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第十四章 三叉路
04話
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マンションへ帰ると、「お母さん」という最後の砦が待っていた。
帰宅の挨拶から始まった会話は体調を確認するものに変わり、週末に静さんのところへ行く話になった。そして、今はなぜか「恋愛話」へ移行しようとしている。
「お母さんっ、あのねっ、私、学校を休んでいた分の勉強をしなくちゃいけないの。だから、また今度ね?」
飲んでいたハーブティーを持ってダイニングから撤退。
自室のドアを閉めてほっとする。
「隠しごとって難しい……」
私、いつまでこんなことを続けるのかな……。
心配をかけているのだから、早く記憶が戻ったことを話したことがいいのはわかっているし、時間が経てば経つほどに言いづらくなっていくと思う。
それでも、言えない……。
けど、記憶が戻ってから気になって仕方のないことがひとつ。それは秋斗さんの「立場」――
私が記憶をなくした理由は秋斗さんを怖いと思ったからじゃない。
確かに、泣いてしまうほどに秋斗さんを怖いと思った。でも、それが理由ではない。
秋斗さんひとりが悪者のように見られるのが耐えられなかったからだ。
とても仲の良かった人たちが、仲違いするような状況を自分が作り出してしまったことに耐えられなかったから。
私がいけなかったのに……。
私がわがままに人を遠ざけたり髪を切ったりしなければ、あんなことにはならなかった。
全部、私がいけなかったのに――
勉強をしていると、突然唯兄が目の前に現れた。
「っ……!?」
「リィのそれは相変わらずだねぇ……。すんごい集中力。これ、休んでた分の勉強?」
「……うん」
私は考えることを放棄して、勉強に頭をシフトした。
そのほうが楽だったから……。
少しでも油断すると、思考に呑み込まれて抜け出せなくなる。だから、集中できるものが必要だった。
「リィ、オーナーから土曜日の件連絡あったよ。手洗いうがい済ませたら戻ってくるからちょっと時間ちょうだい」
「あ、はい」
唯兄は……唯兄は秋斗さんのことをどう思ってる?
記憶をなくしたあとの唯兄を思い出してみても、秋斗さんとの関係は変わらなかったように思える。それは蒼兄も同じ。
入院中もパレスへ行ったときも、ふたりは秋斗さんと普通に接していてとても楽しそうだった。けど、ツカサはよくわからない。
一緒にいるところを見かけなくなったのは紅葉祭の準備で忙しくなったから?
記憶がなくなった私に、秋斗さんと会わないかと勧めてくれたのはツカサだけだった。秋斗さんを病院へ連れてきてくれたのはツカサだった。
でも――ふたりの会話はほとんどなかったようにも思える。
秋斗さんは自分を信じてくれることが嬉しいと私に言った。今の自分を信じてくれる人は少ないから、と。
その言葉を思い出すと、秋斗さんの切ない表情までもが思い出されて胸が締め付けられる。
あのとき、秋斗さんはあんな顔をする必要はなかった。悪いのは全部私で、秋斗さんが人の信用をなくす必要なんてどこにもなかった。
私が髪の毛さえ切らなければ秋斗さんが怒ることはなかったし、怒ることがなければ十階へ連れて行かれることもなかった。
一度失った信用を取り戻すのにはどのくらいの時間が必要なのだろう。それは、どのくらい大変なことなのだろう。
私は秋斗さんの置かれた状況も知らずに記憶がないことを笠に着て、治療に専念すべく「夏」という時間を過ごしてしまった。
秋斗さん、ごめんなさい……。
秋斗さんにとってはとてもつらい夏でしたよね。なのに、どうして――
どうしてそんな私を好きだなんて言ってくれるのだろう。記憶を取り戻したら嫌われるかもしれないなんて、どうしてそんなふうに思うのだろう。
本当にひどいことをしたのは私なのに。秋斗さんはそれを知っているのに。
どうして私の髪の毛は長いのかな……。
この髪の毛さえなければ切る髪も、秋斗さんを傷つけることもなかったのに。この髪さえなければ――
「リィっっっ、何やってんだよっ」
すごい剣幕の唯兄に、手に持っていたものを取り上げられた。
