光のもとで1

葉野りるは

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第十一章 トラウマ

32話

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 もう一度秋斗さんの携帯が鳴ると、秋斗さんはそれには出ずに席を立った。
 きっと、木田さんがランチを届けに来てくれたのだろう。
 秋斗さんがドアを開けると、
「お待たせいたしました」
 木田さんは紙袋を渡すのみで、中へ入ってはこない。
「木田さん、ここって今日明日フリー?」
「はい。ご予約は入っておりません」
「俺の部屋、こっちにしてもらってもいいかな?」
「もちろんでございます。のちほどお荷物と必要なものを一通り揃えてお届けいたします。コンセプトが『森の中』ですので照明における電化製品はございませんが、バスルームとトイレは完備してございます」
「もしかしてバスルームからも星が見えたりする?」
「えぇ、星空が臨める設計になっております」
「それは楽しみだな。じゃ、よろしくお願いします」
 秋斗さん、ここに泊まるの……?
「翠葉お嬢様、どうかなさいましたか?」
「少し、羨ましいなって――」
 口にしてすぐ後悔。手で口を覆ったけれど、口に出した言葉たちが帰ってくるわけじゃない。
「なんでも、ないです……」
 小さな声でそう付け足したけど、苦し紛れというよりは苦しすぎる何か。
「それでは、ごゆっくりお過ごしください。ディナーの準備が整いましたらご連絡いたします」
 ドアが静かに閉められ、秋斗さんは木田さんに渡された紙袋を持って戻ってきた。
「ここに泊まりたかった?」
「……夜がどんな雰囲気か知りたかっただけです。今日は晴れているから、きっと星もきれいに見えるでしょうね」
 窓の外には真っ青な空が広がっている。その空に、緑と赤が混じる紅葉もみじがきれいに映えた。
 まだ完全に紅葉こうようしてはいない。その、中途半端な色合いがなんともいえないバランスで、絶妙なコントラストに目を奪われる。
 本当の暗闇の中で見る星空とはどんなだろう。そこに灯るランプやキャンドルは、間違いなく幻想的な空間を作り出してくれるはずだ。
「ディナーは七時から。そのあと食休みしてから治療だっけ?」
「いえ、ご飯の前に治療をすることになりました。じゃないと、昇さんたちがお酒飲めないって」
「そっか……。翠葉ちゃんはいつも何時くらいに寝るのかな?」
「え……?」
「夕飯のあと、寝るまでの時間をここで過ごしたら?」
「……いいんですかっ!?」
「もちろん」
「嬉しいっ!」
「あ、でも……うるさそうな兄ふたりの承諾だけは得てきてね?」
「蒼兄と唯兄はきっとだめなんて言わないです」
 笑って答えると、
「それはどうかなぁ……」
 言いながら秋斗さんはランチボックスをテーブルに並べた。
「ハーブティーのパックもある。ストーブをつけてお湯を沸かそう」
「それっ、私がやりますっ」
「じゃ、お願いしようかな」
 ライトブルー、ミントグリーン、チェリーレッド――三色のホーローのケトルはどれもかわいい。
 今日の気分は赤、かな。
 紅葉こうようを見ているからかな、と思いながら、出入り口に一番近いストーブの上に乗っていたケトルを持って、さっきから気になって仕方のなかったドアを開く。と、そこは長方形の空間だった。
 入ってすぐのところに洗面台があり、その隣にトイレ。さらにその奥がバスルームになっている。
 独特な空間は、開放感がありすぎて少し落ち着かない。
 私の胸元くらいまでは腰壁になっているものの、その上はガラス張りで窓の外が見えるのだから。
 洗面台にはふたつのコックがついており、ひとつが浄水器を通していることがわかった。
 そちらから水を汲み、秋斗さんのもとへと戻る。
 秋斗さんは入り口近くのストーブに火を入れていた。
 お湯が沸くまでには時間がかかるし、紙袋には淹れたてのお茶が入っている。
「じゃ、ランチにしよう」
「はい!」
 透明のプラスチックの容器に入っていたのはサラダマリネ。紙製のボックスには数種類のサンドイッチが入っていた。
 一緒に入っていたナプキンで手を拭き、ふたり声を揃えて「いただきます」。
 手に取ったサンドイッチはまだ温かく、しっとりふかふかのパンにびっくりした。
「ここは焼きたてのパンを使ってサンドイッチを作るんだ」
「すごく美味しいです……」
 サンドイッチの中にはカツサンドもある。
 一口かじるとふわっふわのパンの感触のあとに、サク、と音がした。
 美味しい……。
 思わず、身体を揺らして悶えたくなる美味しさだった。
 全部食べられるか不安だったけれど、時間をかけたら問題なく全部食べられてしまった。

