光のもとで1

葉野りるは

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最終章 恋のあとさき

57話

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 翌日は朝早くから術前検査が始まった。
 この手術を受ける場合、手術の一週間ほど前に入院し、ありとあらゆる検査を受けるらしい。けれども、私は急に病状が悪化したこともあり、何も準備が整っていなかった。
 ただ、少しばかりタイミングが良かったのだ。
 運び込まれたのが土曜日で、翌日の今日は日曜日。外来患者や入院患者の検査が入っていないため、どの検査室も自由になるとのこと。
 私の検査のせいで休日出勤になってしまった人がいるのだろうか……。
 検査技師さんを見るたびに申し訳なさでいっぱいになっていると、様子を見に来てくれた涼先生に釘を刺されてしまった。
「誰に迷惑がかかるとかそういったことは、今は考えないでいただけますか? そのほうが心臓にもいいでしょうし、私が受け持つ胃腸にも、ストレスはいい作用をもたらしませんので」
 涼先生はこんなに意地悪な物言いをする人だっただろうか、と考えてしまう。けれど、私にはとても影響力のある口調と笑顔だった。
 急ぎ足で検査をするといっても限界はある。私の体調を考慮した結果、すべての検査が終わるまでに四日を要した。
 そして手術日は、病院が年末休業に入る三十日に決まった。

 すべての検査が終わると紫先生と藤原さんから手術に関する説明があった。俗に言う、インフォームドコンセント。
 入院した日には言われなかった手術によって負うリスクを事細かに説明された。
 手術を行うことで起こり得る合併症は両手の指では足りないほどプリントに記載されている。
 加えて、計画的な手術ではなかったことから、輸血が必要になった場合は同種血輸血になるそう。輸血に関する合併症が思ったよりも多くてびっくりした。
 全身麻酔に関しては、久住先生から説明を受けた。
 様々な説明の中でもっとも衝撃的だったのは、術式が変わった際にできる傷跡の大きさ。
 第一候補に挙げられているのは内視鏡での手術だけれど、不測の事態が起きた場合は正中切開――つまりは開胸手術に変更され、胸に傷跡が二十五センチ近く残るという。
「怖いかな?」
「……はい」
「そうだよね……。でもね、経験上、今の状態なら内視鏡手術ができると思っている。最初にも話したけれど、インフォームドコンセントは患者さんを不必要に怖がらせたり不安にさせるためにするわけじゃなくて、ルーティンワークの一貫だと思ってくれてかまわないよ」
「……はい」

 手術には特殊な機械を使うため、十階にある手術室ではなく、手術フロアで行われるとのこと。
 病室を出るのは八時半。九時前には手術室に入り、一時間ほどかけて麻酔や点滴、機器を身体に取り付けていくらしい。
 手術が始まるのは十時半ごろというのだから、手術前の準備にかなり時間がかかるのだろう。
 手術自体はは三、四時間で終わる予定だけど、麻酔から覚めるまでには少し時間がかかるみたい。
 久住先生の説明だと、麻酔薬の効き具合や代謝速度には個人差があるため、「何時に目が覚める」とは言えないのだという。それでも、
「遅くても、夕方……六時くらいには覚醒するんじゃないかと思っています」
 と、目安になる時間を教えてくれた。

