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第十四章 三叉路
53話
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後方でドライヤーの音が鳴り始めたのを確認し、私は窓際へ向かった。
カーテンを開けると空が幾分か明るくなっていた。それでも、照明の点いていない室内は暗い。
照明を点けると、びっくりするほど簡素な部屋だった。
引越してきて数日しか経っていないと言われたら、疑うことなく信じただろう。
ダイニングとリビングの両方で十五畳ほどの部屋には、テレビとちょっと大きめのローテーブルがひとつ。クッションが点在してはるものの、ほかに何があるわけではない。
この何もない中、私はクッションに躓いて転んだのだ。
「なんだかすごく間抜けじゃない……」
一言自分に文句を言い、マフラーを外しコートを脱いだ。
手を洗うためにキッチンへ向かい、「お邪魔します」と口にしてから中に入る。
キッチンは、リビング同様必要最低限のものしか置かれていなかった。
ゴミ箱と思しき上にはピザ屋さんの箱が載っている。
それを見て、昨夜の夕飯はピザを食べたのかもしれない、と察する。
「……サンドイッチ買ってきちゃったけど、おにぎりのほうが良かったかな?」
しばし逡巡していると声をかけられた。
「髪の毛、ちゃんと乾かさないとだめだよ?」
振り返り様に言うと、いつもどおりのツカサがそこにいた。
漆黒の髪は照明の下で艶々と光る。
頭の曲線に沿ってきれいな光の輪ができ、毛先は束になることなくサラサラしているように見えた。
つまり、濡れてはいない……?
「翠の髪を乾かすほど時間はかからない」
言われて納得。
髪が短いとこんなにも早く乾くものなのか、と少し驚いた。
リビングにあるテーブルに着き、買ってきたものをビニール袋から出す。
「サンドイッチじゃなくておにぎりのほうが良かった? 昨夜、何を食べたのかまでは考えてなかったの」
「いや、いい」
ツカサはビニール袋から出てきたレシートに手を伸ばす。
「これ、会計が全部一緒なんだけど……。まさか翠が払ってたりしな――」
「あ、違うの。コンビニには唯兄がついてきてくれて、買うものも全部決めて支払いも済ませてくれたの。だから、私が買ったわけでもなければツカサのお財布も開けてないよ? あ、これ、ツカサのお財布」
預かっていたお財布をテーブルに置くと、ツカサは面白くなさそうな顔をした。
「……今、唯兄に貸しを作った、って思った?」
「なんで……」
「……なんとなく? そんなふうに見えただけ。あ、唯兄から伝言があるの。『こんなんでも貸しは貸しだからいつか返せよバーカ』って」
「一字一句変えずに伝えて」と言われたそれを伝えると、ツカサはものすごく嫌そうな顔をする。
こんな表情はあまり珍しくないけれど、自分の前で少しずつ変化する表情を見ることができて嬉しかった。
ツカサも私と同じなのかもしれない。
言葉や態度で示してくれる人がいても、うまく呑み込むことができない。
理解するとかその人を信じるとか、そういうものとは別次元。
自分ではどうすることもできない足枷に囚われている。
……それなら、私もツカサと同じことをするよ。
何度も何度も伝えるし、側にいるって行動で示す。
だから、不安になったら私を呼んで?
