光のもとで1

葉野りるは

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最終章 恋のあとさき

08話

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「私……行為も怖かったけど――好きな人を怖いと思ってしまったんです」
 でも、「行為」と言ってもキスマークだけなのだ。それ以上のことは何もされていない。
「きっかけは?」
「……先生、私が怖いと思ったのは性交渉未満の行為です」
「つまりは何かしら?」
「……キスマーク。キスマークをつけられただけなんです。本当に好きな人だったのに。大好きだったのに、どうして消したくなっちゃったんだろう」
「……消す?」
 首を傾げる先生に、お風呂でこすって内出血してしまったことや、寝ている間に掻きむしってひどい擦過傷になってしまったことを話した。
 先生は口元に人差し指をあて、何か考えているようだった。
 やっぱり、私が取った行動はおかしいのだろうか。
 不安で心が押し潰されそうになる。
「……翠葉ちゃん、本当は、人物名を出さずにその話を聞こうと思ったんだけど――ごめんね」
 え……?
「私、相手が秋斗くんだって知ってるの」
「ど、して――湊先生……?」
 先生は緩く首を振る。そして、「違うわ」と答えた。
「秋斗くんが相談しに来たのよ。……とはいえ、そのときじゃないわ。ずいぶんと時間が経ってからのことよ。そう、ちょうど紅葉祭のあとくらいかしらね」
 先生が知っているということに驚きはしたけれど、かえって話しやすくなった。
「彼が……秋斗くんが何を私に話したか知りたくない?」
「……でも、それは秋斗さんの悩みごとなのでしょう?」
「そうであってそうじゃない……かな?」
 ここにきて初めて、先生が曖昧な言葉を口にした。
 どいう意味だろうか、と考えて数秒。
 やっぱり訊いてはいけない気がした。だってそれは、秋斗さんの悩みごとだから。
「……先生は話しちゃいけない立場の人だと思います」
「いつもなら、ね。でも、これに関しては秋斗くんから了承を得ているの。むしろお願いをされたわ」
「お願い、ですか?」
「そう――もし、自分が教材になるのなら使ってほしい、って。彼はそう言ったのよ」
 心臓が駆け足を始める。秋斗さんの名前を聞くだけで、ドドド、と心臓が脈を刻みだす。
「驚いたわ。彼が誰かのために何かしようとするなんて」
「え……?」
「私、彼が高校生のときから見てきているのよ? 女性遍歴もそれなりに知っているし、どういう子なのかもある程度はわかっているつもり。その彼が、ただひとりの女の子に執着して、その子のためになるなら自分を例にあげてもかまわない、とまで言うんだもの」
 先生はどこか嬉しそうに笑う。そして、真剣な目で私を見た。
「翠葉ちゃんはおかしくない。それから、秋斗くんもおかしくない。話したでしょう? 個人差はあるけど、男性脳と女性脳は違うの。感じ方も求め方も違う。秋斗くんが翠葉ちゃんに対して抱きしめたい、キスしたい、セックスしたいと思うことはごく当たり前なことだし、健全な証拠。翠葉ちゃんは恐怖心を感じすぎてしまった感が否めないけど、そうなるだけの理由があった」
 先生は私に男性恐怖症の気があることも知っていた。それは湊先生から事前情報として聞いていたらしい。
「そういうことがあったあとならなおさらよ。過剰に反応してしまうのは仕方のないこと。何も好きな人だから大丈夫、だなんて一概には言えないの。湊ちゃんも言っていたでしょ? 『好きな人』にはより『異性』を感じてしまうがゆえに拒否反応が起こることもあるって。だから、何もおかしいことじゃない」
「おかしくない」と言われるだけで、こんなにも心は楽になるものなのか――
 そう思うほどに私の心は救われていた。

