光のもとで1

葉野りるは

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第十二章 自分のモノサシ

38話

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 七時半前に起こされて、リビングへ行ったら夕飯の用意が整っていた。
 カジキマグロの照り焼き、ほうれん草のお浸しとアサリのお味噌汁、蒸かしただけの味付けがされていないカボチャとオーソドックスな肉じゃが。
 みんなのお皿よりもひと回り小さな小鉢に少しずつそれらが取り分けられていた。
「ほら、冷めないうちに食べましょう」
 お母さんに声をかけられ、自分の定位置、ラグの上に座る。
 今日は左隣に唯兄が座っているけれど、テスト前の会食時、そこはツカサの指定席だ。
 そこに人がいるだけで、なんとなくほっとする。
 でも、ツカサなら正座だな。唯兄はあぐら。
 ほかになんの違いがあるかな、と考えていたら、
「リィ、どうかした?」
「え、あ……なんでもないよ」
 不意に声をかけられたこともあり、ジャガイモを噛まずに飲み込んでしまった。
「翠葉、水」
 すかさず蒼兄にグラスを差し出され水を飲むと、固形物が食道を通って胃に到達したのがわかった。
 これ……ちゃんと消化してもらえるのかな。
「何をそんなに焦ったんだか」
 笑う唯兄を横目に見て思う。
 もしかしたら、唯兄は私が何を考えていたのかわかっていて声をかけたんじゃないだろうか……。
「ほら、ご飯食べるときに考え事は厳禁よ? あ、レシピに関することならいいけどね? ほかは作ってくれた人に感謝して美味しいって思いながら食べなさい」
 お母さんからお叱りの一言を受け、そうだ――と思いなおし再度食卓に向かった。
 考えるのはバスタイムでいい。
 ゆっくりバスタブに浸かれるわけではないけれど、ひとりになれる時間はとても貴重。
 今は学校でも家でもひとりになる時間はほとんどないから。
 ――あ、れ? 私、ひとりの時間が欲しいの?
 余計に自分の気持ちがわからないことになりそうで、肉じゃがに入っている、色を添えるさやえんどうの緑で頭を満たした。
 みんなが話している内容にも夕飯にも集中できない自分が嫌になる。
 だから会話には参加せず、時折尋ねられることにだけ答え、いつもより早くにご飯を食べ終えた。それでも、みんなよりも食べ終わるのは遅い。
 いつもよりも三十分遅れての夕飯。これからお風呂に入って上がったら九時十分。髪の毛を乾かしたら九時半かな。
 時計を見ながら考える。
「翠葉、何かあったのか?」
 蒼兄の問いになんて答えようかと悩む前に唯兄が間に入ってくれた。
「あんちゃん、ここで訊き始めたらリィのバスタイムがなくなっちゃうよ?」
「あ、そっか……。じゃ、とりあえずお風呂に入っておいで」
 ふたりに送り出されるように立ち上がったけれど、お風呂へ行く前に一言。
「栞さん、今日も夕飯美味しかったです。ごちそうさま」
 食事に集中できず、きちんと味わって食べることも出来なかったことをごまかすような言葉たち。
 私、何しているんだろう……。

 自室に戻って着替えを用意してから洗面所へ行く。
 洗面所に入った時点でボタンをひとつ押せば、洋服を脱いでバスルームに入るころにはお湯が溜まっている。
 洗面所の引き出しを開き精油が入っている瓶たちを眺める。
「……今日はどうしたってローズマリーとグレープフルーツだよね」
 頭をしっかり覚醒させて、気持ちをしゃっきりさせないと……。
 会計の仕事に向かう前に、ツカサが来る前に――
 軽やかな曲が流れ、お湯が溜まったことを教えてくれる。
 バスタブにローズマリー三滴、グレープフルーツを五滴落とした。
 蒸気でお風呂全体に香りが充満する。
 深呼吸を数回繰り返し、精油成分を含む蒸気を吸い込んだ。
 気持ちを前向きにするためのチョイス。
 ミドルノートとトップノートのみでベースノートはないけれど、長湯するわけじゃないからこれでいい。
 安定感が欲しいわけじゃない。バランスを整えたいわけじゃない。ただ、前を向きたい。そのために選んだふたつ。
 手先足先と徐々にシャワーをかけていき、身体全体に浴びたところでフックにシャワーヘッドをかけた。
 ザー、と頭からシャワーを浴びれば、頭の大部分を占めていた問題がくっきりと形を露になる。
 寝る前には気持ちを落ち着けるためにお薬を飲んだ。けど、今はそっちじゃだめだと思う。
 このあと会計作業と向き合うときの気持ちを固めないとだめ。
「会計」という仕事だけではなく、「生徒会」そのものと向き合わなくてはいけない。
 それに、あんなやり取りをしたあとでもツカサは来る。絶対に来る。それは私を気にしてではなく、「会計作業」を気にして。
 そのツカサと会うのに、今の私ではだめだ。負ける――

