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13 Side 司 01話
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「本当は起きてらっしゃるのでしょう?」
秋兄がいたときは無駄口を叩かなかった人間が、秋兄がいなくなった途端に口を開いた。
無視を決め込むと、
「どこまでも気の回る人ですねぇ? そんなんじゃ将来苦労しますよ?」
そのあとは藤山の一角にある自宅まで何も喋らなかった。
けれど、車を降りるときに一言だけ――
「世話になりました」
その言葉と共に腰を折る。
礼は言うべきだと思ったから。
ゼロ課という課がどういった規律のもとに動いているのかはわからない。けど、この二日間、俺と秋兄に労を費やした事実は変わらない。
「またお会いできる日を楽しみにしています」
そんなふうに言って去っていったけど、
「……真っ平ごめんだ」
ゼロ課が絡むことなどそうそうないはずなのに、「また」だと?
「次があってたまるか――」
家に入ってシャワーを浴び、夕飯を済ませてから病院へ行くつもりだった。しかし、出かける間際に母さんが言いづらそうに声をかけてきた。
「お父様が庵でお待ちなの……」
じーさんが何……?
母さんの目は不安そうに揺れていた。
きっと、母さんは何も聞かされていない。知らないからこそ不安を感じているのだろう。
「わかった、寄っていく」
ゼロ課の存在を知った直後ということもあり、嫌な予感を胸に庵を訪ねると、
「来たか」
「……何」
「コーヒーでも飲むかの?」
「このあと用があるから早く済ませてほしいんだけど」
「つれぬのぉ……。まぁ時間はかからぬわ」
じーさんは髭をいじりながら言う。
「ゼロ課の存在を知ったとな」
今年八十八になるというのに、目に宿る眼光は一向に衰えない。
「それは即ち、秋斗と共に会長候補に挙がったということじゃ」
「は……? 意味がわからないんだけど。何がどうして俺?」
「会長、もしくは次期会長はひとりだけ推薦することができる」
「何それ、意味わからないし」
「意味などないわ。ただ、推薦することができる。それだけじゃ」
「じーさん、俺、医者以外になるつもりないんだけど」
「ふぉっふぉっふぉっ、涼の息子が何を言うか」
「父さんの息子というなら兄さんで十分だと思うけど?」
「そうじゃがの、それではつまらんぞい」
「俺はつまらなくて一向に構わない。むしろ、俺が巻き込まれることを回避できるなら兄さんを生贄に差し出す」
じーさんはおかしそうに笑った。
「そういうところが涼譲りなんじゃよ」
「……俺、そんなに父さんに似てる?」
「そっくりじゃ。ああ見えて、一番真白に近い性質を持っているのは湊じゃろうの」
「はっ!?」
「司は涼の血が濃い。それに、真白の天性の優しさが根底にある。人間としてバランスがいい気質じゃろう」
「どう担がれても会長なんて無理。っていうか、これから帝王学を学つもりもさらさらない」
「そんなことは危惧せんでも、司は秋斗に仕込まれとるじゃろう」
「は……? 身に覚えがないんだけどっ!?」
「いつか秋斗や静に訊くがよい。話は以上じゃ。お姫様のところへ行くんじゃろ? 早うせい」
呼び出した本人にそう言われて庵を追い出されるのだからたまらない。
心の整理がつかないまま自転車に跨り舗装された山道を走る。
陽が落ちた今はさほど暑くないはずなのに、緑山から帰った自分にはひどく暑く感じた。
時計を見れば七時半前。坂を下れば病院まではすぐだ。
ジーパンのポケットには長めのチェーンが入っている。
夕飯のとき、母さんに昨日から今日までのことを訊かれるのが面倒で、自分から話題を振った。
「あのさ、長いチェーン持ってない?」
「……この間のじゃだめだったの?」
「そうじゃない。……翠はすごく喜んでいたけど、指先が痛むらしくてつけ外しができないんだ」
「そうなのね……。じゃ、留め具をいじらなくてもつけ外しできる長さがいいのね」
逡巡していた母さんが、「あっ!」と立ち上がり部屋を出ていった。
満面の笑みで戻ってきた母さんに渡されたものは、シンプルな長いチェーンだった。
「涼さんのものなのだけど、きっと怒られることはないわ。素材はサージカルステンレスだからアレルギー体質の子でも大丈夫だと思うの」
なんでそんなものを父さんが……?
