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第十二章 自分のモノサシ
23話
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バンッッッ――
先生が手に持っていたファイルを床に叩き落した。
病室に大きな音の余韻だけが残る。
「いいか? あれを飲むことでどんな変化があったか教えてやる。血圧の上昇、体温はもともとCFSの症状で微熱だったからとくに数値変化はなし。浅い睡眠に頻脈の多発。効果が切れたときの血圧低下。そのくらいはそのバイタル装置が知らせてくれる」
言われたことには覚えがあった。
「おまえは慢性疲労症候群を知っているくせに、『過労』を知らねぇのか? その先に待っているものは『過労死』――不整脈による突然死だぞ」
「っ……!?」
「ピルケースにβ遮断剤が多めに入っているってことは、おまえも頻脈には気づいているからだな?」
コクリと頷く。
動いている分なのか、眠りが浅いからなのか、ここのところ頻脈発作が起こることが多く、それをすべて薬で抑えていた。
誰にも知られなくなかったから、発作が始まるとすぐに席を外してトイレで薬を飲んでいた。
薬が効くまでしばらく個室にいた。薬が効けばなんとかなっていた。
蒼兄から一度だけ電話がかかってきて、大丈夫か訊かれたことがあるけれど、薬で対応ができる範囲内であることを伝えたら、以来何を言われることもなかった。
でも――先生がもう飲むなと言ったその一錠がなかったら、私は今の生活を続けられない。紅葉祭の準備や歌の練習なんて続けられない。
なのに――どうしてわかってくれないのっ!? なんでわかってくれないのっ!?
零れ落ちる涙を止めることなんてできない。
だって、先生にだめと言われてもやめたくない。飲み続けたいと思っちゃうんだもの。
何かをやりたいと思うことはそんなにいけないことなのっ!? その一錠がありさえすればできるのにっ。
「スイハ……あのな、ひとつ何かできたらまずはそれに満足することを覚えろや。起案書、任されて嬉しかったんだろ? 達成感があったんだろ? なら、それをちゃんと味わえ。ひとつ何かができたあとはいつものラインまで行動範囲を落とす。それができるなら滋養強壮剤だって認めてやれる。ただし、それができないなら今後一切飲むな」
「でもっ、起案書だって最後まで作れたわけじゃないっ。清書するところまでやりたかったっ。下書きで終わりになんてしたくなかったっ」
「……俺らも待ってたんだ。あんなの飲み始めたらすぐにばれんだよ。みんな気づいていながら四日間指くわえて待ってたんだ。おまえの身体がボロボロになるのを遠隔装置で見ながらなっ。おまえはまたあんな痛みを感じたいのかっ!? また入院したいのかっ!? また留年したのかっ!? あ゛ぁっっっ!?」
どうして、どうしてそんなこと言うの……? ただ、人と同じように行動したかっただけなのに……。
あれを飲みさえすれば、人と一緒に動けたのに。どうしてだめなのっっっ!?
「俺は冗談じゃねぇぞ……。あんなに痛がるスイハを見たいなんて思わねぇ」
「私だって好きで痛いんじゃないっっっ。好きでこんな身体なんじゃないっっっ」
「じゃぁ逆戻りするような行動は慎めって言ってんだっ。おまえが持ってる身体はそれひとつなんだよっ。それをおまえが大事にしてやらないでどうするっ!?」
どうして、どうして、どうして、どうして――
「スイハ、あぁいう代物は健康な人間が飲むことだって俺は勧めない。社会人には責任てものが圧し掛かるから時と場合により服用してもいいだろう。でもな、自分の力以上をずっと出し続けることは、人間って生き物には無理なんだ。それは身体が丈夫だろうが丈夫じゃなかろうが、その理屈は変わらない。疲労ってのは誰にでも起こる」
「……でも、あれを飲んでいたらいつもよりは動けるのに」
「そのあとは? ……おまえ、あれをいつまで飲み続けるつもりだ?」
いつ、まで――?
