光のもとで1

葉野りるは

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最終章 恋のあとさき

09話

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「話を変えるわ。これを見てくれる?」
 先生はカチカチとショートカットキーを押し、私の方へパソコンを向ける。
「生理周期についてはだいたいわかっていると思うけど……」
 言いながら二十八日周期を示す表を見せられた。
「危険日や安全日なんて言葉知ってる?」
 危険日と安全日……?
「いいえ……」
 私は知らないことに不安を覚え、反対に先生はほっとしたような表情になる。
「良かった、変な知識を持ってなくて……。巷ではね、妊娠しやすい日を危険日と言ったり、妊娠しにくい日を安全日なんて言ったりするの。ひどいわよね……」
 先生が「ひどい」と言ったのは、妊娠できるかもしれない期間を「危険日」と呼ぶことだった。
「人間の妊娠って動物の中ではとても確率が低いのよ。子どもを望む夫婦が排卵日と予測される日にセックスをしても、その確率は二十パーセントから三十パーセント。これを低いと思うか高いと思うかは立ち位置によって異なってくるけれど、それでも、人の命が芽生える可能性のあることを『危険』なんて言葉で片付けてほしくないのよね」
 それに、と先生は続ける。
「危険日だの安全日だのと言っている人たちほど、その日を正確に認識してはいない」
 そこまで話すと表に視線を戻した。
「まず生理前は高温期が続いていて、ストンと落ちたここ。だいたいこの日かこの翌日あたりに生理がくる。生理がくると体温は低温期に移行するの。そして十二日から十四日目あたりで排卵が起こる。その日は一ヶ月の中で基礎体温が一番低いとされる日よ。卵子が生きながらえるのは六時間から二十四時間程度。一方、精子はどうだった?」
 さっき言われた精子の寿命を思い出す。
「……一日から三日。でも、一週間生き長らえるものもあるって……」
「そう。だとしたらどう? 俗に言われる安全日があると思う?」
 表を見て考える。
 生理期間に性交渉はしないと考えて、性交渉が可能になるのが八日か九日目からだとしたら……。そこは安全日にはならない。なら排卵が確実に終わってるであろう十四日目以降ならどうだろう?
 十四日目以降で高温期に入った時期なら卵子は受精能力を持っていないはず……。
「十五日目から次の生理が始まる前だったら……」
「そうね。このグラフの通りなら、それが正解よ」
 先生はそう答えてすぐに追加情報をもたらした。
「人の身体にはサイクルがある。でも、そのサイクルはちょっとしたことで崩れてしまうの。ストレスや睡眠不足。そんなことが原因でサイクルは簡単に崩れるわ。翠葉ちゃんは生理が早まったり予定日よりも遅れたことはない?」
 思い当たる節はたくさんあった。
 遅れることはあまりない。それでも予定日よりも数日遅くきたことはあるし、月にニ度くることは何度もあった。
「つまりね、こんなにきれいなグラフの状態が毎月続くとは限らないのよ。排卵の時期も前後するし、生理が月にニ回きて、その二回とも排卵がしっかり行われてることもある。実際につけてみるとわかるけど、こんな模範的な基礎体温のグラフは稀よ。低温期と高温気温の差があまりない人もいるし、二層に分かれずガタガタの人もいる。それらのグラフからは排卵日を特定するのはまず無理。それに、生理が定期的にこない場合は? ――安全日なんてないに等しいの」
 私がネットや雑誌からこういった情報を得ることはないだろう。でも、もし、本当のことを知らずにこれらの情報を何らかの形で得たとしたら……?
 私はそれを鵜呑みにしたのではないだろうか。
 そう思うと、とても怖くなった。「知らない」ということが、「知識がない」ということが。

「コンドームをつけず性交渉におよび、射精するときに外に出せばいい。中出ししなければいいと思ってる人も多いけど、それも大きな間違いよ。射精をせずとも男性器から出る粘液には精子がいることもある。膣内に入れば精子は真っ直ぐに卵子を目指すわ。精子は何も射精するときにしか出ないわけじゃないの。だから、『中出ししなければいい』は避妊ではない」
 先生はきっぱりと言いきった。
「それから、生理中のセックスも安全とは言えない」
「えっ……?」
「いるのよ、生理中にセックスする人たちも。しかも安全だと思って、ね」
 ものすごく衝撃的だった。衝撃的だったけれど、どこか冷静な自分がいて、すぐに表に視線を戻す。
 もしも生理周期が短い人だったら――生理期間は決して安全日にはなり得ない。
 唾をごくりと飲む。
「色々と衝撃的?」
 訊かれて頷く。
「でも、知っててほしいの。正しい知識を」