 食べ終わると身体がポカポカしてきたのでポンチョを脱いだ。
「ねぇ、今日の服装って……」
 秋斗さんの視線はスカートに注がれる。
「スカート、どうしてそれにしたの?」
「スカート、ですか? ……えぇと、どうしてでしょう?」
「それね、以前森林浴に来たときと同じスカートなんだ」
 そうだったの……?
「どうして、と訊かれても、とくにこれといった理由はなくて……。ただ、昨日、冬服を取りに自宅へ帰ったとき、目についたから持ってきたんです。今日何を着るのか悩んだときにも真先に目に入ったから……だから、です」
 説明になっているのだろうか……。
 不安に思っていると、秋斗さんは「そっか」と少し寂しそうに笑った。
「秋斗さん……?」
「翠葉ちゃんは記憶を取り戻したい? 取り戻したくない?」
「……取り戻したいです。記憶がなくても日常生活に困ることはないけれど、少し寂しい。共有できる過去があるはずなのに、その記憶がなくて。それに、私は秋斗さんを好きになって初恋を体験しているはずなのに、その記憶がないだけで、経験値をすべて取り上げられた気がして」
「――初恋の相手が俺かどうかは、記憶を取り戻した君に訊いてみたいな」
「……え?」
「いつか訊きたいと思っていたことだから、思い出したら教えてね」
 どういう意味……?
「思い出すことに対して恐怖心は?」
 話をすり替えられたと思った。でも、今は訊かれた質問に答えよう。
「……ないと言ったら嘘になります。起きた出来事は全部教えてもらったけど、人から聞くのと自分が思い出すのは違うと思うから」
 意気地なしな自分にほとほと嫌気が差す。つらい思いをしているのは自分ではないのに。
「翠葉ちゃん、立場は違うけど……その記憶を共有した者として、一緒に受け止めるから、
だから――」
「はい、逃げません。なので、思い出せるまで、秋斗さんがどんな人なのかわかるまで時間をください」
 返事はなく、にこりと笑うことで了承してくれた。

 お茶を飲みながら過ごす時間はゆっくりと過ぎていく。
 ガラス張りの部屋から出ることもなく、秋斗さんと時々言葉を交わしながら外の風景を眺めていた。
 BGMはストーブの火が燃える音と、ケトルのシュンシュンという音。
 なんだかとっても穏やかで優しい空間だ。
「翠葉ちゃん、写真は撮りにいかないの?」
「あ……」
 自分の脇に置いてあるカメラケースに目をやる。
 写真を撮りたくないわけじゃない。でも、ここから出たくもない。
 仕事――その二文字が頭をよぎれば、カメラを手に取らないわけにはいかなかった。
「少し、外へ行ってきます。秋斗さんは……?」
「俺は休んでるよ。あの日と同じようにね。外は風が吹いているから上は着ていったほうがいいよ」
 そう言って、ポンチョを肩からかけられた。
「戻ってくるときはどうしたら……」
 ここのドアはオートロックだった。さっき木田さんは秋斗さんの携帯を鳴らしたけれど、寝ているところを起こしてしまうのは申し訳ない。
「あ、戻るのはなしで……。写真を撮り終えたら本館へ戻ります」
「翠葉ちゃん、そんなに気を遣わなくていいよ。俺は、君がここへ戻ってきてくれるならそのほうが嬉しい」
 いいの……?
「だから、その時はノックでもいいし、携帯を鳴らすでもいいから、戻ってきたいときに戻っておいで」
「……はい」
「日陰に入ると気温がぐっと下がるから、それだけは気をつけるんだよ」

 秋斗さんに送り出され外に出たものの、私はカメラを構えることなくそれらを眺めていた。
 きれいなものは目の前いっぱいに広がっているというのに、意識がそちらへ向かない。
 緑と赤が混じる紅葉もみじ、切り込みの浅い楓。
 きれいだとは思うのに、写真に撮りたいと思わないのはどうしてだろう。
「……私、どうしちゃったのかな」
 でも、写真は撮らなくちゃいけないんだよね……?
 カメラケースからカメラを取り出し構えてみるものの、アングルすら定まらない。
 どうしよう……。
 紅葉もみじの木の根元に座り込むと、そこから動けなくなってしまった。
 それは、物理的にではなく、精神的に。
 そんなとき、メールの着信があった。


件名 :紅葉はきれいか?
本文 :こっちはかなりきれいだぞー!


