしても動かないなら留学するつもりでいた。それは話したとおり、三月末で退学届けを出すつもりでいた。でも――翠は動いた……。だから、留学の話はなしだ」
「留学、しない……? 本当に……?」
「必要のない嘘はつかない」
涙が滲むではすまなくなった。涙は次々と頬を伝いだす。
「だから、あの約束は有効……。翠の側にいる。またバカなこと考えて空回りして泣いていたら、いつだってリカバリーしてやる。それは嘘じゃない」
留学しないということにほっとして、側にいてくれるという言葉に涙が止まらなくなる。
「泣くな……」
言われて胸に引き寄せられた。
ピタリとくっつくとあたたかく感じた。そのぬくもりを求めるようにツカサの背に手を回す。
ここにいる……ツカサがいる。手の届くところに――
(イラスト:涼倉かのこ様)
確かな実感を貪欲に欲し、手に力をこめた。なのに、反する力が加えられる。
「そんなに泣くな……」
目が合うと、ツカサの顔が近づいてきてキスをされた。
「くちびる……つめたい」
「翠も。……目、瞑ってくれると助かるんだけど……」
言われて、ぎゅっと目を瞑った。
「そんなに力入れなくてもいいけど……」
言われた直後、また唇が重なった。
好き、大好き。ツカサが好き……。
唇が離れ、再度抱きしめられる。
「好き……大好き……」
ツカサは何も言わない。けれど、身体に回された腕から力を感じる。より強く抱き締めてもらえるだけで十分だった。
「寒くないか……?」
「ツカサがあたたかいから……寒くない」
答えてまたキスをされる。
そうして何度キスを交わしたかわからない。数えられないほどキスをしたのか、数えられるほど余裕がなかったのか……。
ただ、とても幸せだと思った。
好きな人と一緒にいられることが。好きな人に触れられることが。キスをすることが、とても幸せなことだと思えた。
怖く、なかった……。もっと、と思った。
ツカサから離れたくない、このままずっと放さないでほしい。
「好き……」
「何度言うつもり……?」
「わからない……」
でも、私も訊きたい。
私が「好き」と言うたびにキスをしてくれる。それはいつまで続けてくれるの……?
私はキスをねだるように、「好き」と言い続けた。
「翠……もう八時。さすがにこれ以上は身体に良くない」
言われて渋々ツカサから離れる。
「マンションまで送っていく。その前に家に連絡」
「はい」
家に連絡をすると唯兄が「迎えに行こうか?」と言ってくれた。
私は思わずツカサの顔を見てしまう。
するとツカサが携帯を手に取り、
「自分が送るから不要です」
言うなり切ってしまうから少し笑った。
「何?」
「ううん……ツカサと唯兄っていつもこんな感じだなって思っただけ」
「……これは唯さんが悪いと思うけど?」
確かに、唯兄は少しツカサをいじりすぎだと思う。だから、私は笑うに留めた。
「手……つないでもいい?」
訊くと、返事の代わりに手がつながれた。
「待って……」
不思議そうな顔をするツカサを前に、手袋をはずす。と、
「なっ……寒いだろ!?」
「寒くない……。ツカサの手、あたたかいもの」
あたたかいからなんて建前。ただ、ツカサの手に直接触れたかっただけ。
素手でツカサの体温を感じたかった。
梅香苑と桜香苑は外灯のほか、小道の両脇にフットライトのような照明も点いている。
けれど、それらはあたりをぼんやりと照らしてくれる程度で、人の顔がはっきりと見えるほどに明るくはない。
ひとたび小道を外れれば、その先は真っ暗だ。
少し前までは暗闇が怖くて仕方なかったけれど、今は不思議と恐怖を感じない。
会話なく歩いていても手がつながれている。ツカサが隣にいる。
ただそれだけで、私は無条件に安心してしまう。
心がふわふわとしたものに包まれている感じ。
あまりにも柔らかく形を捉えることは難しいけれど、この感情に名前があるとしたら「幸せ」――
「……しあわせ」
たった四文字の言葉を口にしてみると、今までに感じたことのない歯がゆさがあった。
「何が?」
まさか訊かれるとは思っていなくて、顔が熱くなる。でも、きっとこんな暗がりではわからない。
「隣にツカサがいることが……。手、つないで歩けることが。……幸せ」
「……安いな」
「え?」
「もっと貪欲になれば?」
少し考えてから「好き」と小さく口にすると、ツカサは歩みを止め、そっと触れるような優しいキスをしてくれた。
ツカサ……私、すごく欲張りよ?
ずっとこのまま手をつないでいたいと思うし、何度でもキスをしてほしいと思ってる。
それに、この時間が終わらなければいいのに、とか。マンションがもっと遠くにあったらいいのに、とか。
そんなことを考えるほどには欲張りなのだけど、どう話したら信じてくれる……?
考えても考えても言葉が見つかることはなく、私は手に力をこめた。
「伝われ」と念じて力をこめると、同じくらいの強さで握り返される。
自分に都合よく「伝わった」と解釈したいけれど、本当は伝わっていなくてもいいの。
その代わり、覚えていてほしい。
ツカサが隣にいるだけで幸せなこと、ずっとずっと覚えていてね――
今まで感じたことのない「幸せ」を噛み締めながら、一歩一歩を踏みしめる。
学校が楽しいと思うのとは別の感情。数ヶ月先に花が咲くのを楽しみにしているのとも違う。
心がほんのりと色づくようなあたたかさ。
胸がドキドキしていて忙しないけれど、不安を感じるものではない。
何より、手から伝わるぬくもりが、何もかもを上回る安心をくれる。
隣を見上げれば好きな人の顔があり、その上には幾多の星が瞬いている。
こんなにも星がきれいに見えるのは、好きな人が隣にいるから……?
それとも、想いが通じたから……?
「空、何かある?」
ツカサは不思議そうに空を見上げ、私に視線を戻す。
ツカサの目にはこの星空がどんなふうに映ったのだろう。
「翠?」
「……あのね、星が降ってきそう。そのくらいキラキラ瞬いて見える」
ツカサは再度空を見上げ、
「実際、星が降ってきたら大変なことになると思うけど……」
そのコメントに、病院の屋上から花火を見た日のことを思い出す。
また、同じような会話をする日が来るだろうか。
少し考えて頭(かぶり)を振る。
何度繰り返してもかまわない。
言葉を交わせる距離にツカサがいてくれるなら、そのときの私も幸せだと言い切れるから。
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その後がよろしくない。
青夜を引き取った田中家の義父、一狼は53歳ながら若い妻を持ち、4人の娘の父親でもあったからだ。
妻、21歳、一狼の8人目の妻、愛。
長女、25歳、皇宮警察の異能力部隊所属、弥生。
次女、22歳、田中流空手道場の師範代、葉月。
三女、19歳、離婚したフランス系アメリカ人の3人目の妻が産んだハーフ、アンジェリカ。
四女、17歳、死別した4人目の妻が産んだ中国系ハーフ、シャンリー。
この5人とも青夜は家族となり、
・・・何これ? 少し想定外なんだけど。
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