 髪の毛の予洗いをしながら香月さんに言われたことやツカサに言われたことを思い出していた。そして、今の私と現状、生徒会規約。
 香月さんに言われたことはもっともだと思う。でも、それが通用しないという規約があった。
 知った今でも「特別扱い」にしか思えない。
 ……私の本心はどこにあるの? ちゃんと考えて、ちゃんと思い出して――
 生徒会を続けたいか続けたくないか。
「そんなの、続けたいに決まってる……」
 悩む必要なんてない。ただ、自分の体調がネックになっているだけ。
 予洗いを流し終えた髪の毛に再度シャンプーを泡立てる。
 シャンプーからもローズマリーの香りがした。
「……いいことにしても、いいのかな」
 バスルームに自分の声が響く。
 手を止めて考えそうになり、はっとして手を動かす。
 一度目よりもモクモクと泡立つその感覚を手に感じながら、ただひとつを目がけて考えを進める。
 リフレインされるのはツカサの言葉。
 ――「生徒会の除名は翠の意思でどうこうできるものじゃない。一度就任した以上、評価が下がらない限り除名はあり得ない。ふたりとも生徒会について理解が浅いようだから言うけれど、規約を理解したうえで行動、もしくは発言してくれないか? 帰宅後に会計の仕事にあたる翠の時間をこういうことに割かれるのは生徒会として迷惑だ。もし、香月がどうしても生徒会に入りたいのなら、まずは成績上で翠の上に出ることが必要不可欠だと思うけど?」。
 どんなに長くても思い出せるから不思議。
 たぶん、一言一句間違えていないと思う。
 生徒会は成績が下がったら強制的に役員から除外される仕組みだけど、自分から辞めたいと言えないことは初めて知った。一度引き受けたものなのだから、途中でやめることは考えていなかった。
 そのため、そのあたりの規約はさらりとしか目を通していなかった。
 ただ、状況が変わった今、辞めざるを得ない――体調が原因で役員としての仕事を担えない場合は別だと思っていた。あんな規約があるなんて知らなかった。
 ――「生徒会規約第三章七項。生徒会長により申請された案件は、学校長が特例措置を認可した時点から特例装置ではなく準規約として扱われる。また、準規約は対象生徒が在籍中に限り、現行規約と同列に扱われる」。
 今でも強引すぎる規約だと思ってる。
 でも――いいのかな。私、生徒会に残って、いいのかな。
 その規約に救われてしまっていいのだろうか。
 紅葉祭が終わるまでは絶対に残りたいと思っていた。だから、紅葉祭が終わるまで待ってほしいと香月さんに言ったけど――
「香月さん、ごめんなさい……」
 それ、取り消させてください。

 トリートメントを毛先から丁寧に馴染ませ、コームで髪の毛表面のキューティクルをきれいに整える。
 この作業がとても好き。自分の長い髪を一番意識するのがバスタイム。
 ここまで伸ばすのにどれだけかかったのか……。
 髪の毛は目に見えてわかりやすく期間を教えてくれる。
 だいたい一年に十センチから十五センチ伸びる。
 もし、自分が一歩も動けない気がしていても、時間は過ぎていて、ちゃんと私も何かしら成長していると思わせてくれる。だから、髪の毛を切れないでいた。
 宮川さんはホームケアをしっかりしてくれるから、と褒めてくれるけど、本当は、髪の毛をきれいに保ちたい以前に、これだけが私の成長の成果のような気がしていたからなのだ。
 だから、大切に大切に伸ばしてきた。ただ、それだけ……。
 もし、私がこの髪の毛をバッサリと切ることができたら、それはものすごい進歩なのだと思う。
 入院しているときに切ってしまおうか、と思ったのは衝動以外の何ものでもなかった。だから、宮川さんが止めてくれて良かったと思う。
 宮川さん、ありがとうございます――
 シャンプーやトリートメントを流しきるのに時間がかかるのは難点だけれど、自分の中のひとつの支柱でもあるこの髪の毛を今手放すべきじゃない。
 あのとき、踏みとどまれてよかった。
「でも、前髪伸びちゃった……」
 今まで前髪を伸ばしたことはなくて、今回初めてサイドに流せるように切ってもらった。だから、まとまりが悪いとかそういうことはないけれど……。
「少し重くなってきたかな……?」
 紅葉祭が終わったら、「Ever Green」に行こう。前髪を梳いてもらいに行こう。
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