光のもとで1

葉野りるは

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第九章 化学反応

22話

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 ご飯を食べ終えて少しすると、昇さんが治療にやってきた。
「これが最後の治療。じゃ、ご家族はちょっと出ててもらってもいいですかね?」
 昇さんが言うと、蒼兄たちはぞろぞろと病室を出ていった。
 病室に残ったのは湊先生と昇さん。
「先生……どのくらいで痛みが出てきますか?」
 襲いくる激痛が怖くて、訊かずにはいられなかった。
「個人差があるからな、それはなんとも言えない」
「そうですよね……」
 やだな、痛いの……。
 局部麻酔の治療は痛くて嫌いだけど、今受けている治療はそれほど苦痛じゃないのに。それでいて、痛みがある程度抑えられるのに……。
 会う前から相馬先生の印象が悪くなる。
 あ、柄も口も悪いって昇さんが言っていた気がする……。
 お医者さんで嫌いな人は今のところいないのだけど、初、嫌いなお医者さんになってしまいそうだ。
 そんなことを考えているうちに治療は終わった。
 お母さんたちが病室へ戻ってきたときには、なんだかものすごく眠くて、
「お母さん、寝てもいい?」
「いいわよ、少し休みなさい。私たちはこの部屋にいるから」
 そう言って、お布団をかけなおしてくれた。
「……人がいるとほっとするね。……人の気配があるのが嬉しい」
 そう言うと、お母さんは少しびっくりしたような顔をして、次に嬉しそうに微笑んだ。


「……は、翠葉」
 ……まだ眠い。でも、肩を揺すられているというのは「起きなさい」という意味なのだろう。
 重たい瞼を開くと、「司くんが来たわ」と告げられた。
「……え? あ……お母さんっ、私、寝起きっ。髪の毛ぐちゃぐちゃっ」
 慌てる自分に輪をかけてパニックを起こしそうだった。
「翠葉、落ち着け。今廊下で待ってもらっているから、髪の毛くらい梳かしてやる」
 蒼兄が髪の毛を梳かしてくれ、梳かし終わった櫛がテーブルに置かれた。
「蒼兄、これ……」
「え?」
「この柘植櫛、買ってきてくれたの?」
「……これは――今年の、翠葉の誕生日に誰かがプレゼントしてくれたもの」
 また、「誰か」……。でも、少し要領は得たかもしれない。
「誰か、っていうのはさっきの三人の誰かなのね?」
「そう」
 じゃ、まずは藤宮司さんに訊けばいい。
「これで満足?」
 お母さんに鏡を見せられ、さらに動揺することとなる。
「……蒼兄、どうして――どうして左サイドの髪の毛が短いの?」
「それは――……そっか、それも覚えてないんだな」
 少し責められている気がした。
「あのな……」
「あんちゃんっ、おしっこっ! 俺、おしっこ行きたいっ、ついてきてっ」
 唯兄が大声をあげ、蒼兄の腕を掴んだ。
「はっ?」
「病院のトイレって苦手なんだよっ。つれしょんつれしょんっ!」
 唯兄はぐいぐいと蒼兄の腕を引っ張って病室を出ていった。
「そっか……この病院は、唯兄にとってはあまりいい思い出がある場所じゃないものね……」
 問題をすり替えられたことに気づく間もなく、鏡はお母さんにしまわれていた。
「じゃ、司くんに入ってもらうわね」
「はい」