「あれは特効薬でもなんでもない。その場しのぎに使うもんだ。おまえの今回の使い方は正しくない」
「でもっ、一日の服用量は守ってたっ」
「そういう問題じゃない。毎日飲むものじゃないって言ってるんだ」
「でも、唯兄はよく飲んでるっ」
「じゃぁ、あとで俺が二号に直接言ってやるよ。バーカってな」
先生は本気で嘲るように笑った。でも、すぐに真剣な表情に戻り訊かれる。
「痛いからってモルヒネまがいの静注を続けていたらどうなる?」
「……廃人になる」
「今回おまえが飲み続けていたもの、これだって変わらない。その場を凌げても、確実におまえの身体を蝕む。そういうアイテムなんだよ。以前、お姫さんが一度だけこの手のものを飲ませたことがあると言っていた。そのとき、お姫さんはなんて言った? 覚えてないか?」
いつ飲んだのかすらわからない。
今回これを飲むきっかけになったのはキッチンに置いてあったからで、「滋養強壮剤」と書かれていたから。
でも、その言葉をいつかどこかで聞いたことはある気がする……。
「なくした記憶の一部になってるってこったな。じゃぁ、いい。お姫さんが言ったことを教えてやる。『本来は飲ませるべきものじゃない。でも今日は特別』。そう言って飲ませたそうだ。スイハの体調が思わしくなく、それでも取りやめにはしたくない予定があった。だから、そのときにだけ仕方なく飲ませた」
そんなこと言われても――
私は……私は、みんなが持っているような十の力が欲しいっ。
「思ってること、全部吐いちまえ」
「やだっ。どんどん自分が惨めになっていく」
「いいから吐けっっっ」
真正面から怒鳴られた。
入院中もあれこれ言い合いみたいなことはしてきたけれど、こんなふうに怒鳴られたのは初めてだった。
大声には慣れていないし身が竦む。
でも、今私の中には間違いなく怒りや不満といった感情がある。むしろ、それしかない。
「やだっっっ、なんでこんなに醜い感情を人に見せなくちゃいけないのっ!?」
「必要だからだ」
「やだっっっ」
「じゃぁ、俺を人と思うな。刷毛口上等」
何よそれ――
「ほら、文句あんだろ? とっとと言えや」
先生はどんどん柄が悪くなっていく。ドスの利いた声に、目つきだってより悪くなる。
なのに、私には怖いという感情は生まれず、どちらかというならむかついていた。
先生に対してむかついているのかはわからない。でも、この感情が「不満」であることはわかる。
「不満ってのはな、隠そうとしても表に出るもんだ。おまえがどんなに醜い部分を見せたくなくて隠そうとしていても、見えるやつには見えんだよっ」
「っ――な……どうして――」
もう、やだっっっ。
「どうして私はこんなに制限されなくちゃいけないのっ!? どうしてみんながしていることと同じにはできないのっ!? どうして無理しちゃいけないのっ!? ねぇっっっ、どうしてっっっ!? どうしてがんばれるところまでがんばっちゃいけないのっ!? 全力投球って言葉があるのに、どうして私はそれをさせてもらえないのっ!?」
最後は先生に掴みかかっていた。
涙が流れるのも髪の毛が頬に張り付くのも、どうでもよかった。
こういうの、やだよ……。
できることならずっと蓋をしておきたかった。人になんて見せたくなかった。
自分のことも騙せていられたらよかったのに……。
ねぇ、先生、知ってる? この感情はマグマなんだよ。
本当は火山口なんて開いてほしくなかったのに――
「それはおまえが一番よく知ってるだろ?」
「――知ってる……。嫌っていうくらい知ってる。でも、知っているからといって、わかっているからといって、それで何もかも納得してるわけじゃないし、納得できるわけじゃないっっっ」
「……そうだな。俺ら医者はおまえが納得するような答えは出してやれねぇ」
そんなのひどい……。
こんな感情と向き合わせたくせに、結局私が納得できる答えなんてないんじゃない。
「それでも、だ。少しずつでもわかってもらわないと困る」
そんなことだって知ってる。
自分が無理をするだけでどれだけ人に迷惑かけるのかなんて――嫌というくらいわかってる。
ここまでなら大丈夫、と思っていたラインですらクリアできないことがある。
そんなこと、今までに何度もあった。
そのたびに学校に呼び出される両親や、心配して病院に駆けつけてくれる蒼兄を何度も見てきた。
