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21~23 Side 司 01話
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翠が第四通路に消えてから三十分が経とうとしていた。
「朝陽、放送委員に通達。軽音部が終わったらしばらく引き伸ばすように」
「了解。あと、頃合見て翠葉ちゃんのお兄さんに連絡入れるわ。通信の再開してもらうように。司は行くんだろ? 迎えに」
何も答えない俺に、朝陽独特の柔和な笑みを向けられた。
「ほら、王子様なんだから、さっさとお姫様ふたり迎えに行ってこいよ。周りが気づいて騒がしくなる前に。さっきから茜先輩の付き人が走り回ってる」
そう言うと、朝陽は放送委員に指示を出し始めた。
俺は真っ直ぐ第四通へ向かい、その先を目指す。
前方に人の気配を感じ、わざと足音を立てた。
そこに人が向かっている、とそれだけが伝わればいい。
通信を再開させインカムから戻るよう催促することもできたが、そんなふうに話を中断させたくはなかった。
否、ただ単に俺が迎えに行きたかっただけなのかもしれない。
早く翠の状態を――顔を見たくて。
離れている間、何度も携帯を見た。数値に異常が出ないかどうかを確認するために。
時折脈が速くなりはしたが、体温が少し下がる程度で際立った数値以上は見られず今に至る。
数メートル先にふたりがいる。
そう確信して声を発した。
「軽音部がラストに入りました。あと三分くらいで終わります。しばらくは放送委員につなぐように通達してありますが、何分で戻れますか?」
待てて五分六分がいいところ。
「翠葉ちゃんは大丈夫?」
茜先輩の声は少し掠れていた。
「司、五分で戻るから、翠葉ちゃんを連れて先に戻って」
「え……?」
翠が戸惑いの声をあげると、
「私は目の腫れを引かせてメイクを少し直さなくちゃ」
会話の内容とその声から泣いていたことがうかがえる。
……泣いた、のか? 茜先輩が?
「大丈夫よ。メイク道具は持ってきているし、目の腫れを引かせるのは得意なの。それなりにアイテムは常備しているわ」
「本当に、大丈夫ですか?」
不安そうな翠の声。けれど、その声は掠れていなかった。
「……言ったでしょう? ステージでは大丈夫じゃないとだめなの。そこはプライド、だよ。翠葉ちゃんはそれ、今飲めなかったから歌う前にはちゃんと飲んでおいてね。ここ、空調がしっかりきいていて空気が乾燥してるから。……さ、行って!」
翠は動こうとしない。
……人の心配をする余裕はあるんだな。なら――
「翠」
ふたりのすぐ近くまで歩を進め、翠の手首を掴んだ。
「いつまでもここにいたら茜先輩が五分で戻れなくなる」
翠の正面に立ち、その顔を見る。
泣いた、か……?
いや、涙が頬を伝ったあとは見られない。
少し目が充血していていつもよりも潤んで見える程度。
「この人は走って戻ってくるつもりだ。それまでに翠は奈落に戻ってる必要があるし、それも飲まなくちゃいけないんだろ?」
翠の影からクス、と笑う声がして、茜先輩がひょっこりと顔を出す。
こっちは泣きました、という顔そのもの。
この顔が五分でなんとかなるとは思いがたいが、口にはしない。
この人がなんとかすると言うのなら、なんとかなるのだろう。
「さすが司ね。そのとおりよ! ほら、行って!」
「さすが」なのは俺じゃない。
俺はさっき、朝陽に声をかけられることがなければ、間違いなく翠のあとを追っていた。
そしたら、茜先輩は泣くこともできなかっただろう。
翠の歩調で戻ると時間が足りない。
仕方なしに引っ張るようにして歩いていた。
通路には規則的な俺の足音と、多少不規則な翠の足音が響く。
「ツカサ、手……」
この手を離してもついてこられるだろうか。