呼ばれるたびに、「私はここにいるよ」って答えるから。
自分の前に置いたのはサンドイッチとあたたかい蜂蜜レモン。
蜂蜜レモンはお湯で希釈したことによりだいぶ飲みやすいものになったけれど、サンドイッチは口にする前から手強そうだなと思っていた。
「レタスがたくさん」と謳われているだけのことはあり、その分厚さは半端ない。大口を開けないと食べられないだろう。
サンドイッチをじっと見ていると、ツカサの携帯が鳴り出した。
ツカサは躊躇することなくそれに出る。
「はい」
『あ、司?』
相変わらず、携帯での会話は全部筒抜けだ。
この声は蒼兄。携帯を通していてもこの声を聞き間違えることはない。
「お手数をおかけしてすみませんでした」
『いや、それはかまわないんだけど……。今、翠葉は?』
ドクリ、と心臓が嫌な動きをする。
「目の前にいます。……代わりますか?」
ツカサの目がこちらを向いた。
『いや……なんか訊いた?』
突如、射抜くような視線で見られ、罪悪感を覚える。
自分で言う、とは言わなかった。
約束を破ったわけではないのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう……。
『やっぱり自分じゃ言わないか……。翠葉、昨夜一睡もしてないんだ』
ツカサが私の携帯を捉えた次の瞬間には、ツカサの手中に携帯があった。
『不整脈が出てる。本人も自覚してるし学校は休むことになってるから。それだけ伝えておこうと思って』
「すみません……」
『……なんというか、司が謝る必要はないと思う。そこに戻るって決めたのは翠葉だから』
ツカサは信じられないものを見るような目で私を見た。
『因みに、昨夜は何も食べてない。今朝もスープを少し飲んだ程度。唯がサンドイッチ買ったみたいだけど、食べてなかったら食べるように勧めてくれると嬉しい』
「わかりました」
『バスに乗れそうになかったら迎えに行くから。何かあれば連絡して?』
「はい……」
『じゃ、頼んだ』
その言葉を最後に通話は切れた。
ツカサは自分の携帯をラグに放り、代わりに私の携帯を注視する。
「本当にバカだろ……」
「……ツカサにお財布渡されなかったら、唯兄たちと一緒に帰るつもりでいたもの」
「それ以前の問題。こんな時間にここへ来る必要はなかっただろっ!?」
「だって、ツカサが学校へ来るかなんてわからなかったし――」
「こんなことくらいで休まない」
「そんなこと私にわかるわけないでしょうっ!?」
「わかれよっっっ」
「――じゃぁ、百歩譲ってわかったとして、学校で会ったら話してくれたっ? さっきの話、全部話してくれたっ? 私、学校では話してくれないと思った。まるで知らない人に接するように対応されるんじゃないかと思った」
それが嫌で、怖くて、ここまで来たのにっ――
「いずれにせよ、話す必要はあった」
淡々と返されて頭にくる。
「……ごめん。私、余計なことしたみたい。帰るっ」
何も考えずに立ち上がると、決まっていた未来のように眩暈がやってくる。
今回はものの見事に平衡感覚を持っていかれた。
心臓が数秒間止まり、ドク、ドクドク、と不規則な動きを再開させる。
真っ暗な視界と冷や汗。
それから、あたたかな体温。
「正真正銘のバカだろ……」
ツカサの声が耳元で聞こえた。
支えられている、というよりも抱きしめられている気がしてならない。
「短時間で何度同じ過ちを繰り返せば気が済む?」
低く、威圧感のある声で言われた。
言われていることがもっともすぎて、私は言い返すこともできない。
こんなときばかりは自分の身体を恨めしく思う。ひどく疎ましく思う。
感情の起伏に身体がついてきてくれない。こんなの、一心同体なんて言えない。
真面目にそう思うほどには悔しくて仕方なかった。
「さっきも言ったけど……翠が自分を粗雑に扱うと、俺は自分を制御できないくらいに腹が立つみたいだ」
ツカサはまるで今気づいたみたいに言う。
「……私は自分を大切にしてないわけじゃない。ただ、自分以上に大切なものがあるときは仕方ないと思う」
「……その、『自分以上に大切なもの』がいくつあるのか教えてくれないか?」
「……え?」
「自分より優先するものがひとつふたつなら認められなくもない。でも、翠のは違う気がする。自分より上位に家族や友人、周りにいる人間全員載せてないか?」
身体がビクリ、と震えた。
「それで自分を大切にしていないわけじゃない? 笑わせるなっ」
そんなこと言われても困る……。
だって、大切なんだもの。何ひとつ落としたくないんだもの。
欲張りって言われるかもしれない。でも、何も失いたくないの。
手に持ちきれないのなら身体を張るしかないでしょうっ!?