「仕事中はマリッジリングも邪魔になることがあると言われて、それでも身につけていてほしくてこれをプレゼントしたの」
すごく父さんらしい理由で、母さんらしい理由だ。
「でもね、最近になって指にはめてくれるようになったから、もう必要ないと思うの」
母さんはたかがそれだけのことをとても嬉しそうに話す。
きっとこれなら大丈夫だろう。でも、どうやって切り出すか……。
つけていなければ、適当にチェーンを替えてしまえばいい。
つけていたら……?
つけていてくれたら嬉しいけど、それをつけたり外したりするたびに痛い思いはさせたくない――
汗をかくこともなく病院に着き、警備室前をそのままスルーして歩みを進める。
エレベーターで九階へ上がると、ロビーに昇さんともうひとり知らない医師がいた。
きっとこの人が相馬医師なのだろう。
挨拶をしようとすれば、手で行った行った、と追いやられる。
「スイハが病室で待ってんだよ」
と、初対面にも関わらず追い払われた。
面食らった俺を笑いながら、昇さんが口を開く。
「そわそわしてるからさっさと行ってやれ」
この場にいるふたりに言われたらそうせざるを得ない。
俺は会釈して病室へと急いだ。
ナースセンターでは栞さんが申し訳なさそうに寄ってくる。
「昨日はごめんなさいね? 静兄様が何か急なお願いしたみたいで」
「うちの親族、そういう人間多いので慣れてます」
「そうね……。でも、ありがとう」
別段、栞さんに礼を言われるようなことはしていないわけだけど、詳細を知らない人間に話す必要もない。
病室を振り返ると、相変わらずドアは開けたままになっていた。
あまりの静かさにノックはせず病室を覗いてみる。と、翠はベッドの上で横になり、嬉しそうにとんぼ玉を眺めていた。
まるでそれしか目に入っていないような顔で、大切そうに愛でている。
そんな様を見て嬉しいと思う。でも――
「寝るときくらい外せ。危ないだろ?」
気づけばそんなことを口にしていた。
急に声をかけたからか、翠は驚いた表情で俺を見る。けれど、すぐに表情を改め「おかえりなさい」と口にしてくれた。
やっと見ることができた――曇りない満面の笑みを。しかも、首には俺のあげたとんぼ玉がぶら下がっていて、未だ翠の手中にある。
嬉しいものだな……。
「ただいま」
「なんか……すごい日焼けしたね? 肌真っ赤」
「……数日後には落ち着く」
「ツカサも赤くなって痛いだけで焼けない人?」
「そう」
「じゃ、私と同じ!」
無邪気に笑う翠を見ると、帰ってきた、という気になる。
「ツカサ、いいことあった?」
「……いいことというよりは、最悪なことだらけの気がするけど?」
いいことは今あったけど、そのほかは最悪なことだらけだ。
「だって、いつもよりも顔が優しく見えたよ?」
「それ、いつもは怖いって言いたいの?」
つい……つい、嫌みのようなことが口をついてしまう。
「怖いなんて言ってないよ。ただ、ツン、として見える……かな?」
それもどうなんだか……。
「ツカサ……?」
下から覗き見るように声をかけられた。
「それ、自分で外せる?」
「あ……ネックレスのこと?」
「そう」
身につけてくれているのは嬉しいと思う。けれど、それをつけたまま寝るのは良くない。
首に絡んで首が絞まったらどうするつもりだ……。