そんなことを思いながら手を解放した。直後、
「手、つないでもいい?」
「……手首を掴んでいたのとそう変わらないと思うけど?」
何を求められているのかがわからなくて肩越しに翠を見る。
「掴まれているのとつなぐのは違うよ? 手をつなぐのは一方的じゃないでしょう……?」
どこか不安そうな顔で言う。
不安そうにしている理由もわからない。
翠の言ったことを正確に理解するのには数秒かかった。
言葉そのままの意味でも間違いではない。けど、翠が言いたいのは違う意味に思えた。
俺たちに関わることは自分の意思だ、と――この手を取るのは自分だ、とそう言いたいのだろう。
心にじわり、とあたたかなものが染み渡る。
……嬉しいっていうのはこういうことをいうんだろうな。
それを素直に表現できない自分は、やっぱり俺でしかないわけだけど……。
「ほら」と左手を差し出せば、その手に翠の手が重なる。
翠の手にスポットライトが直接当たり、一瞬だけ光って見えた。
そして、俺が握る前にしっかりと握られる。
「っ……」
今ほど自分が先を歩いている状況をありがたく思ったことはないだろう。
自分が今、どんな顔をしているのかすら想像できない。
ただ、翠に見られたくないことだけは確かだった。
翠のこういう行動全部が無自覚なところが本当に信じられない。
自分の感情をコントロールするために五感をフルに使う。
一番最初に脳に到達したのは翠の手の冷たさだった。
「手、ずいぶん冷えてるけど――何を話した?」
「……それは内緒」
小さな声だがはっきりとした口調。
「だって、茜先輩と私の秘密だもの」
「そんな言い方をされたら俺が知りたがるとは思わないのか?」
「思わないよ。だって、ツカサは人のことを根掘り葉掘り訊こうとはしないでしょう?」
ずいぶんと信用されてるんだな、なんて思うものの、やっぱり俺には甘さというものが足りないようだ。
「どうかな。俺、人の弱みを握るのは案外好きなほうだと思うけど」
気づけばこんな切り返しをするくらいには。
奈落に出ると、人が一斉にこちらを向いた。
それもそのはず、軽音部のラスト一曲前にはふたりはここでスタンバイをしているはずだった。
それが、今翠が現れたばかりでもうひとりの姿はまだ見えないのだから。
小道具の椅子を引き寄せ翠を座らせる。
「あと二分で茜先輩が戻ってくる。それまで座ってろ」
周りにも聞こえる声で翠に言った。
大丈夫だ、あの人は絶対に戻ってくる。
「それから飲み物」
「あ、はい」
翠は言われたままに行動をする。
「翠葉、どこ行ってたのっ!? あれっ? ケープはっ!?」
バタバタと嵐が現れ翠の左側に立つ。
さりげなく翠の腕に自分の腕を絡め、バングルを人目につかないようにする。
そこで、ケープがどんな役割を果たしているのかを知った。
「翠は答えなくていい。そのまま飲んでろ」
嵐もまだ衣装を着替えていない都合上、上に羽織らせるものを持っていない。
ボレロを着てはいるものの、そのボレロの表面積ではバングルを隠すのは無理だった。
それなら別の方法を、と咄嗟に動いたのだろう。
これも気が動転しているなりに機転は利くんだな。
「少し落ち着け。ケープは茜先輩が羽織ってる。先輩はあと一分もせずに戻ってくる」
言い終わると同時、第四通路からヒール独特の靴音が聞こえてきた。
あたりの人間が一斉に振り返ると、ステージに立っていたときとなんら変わらない茜先輩が立っていた。
いったいどうやったらあの顔がこの短時間で元通りになるんだか……。
女の化粧がいかに怖いものなのか、茜先輩のセルフケアが完璧なのかはわかりかねる。
「お待たせっ! 翠葉ちゃん、ケープありがとう! 嵐はこれお願い」
化粧ポーチを嵐に預け翠にケープをかけると、
「さ、ステージに上がろう!」
茜先輩は翠に手を差し伸べた。
翠は頷き、室内ブーツを脱いでその手を取る。
大丈夫、なのか?
