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第十章 なくした宝物
02話
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昼食も全部食べることはできなかった。
ご飯を残すたびに、高カロリー輸液の存在を強く感じる。透明な液体を見ながら、「私のライフラインなんだな」と再認識すると同時に、「食べなくちゃ」という強迫観念に駆られる。
食べなくちゃ、と思うのに身体が受け付けない。どれだけ咀嚼しても飲み下せない。
こういうことが続くと、どうしてもご飯の時間が迫ってくるにつれ憂鬱になる。
藤原さんが完食できなかったトレイを手に持つと、
「少し休んだら?」
「……はい」
「御園生さんもがんばっているけど、遠くでは友達もがんばってるんじゃない?」
藤原さんはそう言い残して病室を出ていった。
「ツカサと佐野くん……」
勝ち進めば連日試合となるのだろう。
蒼兄のインターハイのときは毎日見にいっていたわけではなく、決勝戦だけを見にいった。だから、それまでの過酷な過程は目にしていないけれど、幼いながらに場の張り詰めた緊張を肌で感じ、ぞくりとした記憶はある。
試合に出ている人たちはその渦中にいるわけで、いったいどれほどのプレッシャーと闘っているのかを考えるだけでも身が震える思いがした。
たくさんの人を勝ち抜いて得た切符。そこにはたくさんの人の思いが、期待が膨れ上がって圧し掛かっているのだろう。
私は――私はただ、自分の身体と闘うだけで、誰かの期待があるわけでも重圧があるわけでもない。がんばっている、という言葉は同じでも、意味合いは全然違うものに思えた。
「がんばってね……大丈夫だから――」
携帯を手にぼんやりと口にする。
電話やメール、色々あるけれど、思うことしかできなかった。
すでに、これ以上ないくらいがんばっている人たちに言う「がんばれ」ほど過酷なものはないような気がして、必要以上に口にできない。
それでも、ツカサはその言葉を欲した。そこにはどんな意味が、思いがあったのかな。
ツカサはぶっきらぼうで無愛想でちょっと意地悪。表情も読みづらくてわかりづらい人だけれど、嘘はつかない人だと思う。そんな人が欲した言葉――
私の言葉は、最後の重圧になりはしなかったのだろうか。
「でも、ありがとうって言われた……」
言って良かったのかな、と思えた。
色々ぐるぐる考えていると、気づけば携帯を耳に当てているわけで……。
何度も聞いた声と言葉。言葉、といっても一から十までの数ばかり。全部で十七回も言ってくれている。
そういえば、一から十までの数にはどんな意味があるのだろう。どうして、一から十までの数だったのかな。
ほかの言葉ではなく数――
強いて言うならば、ツカサのように「大丈夫だからがんばって」という言葉ではなく、単調なまでの一から十までの数。この録音データを聞いている分には、その数だけに意味があって、ほかの言葉にはなんの意味もない会話に思えた。
私はなんのために数を数えてもらったのだろう。ツカサは一から十までの数の意味を知っているのだろうか……。
「たぶん、知ってる……」
だから、自分の携帯に録音されていないのはずるいと言ったのだろう。
ツカサ、訊きたいことがたくさんある。早く、会いたい――
相馬先生は怖いし、ツカサがいてくれたらいいのに。楓先生は来てくれるのだろうか。
藤原さんはいつまでいてくれるのかな。もう、すぐにでもいなくなってしまうのだろうか。
相馬先生と昇さんが並ぶと、昇さんに感じていた怖さなんてどこかへ飛んでいってしまうくらいだ。それくらい相馬先生の纏う雰囲気は異質なものに感じ、私が今まで会ったことのない人だった。
