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第十四章 三叉路
29話
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美容院を出て蒼兄に電話をすると、ふたりは揃って脇の階段を下りてきた。
「何か、懐かしい感じだね」
唯兄が言っているのは前髪のことだろう。
私は前髪を触りながら、
「うん……懐かしい。それと、ちょっと落ち着く。……今日、お母さんは?」
これには蒼兄が答えてくれた。
「まだ現場」
「そう……栞さんは?」
「今日は日曜日だからお休み。実はさ、リィが帰ってきたら鍋にしようって話してたんだ。家に帰ったら兄妹水入らずでお鍋だよ」
たったの一日しか離れていなかったのに、そんな言葉すらくすぐったく感じる。
「お父さんとお母さんがいないのにお鍋?」
私の言葉に兄ふたりは肩を竦め、口の前に人差し指を立てると「内緒」と口にした。
マンションに帰ると、「家」の匂いにほっとする。
「唯兄、スヌードありがとう」
「うん、貸しておいて良かった。まさか白野に行くとは思ってなかったからね」
ほんの少し咎めるような声音に聞こえたけれど、それは次の瞬間に払拭される。
「ほら、手洗いうがいと着替えを済ませたらすぐに夕飯っ! あったかいもの食べてあったまろう」
ポン、と背中を押されて洗面所に入れられた。
着替えを済ませてダイニングへ行くと、すでにテーブルの上にはぐつぐつと煮立ったお鍋があった。
「リィはシンプルな水炊きが一番好きなんでしょ?」
「うん、好き。お出汁の香りとお野菜たっぷりのスープが好き」
湯気の立つお鍋を囲み、取り留めのない話をしながら夕飯を食べた。
「翠葉、食欲ないのか?」
蒼兄に訊かれて少し困る。
食欲がないのは少し前からずっとで、今に始まったことではなかったから。
でも、必要以上の心配はかけたくない。
「たぶん疲れてるからだと思う。身体が消化に体力割きたくないですーって言ってるみたい」
苦笑して身体の怠慢さのせいにする。
「でも、お鍋だから大丈夫だよ。明日の朝はこのスープでおじやを作りたいな」
「おじやでもうどんでも、どっちでも作るよ」
にこりと笑う唯兄に、「ありがとう」と答えた。
食後の片付けを済ませ、コーヒーとハーブティーを淹れると話の場を私の部屋へ移す。
蒼兄も唯兄も、帰りの車の中や夕飯中はこの件に触れないでくれた。
ふたりは私が話すのを待っているのだろう。
もともと、帰って来たら話すと約束していたし、今日中に話そうとは思っていた。
「あのね……ずっと言えなくてごめんなさい。私、記憶が戻ったの」
蒼兄の呼吸が一瞬止まったのがわかった。それに対し、唯兄は細く長く息を吐き出した。
もしかしたら、唯兄はどこかからか気づいていたのかもしれない。
「いつ?」
訊いてきたのは唯兄。
「インフルエンザで退院してきた日。この部屋に入ったときに気づいたの。いつ思い出したのかはわからないのだけど、記憶が戻っていることに気づいたのはそのとき」
「そっか……」
蒼兄は何も言葉を発しない。
やっと口を開いたかと思ったら、私を心配する一言だった。「大丈夫なのか?」と。
「うん、大丈夫。気づいた直後は自分でも程度加減がわからないくらいに動転していたけれど、今は平気」
朗元さんに会って、自分のしてきたことをすべて言葉にすることで、目を逸らしていたものを見つめることができた。
今は、自分のしてきたことを認め受け入れることができる。ちゃんと、受け止められる。
「それで?」
「え?」
「リィ、司っちのことはどうすんの? 秋斗さんと司っちを避けていた理由はわかったけど、このままずっと避け続けるわけにはいかないでしょ? それに、向き合えるって答えを出したから帰ってきたんだよね?」
唯兄は鋭い。いつも際どいぎりぎりのところを攻めてくる。
「変わらない。……何も変わらないよ」