気づけば涙が零れていた。
言葉にしようのない悔しさが涙になって溢れ出た。
泣きたくないのに……。こういうの、もう嫌なのに――
「……翠はいつになったら自分を許す?」
「っ……」
「俺には自分を許せって言ったくせに、自分のことは棚に上げるのか?」
目を開けると、床の上で涙がはじけた。
視界は戻っていた。
ツカサに顔を覗き込まれ、再度尋ねられる。
「翠はいつになったら自分を許す?」
じっと見つめる双眸は揺るがない。
漆黒の瞳に呑まれそうになり、必死の思いで視線を引き剥がした。
「わ、から、ない……」
「……俺はたぶん、あまり気が長いほうじゃない。でも、この件――翠のことだけは待つつもりだから」
私は言葉に詰まった。
「待つ」という言葉が嬉しくて悲しい。
ツカサ……私、この件に関しては許されることを望んでいないの……。
自分を責める人がいなくても、自分が自分を許せない。
気持ちが変わってしまった自分を許せそうにはない。
どうして気持ちが変わってしまったのかがわからない。
答えが、出ないの……。
――「永遠なんて信じない」。
そう言った茜先輩の言葉が胸に重く響く。
あのとき、私はなんと答えただろう。
茜先輩がずっと心に抱いてきた闇のひとつは「心変わり」。
今の私はあのときの自分に戻れない。あまりにも状況が違いすぎて。
秋斗さんとツカサのふたりを失わないですむのなら、と決めたのがこの道だった。
どちらも選ばないという道――それは、大切な人を失わないですみ、なおかつ、自分が楽にならないための道だった。
決してツカサや秋斗さんを苦しめるための選択ではなかったはずなのに、どうしてこんなにもツカサの声が悲痛に響くのか。
まるで、同じ道をツカサも歩いているみたい。
そんなつもりじゃなかったのに――
もし、どちらかを選んでいたらどうなっていたの?
ツカサを選んでいたらどうなっていたの?
自分は茨の道から逃れたとして、秋斗さんはどうなるの?
苦しい気持ちを抱えたままどうなってしまうの?
香乃子ちゃんが言っていた。
誰かがうまくいっても誰かがうまくいかないのなら、自分の応援をしよう、と。
香乃子ちゃんはその答えを出すまでにどれだけの時間を要しただろう。
決して痛みを伴わない選択ではないと思う。
だからこそ、そう選択することができた香乃子ちゃんをすごいと思う。
この道の先には何があるだろう。
ツカサがほかの人を好きになる?
秋斗さんが誰かと結婚する?
そんな未来があったとして、そのとき、私の気持ちはどう変化しているのだろう。
一度心変わりをした心は、あと何度心を変えるのだろう。
どうしていつもこうなのかな……。
未来はいつも不安の塊で、輝いて見えたことなど一度もない。
将来の夢をキラキラした目で話せる人を心底羨ましいと思う。
どうしたらそんなふうに未来が輝いて見えるのか、誰かに教えてもらいたい。
私の未来は、どうして不安が占める割合が大きいのだろう――
カーテンを開けると空が幾分か明るくなっていた。それでも、照明の点いていない室内は暗い。
照明を点けると、びっくりするほど簡素な部屋だった。
引越してきて数日しか経っていないと言われたら、疑うことなく信じただろう。
ダイニングとリビングの両方で十五畳ほどの部屋には、テレビとちょっと大きめのローテーブルがひとつ。クッションが点在してはるものの、ほかに何があるわけではない。
この何もない中、私はクッションに躓いて転んだのだ。
「なんだかすごく間抜けじゃない……」
一言自分に文句を言い、マフラーを外しコートを脱いだ。
手を洗うためにキッチンへ向かい、「お邪魔します」と口にしてから中に入る。
キッチンは、リビング同様必要最低限のものしか置かれていなかった。
ゴミ箱と思しき上にはピザ屋さんの箱が載っている。
それを見て、昨夜の夕飯はピザを食べたのかもしれない、と察する。
「……サンドイッチ買ってきちゃったけど、おにぎりのほうが良かったかな?」
しばし逡巡していると声をかけられた。
「髪の毛、ちゃんと乾かさないとだめだよ?」
振り返り様に言うと、いつもどおりのツカサがそこにいた。
漆黒の髪は照明の下で艶々と光る。
頭の曲線に沿ってきれいな光の輪ができ、毛先は束になることなくサラサラしているように見えた。
つまり、濡れてはいない……?
