光のもとで1

葉野りるは

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外伝 02(一年前の六月のお話)

十六歳の誕生日 Side 翠葉 03話(挿絵あり)

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 その日の夕方、楓先生が病室に迎えに来てくれて、車椅子で中庭へ出た。
 中庭には私服に着替えた水島さんがいた。今日の勤務が終わったのだろう。
「これなんだけど、どう?」
 香水のボトルを差し出される。それは細長い長方形のボトルで金色の蝶がキャップとしてささっている。
 吹き出し口に鼻を近づけ、くんくんと嗅ぐととてもいい香りがした。フルーティーだけどお花の香りもする。とても優しい気持ちになれる香り。
「気に入ったみたいね?」
 顔を上げると、水島さんが満足そうににこりと笑った。
「ラッピングもしてないし、使いかけ。でも、プレゼントって言っていいかな?」
「水島さん、ありがとうございます。私、香水なんていただくの初めて」
「……そっかぁ。まだ十六歳だしね? これからよ、こ れ か ら っ ! それ、そんなにキツイ香りじゃないし、翠葉ちゃんは個室だから気にせず使っていいわよ」
「あの……」
「ん?」
「香水ってどこにつけるんですか?」
「あ……そっか」
 水島さんが口元に手を当て、「迂闊だったわ」と口にする。
「香水は基本的にアルコールが成分に含まれるから、翠葉ちゃんは直につけらんないわね」
 水島さんの話だと、香水は手首や耳の裏、足首などにつけるのが一般的だと言う。けれど、アルコール不耐症の私は消毒薬ですらかぶれてしまうので、その使い方はできない。
「肌には直接つけられないから髪の毛や衣類、タオルなんかに吹きかけて使うといいわ。あとは室内に二、三プッシュしてルームフレグランスみたいに楽しむ方法もあるわね」
 そんな話をしてると、
「俺もプレゼントとは言いがたいんだけど……」
 楓先生は手に持っていた茶色い手提げ袋を膝の上に乗せてくれた。
「私に、ですか……?」
「そう。翠葉ちゃんに」
 紙袋の中身を取り出すと、コルク栓がしてあるガラスボトルの中に三色のビー玉が敷き詰められていた。色が三層になっていてとてもきれい。
「瓶は私物。中のビー玉はさっき弟に頼んで買って来てもらったんだ」
 私が謝罪の言葉を口にする前に、楓先生は苦笑しつつこう言った。
「こんな機会でもないと、弟と絡めないんだよね」
 それに対し水島さんが、
「彼、クールだものね」
 とおかしそうに笑った。

 ボトルに入っているビー玉は淡いレモンイエローと涼やかな水色とペールグリーンの三色。どのビー玉も表面がゴツゴツとしていて、ごく一般的なビー玉とはちょっと違う。
「色は弟に選ばせたんだけど、奇抜な色を選ばれなくて良かったよ」
 どうしてそんな心配をしなくちゃいけないのかはわからないけれど、楓先生が心底ほっとしているのはわかる。
 先生の弟さんはそんなに変わった人なのかな? 水島さんはクールと言っているけれど――
 でも、こんなに柔らかな色を選ぶ人はとても優しい人だと思います。
「それ、窓辺に置いたらキレイなんじゃないかな? ビー玉の数を減らして水を入れてもいいよね?」
 先生の弟さんから頭を切り替え、提案されたことを想像していると、「痛っ」という楓先生の声が聞こえた。
 視線をそちらへ戻すと、どうやら水島さんが楓先生の脇腹を突いたみたい。
「その情報源、うちのナースでしょー?」
「当たりデス」
 ふたりの会話の意味がわからなくて首を傾げてしまう。
「翠葉ちゃん、検査室に行く途中にあるロビーで中庭の水が乱反射してるの見るの好きでしょ? それをね、ナースセンターで話してたことがあるのよ。その場に楓先生もいたの」
 中庭の水が乱反射――……あ、運動負荷検査に行く途中の中庭のこと?
 そこはガラス張りのロビーになっていて、脇には売店がある。こことは違って外に出ることのできない中庭で、屋内から眺めるためだけに作られたスペース。
 ガラス張りの向こう側はチャコールグレーと緑の世界。緑は竹、チャコールグレーはツルツルピカピカしている大理石みたいな素材。近代的ともいえる組み合わせの中、大理石が模るのは人口の小川。そこを流れる水がロビーの天井に反射して、ゆらゆら揺れる光を見るのが好きだった。
「あとはね、鈴が入ってると思うんだけど……」
 言われて紙袋を覗き込むと小さな鈴が入っていた。それは直径一センチほどの大きさで、淡いピンク色のリボンに通された銀の鈴。
 リボンをつまんで揺らすとチリンチリンと涼やかなかわいらしい音がした。
「好きでしょ? そういう音。風鈴はちょっとまずいけど、そのくらいの鈴の音なら誰の迷惑にもならないよ。あとで病室に戻ったらベッドの頭のところにでも吊るそうか」
 にこりと笑う楓先生の笑顔を見たら、涙で目の前が霞んだ。
「……楓先生、水島さん、ありがとう――ありがとうございます」
 言葉にしたら涙が溢れて止まらなくなった。どうしてこんなに涙が出るのか……。
 たぶん、すごく嬉しいんだ。すごくすごく嬉しくて出る涙。