「……できない」
やっぱり……。
「そう。じゃ、外すから」
「やだっ」
翠はベッドの端まで逃げた。
「やだじゃない。こんなのつけたまま寝るな」
抵抗はされると思っていた。でも、首に手をかけた瞬間におとなしくなった。
取り外すと、さっきまでの笑顔はどこへやら……。
「不服そうな顔……」
翠は頬を膨らませる勢いでむくれている。
別に全部を取り上げるつもりで外したわけじゃない。だから、そんな顔するな……。
「これなら留め具をいじらなくても首にかけるだけでいいだろ?」
言いながら、長めのチェーンを翠に見せる。
「……ありがとう」
「素材はシルバーでも金でもなければプラチナでもなくステンレスだけど」
「ありがとうっ!」
翠は花が咲いたような笑顔になった。
翠の手が伸ばされると、俺は同じ要領でネックレスを遠ざける。
「ツカサ……?」
さて――
「交換条件とまいりましょう」
にこりと笑ってとんぼ玉を手中におさめると、とんぼ玉を掴み損ねた翠は怪訝な表情をする。
「交換条件って……?」
「あのさ、秋兄に会わない?」
「……え?」
「藤宮秋斗、俺の従兄に会わない?」
「会うよ……? だって、いつか静さんが連れてきてくれるのでしょう?」
「そのときじゃなくて……明日、秋兄に会わない?」
すごく悩んだ……。でも、俺も秋兄も、翠の知り合いなんだ。出逢ってないことにはできない。
今のままじゃ、歯車はうまく回らない。
時計と同じだ。直せるものなら直したほうがいいんだ。
俺の気持ち的な都合かもしれない。でも、秋兄をあのままにはしておけない。
自業自得だと言われようが、秋兄は自分の欲求を優先させて行動したわけじゃなかった。秋兄なりに翠のことを考えていた。ただ、それが裏目に出てしまっただけ。
翠は何も知らずに記憶を失った。そのときのことだけではなく、それまで築いてきたいくつもの出来事や気持ちの一切を。
人の財産は金や地位じゃないと思う。その人間が経験したすべてが財産なんだ。
だとしたら――翠はそれを失ったことになる。
それはちゃんと取り戻したほうがいい。
人は嬉しいだけ、幸せなことだけで人生が成り立っているわけじゃない。つらいことや悲しいこと、それら全部が揃って人生だったり思い出だったりする。
それは失ったままでいるべきじゃない――
秋兄がいたときは無駄口を叩かなかった人間が、秋兄がいなくなった途端に口を開いた。
無視を決め込むと、
「どこまでも気の回る人ですねぇ? そんなんじゃ将来苦労しますよ?」
そのあとは藤山の一角にある自宅まで何も喋らなかった。
けれど、車を降りるときに一言だけ――
「世話になりました」
その言葉と共に腰を折る。
礼は言うべきだと思ったから。
ゼロ課という課がどういった規律のもとに動いているのかはわからない。けど、この二日間、俺と秋兄に労を費やした事実は変わらない。
「またお会いできる日を楽しみにしています」
そんなふうに言って去っていったけど、
「……真っ平ごめんだ」
ゼロ課が絡むことなどそうそうないはずなのに、「また」だと?
「次があってたまるか――」
家に入ってシャワーを浴び、夕飯を済ませてから病院へ行くつもりだった。しかし、出かける間際に母さんが言いづらそうに声をかけてきた。
「お父様が庵でお待ちなの……」
じーさんが何……?