 コンドームとあわせて教えられたのがピルだった。
 コンドームだけでは一〇〇パーセントの避妊はできないのだという。
 行為の途中で外れてしまい精液がゴムから漏れ出てしまった場合、当然ながら避妊としての効力は無効となる。
 一方、ピルは排卵自体を止めるため、精子が体内に入っても受精する卵子が存在しない、という状況になるらしい。
「通常、ピルは婦人科系の病気や生理痛が重い女性の治療薬として使われる。これらは保険適用なのだけど、避妊目的でピルを使用する場合には保険はきかないの。でも、避妊においてはとても有効な薬なのよ」
 ピルには卵胞ホルモンと黄体ホルモンの ふたつの女性ホルモンが含まれており、それが脳の下垂体に作用してホルモンの分泌を抑える。ホルモンの分泌が抑えられるということは、卵胞の成長が抑えられるということ。卵胞ホルモン、黄体ホルモンの両方が抑制されるため、結果として排卵が起こらなくなる。
 これはピルを処方されたとき、藤原さんと湊先生から二度にわたって説明を受けていた。
 ピルを使うことで子宮内膜が厚くならず生理自体が軽くなる、と……。
 それは言い換えれば、「子宮自体が受精卵を育てる環境にない」ということ。
 つまり、少量のホルモンで排卵が起きてしまったとして、卵子と精子が受精してしまったとしても、その卵を育てるための環境が整っていないため、妊娠を継続することが難しい、ということになる。
 だから、避妊効果が高くなるのだろう。
「女子がピルを飲み始めるとコンドームをつけなくなる男子が多いのも事実。だけど、それも間違い。避妊効果は高まるけれど、コンドームがないと性病感染は防げないの」
 性交渉で感染するウイルスは、今知られているだけでも三十以上あるという。
「あまり考えたくない話だけど、今付き合っている人が過去に誰と付き合っていたのか、そこまではわかるかもしれない。でも、その人がそのまた過去に誰と付き合って、誰と性交渉をもったのかまではわからないでしょう? 性病感染って相手のその過去の相手の過去の相手……ってものすごくたくさんの人が関わってくるものなの。今の翠葉ちゃんの年ならそんなにたくさんの過去を考えなくてもいいかもしれない。でも、翠葉ちゃんもこれから年を重ねるわ。年を重ねた分、人が人と付き合いを重ねた分、性病のリスクだけは確実に上がっていくのよ。それをもらわない、渡さない、広めない。そのためにはコンドームが必要なの」

 先生は性感染症になったときのことも教えてくれた。
 性感染症になったときにはひとりで治療を受けても意味がないこと。パートナーも一緒に治療を受けなくては意味がないことを。
 ネズミ算式のように際限なく広がる人間関係を、少し怖いと思った。
 不意に秋斗さんを思い出してしまう。
 今まで何人の人と関係をもってきたのだろうか、と。秋斗さんは大丈夫なのだろうか、と。
「今、何を思ったか当ててみようか?」
 先生の問いかけに視線が泳ぐ。
「秋斗くんのこと、じゃないかな?」
 私は答えられず、先生の顔を見ることもできず、テーブルの一点を見つめていた。
「秋斗くんね、翠葉ちゃんを好きになったときに一通り検査を済ませたみたい。結果はどれも陰性だったそうよ」
 ……良かった。
「今まで、自分を大切にしてこなかった子なのにね。大切にしたい人が現れた途端、自分のことも大切にするようになったわ。私はそのことがとても嬉しい」
 次に先生が口にした言葉が、私の耳から離れなくなった。
 この日の授業から、ずっと私の耳にこびりついている。

 ――「好きな人ができると色んな願望や欲望も生まれるけど、何よりその人を大切にしたいと思うんじゃないかしら? そして、その人から大切に想われることで、自分のことを大切にしなくちゃいけないということも学ぶのよ。想いあえるって、本当にすてきなことよね」。