何も変わらない。何を変えるつもりもない。
「……でも、ふたり両思いでしょ?」
唯兄の言葉に身を揺らす。と、
「あのな、翠葉……そんなのふたりを見てればわかるよ。それに、司の気持ちなんてとっくのとうに気づいてた」
「……そう、だったの?」
口にして思い出す。
そうだった……。ふたりは私よりも先に司の好きな人を知っていたのだ。
「実はさ、先週の金曜日、リィがお風呂に入っているとき司っちが来たんだ」
「え……?」
「勉強を教えるって口実で、本当はなんで避けられているのかを訊き出すためだったみたいだけど」
唯兄は言葉を続ける。
「でも、あのときリィは絶対彼に会いたくなかったよね?」
私の表情を確認すると、唯兄はにこりと笑った。
「だから俺、追い返しちゃったんだ。けど、明日からはそうはいかない。でしょ?」
私は嘘つきの笑顔で答える。
「唯兄、大丈夫……。明日からは避けないし、記憶が戻ったことも話すから」
「で、どうするの?」
「……どうもしない。何も、どうもしないよ」
私はそれ以上話すことができなかった。
変えない――何も、変えない……。
一定の距離で、ずっと一緒にいられたらそれでいい。
唯兄と蒼兄はふたり交互に頭をポンポンと叩き、休むことを勧めてくれた。
お風呂に入って早く休みな、と。
私は、「何も訊かない」という優しさに包まれた――
翌朝、久しぶりに三人で朝食を食べた。
お母さんは今日か明日には帰ってくる。そしたら、お母さんにもお父さんにも記憶が戻ったことを話そう。栞さんや湊先生、相馬先生たちにも……。
今日は病院へ行く日だから都合がいい。
「リィ、今日のお弁当もふたつ用意してある。どっちでもいいから絶対にどっちかは食べること。いい?」
「ありがとう」
「それと、病院の帰りは俺が迎えに行くから」
「はい、お願いします」
「微熱あるんだから学校でも無理しちゃだめだよ?」
「うん、わかってる」
私と唯兄のやり取りを見ていた蒼兄がクスリと笑う。
「何、あんちゃん」
「蒼兄、どうしたの?」
唯兄の声と重なると、さらにクスクスと笑った。
「いや、俺がもうひとりいるなぁと思って」
「あ、やば……。過保護っぷりが伝染してるかも」
「そう言われてみれば、今までなら蒼兄に言われてたかも?」
唯兄と顔を見合わせると、その場に三人の笑い声が響いた。
十一月半ばにもなると朝晩が冷え込むため、コートを着てくる生徒がちらほらといる。
そして、今までは膝丈スカートの人が多かったけれど、ロング丈のスカート人口が急激に増える。
足元は靴下から厚手のタイツに変わったり、学校指定の編み上げブーツになったりと変化は様々。
辺りを見回し、私もそろそろコートを着ようかな、と考える。
今はまだ、学園マークの刺繍が施されているボルドーのストールを羽織っているだけだった。
高校門をくぐり、校舎の裏手にある藤山を見る。と、山はきれいに色づいていた。
全体的に見るのもきれいだけど、色づく葉は近くで見てもきれいだろう。
そんなことを思いながら、黄色や赤と暖色に染まる桜並木を歩いて校舎へ向かった。
教室に一番のりなのもいつものこと。
時間の経過と共に登校してくるクラスメイトと朝の挨拶を交わす。
新しくクラスに人が入ってくるたびに、私の顔を見た人が「前髪っ!」と口にする。
それ以外は何も変わらない。いつもと同じ一日が始まろうとしていた。
私はいつもと変わらないひとつひとつにほっとし安堵する。
そして昼休みになると、私は桃華さんたちに記憶が戻ったことを話した。
四人とも驚いた顔をしていたけれど、一番驚いていたのは飛鳥ちゃん。
何しろ、飛鳥ちゃんだけは私が記憶をなくしていたことを知らなかったのだ。
自分自身隠してきたつもりがなかっただけに、私も驚いた。
飛鳥ちゃんは最初こそむくれていたけれど、帰りのホームルームのころにはすっかりいつもどおりに戻っていた。