ふたりはどこからどう見てもいつもと変わらないように見えるけれど、翠の目は心配の色が濃い。
ふたりはそのままステージに上がった。
それを見届けると、俺は壁に寄りかかりモニターの映像を眺める。
「ど? 大丈夫だったでしょ?」
朝陽に未開封のペットボトルを投げてよこされ、朝陽自身も俺の隣に並ぶ。
「さぁな……本当に大丈夫なのかはわかりかねる」
翠は「大丈夫」と言える範疇にいると思うが、茜先輩に関してはなんとも言えない。
いつもどおりに見せることなどあの人は慣れているのだから。
その仮面が外れたところならさっき見たばかりだが、今は――
「俺はさ、守られているだけのお姫様ってあまり好きじゃないんだよね。ま、棘だらけの道も女の子には歩かせたくないけれど。でも、強いお姫様っていうのは魅力的だよ? そう、たとえば俺のジュリアみたいにね」
朝陽はちゃっかりと彼女自慢をしてその場を去った。
「朝陽、放送委員に通達。軽音部が終わったらしばらく引き伸ばすように」
「了解。あと、頃合見て翠葉ちゃんのお兄さんに連絡入れるわ。通信の再開してもらうように。司は行くんだろ? 迎えに」
何も答えない俺に、朝陽独特の柔和な笑みを向けられた。
「ほら、王子様なんだから、さっさとお姫様ふたり迎えに行ってこいよ。周りが気づいて騒がしくなる前に。さっきから茜先輩の付き人が走り回ってる」
そう言うと、朝陽は放送委員に指示を出し始めた。
俺は真っ直ぐ第四通へ向かい、その先を目指す。
前方に人の気配を感じ、わざと足音を立てた。
そこに人が向かっている、とそれだけが伝わればいい。
通信を再開させインカムから戻るよう催促することもできたが、そんなふうに話を中断させたくはなかった。
否、ただ単に俺が迎えに行きたかっただけなのかもしれない。
早く翠の状態を――顔を見たくて。
離れている間、何度も携帯を見た。数値に異常が出ないかどうかを確認するために。
時折脈が速くなりはしたが、体温が少し下がる程度で際立った数値以上は見られず今に至る。
数メートル先にふたりがいる。
そう確信して声を発した。
「軽音部がラストに入りました。あと三分くらいで終わります。しばらくは放送委員につなぐように通達してありますが、何分で戻れますか?」
待てて五分六分がいいところ。
「翠葉ちゃんは大丈夫?」
茜先輩の声は少し掠れていた。
「司、五分で戻るから、翠葉ちゃんを連れて先に戻って」
「え……?」
翠が戸惑いの声をあげると、
「私は目の腫れを引かせてメイクを少し直さなくちゃ」
会話の内容とその声から泣いていたことがうかがえる。
……泣いた、のか? 茜先輩が?
「大丈夫よ。メイク道具は持ってきているし、目の腫れを引かせるのは得意なの。それなりにアイテムは常備しているわ」
「本当に、大丈夫ですか?」
不安そうな翠の声。けれど、その声は掠れていなかった。
「……言ったでしょう? ステージでは大丈夫じゃないとだめなの。そこはプライド、だよ。翠葉ちゃんはそれ、今飲めなかったから歌う前にはちゃんと飲んでおいてね。ここ、空調がしっかりきいていて空気が乾燥してるから。……さ、行って!」
翠は動こうとしない。
……人の心配をする余裕はあるんだな。なら――
「翠」
ふたりのすぐ近くまで歩を進め、翠の手首を掴んだ。
「いつまでもここにいたら茜先輩が五分で戻れなくなる」
翠の正面に立ち、その顔を見る。
泣いた、か……?
いや、涙が頬を伝ったあとは見られない。
少し目が充血していていつもよりも潤んで見える程度。
「この人は走って戻ってくるつもりだ。それまでに翠は奈落に戻ってる必要があるし、それも飲まなくちゃいけないんだろ?」
翠の影からクス、と笑う声がして、茜先輩がひょっこりと顔を出す。
こっちは泣きました、という顔そのもの。
この顔が五分でなんとかなるとは思いがたいが、口にはしない。
この人がなんとかすると言うのなら、なんとかなるのだろう。
「さすが司ね。そのとおりよ! ほら、行って!」
「さすが」なのは俺じゃない。
俺はさっき、朝陽に声をかけられることがなければ、間違いなく翠のあとを追っていた。
そしたら、茜先輩は泣くこともできなかっただろう。
翠の歩調で戻ると時間が足りない。
仕方なしに引っ張るようにして歩いていた。
通路には規則的な俺の足音と、多少不規則な翠の足音が響く。
「ツカサ、手……」
この手を離してもついてこられるだろうか。
そんなことを思いながら手を解放した。直後、
「手、つないでもいい?」
「……手首を掴んでいたのとそう変わらないと思うけど?」
何を求められているのかがわからなくて肩越しに翠を見る。
