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第十章 なくした宝物
23話
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秋斗さんに先を促され、その先――地獄のような日々を思い出す。
「両親が現場に戻ってからも痛みはひどくなるばかりで、蒼兄と唯兄が何度も病院へ連れて行ってくれました。病院では静脈注射を打たれて意識を手放すような処置しか受けられず、唯兄はひどく憤慨していたし、私は……これは長く続けられないから、そろそろペインクリニックのお世話になるのかな、と漠然と思っていました。痛みに対する苦痛と、次の治療に進む恐怖と、自分でもわかるほどに余裕がなくなっていく日々――自分が気づかないうちに大好きな人たちを傷つけるのが怖くて、すべてが怖くて、でも、もう痛みに耐えられる自信もなくて……。湊先生が毎日のように点滴をしに来てくれていたけれど、それすらも苦痛になっていました」
思い出して話すのもつらい。でも、秋斗さんもツカサも、このときの私が何を考えていたのかを知りたがっている。
それはのちの出来事につながるからだろうか……。
「それ、何日くらいの話?」
ツカサが手帳をちらりと見た。
「……たぶん、夏休みに入った翌週くらいかな」
このあたりは日にちの記憶が曖昧すぎる。
曜日感覚なんてものはとっくになくなっていたし、自分で日付を把握することはできず、いつも携帯を見て今日が何日で梅雨明けまであと何日――ぼんやりとカウントしながら過ごしていたのだ。
ツカサは何も言わず、私の手帳をじっと見ていた。
その頃の自分の身体の状態、精神状態、周りの人たちとの関係。それらをひとつ残らず話した。
お父さんに言わせてしまった言葉の数々も何もかも。
話が進むごとにふたりの手を握る力が強くなる。ふたりは同じくらいの強さで手を握り返してくれた。だから、最後まで話すことができたのだと思う。
「唯兄にやりすぎだって言われたけれど、どうなんだろう……」
少し口元が引きつる感じ。
同じように心にも引きつった部分があって、チクチクと痛む。
「残酷なことを凄惨な顔で言ったほうが私の気持ちは伝わったのかな……」
誰に回答を求めたわけでもない。けれども、ツカサがひとつの答えをくれた。
「心配している相手――大切な人間に拒絶された時点でどんな顔でどんなふうに話しても何も変わらないだろ」
「……そうだよね。私も、今ならわかるのにな……」
そのときは笑うという表情さえ維持できてるのなら大丈夫だと思っていたのだ。
思い出せば思い出すほどに、自分の愚かさを痛感するばかり。
オーバードーズなんて二度としない。薬をたくさん飲んだところで痛みが引くわけではないし、どんなに睡眠薬を飲んでも痛みが邪魔して決して眠ることはできなかった。
ただ、胃に負担をかけるだけの行為ならば、二度としない。
でも――あのときはとにかく楽になりたかったの。少しでもいいから眠らせてほしかった。痛みから解放されたかった。ただ、神経を休ませてほしかったの……。
だって、もうどのくらい寝ていないのもかわからなかったから。
「その日は昇さんが帰国する日で、湊先生も栞さんもいなかったはずなんです。でも……私は気づいたら病院にいました」
ツカサは小さく息を吐き出し、秋斗さんは困った人の顔で口を開く。
「今度は俺たちが話をする番だ。……翠葉ちゃん、君が俺を傷つけたのはこの日だよ。でも、この日のこれだけだから……」
始まる――ぽっかりと抜け落ちた、私の記憶の話が……。
「翠葉ちゃんが入院したのは七月二十七日。……そもそも、そんな精神状態の君のテリトリーに俺が土足で上がったのが悪かった。そういうことなんだ……。俺はこの日、湊ちゃんに説得を頼まれて翠葉ちゃんに会いにいった」
私の手帳には期末考査と終業式、あとは単位の都合上登校しなくてはいけなかった十三日に丸が付いているのみ。ほかは白紙――
それもそのはず……私はペンを持つこともできなかったのだから。
二十七日に入院したとなると、私が気づいたのは翌日の二十八日。その日が二十八日で水曜日だと教えてくれたのは藤原さんだっただろうか……。
「翠葉ちゃん、話すよ?」
「あ、ごめんなさい……」