「何っ!? 今度はなんなのっ!? なんで髪切ろうとしてんのっ!?」
あ、ハサミ――
私は手にハサミを持っていた。あの日と同じ、持ち手が青いスケルトンのハサミを。
なんで……? そんなこと決まってる。
この髪の毛がなかったら、あんなことにはならなかった。だから――
「すい、は……?」
振り返るとお母さんがドア口に立っていた。
「っ……ごめんなさいっ。違うのっっっ」
「何が違うんだよっ」
「唯兄、ごめんなさい……。ただ――ただ、あの……衝動、なの。そう、衝動……髪の毛、切りたいなって――」
この口は――私はどこまで嘘をつくつもりなのだろう。
記憶が戻ったことをどれほど隠したいと思っているのだろう。
もう、自分が何をどう考えているのかすらわからない。
これからどうしたらいいのかだってわからない。
――違う。
本当は「考えていない」からわからないの。
わかろうとする努力をしていないからわからないの。
私は今、逃げているだけ――
「リィ、髪を切るなら美容院。何? 今度は髪を切るシーンでも思い出した?」
「っ……!?」
唯兄が力なく座り込み、手に持っていたハサミをテーブルに置くと、カチャ、と乾いた音が部屋に響いた。
広くも狭くもない八畳の部屋には人が三人もいるのに無音空間になっている。
私が口を開けば、ホールにいるかのように声が響いた。
「仕事、始まるから、かな……」
そんなの嘘。だって、私は焦ってなんかいない。
「記憶」はもう戻っているのだから、焦る必要なんてない。
お母さんに何か言わなくちゃと思うのに、どんな言葉を口にしたら安心させられるのかがわからない。
その場しのぎでもいいから、何か言わなくちゃと思うのに……。
「……よし、じゃぁ、俺がリィの話を聞きましょう? ちょうど仕事の話もあったしね。ってことで碧さん、お茶淹れてもらっていいですか?」
唯兄がお母さんを振り返ると、金縛りが解けたかのようにお母さんが動く。
「えぇ……ハーブティーでいい? 翠葉のそのカップも預かるわ」
テーブルに置いてあった飲みかけのカップを手に取ると、お母さんは部屋から出ていった。
「……リィ、俺、言ったよね? いっぱいいっぱいになる前に吐きなよって」
「うん……でもまだ――」
「リィ……」
唯兄のこんなに低い声は久しぶりに聞く。
こんなに険しい目は久しぶりに見る。
たぶん、入院前以来だ。
「髪を切ろうとした人間のどこにまだ余裕があるのっ? 『衝動』なんて咄嗟についた嘘でしょっ? すでにいっぱいいっぱいでしょっ!?」
「唯兄っ……まだ、まだだめなのっ。私、まだ何も自分で考えてない。ちゃんと自分で考えたい。だから、まだだめなのっ」
「……わかった。でも、髪を切るとかそういうのはなし。いい? 絶対になし。これだけは譲らないよ?」
「はい……。ごめんなさい」
「仕事だって切羽詰まって何をする必要はないんだ。作品に関しても何にしてもリィに負担がかからないようにオーナーの許可を取って色々細かいところまで整備してきてる。何も焦る必要はないから。大丈夫だから」
「……整備?」
「うん。それが仕事の話。碧さんがお茶を持ってきてくれたら話すから。だから、その前に深呼吸。窓も開けて部屋の空気入れ替えよ」
唯兄は立ち上がり、私にフリースの膝掛けを肩から羽織らせると部屋の窓を全開にした。
窓から入ってくるひんやりとした空気が気持ちよかった。
頭がすっと冷えていく感じ。
「ほら、深呼吸深呼吸!」
言われて口を開け、深く息を吸い込み全部吐き切る。
そんなことを五回も繰り返すと、身体全体がすっきりした気がした。
「深呼吸ってすごい……」
「そう、深呼吸って侮れないの。何ってね、脳には糖分と酸素は必要不可欠! ついでに血液もね、ってことで軽くストレッチ行きましょう! はい立ってっ!」
私は唯兄に促されるまま立ち上がり、目の前で唯兄がする動作を真似した。
「お茶が入ったわよ……って、ふたりとも何をしているの?」
お母さんが戻ってきたとき、私と唯兄は腕をぐんと天井に伸ばしたまま、身体の左側面を伸ばすように右に身体を傾けているところだった。
「「ストレッチ……?」」
私と唯兄の声が重なると、お母さんは「ぷっ」と吹き出して笑った。
良かった……お母さんが笑った。
そんなことにほっとしていると、唯兄がウィンクをしてみせた。