「ごめん。知らなかったことがちょっとショックだっただけ。でも、記憶が戻ったなら良かったよね? 良かったんだよね?」
訊かれて、私は「うん」と頷いた。
「何か、懐かしい感じだね」
唯兄が言っているのは前髪のことだろう。
私は前髪を触りながら、
「うん……懐かしい。それと、ちょっと落ち着く。……今日、お母さんは?」
これには蒼兄が答えてくれた。
「まだ現場」
「そう……栞さんは?」
「今日は日曜日だからお休み。実はさ、リィが帰ってきたら鍋にしようって話してたんだ。家に帰ったら兄妹水入らずでお鍋だよ」
たったの一日しか離れていなかったのに、そんな言葉すらくすぐったく感じる。
「お父さんとお母さんがいないのにお鍋?」
私の言葉に兄ふたりは肩を竦め、口の前に人差し指を立てると「内緒」と口にした。
マンションに帰ると、「家」の匂いにほっとする。
「唯兄、スヌードありがとう」
「うん、貸しておいて良かった。まさか白野に行くとは思ってなかったからね」
ほんの少し咎めるような声音に聞こえたけれど、それは次の瞬間に払拭される。
「ほら、手洗いうがいと着替えを済ませたらすぐに夕飯っ! あったかいもの食べてあったまろう」
ポン、と背中を押されて洗面所に入れられた。
着替えを済ませてダイニングへ行くと、すでにテーブルの上にはぐつぐつと煮立ったお鍋があった。
「リィはシンプルな水炊きが一番好きなんでしょ?」
「うん、好き。お出汁の香りとお野菜たっぷりのスープが好き」
湯気の立つお鍋を囲み、取り留めのない話をしながら夕飯を食べた。
「翠葉、食欲ないのか?」
蒼兄に訊かれて少し困る。
食欲がないのは少し前からずっとで、今に始まったことではなかったから。
でも、必要以上の心配はかけたくない。
「たぶん疲れてるからだと思う。身体が消化に体力割きたくないですーって言ってるみたい」
苦笑して身体の怠慢さのせいにする。
「でも、お鍋だから大丈夫だよ。明日の朝はこのスープでおじやを作りたいな」
「おじやでもうどんでも、どっちでも作るよ」
にこりと笑う唯兄に、「ありがとう」と答えた。
食後の片付けを済ませ、コーヒーとハーブティーを淹れると話の場を私の部屋へ移す。
蒼兄も唯兄も、帰りの車の中や夕飯中はこの件に触れないでくれた。
ふたりは私が話すのを待っているのだろう。
もともと、帰って来たら話すと約束していたし、今日中に話そうとは思っていた。
「あのね……ずっと言えなくてごめんなさい。私、記憶が戻ったの」
蒼兄の呼吸が一瞬止まったのがわかった。それに対し、唯兄は細く長く息を吐き出した。
もしかしたら、唯兄はどこかからか気づいていたのかもしれない。
「いつ?」
訊いてきたのは唯兄。
「インフルエンザで退院してきた日。この部屋に入ったときに気づいたの。いつ思い出したのかはわからないのだけど、記憶が戻っていることに気づいたのはそのとき」
「そっか……」
蒼兄は何も言葉を発しない。
やっと口を開いたかと思ったら、私を心配する一言だった。「大丈夫なのか?」と。
「うん、大丈夫。気づいた直後は自分でも程度加減がわからないくらいに動転していたけれど、今は平気」
朗元さんに会って、自分のしてきたことをすべて言葉にすることで、目を逸らしていたものを見つめることができた。
今は、自分のしてきたことを認め受け入れることができる。ちゃんと、受け止められる。
「それで?」
「え?」
「リィ、司っちのことはどうすんの? 秋斗さんと司っちを避けていた理由はわかったけど、このままずっと避け続けるわけにはいかないでしょ? それに、向き合えるって答えを出したから帰ってきたんだよね?」
唯兄は鋭い。いつも際どいぎりぎりのところを攻めてくる。
「変わらない。……何も変わらないよ」
何も変わらない。何を変えるつもりもない。
「……でも、ふたり両思いでしょ?」
唯兄の言葉に身を揺らす。と、
「あのな、翠葉……そんなのふたりを見てればわかるよ。それに、司の気持ちなんてとっくのとうに気づいてた」