「スイハ……おまえが考えていることを当ててやる。人に迷惑かける、心配かけるからだめだと思ってんだろ? だから、我慢しなくちゃいけないと思ってるだろ?」
「だって……そうだもの」
「あぁ、それも間違いじゃねぇ。でも、根本的な部分が違う」
「……何が違うの? 何も違わないでしょう?」
「違う――スイハ、おまえが無理をしたら、おまえが倒れるんだ」
そんなの当たり前――
「いいか? おまえが倒れるんだ。おまえがつらくなるんだ。おまえが自分で自分の身体を傷つけるんだ」
先生が手に持っていたファイルを床に叩き落した。
病室に大きな音の余韻だけが残る。
「いいか? あれを飲むことでどんな変化があったか教えてやる。血圧の上昇、体温はもともとCFSの症状で微熱だったからとくに数値変化はなし。浅い睡眠に頻脈の多発。効果が切れたときの血圧低下。そのくらいはそのバイタル装置が知らせてくれる」
言われたことには覚えがあった。
「おまえは慢性疲労症候群を知っているくせに、『過労』を知らねぇのか? その先に待っているものは『過労死』――不整脈による突然死だぞ」
「っ……!?」
「ピルケースにβ遮断剤が多めに入っているってことは、おまえも頻脈には気づいているからだな?」
コクリと頷く。
動いている分なのか、眠りが浅いからなのか、ここのところ頻脈発作が起こることが多く、それをすべて薬で抑えていた。
誰にも知られなくなかったから、発作が始まるとすぐに席を外してトイレで薬を飲んでいた。
薬が効くまでしばらく個室にいた。薬が効けばなんとかなっていた。
蒼兄から一度だけ電話がかかってきて、大丈夫か訊かれたことがあるけれど、薬で対応ができる範囲内であることを伝えたら、以来何を言われることもなかった。
でも――先生がもう飲むなと言ったその一錠がなかったら、私は今の生活を続けられない。紅葉祭の準備や歌の練習なんて続けられない。
なのに――どうしてわかってくれないのっ!? なんでわかってくれないのっ!?
零れ落ちる涙を止めることなんてできない。
だって、先生にだめと言われてもやめたくない。飲み続けたいと思っちゃうんだもの。
何かをやりたいと思うことはそんなにいけないことなのっ!? その一錠がありさえすればできるのにっ。
「スイハ……あのな、ひとつ何かできたらまずはそれに満足することを覚えろや。起案書、任されて嬉しかったんだろ? 達成感があったんだろ? なら、それをちゃんと味わえ。ひとつ何かができたあとはいつものラインまで行動範囲を落とす。それができるなら滋養強壮剤だって認めてやれる。ただし、それができないなら今後一切飲むな」
「でもっ、起案書だって最後まで作れたわけじゃないっ。清書するところまでやりたかったっ。下書きで終わりになんてしたくなかったっ」
「……俺らも待ってたんだ。あんなの飲み始めたらすぐにばれんだよ。みんな気づいていながら四日間指くわえて待ってたんだ。おまえの身体がボロボロになるのを遠隔装置で見ながらなっ。おまえはまたあんな痛みを感じたいのかっ!? また入院したいのかっ!? また留年したのかっ!? あ゛ぁっっっ!?」
どうして、どうしてそんなこと言うの……? ただ、人と同じように行動したかっただけなのに……。
あれを飲みさえすれば、人と一緒に動けたのに。どうしてだめなのっっっ!?
「俺は冗談じゃねぇぞ……。あんなに痛がるスイハを見たいなんて思わねぇ」
「私だって好きで痛いんじゃないっっっ。好きでこんな身体なんじゃないっっっ」
「じゃぁ逆戻りするような行動は慎めって言ってんだっ。おまえが持ってる身体はそれひとつなんだよっ。それをおまえが大事にしてやらないでどうするっ!?」
どうして、どうして、どうして、どうして――
「スイハ、あぁいう代物は健康な人間が飲むことだって俺は勧めない。社会人には責任てものが圧し掛かるから時と場合により服用してもいいだろう。でもな、自分の力以上をずっと出し続けることは、人間って生き物には無理なんだ。それは身体が丈夫だろうが丈夫じゃなかろうが、その理屈は変わらない。疲労ってのは誰にでも起こる」
「……でも、あれを飲んでいたらいつもよりは動けるのに」
「そのあとは? ……おまえ、あれをいつまで飲み続けるつもりだ?」
いつ、まで――?