ただ、ひたすらに怖い。
自分が男の人に慣れていないのはわかっているつもり。でも、高校に入ってからはずいぶんと克服して――
「あれ? 克服といっても、海斗くんと佐野くんのふたりだけだよね?」
――違う、そこにツカサと藤宮秋斗さんという人も加わるのだ。
「克服した」と思える程度には、私はふたりに気を許していたのかもしれない。どうしてそんな人たちを忘れなくちゃいけなかったのか……。
考えはいつもそこにたどり着き、堂々巡りが始まる。こうなると延々とループするばかりで負のスパイラルへようこそ状態。
「……寝よう」
藤原さんに言われたとおり、寝てしまおう。
痛みはあるけどまだ大丈夫……。このくらいならきっと眠れる。むしろ、思考のひとり歩きが邪魔して眠れないことのほうがあり得そうで怖い。
「寝るっ。寝るんだからっ」
羊でも数えようかな、と思えば、私はやっぱり携帯を耳に当てるのだ。ほかの何でもなく、ツカサの声を聞くために――
どのくらい経ったころか、痛みで目が覚めた。
薄っすらと目を開けると、視界に映ったのは人の膝とお腹……。
「……唯兄?」
体型から唯兄と判断し声を発すると、
「おはよ」
「……ひとり?」
「いんや、今日はあんちゃんと碧さんも一緒。ふたりは今新しい先生と話してる」
「唯兄は……?」
「俺? 俺は一緒に挨拶して早々に離脱。だって、あのセンセ怖そうなんだもん」
身体は痛いのに、笑みが漏れる。
「私も、私も怖いって思った」
「なんかさ、蛇に睨まれた気分になる」
唯兄が真面目に答えるから余計におかしかった。
「で? 痛みはどのくらい?」
「え……?」
「目、覚ます少し前から眉間にしわが寄ってたし、奥歯に力入れてるのわかってた」
「……まいったな。唯兄は本当になんでもお見通しで困っちゃう」
「えっへん! リィ観察魔と呼んでくれたまえ」
「唯兄、今日はなんだかテンションが高くないですか?」
「んー、一日一膳したからかな?」
何それ……。
腕を組んで天井を見上げている唯兄に視線を投げると、
「幸倉の駅で人助けしてきた」
「……蒼兄たちと一緒じゃなかったの?」
「俺は午後一で本社で打ち合わせがあったから、蔵元さんのとこに寄ってから来た」
なるほど……。
こういう話をすると、唯兄が社会人であることを再認識する。
唯兄は「因みに」とバッグの中からデジカメを取り出した。
「じゃーん!」
見せられた画像は落ち着いた感じのする男の人だった。
「……誰?」
「蔵元さん」
「あ、蔵元森さん?」
「そう。何か思い出せそう?」
「ごめんなさい……」
身体は痛くても身体を起こせないほどではなく、コントローラーでベッドを少し起こしてお水をもらった。
「次のファイルは動画で音声付きなんだけど……どうする?」
どうするって……。
「見せてくれるために撮ってきたんじゃないの?」
「そうだけど……こっちには秋斗さんも映ってる」
え……。
「ふたりが黙々と仕事してるところと、蔵元さんからのメッセージ付き」
「……お仕事?」
「そう、藤宮警備本社の一室。俺たちは開発に携わってるから、外で警備員とかわかりやすい仕事はしてないんだけどね」
でも、誰かが仕事をしているところなんてそうそう見られるものではない。
「見たいっ」
「お、食いつきいいね!」
唯兄はすぐに動画を再生してくれた。
最初のうちは男の人ふたりが資料を手に、仕事の話をしているだけだった。
『唯、遊んでないでいい加減手伝えっ』
蔵元さんがカメラを見た。
『ただいまリィへのお土産製作中につき、無理です』
なんともひどい受け答えだ。仮にも蔵元さんは上司だろうに……。
『え……?』
蔵元さんの向こう側で藤宮秋斗さんが顔を上げた。
……楓先生に似てる。
藤宮秋斗さんは表情を固まらせ、すぐに資料へと視線を落とした。
