光のもとで1

葉野りるは

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最終章 恋のあとさき

54話

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 唯兄と別れ、御崎さんに案内されてレストランへ向かう。と、ステーションから伸びる回廊はどこも閉鎖されていた。
 ガラス戸が閉じられ、その前には黒いスーツを着た警備員と思しき人たちが立っている。
「移動距離が少々長くなりますが、人目を避けるために一度地下へ下ります」
 ビューティーサロンとクロークの間にあるスタッフルームから地下へ下りると、場の雰囲気が一変した。
 時に大声が飛び交い、通信を受けながら忙しく歩く人が多い。
 ガラガラガラ、と大きな音を立てて壁が迫ってきたかと思えば、料理を乗せた業務用の保温カートだった。
「ステーションからレストランへ伸びる通路はこのようなカートが多数行き来しますので迂回いたします」
 先日涼先生と歩いた地下回廊を進みレストランの真下までくると、御崎さんは胸元から薄いカードを取り出した。
「カードキー、ですか……?」
「はい」
 昨夜、涼先生と乗ったときにはカードキーなど通していなかった。
 おそらく、レストランに会長がいるからこそのセキュリティなのだろう。
 レストランフロアに着くと御崎さんに促されてエレベーターを降りる。けれど、自分に続く気配はしない。
 振り返ると、
「私がお供できるのはこちらまでです。この先、レストランフロアにて会長がお待ちです」
 言うと、頭を深く下げられた。しばらくしても頭を上げようとはしないことから、私が立ち去らなくてはいけないことを悟る。
 しんと静まり返ったフロアに足を踏み出す。
 コツ、とヒールの音が鳴り、足裏に硬い感触が伝う。
 硬質な音と硬い床に緊張が増した。
 フロアに出ると、テーブルたちの向こう側――私の写真が飾られた壁の前に朗元さんは立っていた。
 初めて会ったときから変わることのない和装姿で、写真をじっと見ていた。
 踏み出せない……。
 一度止まってしまったら、次の一歩が踏み出せなくなった。
 緊張からくるものなのか、なんとなく肌寒い気すらする。
 緊張する必要はない。目の前にいるのは藤宮の会長である前に朗元さんなのだから。
 目測、あと五メートル。あと、五メートル――
 ゴクリ、唾を飲み込むと、朗元さんがゆっくりとこちらを向いた。
「呼び出してすまんの」
「いえっ……」
 弾かれたように答える。と、しわが深く刻まれた顔がくしゃりと崩れて笑顔になった。
「わしが藤宮の会長じゃと緊張するものかの?」
 少しおどけた調子で尋ねられる。
 私は確かに緊張している。けれど、その理由は何か……。
 藤宮の会長だから緊張しているの? それとも、ツカサたちのおじいさんだから緊張しているの?
 ……どちらかというなら後者のような気がする。でも、後者イコール藤宮の会長なわけで――
 思考が延々ループに陥ると、新たに笑い声が聞こえてきた。
「お嬢さん、わしは朗元じゃ。藤宮の会長でもあるが、陶芸作家の朗元でもある。どちらもわしじゃ。何も変わらんよ」
「……はい」
「こちらに」
 隣に並ぶように促され、五メートルの距離をゆっくりと歩いた。
 近くのテーブルには真っ白で飾り気のないコーヒーカップが置かれており、コーヒーのいい香りが漂っている。
 朗元さんと並んで写真の前に立つと、
「大きな木じゃのぉ……。真っ直ぐ空へ伸び、枝葉を豊かに茂らせておる」
「はい」
 私も改めて自分の撮った写真を眺めた。
 小さな額に入れられた写真もひとつひとつ見て回り、朗元さんはそれぞれに感想をくれた。
 気づけば、息を深く吸い込めるくらいには緊張がほぐれていた。
「落ち着いたようじゃの」
「……すみません」
「よいよい。会場では好奇の目に晒されたことじゃろうて……。ああいうのは慣れぬのじゃろう?」
 豊かな口髭をいじりながら訊かれる。
「……ここまで大きなパーティーに出席するのは初めてなんです。それに、この藤色に意味があることも知らなかったので……」
 ストールをつまんで見せる。
「初めての人間でなくとも慣れぬ者は慣れぬ。うちの真白がいい例じゃ」
 朗元さんは穏やかに笑う。
「ここの防犯カメラは止めてある。そう硬くなりなさるな」
 カメラが止めて……?
 レストランの四方に視線をめぐらせるものの、防犯カメラらしきものは見当たらない。
「病院や地下駐車場のようにわかりやすいところには設置しておらぬのじゃ」
 どうしてだろう……。
 これだけの招待客がなんのチェックも受けずパレスへ入場しているとは思いがたい。けれども、ここに会長がいるのだ。ならば、カメラというカメラは常に稼動させておいたほうがいいのではないだろうか。
「どうして、ですか? 朗元さんがここにいるのに……」
 朗元さんはくつくつと笑う。
「うちの者は皆優秀での。ここに配属されておる者は誰もが唇の動きを読めるじゃろう。ようやく会えたお嬢さんとの会話を人に見られたままではわしが落ち着かん」
 自分が、とは言うけれど、きっと私を気遣ってくれたのだろう。
 その優しさに、さらに心がほぐれる。
 会長だけれど朗元さんだ。ツカサたちのおじいさんだけど、ちゃんと朗元さんだ……。
 私の中で、ふたりの人物がひとりになった瞬間だった。
「藤色は重いかの?」
「……藤色は好きです。でも、たくさんの人の視線には慣れそうにありません」
「それではこれも困るじゃろうのぉ……」
 朗元さんは懐から小さなジュエリーケースを取り出した。
「これはわしからじゃ」
 ケースはお母さんのリボンやお父さんのアスコットタイと同じ色をしている。つまりは紫紺――
 朗元さんとケースの間を何度も視線を往復させる。と、五センチ四方のケースを朗元さんが開けてくれた。
 中には薄い藤色のベルベッドが敷かれており、金色のチェーンには雫型を模る紫紺のトップが通してあった。
「ネックレスじゃ。トップは藤の花びらを模しておる。お嬢さんにはこれからも迷惑をかけることじゃろう――」
「朗元さんっ」
 無理やりに朗元さんの言葉を遮った。その先の言葉を聞きたくなくて。
 言われる前に言いたい。言わせてほしい。これだけは譲れない。
 相手が朗元さんでも、藤宮の会長でも――ツカサたちのおじいさんならなおのこと……。
「迷惑とか、言わないでくださいっ。それからっ、もう……もう二度と試すようなことはしないでください。お願いですから――」
 思い出すだけでも身体の芯から震えだす。ツカサや海斗くんたち、みんなとの関わりを絶たれるという現実がすぐそこにあったことが今も恐ろしくて。
「もう、しないでください。何度訊かれても出した答えを変えるつもりはありませんから。何度考えても私が出す答えは変わりませんから。だから――」
「……すまなかったのぉ」
 言いながら、紫紺の手ぬぐいで涙を拭われた。その手ぬぐいを左手に持たされ、開かれたままのジュエリーケースからネックレスを取り出すと、朗元さんの手が首の後ろに回された。
 鎖骨の窪みにひんやりとした感触が伝う。
「もう二度としないと約束しよう。その代わり、これを着けてもう一度会場へ戻ってほしい」
 会場で聞いたお母さんとお父さんの話。それから、唯兄が教えてくれた紫紺の意味。
 総合して考えるなら、私が朗元さんの――藤宮の会長の庇護下にあることを会場にいる人間に見せるためだろう。
「今度はわしにエスコートをさせてくれぬかの?」
 ――大丈夫。
 私は何度だってこの道を選ぶし、そのことを両親も納得している。ならば返事はひとつ。
「はい」