母さんの目は不安そうに揺れていた。
きっと、母さんは何も聞かされていない。知らないからこそ不安を感じているのだろう。
「わかった、寄っていく」
ゼロ課の存在を知った直後ということもあり、嫌な予感を胸に庵を訪ねると、
「来たか」
「……何」
「コーヒーでも飲むかの?」
「このあと用があるから早く済ませてほしいんだけど」
「つれぬのぉ……。まぁ時間はかからぬわ」
じーさんは髭をいじりながら言う。
「ゼロ課の存在を知ったとな」
今年八十八になるというのに、目に宿る眼光は一向に衰えない。
「それは即ち、秋斗と共に会長候補に挙がったということじゃ」
「は……? 意味がわからないんだけど。何がどうして俺?」
「会長、もしくは次期会長はひとりだけ推薦することができる」
「何それ、意味わからないし」
「意味などないわ。ただ、推薦することができる。それだけじゃ」
「じーさん、俺、医者以外になるつもりないんだけど」
「ふぉっふぉっふぉっ、涼の息子が何を言うか」
「父さんの息子というなら兄さんで十分だと思うけど?」
「そうじゃがの、それではつまらんぞい」
「俺はつまらなくて一向に構わない。むしろ、俺が巻き込まれることを回避できるなら兄さんを生贄に差し出す」
じーさんはおかしそうに笑った。
「そういうところが涼譲りなんじゃよ」
「……俺、そんなに父さんに似てる?」
「そっくりじゃ。ああ見えて、一番真白に近い性質を持っているのは湊じゃろうの」
「はっ!?」
「司は涼の血が濃い。それに、真白の天性の優しさが根底にある。人間としてバランスがいい気質じゃろう」
「どう担がれても会長なんて無理。っていうか、これから帝王学を学つもりもさらさらない」
「そんなことは危惧せんでも、司は秋斗に仕込まれとるじゃろう」
「は……? 身に覚えがないんだけどっ!?」
「いつか秋斗や静に訊くがよい。話は以上じゃ。お姫様のところへ行くんじゃろ? 早うせい」
呼び出した本人にそう言われて庵を追い出されるのだからたまらない。
心の整理がつかないまま自転車に跨り舗装された山道を走る。
陽が落ちた今はさほど暑くないはずなのに、緑山から帰った自分にはひどく暑く感じた。
時計を見れば七時半前。坂を下れば病院まではすぐだ。
ジーパンのポケットには長めのチェーンが入っている。
夕飯のとき、母さんに昨日から今日までのことを訊かれるのが面倒で、自分から話題を振った。
「あのさ、長いチェーン持ってない?」
「……この間のじゃだめだったの?」
「そうじゃない。……翠はすごく喜んでいたけど、指先が痛むらしくてつけ外しができないんだ」
「そうなのね……。じゃ、留め具をいじらなくてもつけ外しできる長さがいいのね」
逡巡していた母さんが、「あっ!」と立ち上がり部屋を出ていった。
満面の笑みで戻ってきた母さんに渡されたものは、シンプルな長いチェーンだった。
「涼さんのものなのだけど、きっと怒られることはないわ。素材はサージカルステンレスだからアレルギー体質の子でも大丈夫だと思うの」
なんでそんなものを父さんが……?
「仕事中はマリッジリングも邪魔になることがあると言われて、それでも身につけていてほしくてこれをプレゼントしたの」
すごく父さんらしい理由で、母さんらしい理由だ。
「でもね、最近になって指にはめてくれるようになったから、もう必要ないと思うの」
母さんはたかがそれだけのことをとても嬉しそうに話す。
きっとこれなら大丈夫だろう。でも、どうやって切り出すか……。
つけていなければ、適当にチェーンを替えてしまえばいい。
つけていたら……?
つけていてくれたら嬉しいけど、それをつけたり外したりするたびに痛い思いはさせたくない――
汗をかくこともなく病院に着き、警備室前をそのままスルーして歩みを進める。
エレベーターで九階へ上がると、ロビーに昇さんともうひとり知らない医師がいた。
きっとこの人が相馬医師なのだろう。
挨拶をしようとすれば、手で行った行った、と追いやられる。
「スイハが病室で待ってんだよ」
と、初対面にも関わらず追い払われた。
面食らった俺を笑いながら、昇さんが口を開く。
「そわそわしてるからさっさと行ってやれ」
この場にいるふたりに言われたらそうせざるを得ない。
俺は会釈して病室へと急いだ。
ナースセンターでは栞さんが申し訳なさそうに寄ってくる。
「昨日はごめんなさいね? 静兄様が何か急なお願いしたみたいで」