 四時過ぎに説明が終わると、湊先生と静さんが揃ってお見舞いに来てくれた。
 入院してから連日検査のハードスケジュールで、両親以外に病室を訪れるのは先生たちと身の回りのお世話をしてくれる栞さんだけだった。
 栞さんから、湊先生は朗元さんの治療のためにパレスに残っていると聞いていた。
 湊先生の顔を見て、口を真一文字に閉じる。意識してそうでもしないと朗元さんの容態を訊いてしまいそうだったから。
 そんな私を見て察したのか、湊先生は苦笑しながらベッド脇まで歩いてきた。
「今日は医者としてではなく……おじい様の孫としてお見舞いに来たわ」
 それは――訊いてもいいということ?
「おじい様を助けてくれてありがとう。もう大丈夫よ。今日パレスから戻ったわ。今は隣の病室にいる」
 見えるわけもないのに、つい壁に視線を向けてしまう。
「今ごろ清良さんの診察受けてるんじゃない? ついでにこってり絞られたらいいんだわ。……ったく、何防犯カメラオフにしてんのよ。抜かりなく人払いまで徹底してっ。防犯カメラをオフにするならちゃんと携帯持ち歩けって話よっ。翠葉もよっ!? 本っ当に人騒がせなんだからっ――」
 途絶えることなく悪口雑言が飛び出す。でもそれは、愛情の裏返しで、きっとものすごく心配したのだ。
 ごく近しい人の治療をするのはどんな気持ちだろう……。
 医療の知識があればどんな状況なのかはわかるだろうし、治療方法を知っているのと同時に、どれだけ危険な状況なのかもわかってしまうのだ。
 それは、いったいどんな心境なのだろう……。
「翠葉ちゃん? 何を考えているのかな?」
 静さんに声をかけられたけれど、思っていたことをそのまま尋ねるのは憚られて、少し違うことを口にする。
「朗元さん、怒れる人……いるのかな、って……」
「あぁ……彼女は少し特殊かもしれない」
 どういう意味だろう……?
「彼女の通常業務は会長の体調管理なんだ。会長が遠出するときには必ず彼女が同伴する。今回は涼さんがパーティーに出席する都合上、病院を彼女に任せるしかなかったんだ。本当なら、会長が倒れたとき真っ先に駆けつけたかったのは彼女なんじゃないかな」
 言われて疑問に思う。
 ……それができない状況ではなかったはず。
 涼先生は二十五日のうちに病院へ戻ってきていたのだから。
「どうして――」
 疑問を口にすると、
「翠葉の手術があるからよ」
 湊先生の言葉に心臓が反応した。ドキ、と一拍ちょっと止まった気がする。
「翠葉の手術に使う医療ロボットは誰もが操作できるわけじゃないの。あれを心臓の手術で使えるのは、うちの病院では紫さんと清良さんだけ。私もトレーニングしてるけど、まだ人の命を預かれるほどの技術は習得していない。だから、ここを離れるわけにはいかなかったのよ」
 また自分が原因――
 目に涙が滲み出す。と、
「それで翠葉が気に病む必要はない。みんな、医者として自分ができることをできる場所でやっているにすぎない。おじい様の喘息発作なら私にも対処はできる。だから私がパレスに残った。それだけのことよ」
 それが事実なのかもしれない。でも、自分が藤原さんの足枷せになったという気持ちは強く残る。
「翠葉ちゃん、適材適所だよ。誰が悪いわけじゃないんだ。事実、うちの親族は誰もが翠葉ちゃんに感謝しているし、今は君の手術を最優先にと思っている」
 静さんは慰めているつもりはないかもしれない。
 それでも、自分の不甲斐なさに涙が零れた。
「明日の手術は朝が早いと聞いたし、面会は十分以内にしてくれと言われている。だから、今日はこれで失礼するよ」
 静さんが席を立とうとしたとき、湊先生がすごい剣幕で静さんを引き止めた。
「静っ、あなた翠葉に何も言わないつもりっ!?」
 湊先生の取り乱しぶりにも驚いたけれど、それ以上に「何を?」という疑問に駆られる。
 静さんは気にせず立ち上がり、湊先生を見下ろした。
「言わなくても彼女はのちに理解するだろうし、それで何を言うこともないと思うがな」
 険悪なムードにおずおずと口を挟む。