『翠葉お嬢様にお見せするのか?』
そう訊いたのは蔵元さん。
『うん、知ってるはずなのに知らない人がいるのは気持ちが悪いって気になってるみたいだから』
『そうか……秋斗様、何か仰られてはいかがですか?』
蔵元さんがとても丁寧な言葉遣いで藤宮秋斗さんに声をかけた。
そういえば……藤宮秋斗さんのほうが上司なんだっけ。
『いや――』
藤宮秋斗さんは少し黙り、カメラのレンズを見据えたときには、「そのうちお見舞いに行くからね」と寂しそうな笑顔で口にした。
そしてすぐに席を立ち、
『俺は奥で仕事してるから』
と、フレームアウトする。
『あーあ、行っちゃった』
『唯は急すぎるんだ、ばか者っ』
蔵元さんのスーツが画面いっぱいに映ったかと思えば、画面がぐらりと揺れた。
「痛っ」と唯兄の声が聞こえる。
「あ、このときゲンコツが降ってきたの」
唯兄が説明をしてくれる。
『じゃぁさ、蔵元さんも何かメッセージっ!』
懲りない人、というのはこういうことを言うのだろうか。
『俺、お嬢様にお会いしたの数回だし、まともに話したことなんて数え切れるぐらいだけど?』
妙に慌てている様から、それが本当なのだろうと思う。
『……まずは自己紹介からでしょうか』
カメラを向いては口調が改まる。
きっとその様子を見て、だろう。唯兄のクスクスと笑う声まで入っていた。
『蔵元森です。藤宮警備システム開発第一課所属、秋斗様の秘書を務めております。翠葉お嬢様とは何度かお会いした程度で、込み入った話などはしたことがございません。……早く退院できるとよろしいですね。お嬢様がリメラルドとしてご活躍される際には、私たちも微力ながら警護に携わることになりますので、お顔見知りくださいますようお願い申し上げます』
深々と腰を折られて、動画だとわかっていてもその前で自分も頭を下げてしまう。
『蔵元さーん、リィは十七歳なんだけど……。そんな堅っ苦しい文章並べてどうすんの?』
うわ……唯兄、蔵元さんが藤宮秋斗さんに接する態度と雲泥の差だよっ!? それで大丈夫なのっ!?
『わかってるんだけどさ、なんて言葉をかけたらいいのかわからないんだよ。俺の周りで一番若いのって唯だしさ。司様には何度もお会いしているものの、ああいう方だしね』
『でも、そんなんじゃ次に会うとき、リィがカチンコチンになっちゃうよ』
それは言えてる……。
『そうか……』
『じゃ、テイクツー』
えええええっっっ!? お仕事中に申し訳ないよっ。
けれども蔵元さんはネクタイをきゅ、と締め直し、テイクツーを撮られる気満々だ。
『蔵元森です。翠葉お嬢様が早く元気になられますように、てるてる坊主――は作らないよな?』
と、顎を掴んで考え込んでしまう。
『くくくっ、何それっ! てるてる坊主にお願いって天気じゃないんだからさ。はーい、カットカット』
カットカット、とは言うものの、動画が止まる気配はない。
『じゃ、シンプルにっ』
蔵元さんは再度ビシ、と佇まいを直す。
『蔵元森です。お加減が少しよろしくなられてからお見舞いにまいります。少し、何もかも横に置いて治療に専念されてください』
『はい、オッケーイ! いいもの撮れた!』
『おまえ、それちゃんと編集してから見せるんだろうな?』
『え? このまま全部見せるよ? あったりまえでしょ! こんな面白いもの独り占めしたら罰が当たっちゃうもん。じゃ、お先に失礼しまーす!』
そこで撮影は終了。
「蔵元さんってさ、普段は硬派とか堅物とか言われてるんだけど、いじると意外と面白いんだよ」
唯兄は思い出したかのように笑う。
「健康祈願にてるてる坊主はないよね? 俺、カメラ落とすかと思った」
それは確かに。
てるてる坊主、と口にしてから考え込んでしまった蔵元さんを思い出し、笑ってはいけないと思いつつも笑ってしまう。