 先生はほかに緊急避妊ピルのことも教えてくれた。望まない性交渉、つまりはレイプされたとき、七十二時間以内に薬を服用すれば妊娠の可能性を極力下げることができるという。
 そして、マスターベーションについても教えてくれる。
 マスターベーションなんて言葉しか知らなかった。小説の中に出てくる言葉として知ってはいたけれど、調べることもなければ人に訊くこともなかった。ただ何となく……の知識しか持っていなかった。
「うちの学校ではマスターベーションかセルフプレジャーって教えるの。セルフプレージャーの直訳は『自分自身の喜び』。主にどういうことをするかというなら、自分の性器を自分で刺激して気持ちよくなることね。日本語にすると『自慰』なんて言葉になっちゃうけど、自分を慰める、よりも、セルフプレジャーのほうがいいでしょう?」
 私は返答に詰まる。
「単純に考えて? 気持ちよくなるためにマッサージをする。それはいけないことかしら?」
「いいえ」
「ね? 悪いことじゃないのよ。人前でしない、やったあとは自分で片付ける。この二点さえ守れれば悪いことじゃない。むしろストレスの発散になったり、性欲をきちんと処理することで集中力が上がるっていう統計もあるくらいよ。精神的なコントロールがはかれるようになるっていう研究結果もある。……一方、快楽に溺れて自分ひとりではなく相手を求めるようになる人もいるけれど……。何もかもが悪いわけじゃないわ」

 親は子どもが子どもであるうちには、子どもができる行為をしてほしくないと願う。
 もし、子どもが妊娠したり妊娠させたりすれば、親が思い描いていた人生からは外れた道を進むことになってしまう。
 そういったことを危惧するからこその願望なのだろう。
 けれど、身体と心が成長すれば子どもは必然と「性」に興味を持つ。そこは避けて通れないのだという。
「興味を持ったことに対し隠し立てすることがいいことなのかどうか――隠せば知りたいと思うのが人でしょう? 難しいことだけど、うちの学校はすべてを知ったうえで判断してほしい。過ちを犯してほしくないという考えなの」
 この学校は、受験前に取り寄せる願書とは別に、保護者宛に封書が送られてくる。それにはこれらのことがすべて書かれているという。そのうえで、子どもを受験させたいか、とまずは親が問われるらしい。
 受験するときには肯定していても、実際に入学書類へサインする時点で渋る親もいるという。
「親御さんの気持ちがまったくわからないわけじゃないわ。それでも、愛し合う行為がいけないこととは教えたくない。いけないことなのではなくて、どんなにすばらしいことなのかを教えなくてはいけないと思ってる。――困ったことに、色々な部分で矛盾が生じてくるのよ。親側の願望要望、人として知らなくてはいけない知識。その年の子たちの立場に立った意見。どこでそれらが折り合うのか、折り合えるのか……。『折を見て』という言葉があるけれど、それはいつどこで、という話になるでしょう? だから、うちの学園はこういう姿勢です、って最初に提示するの。翠葉ちゃんが今、ここでこうして授業を受けているのは親御さんの意向でもあるの。そのことを忘れないでね」

 授業の最後に待っていた実技は、人体模型にコンドームをかぶせる、というものだった。
 中学で手にして以来のコンドームを前に息を呑む。
「刷り込まれた印象はなかなか拭えないと思うけど……。でも、これは汚いものじゃないの。むしろ翠葉ちゃんとパートナーを守ってくれるものよ? だから、つけ方を覚えようね」
 そう言われ、小さな四角い包みを渡された。
 コンドームにはあらかじめ少量の潤滑液がついていて、ハイソックスをふくらはぎから足首までクルクルと巻いて下ろしたときのような状態で入っている。
「この突起がある方が表。見本を見せるわ。できる限りコンドームに空気が入らないように密着させて根元までかぶせるの」
 先生は細い指先でゆっくりと器用にかぶせていく。そして、「捨てるときには結んで捨てる」と教えてくれた。
「さ、やってみよっか!」
 私は包みを開け、先生がしたように模型にそれをかぶせた。
「うん、ちゃんとできたね。これにて私の性教育は終わります。また来年、夏休み前に確認事項のような筆記テストと、今と同じ実技テストがあるけど……大丈夫ね?」
「はい」
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