 お母さんと入れ替わりで入ってきた人は、制服をきっちりとまとった湊先生にそっくりな人だった。
 この人だ――検査の途中で脳裏に浮かんだひとりは、間違いなくこの人だ……。
「翠……」
 携帯に録音されていた声も、私を「スイ」と呼んでいた。
「あなたが、藤宮司……さん?」
 作り物みたいにきれいな顔が、一瞬強張る。でも、すぐに能面みたいな無表情に戻り、「ここいい?」とスツールを指差した。
「どうぞ……」
 格好良くてきれいな人……。蒼兄以上にメガネが似合う人など見たことがない。
 神経質そうに見えるのは、メガネの演出によるものなのか、この人の持つ雰囲気なのか――
「何か訊きたいことは?」
 ……なんだか尋問のようだ。訊くのは私のはずなのに。
「えぇと……私はスイって呼ばれているみたいですが、どうしてでしょう?」
「……御園生さんだとお兄さんの御園生さんとかぶるから」
「それなら翠葉でもいいのに」
「……翠葉ちゃん、翠葉さん、翠葉、どれも嫌だったから翠って呼んでる。因みに、翠本人の了承は得てるから」
 反論の余地を許さない返事に唸りたくなる。
「それなら、私は藤宮司さんのことをなんと呼んでいたのでしょう?」
 録音では「先輩」と口にしていた。
「始めは藤宮先輩。次が司先輩。今朝までは司って呼んでた」
「嘘っ」
「本当。藤原さんに訊いてもらえれば事実確認できると思うけど?」
 ……自分が男子を呼び捨てで呼ぶなんて想像ができない。だって、未だに海斗くんも佐野くんも敬称つきなのだから。
「私とあなたは仲が良かったの?」
「悪くはなかったんじゃない?」
 まるで他人事のように答えられて困ってしまう。なんだかとても手強い人だ。
「会話はいつもこんな感じ?」
 恐る恐る訊いてみれば、「だいたいね」と一言返事。
 本当に仲が良かったのかは不明だ。でも――
「この携帯にあなたの声が録音されていたの。……どんな状況だったのか、教えてもらえる?」
 藤宮司さんはとても驚いた顔をした。
「録音って……?」
「寝て起きたら一番にしなくちゃいけないことみたいに身体が覚えているの。でも、会話の内容は記憶になかった」
 携帯を操作して、凝視したままの藤宮司さんに差し出す。と、携帯を耳に当てた藤宮司さんはさらに驚いた顔をした。
「……これ、俺が理由を訊こうとしたら一方的におやすみなさいって切られたから、理由は知らない。ただ、入院する前の出来事」
 確かに、私が一方的に要求して、一方的に通話を切っていた。
 藤宮司さんが携帯をテーブルに置くと、その隣に置いてあった柘植櫛が目に入る。
「あの、これ……誰からの誕生日プレゼントか知っていますか?」
「……俺」
「っ……あのっ、ありがとうっ! 柘植櫛、前々から欲しいと思っていて、だから……たぶん、そのときの私も喜んだ……?」
「……喜んでた」
「本当に、ありがとう……」
 もしかしたらそのときにお礼は言っているのかもしれない。でも、もらった記憶もなければ、お礼を言った記憶もないのだ。だから、もう一度「ありがとう」が言いたかった。
「起きられるなら屋上に行く?」
「あ、でも、藤原さんか湊先生に訊かないと……」
 藤宮司さんは慣れた手つきでナースコールを手を伸ばした。
『何?』
 この対応は湊先生だろうなぁ……。
「翠を屋上に連れていきたいんだけど許可下りる?」
『いいわよ』
 許可が下りると今度は車椅子の用意を始め、点滴パックもきちんと車椅子へ移してくれる。
 その様はとても手際が良かった。
「慣れてるんですね……」
 車椅子に移りながら言うと、
「将来医者を目指しているし、翠は病室が嫌いだろ。入院してから二回ほど屋上に連れていってる」
 そうなんだ……。
「入院して治療を受けた記憶はあるのに、どうしてそういう記憶はないんだろう……」
 ぼやいたところで返答は得られない。
 ちょっと――ものすごくやりづらい……。
 病室を出ると、廊下の長椅子に座っていたお母さんたちにどこへ行くのか問われる。
「あのね、屋上へ連れていってくれるの」
 三人は揃って車椅子を押している人を見た。
「司、頼むな」
 蒼兄の言葉に、先輩は無言で頷いた。

 エレベーターに乗り屋上へ着くと、そこはちょっとした庭園のような場所だった。
「お花いっぱいっ! 向日葵もあるっ!」
「ここが翠のお気に入り」
 車椅子が停められたのは、ミントがたくさん植わっている花壇の前だった。
「わぁ……ミントの香りがする」
「……翠、また司って呼んでくれない?」
 メガネの奥から、真っ直ぐこちらを見る目にドキリとする。
「……つ、ツカサ」
「……ありがと」
 藤宮司さんは花壇の縁に座り俯く。俯いたまま、
「それから、大丈夫だからがんばれって言ってほしい」
「……え?」
「四日後、弓道のインハイなんだ」
「すごいっ! がんばって!」
「大丈夫が抜けた……」
 やり直し、と言わんばかりに指摘される。
「大丈夫だから、がんばって……?」
「……ありがとう」
 私にとって、この人はどんな存在っだったのだろう……。
 よくよく考えてみれば、面会時間ではない午前に、私の病室にいたということのほうがおかしいのだ。
「私にとって、ツカサはどんな人だったのかな……」
「……そんなの俺が知りたい」
 むっとした顔で言われた。でも、すぐに表情が変わり、
「昨日の電話では、やっと友達に思えたって言われた」
「……それまでは?」
「最初が意地悪な人で、次が先輩。その次が先輩以上友達未満」
 順を追って教えてくれたけど……。ねぇ、私――それってどうなの?
「……ようやく友達に昇格したんだ。記憶なくしたからって降格は勘弁してほしい」
 辟易した顔をされても、私には記憶がない。
「たとえばさ、簾条のことは覚えてるんだろ?」
「……うん、桃華さん」
「簾条が記憶をなくしたからって、翠は友達じゃなくなるのか?」
「そんなことないよ」
「それと同じ。翠が記憶をなくしても、俺の記憶はなくなっていない。思い出すのを待つもいいし、訊かれたら答えるでもかまわない。それに、別に記憶がなくても友達ではいられる」
 当たり前のように話すけど、なんだか――
「ツカサは情が深い人なのね?」
 ツカサは驚いた顔で私を見た。
「……私、何か変なこと言った?」
「いや……。情が深いかはわからないけど」
 会話が急になくなってしまい、「戻るか」と言われたから「うん」と答えた。

 エレベーターに乗ると、ツカサがポツリと口にした。
「俺、今の場所で透明人間扱いされたことがあるんだけど」
「透明人間……?」
 思わず後ろを向くと、エレベーターが九階に着いたことを告げ扉が開いた。
「悔しいから詳細は教えないけど」
「えぇっ!?」
 それはひどくないだろうか。
「思い出そうと躍起になると、記憶を司る海馬が壊れるからやめたほうがいい」
 何それっ!?
「ツカサっ、さっきの撤回っ。ツカサは意地悪っ」
 私の声は思わず大きくなる。けれどもツカサが動じることはなく、「ここ病院だから」とチクリと嫌みを言われるのみだった。
 むっとしたまま前方に視線を戻すと、唖然とした顔が三つ。それは紛れもなく、お母さんと蒼兄、唯兄の顔だった。
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