そんな話をしているところへ、お母さんと蒼兄、それから相馬先生がやってきた。
ご飯を残すたびに、高カロリー輸液の存在を強く感じる。透明な液体を見ながら、「私のライフラインなんだな」と再認識すると同時に、「食べなくちゃ」という強迫観念に駆られる。
食べなくちゃ、と思うのに身体が受け付けない。どれだけ咀嚼しても飲み下せない。
こういうことが続くと、どうしてもご飯の時間が迫ってくるにつれ憂鬱になる。
藤原さんが完食できなかったトレイを手に持つと、
「少し休んだら?」
「……はい」
「御園生さんもがんばっているけど、遠くでは友達もがんばってるんじゃない?」
藤原さんはそう言い残して病室を出ていった。
「ツカサと佐野くん……」
勝ち進めば連日試合となるのだろう。
蒼兄のインターハイのときは毎日見にいっていたわけではなく、決勝戦だけを見にいった。だから、それまでの過酷な過程は目にしていないけれど、幼いながらに場の張り詰めた緊張を肌で感じ、ぞくりとした記憶はある。
試合に出ている人たちはその渦中にいるわけで、いったいどれほどのプレッシャーと闘っているのかを考えるだけでも身が震える思いがした。
たくさんの人を勝ち抜いて得た切符。そこにはたくさんの人の思いが、期待が膨れ上がって圧し掛かっているのだろう。
私は――私はただ、自分の身体と闘うだけで、誰かの期待があるわけでも重圧があるわけでもない。がんばっている、という言葉は同じでも、意味合いは全然違うものに思えた。
「がんばってね……大丈夫だから――」
携帯を手にぼんやりと口にする。
電話やメール、色々あるけれど、思うことしかできなかった。
すでに、これ以上ないくらいがんばっている人たちに言う「がんばれ」ほど過酷なものはないような気がして、必要以上に口にできない。
それでも、ツカサはその言葉を欲した。そこにはどんな意味が、思いがあったのかな。
ツカサはぶっきらぼうで無愛想でちょっと意地悪。表情も読みづらくてわかりづらい人だけれど、嘘はつかない人だと思う。そんな人が欲した言葉――
私の言葉は、最後の重圧になりはしなかったのだろうか。
「でも、ありがとうって言われた……」
言って良かったのかな、と思えた。
色々ぐるぐる考えていると、気づけば携帯を耳に当てているわけで……。
何度も聞いた声と言葉。言葉、といっても一から十までの数ばかり。全部で十七回も言ってくれている。
そういえば、一から十までの数にはどんな意味があるのだろう。どうして、一から十までの数だったのかな。
ほかの言葉ではなく数――
強いて言うならば、ツカサのように「大丈夫だからがんばって」という言葉ではなく、単調なまでの一から十までの数。この録音データを聞いている分には、その数だけに意味があって、ほかの言葉にはなんの意味もない会話に思えた。
私はなんのために数を数えてもらったのだろう。ツカサは一から十までの数の意味を知っているのだろうか……。
「たぶん、知ってる……」
だから、自分の携帯に録音されていないのはずるいと言ったのだろう。
ツカサ、訊きたいことがたくさんある。早く、会いたい――
相馬先生は怖いし、ツカサがいてくれたらいいのに。楓先生は来てくれるのだろうか。
藤原さんはいつまでいてくれるのかな。もう、すぐにでもいなくなってしまうのだろうか。
相馬先生と昇さんが並ぶと、昇さんに感じていた怖さなんてどこかへ飛んでいってしまうくらいだ。それくらい相馬先生の纏う雰囲気は異質なものに感じ、私が今まで会ったことのない人だった。
ただ、ひたすらに怖い。
自分が男の人に慣れていないのはわかっているつもり。でも、高校に入ってからはずいぶんと克服して――
「あれ? 克服といっても、海斗くんと佐野くんのふたりだけだよね?」
