光のもとで1

葉野りるは

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32 Side 湊 01話

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「昇っ!」
 隣にいた栞が小走りで、ゲートから出てきた背の高い男に駆け寄る。黒髪で無精ひげを生やした男は小柄な栞をしっかりと受け止めた。
「栞、ただいま」
「おかえりなさいっ!」
 男は長身を折り曲げ、栞の頬にキスをする。
 そんなふたりを離れたところから見ていると、
「よぉ、湊が出迎えに来てくれるとはな」
 言いながら昇がこちらへ向かって歩いてきた。
 思わず舌打ちをしたくなる。
「やることがないのよ」
「へぇ……」
 まじまじと顔を見られ、ムカついたので睨み付けてやった。というより、ゲートから出てくるのを見つけたときから睨んでいた気がしなくもない。
 昇はニヤリと笑って、
「やることがないってーのは、やれることがないってことか?」
 相変わらず察しがいい。
「そうよ。……話は車の中で」
 私はふたりに背を向け駐車場へと歩き始めた。
 ちらり、と肩越しに後ろを見れば、栞がとても嬉しそうに笑っている。
 こんな顔を見たのも久しぶりだ。それだけでも一緒に迎えに来て良かったと思える。
 きっと、幸倉へ戻ればその笑顔は消えてしまうだろう。
 車の中では翠葉の話になる。それならば、駐車場までの短い距離くらいは、夫婦水入らずで話をさせてあげたかった。

 ここ数日で翠葉の体力は著しく低下し始めている。体重も限界まで落ちているはずだ。
 毎日のように点滴をしていても、体内の水分量は足りてはいない。その影響か、不整脈の頻度が上がってきている。それなのに、今となっては点滴をしている、というよりはさせてもらっている、そんな具合だ。
 こんな短期間であんなにも人が変わるのを初めて見たかもしれない。
 作り物の人形――ぬくもりある人間には見えない笑み。少し前までの翠葉がどこにいるのまるでかわからない。
 表情がころころと変わる翠葉が今は穏やかに笑みを浮かべるのみ。解離性障害が出ているのかとも疑っていたが、楓がそれはないだろう、と言う。
「どんなにつらくても、痛みがひどいときに自分を手放すような子じゃない」
 楓はそう言いきった。
 去年までの治療経過からか、紫さんも同じ見解らしい。確かに、以前見たことのある機械的なまでのシャットアウトとは違った。
 今日がタイムリミット――
 だから秋斗にも司にも連絡を入れた。
 秋斗はすぐに捕まり、今頃は御園生家に行ってくれているだろう。一方、司には連絡つかず――
 携帯を手にしていないということは部活中なのだろうけれど……。
「ま、あれだけしつこく電話してれば嫌でも折り返しかけてくるか」

 車に乗り込み、窓全開で冷房を入れる。
 今日は栞の車で来ていた。
 炎天下で見る真っ赤な車は目に痛い。
 しばらくすると、栞の鈴を転がしたような声と昇のバリトンの声が聞こえてくる。
「湊、私が運転するわ。湊は昇に翠葉ちゃんの状態を説明して」
 栞に言われて運転席のドアを開けられた。すでに運転席にすっぽりとおさまりシートベルトをしていた私はちょっと間抜けな顔をしたと思う。
「なぁに? 私の運転が怖いとでも言いたいの? 少なくとも湊よりは安全運転よ?」
「言えてら」
 身体を縮めて後部座席に乗り込んだ昇が鼻で笑う。
「湊のことだからデータくらい持参してんだろ?」
 さらには、「こっちへ来い」と後ろから髪を引っ張られた。
 伸びたな、と思う。人に髪の毛を引っ張られる程度には、髪が伸びたな、と。
「栞、ありがとう。そうさせてもらう」
 好意を素直に受け取り、私は運転席から離脱した。