「翠の髪を乾かすほど時間はかからない」
言われて納得。
髪が短いとこんなにも早く乾くものなのか、と少し驚いた。
リビングにあるテーブルに着き、買ってきたものをビニール袋から出す。
「サンドイッチじゃなくておにぎりのほうが良かった? 昨夜、何を食べたのかまでは考えてなかったの」
「いや、いい」
ツカサはビニール袋から出てきたレシートに手を伸ばす。
「これ、会計が全部一緒なんだけど……。まさか翠が払ってたりしな――」
「あ、違うの。コンビニには唯兄がついてきてくれて、買うものも全部決めて支払いも済ませてくれたの。だから、私が買ったわけでもなければツカサのお財布も開けてないよ? あ、これ、ツカサのお財布」
預かっていたお財布をテーブルに置くと、ツカサは面白くなさそうな顔をした。
「……今、唯兄に貸しを作った、って思った?」
「なんで……」
「……なんとなく? そんなふうに見えただけ。あ、唯兄から伝言があるの。『こんなんでも貸しは貸しだからいつか返せよバーカ』って」
「一字一句変えずに伝えて」と言われたそれを伝えると、ツカサはものすごく嫌そうな顔をする。
こんな表情はあまり珍しくないけれど、自分の前で少しずつ変化する表情を見ることができて嬉しかった。
ツカサも私と同じなのかもしれない。
言葉や態度で示してくれる人がいても、うまく呑み込むことができない。
理解するとかその人を信じるとか、そういうものとは別次元。
自分ではどうすることもできない足枷に囚われている。
……それなら、私もツカサと同じことをするよ。
何度も何度も伝えるし、側にいるって行動で示す。
だから、不安になったら私を呼んで?
呼ばれるたびに、「私はここにいるよ」って答えるから。
自分の前に置いたのはサンドイッチとあたたかい蜂蜜レモン。
蜂蜜レモンはお湯で希釈したことによりだいぶ飲みやすいものになったけれど、サンドイッチは口にする前から手強そうだなと思っていた。
「レタスがたくさん」と謳われているだけのことはあり、その分厚さは半端ない。大口を開けないと食べられないだろう。
サンドイッチをじっと見ていると、ツカサの携帯が鳴り出した。
ツカサは躊躇することなくそれに出る。
「はい」
『あ、司?』
相変わらず、携帯での会話は全部筒抜けだ。
この声は蒼兄。携帯を通していてもこの声を聞き間違えることはない。
「お手数をおかけしてすみませんでした」
『いや、それはかまわないんだけど……。今、翠葉は?』
ドクリ、と心臓が嫌な動きをする。
「目の前にいます。……代わりますか?」
ツカサの目がこちらを向いた。
『いや……なんか訊いた?』
突如、射抜くような視線で見られ、罪悪感を覚える。
自分で言う、とは言わなかった。
約束を破ったわけではないのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう……。
『やっぱり自分じゃ言わないか……。翠葉、昨夜一睡もしてないんだ』
ツカサが私の携帯を捉えた次の瞬間には、ツカサの手中に携帯があった。
『不整脈が出てる。本人も自覚してるし学校は休むことになってるから。それだけ伝えておこうと思って』
「すみません……」
『……なんというか、司が謝る必要はないと思う。そこに戻るって決めたのは翠葉だから』
ツカサは信じられないものを見るような目で私を見た。
『因みに、昨夜は何も食べてない。今朝もスープを少し飲んだ程度。唯がサンドイッチ買ったみたいだけど、食べてなかったら食べるように勧めてくれると嬉しい』
「わかりました」
『バスに乗れそうになかったら迎えに行くから。何かあれば連絡して?』
「はい……」
『じゃ、頼んだ』
その言葉を最後に通話は切れた。
ツカサは自分の携帯をラグに放り、代わりに私の携帯を注視する。
「本当にバカだろ……」
「……ツカサにお財布渡されなかったら、唯兄たちと一緒に帰るつもりでいたもの」
「それ以前の問題。こんな時間にここへ来る必要はなかっただろっ!?」
「だって、ツカサが学校へ来るかなんてわからなかったし――」
「こんなことくらいで休まない」
「そんなこと私にわかるわけないでしょうっ!?」
「わかれよっっっ」
「――じゃぁ、百歩譲ってわかったとして、学校で会ったら話してくれたっ? さっきの話、全部話してくれたっ? 私、学校では話してくれないと思った。まるで知らない人に接するように対応されるんじゃないかと思った」
それが嫌で、怖くて、ここまで来たのにっ――
「いずれにせよ、話す必要はあった」
淡々と返されて頭にくる。
「……ごめん。私、余計なことしたみたい。帰るっ」
何も考えずに立ち上がると、決まっていた未来のように眩暈がやってくる。