「翠葉ちゃんは彼から女性遍歴を聞いたそうだけど、すぐに身体の関係になるような、そんな付き合いしか彼はしてきていないの。もちろん、彼は彼なりに翠葉ちゃんが相手であることを考慮して行動していたつもりだけど、彼の目算は誤りだった。翠葉ちゃんにはもっと準備期間が必要だったの。それが恐怖感の正体よ」
 恐怖感の正体は――準備、期間……。
 ポロリ、とわけもわからずに涙が零れる。
 前に座る先生の手が伸びてきて、頭をポンポンと叩かれた。
「少しずつ勉強しましょう。大丈夫だから――いつかは怖くないと思える日がくるから。自分から好きな人を求めるような日が、そんなときがくるから。今はどういうものなのか、気持ちの変化を学びましょう」
 先生にお茶を飲むように促され、私はコクコクと何口もラベンダーティーを飲み下した。
 泣くな、動揺するな、冷静になれ――
 暗示をかけるように、または叱咤するように自分を諭した。

 セックスとはどういうものか。そんな授業が始まった。
 単純な話、セックスとは男女が交わることをいう。
 小学生でも理解できるたとえ話なら、雄しべと雌しべが受粉し実ができる、だろう。けれど藤宮ではあえてそういったたとえ話はしないという。
 人の場合、受精は妊娠を意味し、子供ができることを指すから。
 わかりやすいという一面を持っていたとしても、少しでも「安易」と思えるたとえ話はしないらしい。
「それにね、人の性行為って植物にはたとえられない付加価値がたくさんあるのよ?」
 玉紀先生はにこりと笑む。
「好きな人のぬくもりを感じたり呼吸を感じたり、鼓動を聞いたり……時間や空間を分かち合うだけじゃ物足りなくて、心も身体も、感覚のすべてを分かち合おうとする行為。それがセックス、愛し合う行為よ」
 同じ空間で同じときを過ごすことなら誰とでもできる。でも、身体の感覚すべてを分かち合うのには相手に触れる必要があるのだ――と。それが、キスであり愛撫であり性行為なのだと先生は教えてくれた。
「ふたりだけが感じることのできる、ふれあう時間ってすてきだと思わない?」
 訊かれてしまうと少し戸惑う。
「何も一体になることを考えなくてもいいの。手をつなぐ、腕を組む、抱きしめる。……お母さんが子どもにするスキンシップみたいなもの。言葉がまだ通じないから肌に触れて直接感情を伝える。セックスってそんな行為の延長線にあるのよ」
 あ――と思った。
 前に、海斗くんにも同じようなことを言われたことがある。手をつなぎたいと思ったことはないか、と。それに私は「ある」と答え、海斗くんはその延長線に性行為があるのだと教えてくれた。
 海斗くんは、藤宮で受けている教育をそのまま私に話してくれていたのだ。
「一方的な気持ち、つまりは片思いの状態でそれらを遂行してしまうのは問題アリだけど、思いあうふたりがする行為ならば問題ないと思うわ」
 そんなふうにできたら良かった。良かったのに――

 またしても、私の目からは涙が零れる。どんなに我慢しようとしてもそれは止まらない。
「手、つなごっか」
 先生の手が前方から伸びてきて私の手を捉えた。
「冷たいね」
 言いながら、力の入った私の右手を開いては自分の両手で包みこむ。
 先生の手は私の手よりも小さかった。けれど、その手はとてもあたたかくて、優しく手の平をマッサージしてくれている。
「こういうことからでもいいんじゃないかと思うの」
 先生は手を見つめながら言う。
「こうやって好きな人と手のマッサージをしたり、そういうことから慣らすこともできると思うの。セックスはね、心が伴わなかったら『すてきな行為』にはならないのよ。ピンポイントで気持ちいいと感じる場所を刺激されれば身体が反応することはあるかもしれない。でも、心が全面的に拒否してる状態じゃ苦痛でしかないわ。今、翠葉ちゃんが性交渉に挑んだところで苦痛にしかならないと思う。だから、無理する必要はないの。言ったでしょう? 心も成長するのよ、って」
 先生の言葉が優しすぎて、私はどうしようもなく甘えたくなってしまう。でも、甘えたらだめだと思う自分もいて、どうしても楽になれない。
 そんなとき――
「ところで……今すぐにそうならなくちゃいけない相手がいるの? それはうちの生徒?」
 訊かれて、「いません」と答える。
 先生はきょとんとした顔をして、次には小さくクスクスと笑いだす。そして、笑い声はしだいに大きくなった。
 今は右手を包んでいる両手が大きく揺れるほどに笑っている。
「じゃ、今、すっごく思いつめて考える必要はないわ。いつか大好きな人とお付き合いすることになったら、そのときに考えましょう? いつでも相談しにきて?」
 そう言って、先生はにっこりと笑った。

