光のもとで1

葉野りるは

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26~28 Side 司 01話

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 あれから毎日、午前二時間は秋兄の指導を受けていた。
 意外に思われるかもしれないが、秋兄はきれいさっぱり弓道をやめたわけではない。今でも人知れず、この弓道場を使っていることを俺は知っている。
 たとえば、授業中の生徒がいない時間帯や午後練が終わり生徒がいなくなったころ、そんな時間を見計らって道場へやってくる。
 図書棟の仕事部屋に道場の鍵があることは、ずいぶん前に気づいていた。
 着替えるわけでも弓を持つわけでもない。ただ、淡々と射法八節を繰り返す。とても丁寧に何度も何度も。
 射法八節だけなら道場じゃなくてもできる。でも、道場へ来ることに意味があったのだろう。
 道場は弓道場に関わらず、どこでも気が引き締まる思いがするものだから。

 練習を終え、身体中を濡れたタオルで拭きサッパリとする。
 ケンが頭を丸ごと水をかぶっているのを見て、とても気持ち良さそうに見えた。
 水に濡らしたあとは、犬のようにブルブル、と頭を振る。
「それ、犬みたいだけど」
「なんとでも言ってくれっ! 部活後のこれだけは譲れねぇっ!」
 本当に気持ち良さそうに言うから、つい真似をした。
 そのときの、ぎょっとしたケンの顔がまた面白かった。
 頭から水をかぶってみて、確かに気持ちがいいかもしれない、と思う。さすがにケンのように頭を振る気にはならず、タオルで水気を拭くに留めたけど。
 制服に着替え、窓際に座り外から入ってくる風を感じていた。
 今日も暑いことは暑いが、湿度が低いようでカラッとしている。しばらくここにいれば髪も乾くだろう。
「なぁ、司」
 ケンに声をかけられ部室内に目をやる。
「お姫さん大丈夫なの?」
 ケンが何を知っているというのか……。
「美乃里が心配してた。どうやら理美から聞いたみたいでさ、テスト明けからずっと休んでて終業式も来なかったって。……おまえが昼の休憩に外出するのって病院じゃねぇの?」
 笹野妹経由の情報か――
「大丈夫とか大丈夫じゃないとか、俺が言えることじゃない」
「……冷てぇなぁ。おまえ、あのお姫さん好きなんだろ?」
 どいつもこいつも……気づかなくていいやつが気づいて、なんで翠だけが気づかない?
「けど、あのお姫さん気づいてないよな? ある意味すごくね?」
 すごいというより、
「ただ単に鈍いだけ。底抜けに――」
「くっ、おっもしれー! 司がそんなふうに感情見せるのって珍しいよな!」
 ……なんとでも言え。
「確かにかわいいと思うけどさ、どこに惚れたの?」
 どこ――?
「何それ……」
 質問の意味がわからなかったわけじゃない。けど、訊き返さずにはいられなかった。
「え? 普通ねぇ? 顔が好みとか仕草がかわいいとか、性格が合うとか話してて楽しいとか」
 言われたことをひとつひとつ反芻するも、よくわからない。
 性格が合うか、と問われたら正反対な気がするし、仕草がかわいいっていうのは小動物っぽいっていうことか? 話していて楽しいと思うよりは、落ち着く。たまに変な思考回路を披露されて驚かされる。それよりも、何を考えているのか、自分の言葉をどう受け止めたのかが知りたくて――そうだ、俺は何が好きというよりは、ただ翠を知りたいと思う。
 人に対してそう思うこと事体が初めてだった。
「そこまで悩む問題か?」
「……どこが、って言えない」
 仕方なしにそう答えれば、
「おい、司。それは全部って言ってるんだよな? おまえ、意外と臆面ない男だったのな……」
 ケンは呆気にとられたふうで、「じゃ、俺先に上がるわ」と部室の施錠を頼まれた。
「臆面ない男――? 誰が……」
 どこが、と言えないだけでどうして全部になるのかも不明だった。
「ケン、言葉が足りない……」
 しばらくはケンが出ていった戸口に目を向けていたものの、吹き込んだ風がきっかけとなり外へ視線を移す。
「……感情を言葉にするのは難しいな」

 ある程度髪が乾くと病院へ向かった。
 学校から病院までの道のりはなだからな下り坂ということもあり、心行くまで風を感じることができる。
 風のおかげで髪はすっかり乾いたはずなのに、病院に着くころには新たに汗をかいていた。
 自転車を停めると、いつものように正面玄関で汗を引かせてから九階へ上がる。
 ナースセンターに藤原さんはおらず、病室かと思えばそこももぬけの殻だった。
 点滴スタンドに輸液がぶら下がっているところからすると、風呂の時間なのかもしれない。
 暑くも寒くもない部屋で、俺はソファに横になった。
 日々の疲れがたまってきている気はしていた。
 明日、整体へ行こうと思いつつ身体を横にすれば、俺はすぐに眠りに落ちた。