今回はものの見事に平衡感覚を持っていかれた。
心臓が数秒間止まり、ドク、ドクドク、と不規則な動きを再開させる。
真っ暗な視界と冷や汗。
それから、あたたかな体温。
「正真正銘のバカだろ……」
ツカサの声が耳元で聞こえた。
支えられている、というよりも抱きしめられている気がしてならない。
「短時間で何度同じ過ちを繰り返せば気が済む?」
低く、威圧感のある声で言われた。
言われていることがもっともすぎて、私は言い返すこともできない。
こんなときばかりは自分の身体を恨めしく思う。ひどく疎ましく思う。
感情の起伏に身体がついてきてくれない。こんなの、一心同体なんて言えない。
真面目にそう思うほどには悔しくて仕方なかった。
「さっきも言ったけど……翠が自分を粗雑に扱うと、俺は自分を制御できないくらいに腹が立つみたいだ」
ツカサはまるで今気づいたみたいに言う。
「……私は自分を大切にしてないわけじゃない。ただ、自分以上に大切なものがあるときは仕方ないと思う」
「……その、『自分以上に大切なもの』がいくつあるのか教えてくれないか?」
「……え?」
「自分より優先するものがひとつふたつなら認められなくもない。でも、翠のは違う気がする。自分より上位に家族や友人、周りにいる人間全員載せてないか?」
身体がビクリ、と震えた。
「それで自分を大切にしていないわけじゃない? 笑わせるなっ」
そんなこと言われても困る……。
だって、大切なんだもの。何ひとつ落としたくないんだもの。
欲張りって言われるかもしれない。でも、何も失いたくないの。
手に持ちきれないのなら身体を張るしかないでしょうっ!?
気づけば涙が零れていた。
言葉にしようのない悔しさが涙になって溢れ出た。
泣きたくないのに……。こういうの、もう嫌なのに――
「……翠はいつになったら自分を許す?」
「っ……」
「俺には自分を許せって言ったくせに、自分のことは棚に上げるのか?」
目を開けると、床の上で涙がはじけた。
視界は戻っていた。
ツカサに顔を覗き込まれ、再度尋ねられる。
「翠はいつになったら自分を許す?」
じっと見つめる双眸は揺るがない。
漆黒の瞳に呑まれそうになり、必死の思いで視線を引き剥がした。
「わ、から、ない……」
「……俺はたぶん、あまり気が長いほうじゃない。でも、この件――翠のことだけは待つつもりだから」
私は言葉に詰まった。
「待つ」という言葉が嬉しくて悲しい。
ツカサ……私、この件に関しては許されることを望んでいないの……。
自分を責める人がいなくても、自分が自分を許せない。
気持ちが変わってしまった自分を許せそうにはない。
どうして気持ちが変わってしまったのかがわからない。
答えが、出ないの……。
――「永遠なんて信じない」。
そう言った茜先輩の言葉が胸に重く響く。
あのとき、私はなんと答えただろう。
茜先輩がずっと心に抱いてきた闇のひとつは「心変わり」。
今の私はあのときの自分に戻れない。あまりにも状況が違いすぎて。
秋斗さんとツカサのふたりを失わないですむのなら、と決めたのがこの道だった。
どちらも選ばないという道――それは、大切な人を失わないですみ、なおかつ、自分が楽にならないための道だった。
決してツカサや秋斗さんを苦しめるための選択ではなかったはずなのに、どうしてこんなにもツカサの声が悲痛に響くのか。
まるで、同じ道をツカサも歩いているみたい。
そんなつもりじゃなかったのに――
もし、どちらかを選んでいたらどうなっていたの?
ツカサを選んでいたらどうなっていたの?
自分は茨の道から逃れたとして、秋斗さんはどうなるの?
苦しい気持ちを抱えたままどうなってしまうの?
香乃子ちゃんが言っていた。
誰かがうまくいっても誰かがうまくいかないのなら、自分の応援をしよう、と。
香乃子ちゃんはその答えを出すまでにどれだけの時間を要しただろう。
決して痛みを伴わない選択ではないと思う。
だからこそ、そう選択することができた香乃子ちゃんをすごいと思う。
この道の先には何があるだろう。
ツカサがほかの人を好きになる?
秋斗さんが誰かと結婚する?
そんな未来があったとして、そのとき、私の気持ちはどう変化しているのだろう。
一度心変わりをした心は、あと何度心を変えるのだろう。
どうしていつもこうなのかな……。
未来はいつも不安の塊で、輝いて見えたことなど一度もない。
将来の夢をキラキラした目で話せる人を心底羨ましいと思う。
どうしたらそんなふうに未来が輝いて見えるのか、誰かに教えてもらいたい。
私の未来は、どうして不安が占める割合が大きいのだろう――
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