「あの、何が……ですか?」
 湊先生は私に向き直ると、唇をきつく噛みしめた。そして、真面目な顔つきで謝られる。
「翠葉ごめん。……おじい様の体調ひとつで市場に影響が出るの」
 財閥の会長ともなればそのくらいの影響力があって然るべきだろう。では、湊先生はいったい何に謝ろうとしているのか……。
「今回のこと、表向きには翠葉が倒れておじい様の命令で医師陣が医務室へ呼びつけられたことになっているわ」
 それのどこに問題があるのか……。
「もっと言うなら、おじい様は翠葉が心配で自分の誕生パーティーを放棄したことになっているのよ」
 気まずそうに目を逸らされ納得する。
 静さんが湊先生に向けた言葉の意味もわかったし、湊先生が何を気にしているのかも理解した。
 私は朗元さんから紫紺の恩賜をいただいたことと、それを身に着け朗元さんのエスコートで会場へ戻る予定だったこと。それらをゆっくりと少しずつ伝えた。
「結局、そうはできなかったけれど……でも、私が倒れて朗元さんが付き添っているという情報が流れたのなら、同等の効果は得られましたよね? ……良かった」 
 湊先生はひどく驚いた顔をした。
 私は、ようやく自分が役に立てたということを教えてもらえてありがたいくらいなのに。
「湊……翠葉ちゃんは周りをしっかり見ることができる子だし、その中にいる自分というものも理解している。このシナリオが一番得策だったことにはすぐに気づく」
 静さんは穏やかな笑みを浮かべていた。その様はどこか満足気にも見える。
「そういう問題じゃなくてっ」
 湊先生が言いたいことはなんとなくわかる。でも、それも私は納得していることなのだ。
「湊先生、大丈夫です。大丈夫、なんです」
 私は藤宮に関わることを選んだ。それはこの先も変わらないし、その場合、静さんや朗元さんの庇護下に入ることが一番安全なのだ。
 一番安全で、一番リスクが高い。それも理解している。
 そこまで考えて、私はお父さんとお母さんの言葉を借りることにした。
「静さんは、命がけで私を守らなくちゃですものね?」
 静さんに向かって言う。と、湊先生がとても不思議そうな顔をした。湊先生に質問される前に次の言葉を繰り出す。
「だって、私に傷がひとつでもつこうものなら、湊先生と離婚しなくちゃいけないし、会長職をこなしつつ、父の部下になってこき使われる約束もしたのでしょう?」
 少し笑みを添えて言うと、静さんは苦笑した。
「苦笑い」という言葉のお手本になりそうな表情だった。
「静、私聞いてないんだけど……」
「……言うつもりがなかったからな。……まぁ、そんな事情もあって私は是が非でも翠葉ちゃんを守らなくてはいけない。実際に動くのは警備会社の人間だが……」
 言ったあと、ポツリと零す。
「零樹のやつ……。いや、碧か?」
 それはこのことを私に話した犯人のことだろうか。
「静さん、残念。ふたりとも、です」
 私の言葉に静さんはさらに苦い顔をした。どこか報復を企んでいそうな顔にも見える。
「でも、話しておいたほうが心して守ってもらえそうです」
「翠葉ちゃんのそういうところは碧譲りかな?」
「どうでしょう?」
「……まぁ、知られても知られなくても何も変わらない。要は全力で君を守ればいいだけのことだ。……湊は気が済んだか? 彼女は明日に大事な手術を控えてるんだ」
「そんなことわかってるわよっ」
「じゃぁ今日はこのあたりで帰るとしよう。手術が終わって落ち着いたころにまたお見舞いに来るよ。何か食べたいもの……果物は何が好き?」
 訊かれて悩む。
 桃や梨が好きだけど季節外れだ。冬といったら何があるかな。……苺、とか?
「翠葉、遠慮する必要ないわよ。季節外のものでもなんでも言いなさい。静はそんなことで困る人間じゃないから」
 湊先生に言われ、正直に「桃と梨……あと苺」と答えた。
「わかった。桃と梨、それからアンダンテの苺タルトを持ってこよう」
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