 お父さんから、写真付きのメールが届いた。
 今、休憩中……?
 咄嗟にリダイヤルから番号を呼び出し、通話ボタンを押す。と、
『メール届いたかー?』
 いつもと変わらないのんびりとした声が聞こえてくる。
「うん、届いた。とってもきれいね? ここはそこほど色づいていないけど、やっぱり紅葉もみじがきれい。緑と赤が半々くらいでね、真っ赤なのもきれいなのだけど、この入り混じったアンバランスなのもきれいだよ」
 緑にも赤にもなれない葉が自分に思えてくる。
『そうか。……で、何かあったか?』
「え……?」
『翠葉は基本、メールにはメールを返すだろう?』
 そう言われてみれば……。
 私は電話が苦手で、どちらかというと手が空いているときに読んでもらえるメールを好む。でも、今は反射的に電話をかけてしまったのだ。
「あのね……ブライトネスパレスに来ているのに、すごくきれいな景色を見ているのに、写真が撮れないの。どうしよう……これ、お仕事なんだよね?」
『……なるほどなぁ。撮れないか』
「うん……でも、撮らなくちゃ……」
『翠葉、そういうのはさ、撮ろうと思って撮れるもんでもなかろ?』
「でも、お仕事……」
『翠葉、静はこう言わなかったか? 焦って撮りためる必要はないって』
「でも、ここの宿泊料もタダって……」
 それは私がそれだけの対価を払えてのことなのではないだろうか。
『父さんが静に出した条件はひとつ。翠葉に必要以上のプレッシャーを与えるな、そう言った』
「え……?」
『期日に追われた仕事ってのはさ、あまりいいものじゃなかったりするんだよ。たまたま思いついたものを形にしてみた。そしたらいいものだった。父さんの仕事もそんなことが多い。……父さんは、音楽も写真もインテリアも似たようなものだと思ってる。プロはそれをクリアできてこそプロだと思うんだ。でも、翠葉はプロじゃない。それを担ぎ出そうとしている静には、そこを配慮してくれって言った。静は仕事の鬼だからさぁ……下手したら翠葉のことだって追い詰めかねないと思って。ついつい釘刺しちゃったんだ』
「……お父さん、私、やっぱり報酬は受け取りたくない」
『翠葉ちゃん、それはなしだよ』
 ――お父さんの声じゃない。
『翠葉~、すまんっ、静に携帯を奪われた』
 遠くの方でお父さんの声がした。
 ということは、今携帯を持っているのは静さん……?
『そもそも、どうしてそんな話に?』
「……撮れないんです。きれいなものが周りにたくさんあるのに、どれを見ても、どこを見ても、構図すら思い浮かばなくて……」
『なるほどね。……翠葉ちゃん、無理はしなくていいんだ。今回そこへ行ってもらったのは、ブライトネスパレスという場所を君の記憶に新しく構築するためだと思ってくれてかまわない』
 新しく、構築……?
『思い出そうと躍起にならなくていいし、写真を撮らなくてはいけないなんて思わず、ゆっくりと滞在しておいで』
「でも、それじゃ――」
『私はね、御園生翠葉という新芽を摘み取るつもりもなければ、踏みにじるつもりもないんだ。育てたいだけなんだよ。それに対して報酬が入るから君にも分ける。そんな考え方でいい。気負う必要はない』
 本当にそれでいいの……?
『今はどこに?』
「森の……ステラハウスの近くです」
『秋斗は?』
「ステラハウスで休まれています」
『秋斗と一緒にいるのは嫌かな?』
「そんなことないですっ」
『なら良かった。すぐに秋斗が迎えに行くから、もう少しそこで待っていなさい』
 え……?
『いいかい? 今日明日は仕事のことは忘れなさい。これは私からのお願いだよ』
 その言葉を最後に通話が切れた。
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