――違う、そこにツカサと藤宮秋斗さんという人も加わるのだ。
「克服した」と思える程度には、私はふたりに気を許していたのかもしれない。どうしてそんな人たちを忘れなくちゃいけなかったのか……。
考えはいつもそこにたどり着き、堂々巡りが始まる。こうなると延々とループするばかりで負のスパイラルへようこそ状態。
「……寝よう」
藤原さんに言われたとおり、寝てしまおう。
痛みはあるけどまだ大丈夫……。このくらいならきっと眠れる。むしろ、思考のひとり歩きが邪魔して眠れないことのほうがあり得そうで怖い。
「寝るっ。寝るんだからっ」
羊でも数えようかな、と思えば、私はやっぱり携帯を耳に当てるのだ。ほかの何でもなく、ツカサの声を聞くために――
どのくらい経ったころか、痛みで目が覚めた。
薄っすらと目を開けると、視界に映ったのは人の膝とお腹……。
「……唯兄?」
体型から唯兄と判断し声を発すると、
「おはよ」
「……ひとり?」
「いんや、今日はあんちゃんと碧さんも一緒。ふたりは今新しい先生と話してる」
「唯兄は……?」
「俺? 俺は一緒に挨拶して早々に離脱。だって、あのセンセ怖そうなんだもん」
身体は痛いのに、笑みが漏れる。
「私も、私も怖いって思った」
「なんかさ、蛇に睨まれた気分になる」
唯兄が真面目に答えるから余計におかしかった。
「で? 痛みはどのくらい?」
「え……?」
「目、覚ます少し前から眉間にしわが寄ってたし、奥歯に力入れてるのわかってた」
「……まいったな。唯兄は本当になんでもお見通しで困っちゃう」
「えっへん! リィ観察魔と呼んでくれたまえ」
「唯兄、今日はなんだかテンションが高くないですか?」
「んー、一日一膳したからかな?」
何それ……。
腕を組んで天井を見上げている唯兄に視線を投げると、
「幸倉の駅で人助けしてきた」
「……蒼兄たちと一緒じゃなかったの?」
「俺は午後一で本社で打ち合わせがあったから、蔵元さんのとこに寄ってから来た」
なるほど……。
こういう話をすると、唯兄が社会人であることを再認識する。
唯兄は「因みに」とバッグの中からデジカメを取り出した。
「じゃーん!」
見せられた画像は落ち着いた感じのする男の人だった。
「……誰?」
「蔵元さん」
「あ、蔵元森さん?」
「そう。何か思い出せそう?」
「ごめんなさい……」
身体は痛くても身体を起こせないほどではなく、コントローラーでベッドを少し起こしてお水をもらった。
「次のファイルは動画で音声付きなんだけど……どうする?」
どうするって……。
「見せてくれるために撮ってきたんじゃないの?」
「そうだけど……こっちには秋斗さんも映ってる」
え……。
「ふたりが黙々と仕事してるところと、蔵元さんからのメッセージ付き」
「……お仕事?」
「そう、藤宮警備本社の一室。俺たちは開発に携わってるから、外で警備員とかわかりやすい仕事はしてないんだけどね」
でも、誰かが仕事をしているところなんてそうそう見られるものではない。
「見たいっ」
「お、食いつきいいね!」
唯兄はすぐに動画を再生してくれた。
最初のうちは男の人ふたりが資料を手に、仕事の話をしているだけだった。
『唯、遊んでないでいい加減手伝えっ』
蔵元さんがカメラを見た。
『ただいまリィへのお土産製作中につき、無理です』
なんともひどい受け答えだ。仮にも蔵元さんは上司だろうに……。
『え……?』
蔵元さんの向こう側で藤宮秋斗さんが顔を上げた。
……楓先生に似てる。
藤宮秋斗さんは表情を固まらせ、すぐに資料へと視線を落とした。
『翠葉お嬢様にお見せするのか?』
そう訊いたのは蔵元さん。
『うん、知ってるはずなのに知らない人がいるのは気持ちが悪いって気になってるみたいだから』
『そうか……秋斗様、何か仰られてはいかがですか?』