「その前に」と朗元さんはカップが置かれている席に着いた。
 冷めてしまったであろうコーヒーを口に含んだ朗元さんをじっと見ていて気づく。
 笑っているわけでもないのに音がする、と。
 ヒュー、とまるで空気が細い筒を通るときのような音が――
 さっき、ネックレスをつけてくれたときも正面から同じ音が聞こえていた。けれども、返事をすることにいっぱいいっぱいで、なんの音かまで考える余裕はなかった。
「お嬢さん。人を、呼んで……もらえぬか?」
「……朗元、さん?」
 不安から席を立つ。
 顔を上げた朗元さんは真っ青だった。慌てて近寄ると苦しそうに激しく咳き込む。
 すぐに「喘息」の二文字が浮かんだものの、対処法を知らない。
 どうしていいのかわからず背をさすった。何度も何度も。
 けれど咳が止む気配はない。それどころかどんどんひどくなっていく。
 意味があるのかないのかもわからず自分が羽織っていたストールを朗元さんにかける。と、言葉は口にせず、懐から取り出したカードを押し付けられた。
 そのカードには見覚えがある。唯兄が社員証として使っているカードと同じ……。そして、さっき御崎さんがエレベーターに乗る際に使ったカードと同じもの。
「これ……これでエレベーターのロックを解除できるんですねっ?」
 訊くと、力なく頷く。
 コトリ――
 朗元さんから転がり落ちたもの。それはL字型をしたプラスチックケースだった。
「これ……吸入器ですか?」
 使い方は知らない。でも、知っている人はいる。今、私の腕の中に。
 キャップを外して渡すと、震える手でケースを掴み口に咥えた。
 シュッと何かが噴射された音がしたけれど、朗元さんはすぐに咳き込み容器は再度床に落下した。
 吸えたのだろうか……。
 吸い込む音なんて聞こえなかった。
 私は吸入器を朗元さんの手に握らせ、
「すぐに、すぐに人を呼んでくるから待っていてくださいっ」
 どうして、どうして今携帯を持っていないのか――悔やんでも悔やみきれない。裏に行けば内線用の電話機があるんじゃないかと思ったけれど、それらしきものは見当たらない。
 探すよりも地下へ下りたほうが早い。もしかしたら、御崎さんがエレベーターで上がってきてくれるかもしれない。
 祈るような気持ちでエレベーターが上がってくるのを待った。けれど、エレベーターは人を乗せてはいなかった。
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