「いいよ、これだけたくさんの情報が一気に流れ込むんだ。起きた事象と日付を照らし合わせるのも大変な作業だよね」
相馬先生の言ったとおりだ。
秋斗さんはどこまでも私の肩を持ち、擁護しかしない。
「俺はね、翠葉ちゃんが俺のことを少しでも好きならば、俺だけは側にいさせてくれるんじゃないかと思ってた。あまりにも安易に考えていたんだ。でも、実際にはそんな簡単なことじゃなかったんだな……。翠葉ちゃんの話を聞いて、改めて不覚だったというか……考えの浅はかさ加減に呆れる」
「それは違う」と言いたかったけれど、中途半端に開いた口は、何を発することもできないままに閉じた。
――「話の腰は折らないように」。
そうは思うけど、やっぱり違うのだ。
秋斗さんに私の気持ちなんてわかるはずがないし、あんなつらさをわかる必要もない。こんな痛みを知ろうとしてくれなくていい。
大切な人たちにあんな思いはしてほしくない。痛みを抱えるのは自分ひとりで十分だ――
「俺はあらかじめ翠葉ちゃんがどんな状態なのかは聞いていたんだ。少しでもおかしいと思ったら距離を置くように言われていた」
秋斗さんはほんの少しだけ左手に力をこめる。
「なのに、俺はその忠告も聞かずに近寄りすぎた。……踏み込みすぎたんだ」
それはいったい――
秋斗さんの眉尻は下がったままだけど、目は凛としている。さっきまで少し前かがみで猫背だったのに対し、今は背筋を伸ばし私を見ている。
「俺が幸倉に着いたとき、翠葉ちゃんは眠っていたんだ。俺は君が目覚めるのを待っていた。君の部屋で、君のすぐ側で……」
部屋の中がどんな状態で、誰がどこにいて――そんなことまで細かく教えてくれる。
蒼兄は二十五日からこっちへ帰って来ていたお母さんを迎えにマンションへ行っていたこと。唯兄が私についていたけれど、秋斗さんが来たということで二階で仮眠を取っていたこと。
「目が覚めた君は、枕元に携帯を伸ばそうとして、そのとき天蓋の外にいる俺に気づいたんだ。すごく驚いた顔をしていた。天蓋の中に入っていいか尋ねたらだめだって言われた。俺は自分まで蚊帳の外の人間になっちゃいけないと思ったし、普通に接したかったから、『お姫様はご機嫌斜め?』なんて言葉でごまかした。翠葉ちゃんは笑みを添えて答えてくれた。『お姫様はご機嫌斜めなので近づかないほうがいいですよ』って」
その光景が思い浮かばなくはない。
誰に対してもそんな態度を取っていた。別段、何かが変わったようには思えない。
「アンダンテのケーキやプリンを買ってきたから一緒に食べないか提案してみたら、若槻とふたりであっちで食べてくれって言われた。今考えれば、そうすることで君は人を遠ざけようとしていたんだね……。自分と人を守るために――でも、周りはそんなのわからないんだ」
「――誰にも側にいてほしくなかった。食べ物を食べろという人はみんな敵だと思っていたかも……。食べようとしても匂いにすら吐き気を感じていたし、何かを口にすることよりも、ただ休みたかったんです。痛みから逃れられるのは眠っているときだけだったから……」
「そうだよね……。でも、俺はそんなことも知らずにもっと踏み込んだ。天蓋越しなら手を握らせてほしいとか、髪に触れたいとか」
手がだめなら髪の毛――
でも、秋斗さんが来てくれたとき、果たしてどのくらいお風呂に入っていなかっただろうか。
時々、唯兄が頭の地肌をタオルで拭いてはくれていたけれど、とても衛生的な状態ではなかったはず……。
「……どんな状態の君でも俺は愛していると言える。そう伝えたかったんだけどね……」
言いながら、秋斗さんはそのあとの会話もひとつずつ丁寧に教えてくれた。
秋斗さんがなんと口にしたのか。私がなんと答えたのか。どんな表情でいたのかもすべて――
「俺はそこで引かなくちゃいけなかった。……でも、俺は踏み込んだ。天蓋の中へ」
チャレンジャーだな。そんな状態の私に近づこうとするなんて……。
これは私と秋斗さんの話なのに、まるで他人事のようにも思えた。
「好きな子がつらい思いをしているのなら、側にいたい。そう伝えたら、君は満面の笑みで俺を見た。心の中に入れたと思った。――そんな簡単なわけないのにね」
私を見ている秋斗さんの瞳が揺れた。それは「不安」に、だろうか。
「ハサミを取ってほしいと言われたんだ。俺は意味も理解せず、とても安易にハサミを取って渡した」
……ハ、サミ?