「セックスがどういうものかは話したから、その続きを話すわね」
 先生は保健体育で習うような授業を始めた。
 性交渉におよび、精子と卵子が受精すれば子どもができるのだと。とても当たり前のことを当たり前ではないように話す。
「卵子はいわば細胞分裂から生まれるもので、年が若ければ若いほどに質がいいの。質がいいということはどういうことかというと、妊娠しやすいということ。男子にも同じことがいえるわ。年が若ければ若いほどに精子が元気よく寿命も長め。つまり、この条件で性交渉をすると受精……妊娠する可能性がとても高いということ」
 中学校ではこんなふうには説明されなかった。子どもができても育てることができない年齢ではすることじゃない、とだけ説明された。
 コンドームとはHIVなどの性病感染を防ぐものと教わった。
 それ以上でもそれ以下でもなく、ただそう教わった。
 でも、玉紀先生は「してはいけない」とは言わない。
「受精しやすいのならなおのこと、避妊がとても重要なものになるのよ」
 性交渉がどんなものであるのか、ということに今一歩踏み込む。
「セックスは愛を深める行為であるとともに、命に関わる行為でもある。それだけはしっかりと覚えておいてね。リスクも伴うの」
 先生が言うリスクには中学で習ったHIVなどの性病感染も含まれてはいたけれど、それ以上に「命」について詳しく説明された。
「望まない子どもを堕胎すること。中絶は知っているわよね?」
「はい……」
「中絶ができるのは妊娠が成立してから十二週目までなの。十二週以降は人工的に流産させるため、死産届けが必要になるわ。そして二十ニ週目以降になると母体に大きな負担がかかることから中絶は不可能となる」
 ここまで詳しく話を聞くのは初めてのことだった。教科書にも書かれてはいなかった。
「まぁ、これは妊娠して中絶すると決めたときの話。基本は望まないのならば妊娠は避けなくちゃいけない。それが避妊、よ」
 先生は急に将来の夢を訊いてくる。
「翠葉ちゃんの将来の夢って何?」
 私はその問いに答えられない。
「まだ進路は決めてないのかな? ざっくりとした何になりたい、というものでかまわないんだけど」
「……私、先のことが考えられないんです」
 その一言に先生が瞠目した。
「……一年を無事に終えることができるのか、留年せずにニ年に進級できるのか。みんなと一緒に卒業できるのか。そんなことすらわからなくて、それ以上のことを考えられないんです。数年後の自分のビジョンがまったく見えない……」
「……そっか。でも、この学園は学習意欲のある子や成績のいい子には温情措置が手厚く敷かれてるはずよ? もし入院ということになっても学校の授業を通信で受けることができるし、それ相応の課題をこなすことで進級が認められるはずだわ。つい先日、何か新しいシステムも導入されたみたいだし……」
 そのことは川岸先生から聞いていた。でも、未だに私の中では「特別扱い」というものへの抵抗がある。
「この提示の仕方は翠葉ちゃんには合わないのかもね」
「え?」
「うちの学校の生徒は将来の夢がはっきりしている子が多いの。だから、今子どもができたらその夢を諦められるか、という問いかけをするのだけど、翠葉ちゃんにはちょっと向かないみたい」
 目標をすぐに答えられない自分がひどく情けない気がした。
「そんな顔することないわ。まだ一年生なのよ? 高校生活はあと二年ある。高校の次をどうするのか、まだ考える時間はあるんだから。それに、今の翠葉ちゃんに子どもができたらどうする? って訊いても、困りますって答えが返ってきそう」
 それには頷く。
 子どもができたとして、その子を産めるほどに大きく育ててあげることがこの身体にできるのか。出産が無事に済んだとしても、私はその子を育てるだけの自活力を持ち合わせてはいない。
 何より、自分のことで手一杯なのに妊娠なんて考えられない。
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