「掴まれているのとつなぐのは違うよ? 手をつなぐのは一方的じゃないでしょう……?」
どこか不安そうな顔で言う。
不安そうにしている理由もわからない。
翠の言ったことを正確に理解するのには数秒かかった。
言葉そのままの意味でも間違いではない。けど、翠が言いたいのは違う意味に思えた。
俺たちに関わることは自分の意思だ、と――この手を取るのは自分だ、とそう言いたいのだろう。
心にじわり、とあたたかなものが染み渡る。
……嬉しいっていうのはこういうことをいうんだろうな。
それを素直に表現できない自分は、やっぱり俺でしかないわけだけど……。
「ほら」と左手を差し出せば、その手に翠の手が重なる。
翠の手にスポットライトが直接当たり、一瞬だけ光って見えた。
そして、俺が握る前にしっかりと握られる。
「っ……」
今ほど自分が先を歩いている状況をありがたく思ったことはないだろう。
自分が今、どんな顔をしているのかすら想像できない。
ただ、翠に見られたくないことだけは確かだった。
翠のこういう行動全部が無自覚なところが本当に信じられない。
自分の感情をコントロールするために五感をフルに使う。
一番最初に脳に到達したのは翠の手の冷たさだった。
「手、ずいぶん冷えてるけど――何を話した?」
「……それは内緒」
小さな声だがはっきりとした口調。
「だって、茜先輩と私の秘密だもの」
「そんな言い方をされたら俺が知りたがるとは思わないのか?」
「思わないよ。だって、ツカサは人のことを根掘り葉掘り訊こうとはしないでしょう?」
ずいぶんと信用されてるんだな、なんて思うものの、やっぱり俺には甘さというものが足りないようだ。
「どうかな。俺、人の弱みを握るのは案外好きなほうだと思うけど」
気づけばこんな切り返しをするくらいには。
奈落に出ると、人が一斉にこちらを向いた。
それもそのはず、軽音部のラスト一曲前にはふたりはここでスタンバイをしているはずだった。
それが、今翠が現れたばかりでもうひとりの姿はまだ見えないのだから。
小道具の椅子を引き寄せ翠を座らせる。
「あと二分で茜先輩が戻ってくる。それまで座ってろ」
周りにも聞こえる声で翠に言った。
大丈夫だ、あの人は絶対に戻ってくる。
「それから飲み物」
「あ、はい」
翠は言われたままに行動をする。
「翠葉、どこ行ってたのっ!? あれっ? ケープはっ!?」
バタバタと嵐が現れ翠の左側に立つ。
さりげなく翠の腕に自分の腕を絡め、バングルを人目につかないようにする。
そこで、ケープがどんな役割を果たしているのかを知った。
「翠は答えなくていい。そのまま飲んでろ」
嵐もまだ衣装を着替えていない都合上、上に羽織らせるものを持っていない。
ボレロを着てはいるものの、そのボレロの表面積ではバングルを隠すのは無理だった。
それなら別の方法を、と咄嗟に動いたのだろう。
これも気が動転しているなりに機転は利くんだな。
「少し落ち着け。ケープは茜先輩が羽織ってる。先輩はあと一分もせずに戻ってくる」
言い終わると同時、第四通路からヒール独特の靴音が聞こえてきた。
あたりの人間が一斉に振り返ると、ステージに立っていたときとなんら変わらない茜先輩が立っていた。
いったいどうやったらあの顔がこの短時間で元通りになるんだか……。
女の化粧がいかに怖いものなのか、茜先輩のセルフケアが完璧なのかはわかりかねる。
「お待たせっ! 翠葉ちゃん、ケープありがとう! 嵐はこれお願い」
化粧ポーチを嵐に預け翠にケープをかけると、
「さ、ステージに上がろう!」
茜先輩は翠に手を差し伸べた。
翠は頷き、室内ブーツを脱いでその手を取る。
大丈夫、なのか?
ふたりはどこからどう見てもいつもと変わらないように見えるけれど、翠の目は心配の色が濃い。
ふたりはそのままステージに上がった。
それを見届けると、俺は壁に寄りかかりモニターの映像を眺める。
「ど? 大丈夫だったでしょ?」
朝陽に未開封のペットボトルを投げてよこされ、朝陽自身も俺の隣に並ぶ。
「さぁな……本当に大丈夫なのかはわかりかねる」
翠は「大丈夫」と言える範疇にいると思うが、茜先輩に関してはなんとも言えない。
いつもどおりに見せることなどあの人は慣れているのだから。
その仮面が外れたところならさっき見たばかりだが、今は――
「俺はさ、守られているだけのお姫様ってあまり好きじゃないんだよね。ま、棘だらけの道も女の子には歩かせたくないけれど。でも、強いお姫様っていうのは魅力的だよ? そう、たとえば俺のジュリアみたいにね」
朝陽はちゃっかりと彼女自慢をしてその場を去った。
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