「文具用品のハサミ。カウンターに置かれたグラスに刺さっていた持ち手が青いスケルトンのハサミ」
それは私の部屋にあるハサミだった。
「なんでハサミが必要なのか、とは疑問に思った。……俺はその時点で気づくべきだったんだ」
秋斗さんは一度俯き、意思を固めたように顔を上げた。
「ハサミを渡したら、君は自分の髪の毛を切り落とした」
っ――!?
「左サイドの髪の毛を一束掴み、躊躇なく切り落とした。何が起きているのかわからなかった。止めることもできなかった。呆然としている俺に、君はその髪の毛を差し出し、それだけじゃ足りませんか、と訊いた。そして今度は右サイドの髪に手が伸びた。そこでようやく声を発することができたんだ。右の髪の毛は切らせずに済んだけど――」
秋斗さんは言葉に詰まって俯いた。
「部屋から出ていってほしい。もう来ないでほしい。そう言われて俺は部屋を出た」
……これが、私のしたこと――
だから私の髪の毛は不揃いだったのか、と理解する。
理解する、というよりは、現状と一致する。そんな感じ。
思い出す、という感覚には程遠い。
ハサミ――髪の毛を切る……。それらをきっかけに思い出したことがある。
それは唯兄との会話。
きっと、秋斗さんが部屋を出ていったあとの会話なのだろう。
勢いよく天蓋を開けられ、「何をしたっ!?」と詰め寄られた。けれども、見れば一目瞭然だったのだ。
唯兄との会話をすべて思い出し、静かに目を閉じる。涙を零さないよう、自分を落ち着けるために――
「両親が現場に戻ってからも痛みはひどくなるばかりで、蒼兄と唯兄が何度も病院へ連れて行ってくれました。病院では静脈注射を打たれて意識を手放すような処置しか受けられず、唯兄はひどく憤慨していたし、私は……これは長く続けられないから、そろそろペインクリニックのお世話になるのかな、と漠然と思っていました。痛みに対する苦痛と、次の治療に進む恐怖と、自分でもわかるほどに余裕がなくなっていく日々――自分が気づかないうちに大好きな人たちを傷つけるのが怖くて、すべてが怖くて、でも、もう痛みに耐えられる自信もなくて……。湊先生が毎日のように点滴をしに来てくれていたけれど、それすらも苦痛になっていました」
思い出して話すのもつらい。でも、秋斗さんもツカサも、このときの私が何を考えていたのかを知りたがっている。
それはのちの出来事につながるからだろうか……。
「それ、何日くらいの話?」
ツカサが手帳をちらりと見た。
「……たぶん、夏休みに入った翌週くらいかな」
このあたりは日にちの記憶が曖昧すぎる。
曜日感覚なんてものはとっくになくなっていたし、自分で日付を把握することはできず、いつも携帯を見て今日が何日で梅雨明けまであと何日――ぼんやりとカウントしながら過ごしていたのだ。
ツカサは何も言わず、私の手帳をじっと見ていた。
その頃の自分の身体の状態、精神状態、周りの人たちとの関係。それらをひとつ残らず話した。
お父さんに言わせてしまった言葉の数々も何もかも。
話が進むごとにふたりの手を握る力が強くなる。ふたりは同じくらいの強さで手を握り返してくれた。だから、最後まで話すことができたのだと思う。
「唯兄にやりすぎだって言われたけれど、どうなんだろう……」
少し口元が引きつる感じ。
同じように心にも引きつった部分があって、チクチクと痛む。
「残酷なことを凄惨な顔で言ったほうが私の気持ちは伝わったのかな……」
誰に回答を求めたわけでもない。けれども、ツカサがひとつの答えをくれた。
「心配している相手――大切な人間に拒絶された時点でどんな顔でどんなふうに話しても何も変わらないだろ」
「……そうだよね。私も、今ならわかるのにな……」
そのときは笑うという表情さえ維持できてるのなら大丈夫だと思っていたのだ。
思い出せば思い出すほどに、自分の愚かさを痛感するばかり。