「きゃっ……」
 翠の声がやけに近くで聞こえたかと思えば、直後に翠が降ってきた。
「っ……翠っ!?」
「……ごめんなさいっ」
 俺の首と肩の間に顔を突っ込んだまま口にする。
 何がどうしてこうなっているのか――
 左手は、点滴が刺さっていることから、身体を支えることはできなかったのかもしれない。右手は――手をつこうとしたが手遅れだった、というところだろうか。その手は俺の胸の上で所在なさ気にしている。
「……いいけど、早く起きてくれる?」
 こういう密着は勘弁願いたい……。
 今、翠の体重の大半が俺の胸の上にあった。
 翠は、「うん」と答えたものの、自分の重心がどこにあるのかもわからないようで、手をどこにつこうかと考えあぐねていた。
 手探りで身体を起こそうとしている翠からは、ふわりとハーブのような香りがする。
 シャンプーの香り……?
 思わず、サラリと動く髪に釘付けになった。その合間から見えた翠の視線と自分の視線が絡む。
 途端、翠が左手で胸を押さえた。
「痛み……? 今、胸打った?」
 俺はすぐに上体を起こし、翠の顔を見ようとした。でも、翠は「違う」と答えて俯いてしまう。
 顔が見えない……。
「翠?」
 改めて名前を呼んだ直後、
「御園生さん?」
 藤原さんが病室の入り口から翠に声をかけた。
「はいっ」
 今まで見たことがないくらい機敏な反応を見せた翠は、俺に背を向け藤原さんの方を向く。
 髪が宙に弧を描く。その様に目が奪われた。
 ――短い?
「……問題なさそうね?」
 藤原さんの声に我を取り戻す。
 翠はその言葉にコクコクと頭を縦に振り、そのすぐあとにフルフル、と頭を横に振った。
 いったいどっちなんだか……。
「翠?」
 俺が声をかけると、驚いたのか身体がビクリ、と跳ねる。
 普通の声量で話しかけただけなんだけど……。
「……御園生さん、日に焼けたかしらね?」
 藤原さんは翠に近づくと、翠の頬に手を添えた。
「今日、屋上に行ったときかしら」
 あぁ、何? 日中の暑いさなか、屋上なんて日焼けする場所に行ったわけ?
「やっぱり、熱を持ってるわね。冷却材を持ってくるわ」
 藤原さんは踵を返し、病室を出ていった。
 熱を持ってて冷却材が必要ってどのくらい焼けたんだか……。
「翠……?」
 自分でも確かめるべく声をかけるものの、翠はなかなかこちらを向かない。
 ようやくこちらを向いたときには、俺が唖然とするほど赤かった。
 見事すぎるほどに首まで赤い。
 これ、痛くないのか……?
「……すごい赤いけど、そんな長時間外にいたわけ?」
「……えと、どのくらいいたかはちょっとわからないかも」
 わからないって……わからないほど長時間いたのかよ……。
「バカ……すごい赤い」
 白い肌が台無し……。
 もう少し文句が言いたくて口を開こうとすると、
「ツカサ、起こしてごめん……」
 本当に申し訳なさそうに謝られた。
 別に横になるだけの予定が寝てしまっただけで、起こされて怒るつもりはないけど……。
「あぁ、これ、ありがと」
 自分にかけられていたタオルケットをたたみ、ソファの背もたれにかける。と、
「メガネをね……外そうと思ったの。何かの拍子に落としたら壊れちゃうかな、と思って」
 翠は床にしゃがみこんだまま言う。
「何がどうしてあんなことになってたわけ?」
 なんとなく想像ができなくはないけど……。
「……あの、手を伸ばしたら届かなくてですね……近づこうとしたら……ルームウェアの裾を膝で踏んでしまって――」
 やっぱり……。
「もういい」
 言いながら、メガネのブリッジに指を添える。
 でも、このくらいは言ってもいいだろうか。
「ドジ」
 翠は、「ひどい」って顔でうな垂れた。
 藤原さんが戻ってくると、
「藤原さん、ツカサにドジって言われた……」
「あら、何をやらかしたの?」
 藤原さんは楽しそうに尋ねる。
「俺のメガネを外そうとして、俺に近寄る際に自分の服の裾を踏んで俺の上に降ってきました」
「あら、ドジね」
 藤原さんは笑いながら病室を出ていった。
 いっそう落ち込む翠が目の前にいて、やっぱり髪が短いと思った。
 床に座っているにも関わらず、髪が床につかない。それ以前に、もっと短くなっていた。
「髪……」
「え?」
「髪、切ったんだな。……座っても床につかなくなった」
「……ツカサ、私、それ毎回ツカサに怒られてたのかな?」
 なんだ、それ……。俺、怒ったことはないはずだけど……。
「毎回怒っていた記憶はない。ただ、髪が汚れるとは思ったから、何度か椅子に座るように促しはしたけど」
「……そっか。なんとなくそんなような記憶はあるの。でも、やっぱり思い出そうとしてもきちんと一本の線にならなくて気持ち悪い……。だから、抜けてる部分にはツカサか藤宮秋斗さんか蔵元さんが関わっているのかな、って。……でも、教えてもらっても思い出せるわけじゃないの。ただ、そうなんだ、って思うだけ。教えてもらったら、『あぁ、そうだったよね』って思い出せたらいいのにね」
 そうか……話したからといってすぐに記憶が戻るわけじゃないんだな。そんな簡単なことじゃなかった。
「別に、俺の記憶が抜け落ちたところで困ることはないからいいんじゃない? ま、思い出してもらえるに越したことはないけど……」
 翠はきょとんとした顔で聞いていた。
「いつまで床にしゃがみこんでるつもり? 髪が床につかなくなったからって、そんなところにしゃがみこんでたら冷える」
 手を差し出せば、その手に自分のそれを重ねる。
 これだけでいい……俺は、この動作だけで救われる。
 翠はこの動作にどんな意味があるのかすら覚えていない。でも、俺にとってはものすごく意味のある動作で……。
 翠が覚えていなくてもかまわない。この手を取ってくれるなら、それだけでいい……。
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