「あれは特効薬でもなんでもない。その場しのぎに使うもんだ。おまえの今回の使い方は正しくない」
「でもっ、一日の服用量は守ってたっ」
「そういう問題じゃない。毎日飲むものじゃないって言ってるんだ」
「でも、唯兄はよく飲んでるっ」
「じゃぁ、あとで俺が二号に直接言ってやるよ。バーカってな」
先生は本気で嘲るように笑った。でも、すぐに真剣な表情に戻り訊かれる。
「痛いからってモルヒネまがいの静注を続けていたらどうなる?」
「……廃人になる」
「今回おまえが飲み続けていたもの、これだって変わらない。その場を凌げても、確実におまえの身体を蝕む。そういうアイテムなんだよ。以前、お姫さんが一度だけこの手のものを飲ませたことがあると言っていた。そのとき、お姫さんはなんて言った? 覚えてないか?」
いつ飲んだのかすらわからない。
今回これを飲むきっかけになったのはキッチンに置いてあったからで、「滋養強壮剤」と書かれていたから。
でも、その言葉をいつかどこかで聞いたことはある気がする……。
「なくした記憶の一部になってるってこったな。じゃぁ、いい。お姫さんが言ったことを教えてやる。『本来は飲ませるべきものじゃない。でも今日は特別』。そう言って飲ませたそうだ。スイハの体調が思わしくなく、それでも取りやめにはしたくない予定があった。だから、そのときにだけ仕方なく飲ませた」
そんなこと言われても――
私は……私は、みんなが持っているような十の力が欲しいっ。
「思ってること、全部吐いちまえ」
「やだっ。どんどん自分が惨めになっていく」
「いいから吐けっっっ」
真正面から怒鳴られた。
入院中もあれこれ言い合いみたいなことはしてきたけれど、こんなふうに怒鳴られたのは初めてだった。
大声には慣れていないし身が竦む。
でも、今私の中には間違いなく怒りや不満といった感情がある。むしろ、それしかない。
「やだっっっ、なんでこんなに醜い感情を人に見せなくちゃいけないのっ!?」
「必要だからだ」
「やだっっっ」
「じゃぁ、俺を人と思うな。刷毛口上等」
何よそれ――
「ほら、文句あんだろ? とっとと言えや」
先生はどんどん柄が悪くなっていく。ドスの利いた声に、目つきだってより悪くなる。
なのに、私には怖いという感情は生まれず、どちらかというならむかついていた。
先生に対してむかついているのかはわからない。でも、この感情が「不満」であることはわかる。
「不満ってのはな、隠そうとしても表に出るもんだ。おまえがどんなに醜い部分を見せたくなくて隠そうとしていても、見えるやつには見えんだよっ」
「っ――な……どうして――」
もう、やだっっっ。
「どうして私はこんなに制限されなくちゃいけないのっ!? どうしてみんながしていることと同じにはできないのっ!? どうして無理しちゃいけないのっ!? ねぇっっっ、どうしてっっっ!? どうしてがんばれるところまでがんばっちゃいけないのっ!? 全力投球って言葉があるのに、どうして私はそれをさせてもらえないのっ!?」
最後は先生に掴みかかっていた。
涙が流れるのも髪の毛が頬に張り付くのも、どうでもよかった。
こういうの、やだよ……。
できることならずっと蓋をしておきたかった。人になんて見せたくなかった。
自分のことも騙せていられたらよかったのに……。
ねぇ、先生、知ってる? この感情はマグマなんだよ。
本当は火山口なんて開いてほしくなかったのに――
「それはおまえが一番よく知ってるだろ?」
「――知ってる……。嫌っていうくらい知ってる。でも、知っているからといって、わかっているからといって、それで何もかも納得してるわけじゃないし、納得できるわけじゃないっっっ」
「……そうだな。俺ら医者はおまえが納得するような答えは出してやれねぇ」
そんなのひどい……。
こんな感情と向き合わせたくせに、結局私が納得できる答えなんてないんじゃない。
「それでも、だ。少しずつでもわかってもらわないと困る」
そんなことだって知ってる。
自分が無理をするだけでどれだけ人に迷惑かけるのかなんて――嫌というくらいわかってる。
ここまでなら大丈夫、と思っていたラインですらクリアできないことがある。
そんなこと、今までに何度もあった。
そのたびに学校に呼び出される両親や、心配して病院に駆けつけてくれる蒼兄を何度も見てきた。
「スイハ……おまえが考えていることを当ててやる。人に迷惑かける、心配かけるからだめだと思ってんだろ? だから、我慢しなくちゃいけないと思ってるだろ?」
「だって……そうだもの」
「あぁ、それも間違いじゃねぇ。でも、根本的な部分が違う」
「……何が違うの? 何も違わないでしょう?」
「違う――スイハ、おまえが無理をしたら、おまえが倒れるんだ」
そんなの当たり前――
「いいか? おまえが倒れるんだ。おまえがつらくなるんだ。おまえが自分で自分の身体を傷つけるんだ」
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