オーバードーズなんて二度としない。薬をたくさん飲んだところで痛みが引くわけではないし、どんなに睡眠薬を飲んでも痛みが邪魔して決して眠ることはできなかった。
ただ、胃に負担をかけるだけの行為ならば、二度としない。
でも――あのときはとにかく楽になりたかったの。少しでもいいから眠らせてほしかった。痛みから解放されたかった。ただ、神経を休ませてほしかったの……。
だって、もうどのくらい寝ていないのもかわからなかったから。
「その日は昇さんが帰国する日で、湊先生も栞さんもいなかったはずなんです。でも……私は気づいたら病院にいました」
ツカサは小さく息を吐き出し、秋斗さんは困った人の顔で口を開く。
「今度は俺たちが話をする番だ。……翠葉ちゃん、君が俺を傷つけたのはこの日だよ。でも、この日のこれだけだから……」
始まる――ぽっかりと抜け落ちた、私の記憶の話が……。
「翠葉ちゃんが入院したのは七月二十七日。……そもそも、そんな精神状態の君のテリトリーに俺が土足で上がったのが悪かった。そういうことなんだ……。俺はこの日、湊ちゃんに説得を頼まれて翠葉ちゃんに会いにいった」
私の手帳には期末考査と終業式、あとは単位の都合上登校しなくてはいけなかった十三日に丸が付いているのみ。ほかは白紙――
それもそのはず……私はペンを持つこともできなかったのだから。
二十七日に入院したとなると、私が気づいたのは翌日の二十八日。その日が二十八日で水曜日だと教えてくれたのは藤原さんだっただろうか……。
「翠葉ちゃん、話すよ?」
「あ、ごめんなさい……」
「いいよ、これだけたくさんの情報が一気に流れ込むんだ。起きた事象と日付を照らし合わせるのも大変な作業だよね」
相馬先生の言ったとおりだ。
秋斗さんはどこまでも私の肩を持ち、擁護しかしない。
「俺はね、翠葉ちゃんが俺のことを少しでも好きならば、俺だけは側にいさせてくれるんじゃないかと思ってた。あまりにも安易に考えていたんだ。でも、実際にはそんな簡単なことじゃなかったんだな……。翠葉ちゃんの話を聞いて、改めて不覚だったというか……考えの浅はかさ加減に呆れる」
「それは違う」と言いたかったけれど、中途半端に開いた口は、何を発することもできないままに閉じた。
――「話の腰は折らないように」。
そうは思うけど、やっぱり違うのだ。
秋斗さんに私の気持ちなんてわかるはずがないし、あんなつらさをわかる必要もない。こんな痛みを知ろうとしてくれなくていい。
大切な人たちにあんな思いはしてほしくない。痛みを抱えるのは自分ひとりで十分だ――
「俺はあらかじめ翠葉ちゃんがどんな状態なのかは聞いていたんだ。少しでもおかしいと思ったら距離を置くように言われていた」
秋斗さんはほんの少しだけ左手に力をこめる。
「なのに、俺はその忠告も聞かずに近寄りすぎた。……踏み込みすぎたんだ」
それはいったい――
秋斗さんの眉尻は下がったままだけど、目は凛としている。さっきまで少し前かがみで猫背だったのに対し、今は背筋を伸ばし私を見ている。
「俺が幸倉に着いたとき、翠葉ちゃんは眠っていたんだ。俺は君が目覚めるのを待っていた。君の部屋で、君のすぐ側で……」
部屋の中がどんな状態で、誰がどこにいて――そんなことまで細かく教えてくれる。
蒼兄は二十五日からこっちへ帰って来ていたお母さんを迎えにマンションへ行っていたこと。唯兄が私についていたけれど、秋斗さんが来たということで二階で仮眠を取っていたこと。
「目が覚めた君は、枕元に携帯を伸ばそうとして、そのとき天蓋の外にいる俺に気づいたんだ。すごく驚いた顔をしていた。天蓋の中に入っていいか尋ねたらだめだって言われた。俺は自分まで蚊帳の外の人間になっちゃいけないと思ったし、普通に接したかったから、『お姫様はご機嫌斜め?』なんて言葉でごまかした。翠葉ちゃんは笑みを添えて答えてくれた。『お姫様はご機嫌斜めなので近づかないほうがいいですよ』って」