蔵元さんがとても丁寧な言葉遣いで藤宮秋斗さんに声をかけた。
そういえば……藤宮秋斗さんのほうが上司なんだっけ。
『いや――』
藤宮秋斗さんは少し黙り、カメラのレンズを見据えたときには、「そのうちお見舞いに行くからね」と寂しそうな笑顔で口にした。
そしてすぐに席を立ち、
『俺は奥で仕事してるから』
と、フレームアウトする。
『あーあ、行っちゃった』
『唯は急すぎるんだ、ばか者っ』
蔵元さんのスーツが画面いっぱいに映ったかと思えば、画面がぐらりと揺れた。
「痛っ」と唯兄の声が聞こえる。
「あ、このときゲンコツが降ってきたの」
唯兄が説明をしてくれる。
『じゃぁさ、蔵元さんも何かメッセージっ!』
懲りない人、というのはこういうことを言うのだろうか。
『俺、お嬢様にお会いしたの数回だし、まともに話したことなんて数え切れるぐらいだけど?』
妙に慌てている様から、それが本当なのだろうと思う。
『……まずは自己紹介からでしょうか』
カメラを向いては口調が改まる。
きっとその様子を見て、だろう。唯兄のクスクスと笑う声まで入っていた。
『蔵元森です。藤宮警備システム開発第一課所属、秋斗様の秘書を務めております。翠葉お嬢様とは何度かお会いした程度で、込み入った話などはしたことがございません。……早く退院できるとよろしいですね。お嬢様がリメラルドとしてご活躍される際には、私たちも微力ながら警護に携わることになりますので、お顔見知りくださいますようお願い申し上げます』
深々と腰を折られて、動画だとわかっていてもその前で自分も頭を下げてしまう。
『蔵元さーん、リィは十七歳なんだけど……。そんな堅っ苦しい文章並べてどうすんの?』
うわ……唯兄、蔵元さんが藤宮秋斗さんに接する態度と雲泥の差だよっ!? それで大丈夫なのっ!?
『わかってるんだけどさ、なんて言葉をかけたらいいのかわからないんだよ。俺の周りで一番若いのって唯だしさ。司様には何度もお会いしているものの、ああいう方だしね』
『でも、そんなんじゃ次に会うとき、リィがカチンコチンになっちゃうよ』
それは言えてる……。
『そうか……』
『じゃ、テイクツー』
えええええっっっ!? お仕事中に申し訳ないよっ。
けれども蔵元さんはネクタイをきゅ、と締め直し、テイクツーを撮られる気満々だ。
『蔵元森です。翠葉お嬢様が早く元気になられますように、てるてる坊主――は作らないよな?』
と、顎を掴んで考え込んでしまう。
『くくくっ、何それっ! てるてる坊主にお願いって天気じゃないんだからさ。はーい、カットカット』
カットカット、とは言うものの、動画が止まる気配はない。
『じゃ、シンプルにっ』
蔵元さんは再度ビシ、と佇まいを直す。
『蔵元森です。お加減が少しよろしくなられてからお見舞いにまいります。少し、何もかも横に置いて治療に専念されてください』
『はい、オッケーイ! いいもの撮れた!』
『おまえ、それちゃんと編集してから見せるんだろうな?』
『え? このまま全部見せるよ? あったりまえでしょ! こんな面白いもの独り占めしたら罰が当たっちゃうもん。じゃ、お先に失礼しまーす!』
そこで撮影は終了。
「蔵元さんってさ、普段は硬派とか堅物とか言われてるんだけど、いじると意外と面白いんだよ」
唯兄は思い出したかのように笑う。
「健康祈願にてるてる坊主はないよね? 俺、カメラ落とすかと思った」
それは確かに。
てるてる坊主、と口にしてから考え込んでしまった蔵元さんを思い出し、笑ってはいけないと思いつつも笑ってしまう。
そんな話をしているところへ、お母さんと蒼兄、それから相馬先生がやってきた。
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