             (イラスト:涼倉かのこ様)

 毎日お父さんかお母さんが来てくれていたし、蒼兄は平日土日問わず、大学の帰りに寄ってくれる。大学の空き時間のときにも来てくれる。
 だから寂しくない。寂しいなんて思っていないし、寂しいなんて思わない。そう思おうとしていた。
 けれども、やっぱり無理。「思おうとしていた」時点でアウト。
 ただ、気づきたくなかっただけ。ひとり「時」が止まってしまったような自分を認めたくなかった。だから、見ない振りをしていた。
 卓上カレンダーを見てはふたつの気持ちが葛藤する。
 何もせずに一日二日、気づけばもう日単位ではなく月単位で病院にいること。それを正視できずにカレンダーを見ることをやめれば、何の変哲もない毎日に「時」が止まったような錯覚に陥る。カレンダーを見ても見なくても、どっちにしてもつらかった。
「翠葉ちゃん、夕焼けがきれいだよ」
 楓先生の言葉に顔を上げると、木の向こうに薄いピンク色の空が見えた。
 病院の中庭から見える空は、建物に囲まれてぽっかりと開いた穴のよう。涙がレンズの役割果たして、魚眼レンズを覗いてるみたい。
「き、れい」
 歪んで映った空はちゃんとピンクに見えた。緑の葉っぱが夕陽を浴びてオレンジ色に光っている。木も、陽が当たっているところと当たっていないところでは色が違う。
 影とウッドデッキ、タイルと芝生。周りにあるものすべてに「色」を見ることができた。
「色」が、ある――
 自然と手に力が入り、その手の脇に黒いケースが見えた。
 それを目にして、今、ここにハープを弾きに来たことを思い出す。それは、今日、手にしたばかりのローズウッドのハープ。
 入院してからハープなんて弾いてない。指が動くかはわからないけど、これ以外のもので自分の気持ちを伝える術を知らない。
「あの……私の……『ありがとう』を受け取ってもらえますか?」
 手の甲で涙を拭きふたりに訊く。
 楓先生と水島さんは顔を見合わせてから、私が手にかけた黒いケースに視線を移し笑みを深めた。
「もっちろん! 私、ハープの生演奏なんて聞くの初めてよっ?」
 水島さんは少し興奮気味に答え、芝生に腰を下ろす。
「翠葉ちゃんも芝生のほうが楽でしょう?」
「あ、はい……」
 楓先生が芝生に移動する補助をしてくれた。
 久しぶりに爪弾く音はとてもたどたどしいものだったけれど、ふたりは何を言うでもなく聞いてくれていた。

 私はこの日を忘れない。
 三人で一緒に過ごした時間は三十分もない。けど、私はこの時間を忘れないと思う。
 学校には行けなくても私の時間は止まっているわけじゃない。ここ、「病院」という場所で、毎日二十四時間きちんと進んでる。
 日々、何も変わることがないと思っていたのは、私自身が何をどうしようとしていたわけではないから……。
 この入院がいつまで続くのか、この不安定な体調がいつ落ち着くのか。そんなことはわからないけれど、「色」は取り戻せた。
 灰色のフィルターがなくなった世界は驚くほどに色が満ち溢れていて、それは太陽が沈んでも変わらない。
 夜の帳が下りれば濃い青に支配された世界が広がる。その中でぼんやりとオレンジ色を灯す外灯は道標のよう。
 あれはきっと希望の光だね。

 翌日、私は朝から高校の教科書を広げていた。今は登校できてなくてもいつか登校できるその日まで、私はひとりで勉強するしかないのだから。
 学校はどこまで進んでいるだろう……。
 不安はあるけれど、今は自分にできることをがんばろう。
 今、目の前にあるもの――それらを受け入れることだって大切なことなのだ。
「……数学も化学も好きなんだけどなぁ。英語と古典はサッパリ」
 夕方には蒼兄が来てくれる。そしたら教えてもらおう。
「翠葉ちゃーん、私これから休憩なんだけど。今日、曇りだから中庭そんな暑くないと思うの。一緒に行く?」
「え……いいんですか?」
「ちゃんと紫先生の許可も取ってあるよ」
 水島さんは腰に手を当てて自慢げに話した。
「嬉しい……」
「よしよし、素直でよろしい」
 水島さんは満足そうに頷くと車椅子の用意を始めた。
「じゃ、行こっか?」
「はい!」
 昨日、楓先生と水島さんの三人で過ごしてから、なんだかとても話しやすくなったように思う。
 壁が一枚なくなった感じ。もっとも、壁を作っていたのは私自身なのだけれど……。
 いつからか、人との間に壁を作るようになっていた。そのほうが自分が傷つかずに済むと学んだから。
 だからかな……? 家族以外の人と久しぶりに話をした気がするのは。


 いつも前を向いているのは難しい。でも、何かをきっかけに前を向けたらそれでいいと思う。
 明日は下を向いているかもしれない。もしくは、後ろを向いてるかもしれない。
 でも、今日の私は前を向いている。
 もし、前を向けない日がきたら、前を向くことが出来た「今日」を思い出したい。
 そうやって、ひとつひとつ乗り越えていけたらいいな――
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