「うちの親族、そういう人間多いので慣れてます」
「そうね……。でも、ありがとう」
別段、栞さんに礼を言われるようなことはしていないわけだけど、詳細を知らない人間に話す必要もない。
病室を振り返ると、相変わらずドアは開けたままになっていた。
あまりの静かさにノックはせず病室を覗いてみる。と、翠はベッドの上で横になり、嬉しそうにとんぼ玉を眺めていた。
まるでそれしか目に入っていないような顔で、大切そうに愛でている。
そんな様を見て嬉しいと思う。でも――
「寝るときくらい外せ。危ないだろ?」
気づけばそんなことを口にしていた。
急に声をかけたからか、翠は驚いた表情で俺を見る。けれど、すぐに表情を改め「おかえりなさい」と口にしてくれた。
やっと見ることができた――曇りない満面の笑みを。しかも、首には俺のあげたとんぼ玉がぶら下がっていて、未だ翠の手中にある。
嬉しいものだな……。
「ただいま」
「なんか……すごい日焼けしたね? 肌真っ赤」
「……数日後には落ち着く」
「ツカサも赤くなって痛いだけで焼けない人?」
「そう」
「じゃ、私と同じ!」
無邪気に笑う翠を見ると、帰ってきた、という気になる。
「ツカサ、いいことあった?」
「……いいことというよりは、最悪なことだらけの気がするけど?」
いいことは今あったけど、そのほかは最悪なことだらけだ。
「だって、いつもよりも顔が優しく見えたよ?」
「それ、いつもは怖いって言いたいの?」
つい……つい、嫌みのようなことが口をついてしまう。
「怖いなんて言ってないよ。ただ、ツン、として見える……かな?」
それもどうなんだか……。
「ツカサ……?」
下から覗き見るように声をかけられた。
「それ、自分で外せる?」
「あ……ネックレスのこと?」
「そう」
身につけてくれているのは嬉しいと思う。けれど、それをつけたまま寝るのは良くない。
首に絡んで首が絞まったらどうするつもりだ……。
「……できない」
やっぱり……。
「そう。じゃ、外すから」
「やだっ」
翠はベッドの端まで逃げた。
「やだじゃない。こんなのつけたまま寝るな」
抵抗はされると思っていた。でも、首に手をかけた瞬間におとなしくなった。
取り外すと、さっきまでの笑顔はどこへやら……。
「不服そうな顔……」
翠は頬を膨らませる勢いでむくれている。
別に全部を取り上げるつもりで外したわけじゃない。だから、そんな顔するな……。
「これなら留め具をいじらなくても首にかけるだけでいいだろ?」
言いながら、長めのチェーンを翠に見せる。
「……ありがとう」
「素材はシルバーでも金でもなければプラチナでもなくステンレスだけど」
「ありがとうっ!」
翠は花が咲いたような笑顔になった。
翠の手が伸ばされると、俺は同じ要領でネックレスを遠ざける。
「ツカサ……?」
さて――
「交換条件とまいりましょう」
にこりと笑ってとんぼ玉を手中におさめると、とんぼ玉を掴み損ねた翠は怪訝な表情をする。
「交換条件って……?」
「あのさ、秋兄に会わない?」
「……え?」
「藤宮秋斗、俺の従兄に会わない?」
「会うよ……? だって、いつか静さんが連れてきてくれるのでしょう?」
「そのときじゃなくて……明日、秋兄に会わない?」
すごく悩んだ……。でも、俺も秋兄も、翠の知り合いなんだ。出逢ってないことにはできない。
今のままじゃ、歯車はうまく回らない。
時計と同じだ。直せるものなら直したほうがいいんだ。
俺の気持ち的な都合かもしれない。でも、秋兄をあのままにはしておけない。
自業自得だと言われようが、秋兄は自分の欲求を優先させて行動したわけじゃなかった。秋兄なりに翠のことを考えていた。ただ、それが裏目に出てしまっただけ。
翠は何も知らずに記憶を失った。そのときのことだけではなく、それまで築いてきたいくつもの出来事や気持ちの一切を。
人の財産は金や地位じゃないと思う。その人間が経験したすべてが財産なんだ。
だとしたら――翠はそれを失ったことになる。
それはちゃんと取り戻したほうがいい。
人は嬉しいだけ、幸せなことだけで人生が成り立っているわけじゃない。つらいことや悲しいこと、それら全部が揃って人生だったり思い出だったりする。
それは失ったままでいるべきじゃない――
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