「唯兄、ありがとう……」
「どういたしまして。さ、窓閉めてお仕事の話するよ!」
帰宅の挨拶から始まった会話は体調を確認するものに変わり、週末に静さんのところへ行く話になった。そして、今はなぜか「恋愛話」へ移行しようとしている。
「お母さんっ、あのねっ、私、学校を休んでいた分の勉強をしなくちゃいけないの。だから、また今度ね?」
飲んでいたハーブティーを持ってダイニングから撤退。
自室のドアを閉めてほっとする。
「隠しごとって難しい……」
私、いつまでこんなことを続けるのかな……。
心配をかけているのだから、早く記憶が戻ったことを話したことがいいのはわかっているし、時間が経てば経つほどに言いづらくなっていくと思う。
それでも、言えない……。
けど、記憶が戻ってから気になって仕方のないことがひとつ。それは秋斗さんの「立場」――
私が記憶をなくした理由は秋斗さんを怖いと思ったからじゃない。
確かに、泣いてしまうほどに秋斗さんを怖いと思った。でも、それが理由ではない。
秋斗さんひとりが悪者のように見られるのが耐えられなかったからだ。
とても仲の良かった人たちが、仲違いするような状況を自分が作り出してしまったことに耐えられなかったから。
私がいけなかったのに……。
私がわがままに人を遠ざけたり髪を切ったりしなければ、あんなことにはならなかった。
全部、私がいけなかったのに――
勉強をしていると、突然唯兄が目の前に現れた。
「っ……!?」
「リィのそれは相変わらずだねぇ……。すんごい集中力。これ、休んでた分の勉強?」
「……うん」
私は考えることを放棄して、勉強に頭をシフトした。
そのほうが楽だったから……。
少しでも油断すると、思考に呑み込まれて抜け出せなくなる。だから、集中できるものが必要だった。
「リィ、オーナーから土曜日の件連絡あったよ。手洗いうがい済ませたら戻ってくるからちょっと時間ちょうだい」
「あ、はい」
唯兄は……唯兄は秋斗さんのことをどう思ってる?
記憶をなくしたあとの唯兄を思い出してみても、秋斗さんとの関係は変わらなかったように思える。それは蒼兄も同じ。
入院中もパレスへ行ったときも、ふたりは秋斗さんと普通に接していてとても楽しそうだった。けど、ツカサはよくわからない。
一緒にいるところを見かけなくなったのは紅葉祭の準備で忙しくなったから?
記憶がなくなった私に、秋斗さんと会わないかと勧めてくれたのはツカサだけだった。秋斗さんを病院へ連れてきてくれたのはツカサだった。
でも――ふたりの会話はほとんどなかったようにも思える。
秋斗さんは自分を信じてくれることが嬉しいと私に言った。今の自分を信じてくれる人は少ないから、と。
その言葉を思い出すと、秋斗さんの切ない表情までもが思い出されて胸が締め付けられる。
あのとき、秋斗さんはあんな顔をする必要はなかった。悪いのは全部私で、秋斗さんが人の信用をなくす必要なんてどこにもなかった。
私が髪の毛さえ切らなければ秋斗さんが怒ることはなかったし、怒ることがなければ十階へ連れて行かれることもなかった。
一度失った信用を取り戻すのにはどのくらいの時間が必要なのだろう。それは、どのくらい大変なことなのだろう。
私は秋斗さんの置かれた状況も知らずに記憶がないことを笠に着て、治療に専念すべく「夏」という時間を過ごしてしまった。
秋斗さん、ごめんなさい……。
秋斗さんにとってはとてもつらい夏でしたよね。なのに、どうして――
どうしてそんな私を好きだなんて言ってくれるのだろう。記憶を取り戻したら嫌われるかもしれないなんて、どうしてそんなふうに思うのだろう。
本当にひどいことをしたのは私なのに。秋斗さんはそれを知っているのに。
どうして私の髪の毛は長いのかな……。
この髪の毛さえなければ切る髪も、秋斗さんを傷つけることもなかったのに。この髪さえなければ――
「リィっっっ、何やってんだよっ」
すごい剣幕の唯兄に、手に持っていたものを取り上げられた。
「何っ!? 今度はなんなのっ!? なんで髪切ろうとしてんのっ!?」
あ、ハサミ――
私は手にハサミを持っていた。あの日と同じ、持ち手が青いスケルトンのハサミを。
なんで……? そんなこと決まってる。