「……そう、だったの?」
口にして思い出す。
そうだった……。ふたりは私よりも先に司の好きな人を知っていたのだ。
「実はさ、先週の金曜日、リィがお風呂に入っているとき司っちが来たんだ」
「え……?」
「勉強を教えるって口実で、本当はなんで避けられているのかを訊き出すためだったみたいだけど」
唯兄は言葉を続ける。
「でも、あのときリィは絶対彼に会いたくなかったよね?」
私の表情を確認すると、唯兄はにこりと笑った。
「だから俺、追い返しちゃったんだ。けど、明日からはそうはいかない。でしょ?」
私は嘘つきの笑顔で答える。
「唯兄、大丈夫……。明日からは避けないし、記憶が戻ったことも話すから」
「で、どうするの?」
「……どうもしない。何も、どうもしないよ」
私はそれ以上話すことができなかった。
変えない――何も、変えない……。
一定の距離で、ずっと一緒にいられたらそれでいい。
唯兄と蒼兄はふたり交互に頭をポンポンと叩き、休むことを勧めてくれた。
お風呂に入って早く休みな、と。
私は、「何も訊かない」という優しさに包まれた――
翌朝、久しぶりに三人で朝食を食べた。
お母さんは今日か明日には帰ってくる。そしたら、お母さんにもお父さんにも記憶が戻ったことを話そう。栞さんや湊先生、相馬先生たちにも……。
今日は病院へ行く日だから都合がいい。
「リィ、今日のお弁当もふたつ用意してある。どっちでもいいから絶対にどっちかは食べること。いい?」
「ありがとう」
「それと、病院の帰りは俺が迎えに行くから」
「はい、お願いします」
「微熱あるんだから学校でも無理しちゃだめだよ?」
「うん、わかってる」
私と唯兄のやり取りを見ていた蒼兄がクスリと笑う。
「何、あんちゃん」
「蒼兄、どうしたの?」
唯兄の声と重なると、さらにクスクスと笑った。
「いや、俺がもうひとりいるなぁと思って」
「あ、やば……。過保護っぷりが伝染してるかも」
「そう言われてみれば、今までなら蒼兄に言われてたかも?」
唯兄と顔を見合わせると、その場に三人の笑い声が響いた。
十一月半ばにもなると朝晩が冷え込むため、コートを着てくる生徒がちらほらといる。
そして、今までは膝丈スカートの人が多かったけれど、ロング丈のスカート人口が急激に増える。
足元は靴下から厚手のタイツに変わったり、学校指定の編み上げブーツになったりと変化は様々。
辺りを見回し、私もそろそろコートを着ようかな、と考える。
今はまだ、学園マークの刺繍が施されているボルドーのストールを羽織っているだけだった。
高校門をくぐり、校舎の裏手にある藤山を見る。と、山はきれいに色づいていた。
全体的に見るのもきれいだけど、色づく葉は近くで見てもきれいだろう。
そんなことを思いながら、黄色や赤と暖色に染まる桜並木を歩いて校舎へ向かった。
教室に一番のりなのもいつものこと。
時間の経過と共に登校してくるクラスメイトと朝の挨拶を交わす。
新しくクラスに人が入ってくるたびに、私の顔を見た人が「前髪っ!」と口にする。
それ以外は何も変わらない。いつもと同じ一日が始まろうとしていた。
私はいつもと変わらないひとつひとつにほっとし安堵する。
そして昼休みになると、私は桃華さんたちに記憶が戻ったことを話した。
四人とも驚いた顔をしていたけれど、一番驚いていたのは飛鳥ちゃん。
何しろ、飛鳥ちゃんだけは私が記憶をなくしていたことを知らなかったのだ。
自分自身隠してきたつもりがなかっただけに、私も驚いた。
飛鳥ちゃんは最初こそむくれていたけれど、帰りのホームルームのころにはすっかりいつもどおりに戻っていた。
「ごめん。知らなかったことがちょっとショックだっただけ。でも、記憶が戻ったなら良かったよね? 良かったんだよね?」
訊かれて、私は「うん」と頷いた。
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