その光景が思い浮かばなくはない。
誰に対してもそんな態度を取っていた。別段、何かが変わったようには思えない。
「アンダンテのケーキやプリンを買ってきたから一緒に食べないか提案してみたら、若槻とふたりであっちで食べてくれって言われた。今考えれば、そうすることで君は人を遠ざけようとしていたんだね……。自分と人を守るために――でも、周りはそんなのわからないんだ」
「――誰にも側にいてほしくなかった。食べ物を食べろという人はみんな敵だと思っていたかも……。食べようとしても匂いにすら吐き気を感じていたし、何かを口にすることよりも、ただ休みたかったんです。痛みから逃れられるのは眠っているときだけだったから……」
「そうだよね……。でも、俺はそんなことも知らずにもっと踏み込んだ。天蓋越しなら手を握らせてほしいとか、髪に触れたいとか」
手がだめなら髪の毛――
でも、秋斗さんが来てくれたとき、果たしてどのくらいお風呂に入っていなかっただろうか。
時々、唯兄が頭の地肌をタオルで拭いてはくれていたけれど、とても衛生的な状態ではなかったはず……。
「……どんな状態の君でも俺は愛していると言える。そう伝えたかったんだけどね……」
言いながら、秋斗さんはそのあとの会話もひとつずつ丁寧に教えてくれた。
秋斗さんがなんと口にしたのか。私がなんと答えたのか。どんな表情でいたのかもすべて――
「俺はそこで引かなくちゃいけなかった。……でも、俺は踏み込んだ。天蓋の中へ」
チャレンジャーだな。そんな状態の私に近づこうとするなんて……。
これは私と秋斗さんの話なのに、まるで他人事のようにも思えた。
「好きな子がつらい思いをしているのなら、側にいたい。そう伝えたら、君は満面の笑みで俺を見た。心の中に入れたと思った。――そんな簡単なわけないのにね」
私を見ている秋斗さんの瞳が揺れた。それは「不安」に、だろうか。
「ハサミを取ってほしいと言われたんだ。俺は意味も理解せず、とても安易にハサミを取って渡した」
……ハ、サミ?
「文具用品のハサミ。カウンターに置かれたグラスに刺さっていた持ち手が青いスケルトンのハサミ」
それは私の部屋にあるハサミだった。
「なんでハサミが必要なのか、とは疑問に思った。……俺はその時点で気づくべきだったんだ」
秋斗さんは一度俯き、意思を固めたように顔を上げた。
「ハサミを渡したら、君は自分の髪の毛を切り落とした」
っ――!?
「左サイドの髪の毛を一束掴み、躊躇なく切り落とした。何が起きているのかわからなかった。止めることもできなかった。呆然としている俺に、君はその髪の毛を差し出し、それだけじゃ足りませんか、と訊いた。そして今度は右サイドの髪に手が伸びた。そこでようやく声を発することができたんだ。右の髪の毛は切らせずに済んだけど――」
秋斗さんは言葉に詰まって俯いた。
「部屋から出ていってほしい。もう来ないでほしい。そう言われて俺は部屋を出た」
……これが、私のしたこと――
だから私の髪の毛は不揃いだったのか、と理解する。
理解する、というよりは、現状と一致する。そんな感じ。
思い出す、という感覚には程遠い。
ハサミ――髪の毛を切る……。それらをきっかけに思い出したことがある。
それは唯兄との会話。
きっと、秋斗さんが部屋を出ていったあとの会話なのだろう。
勢いよく天蓋を開けられ、「何をしたっ!?」と詰め寄られた。けれども、見れば一目瞭然だったのだ。
唯兄との会話をすべて思い出し、静かに目を閉じる。涙を零さないよう、自分を落ち着けるために――
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