「なるほどねぇ……面白いくらいに検査には何も引っかからないわけか」
 カルテや検査結果に目を通すと、昇が一言漏らした。
「そ、でも痛みは相当みたいね」
「おうおう……ここ最近じゃ、痛み止めも結構強力なの使ってんなぁ」
 のんきな様が実にムカつく。
「ペインビジョンは?」
 ――あ、迂闊だった。
「とっとと紫さんか涼さんに連絡しろー。あるなら検査に使う。ないなら買ってもらえ」
 藤宮病院にペインビジョンはない。
 私はすぐに電話をかけ、ペインビジョンの手配を依頼した。
 ペインビジョンとは、痛みを数値化することができる検査機器だ。
「それで原因がわかるわけじゃない。でも、どの程度のものなのかは知っておかないとな。それから、重度の自律神経失調症ってのも気になる」
「ほんと、ひどいのよ……。これ、あの子のバイタル」
 秋斗が作り出した黒いモニターを昇に差し出す。
「……何これ、すげぇ画期的なアイテム。どこのメーカーが出したの?」
「秋斗の作品」
「あぁ、規格外的なアイテムなわけね。了解」
 言いながらも目はしっかりとバイタルの履歴を追っていた。
「血圧低いは脈圧ないは……。たまにいるんだよなぁ……こういう患者」
 突如、アラートが鳴り出す。
「「不整脈っ!?」」
 緊迫した空気が生まれる。が、
「大丈夫だ。少し脈が跳んだだけだな」
「……こんなのがしょっちゅうよ。それと頻脈と除脈の繰り返し。最近じゃ体温も日に何度も上下するわ」
 あの子の平熱は三十五度七分前後。それが、三十七度五分までの間で一日四、五回上下する。
 本人は寒くなったり暑くなったり、冷や汗をかいたりと忙しない身体についていけずにぐったりしている。
 食欲が落ちるのもわからなくはない。だけど、このままでは飢餓状態になる。飢餓状態が与える脳への影響も侮れないのだ。
 現時点では水分すら必要量を補えていない。結果、薬が効きづらくなり、薬が効かないことで闘値が下がる。闘値が下がれば痛みを感じる力が助長する。
 いいことなどひとつもない――

 色々と話した結果、昇は藤宮病院で待機することになった。
「この子、男性恐怖症の気もあんだろ? とりあえず、こんな状態で第三者の俺が行ったところで何ができるとは思えない。それなら最終的に眠らせてでも何をしてでも病院へ連れてこい」
「言われなくてもそのつもりよ」
「湊らしくもない……。いつもなら、こういう治療に前向きじゃない患者のことはボロクソに言うし、どんな手段を使ってでも家から引き摺り出すんじゃないか?」
 まるで面白いものを見るような目で見てくるところが気に食わない。でも、言われていることは図星だ。
「もっとらしくないって言われそうだけど、ちょっと情が移ったかもしれない」
「本当にらしくねぇな」
 本当だ――
「昇……?」
 運転席から遠慮気味に栞が声をかける。
「なんだ?」
「翠葉ちゃん、本当にすごくいい子なの……」
 栞が言いたいことはなんとなくわかる。
「話に聞いていた素直な子って感じには見えねえけどなぁ? だって、こんな状態で入院を拒否してんだろ?」
「……今はちょっとおかしいだけで、普段は人のことばかりを考えている優しい子なの」
 栞の、声のトーンが落ちていく。
「……まぁな。痛みってのは度を越すと人格をも変える威力を持っている。本当に普段がいい子なら、それだけの境地にいるってこったな」
「……どうにかできる?」
 私が訊くと、昇は苦笑を浮かべた。
「湊、これは俺の専門分野外だ。専門家は来月か再来月にならないと帰国しない。それに、実際に患者を診てもいないのにどうとも言えないだろ」
 もっともだ……。私がどうかしていた。
「おまえも疲れてんだよ」
 右側から頭を小突かれ、昇が帰ってきた実感を今さらのように得た。
「少し、寝させて……」
「あぁ、寝とけ寝とけ」
 運転を栞に任せて良かった。静かな戦場へ行く前の一休みができそうだ――
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