この髪の毛がなかったら、あんなことにはならなかった。だから――
「すい、は……?」
振り返るとお母さんがドア口に立っていた。
「っ……ごめんなさいっ。違うのっっっ」
「何が違うんだよっ」
「唯兄、ごめんなさい……。ただ――ただ、あの……衝動、なの。そう、衝動……髪の毛、切りたいなって――」
この口は――私はどこまで嘘をつくつもりなのだろう。
記憶が戻ったことをどれほど隠したいと思っているのだろう。
もう、自分が何をどう考えているのかすらわからない。
これからどうしたらいいのかだってわからない。
――違う。
本当は「考えていない」からわからないの。
わかろうとする努力をしていないからわからないの。
私は今、逃げているだけ――
「リィ、髪を切るなら美容院。何? 今度は髪を切るシーンでも思い出した?」
「っ……!?」
唯兄が力なく座り込み、手に持っていたハサミをテーブルに置くと、カチャ、と乾いた音が部屋に響いた。
広くも狭くもない八畳の部屋には人が三人もいるのに無音空間になっている。
私が口を開けば、ホールにいるかのように声が響いた。
「仕事、始まるから、かな……」
そんなの嘘。だって、私は焦ってなんかいない。
「記憶」はもう戻っているのだから、焦る必要なんてない。
お母さんに何か言わなくちゃと思うのに、どんな言葉を口にしたら安心させられるのかがわからない。
その場しのぎでもいいから、何か言わなくちゃと思うのに……。
「……よし、じゃぁ、俺がリィの話を聞きましょう? ちょうど仕事の話もあったしね。ってことで碧さん、お茶淹れてもらっていいですか?」
唯兄がお母さんを振り返ると、金縛りが解けたかのようにお母さんが動く。
「えぇ……ハーブティーでいい? 翠葉のそのカップも預かるわ」
テーブルに置いてあった飲みかけのカップを手に取ると、お母さんは部屋から出ていった。
「……リィ、俺、言ったよね? いっぱいいっぱいになる前に吐きなよって」
「うん……でもまだ――」
「リィ……」
唯兄のこんなに低い声は久しぶりに聞く。
こんなに険しい目は久しぶりに見る。
たぶん、入院前以来だ。
「髪を切ろうとした人間のどこにまだ余裕があるのっ? 『衝動』なんて咄嗟についた嘘でしょっ? すでにいっぱいいっぱいでしょっ!?」
「唯兄っ……まだ、まだだめなのっ。私、まだ何も自分で考えてない。ちゃんと自分で考えたい。だから、まだだめなのっ」
「……わかった。でも、髪を切るとかそういうのはなし。いい? 絶対になし。これだけは譲らないよ?」
「はい……。ごめんなさい」
「仕事だって切羽詰まって何をする必要はないんだ。作品に関しても何にしてもリィに負担がかからないようにオーナーの許可を取って色々細かいところまで整備してきてる。何も焦る必要はないから。大丈夫だから」
「……整備?」
「うん。それが仕事の話。碧さんがお茶を持ってきてくれたら話すから。だから、その前に深呼吸。窓も開けて部屋の空気入れ替えよ」
唯兄は立ち上がり、私にフリースの膝掛けを肩から羽織らせると部屋の窓を全開にした。
窓から入ってくるひんやりとした空気が気持ちよかった。
頭がすっと冷えていく感じ。
「ほら、深呼吸深呼吸!」
言われて口を開け、深く息を吸い込み全部吐き切る。
そんなことを五回も繰り返すと、身体全体がすっきりした気がした。
「深呼吸ってすごい……」
「そう、深呼吸って侮れないの。何ってね、脳には糖分と酸素は必要不可欠! ついでに血液もね、ってことで軽くストレッチ行きましょう! はい立ってっ!」
私は唯兄に促されるまま立ち上がり、目の前で唯兄がする動作を真似した。
「お茶が入ったわよ……って、ふたりとも何をしているの?」
お母さんが戻ってきたとき、私と唯兄は腕をぐんと天井に伸ばしたまま、身体の左側面を伸ばすように右に身体を傾けているところだった。
「「ストレッチ……?」」
私と唯兄の声が重なると、お母さんは「ぷっ」と吹き出して笑った。
良かった……お母さんが笑った。
そんなことにほっとしていると、唯兄がウィンクをしてみせた。
「唯兄、ありがとう……」
「どういたしまして。さ、窓閉めてお仕事の話するよ!」
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