光のもとで1

葉野りるは

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10 Side 司 01話

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 六月十三日日曜日、曇り――
 早朝から身体にまとわり付くような湿気の中、姉さんの車が停まる駐車場へと歩いていた。
 水色の車を見て、実にらしくない、と思う。しかし、内装がチャコールグレーで統一してあたりはそれっぽいかもしれない。
 ただ、姉さんは平均身長よりも背が高いし、性格の豪胆さをとってもこんな車を乗る人間には見えない。
「なんで軽自動車、ラパンなんだか……」
 姉さんの好みは謎だ……。
 まるで昨日洗車されたかのようにきれいなボディに身を預け、マンションの九階に目を移す。と、姉さんがひとつのドアから出てきたところだった。
 時刻は午前六時四十五分。
 今日は朝早くに予定にはなかった手術が一件。秋兄の手術だ。
 昨夜から輸血を始めたことは兄さんから聞いている。
 今日だって、手術が終われば姉さんが連絡くらいはくれるだろう。けど、家で手術終了の知らせを待つ気にはならず、手持ち無沙汰にシャーペンの芯を出したり引っ込めたりしていると、
「秋斗で輸血パック使うんだから、あんたの血でも献血してくれば?」
 そんな姉さんの一言で、今俺はここにいる。

 秋兄と俺の血液はRHマイナスAB型。少し特殊な血液で、在庫状態が不安定な血液でもある。
 だからといって、その血を身内を使ったから身内が補充するというのはおかしな話で、そんなことをする必要はないのだが、俺が病院へ行くのには十分な理由になった。
 カツンカツンカツン、とヒールの靴音が規則正しく聞こえてくると、姉さんが渡り廊下に姿を現した。
「翠の傷、どうだった?」
「あんたが昨日見たのとそう変わらないでしょ。それより、あの子どこで寝てたと思う?」
 面白そうに話すところを見ると、自室にはいなかったのだろう。
「さぁ……。ただ、自室じゃないなら御園生さんのところしかないと思うけど」
 答えなど考える必要もない。
「……つまらない。当たりよ、当たり」
 姉さんは非常に不服そうな顔をした。
 そんな顔をされても困る。答えなど一秒とかからずに出ていた。考える行為自体が無駄。
「おまけに手首に鈴つけてんの。あれ、手が動いたら蒼樹が気づくように、よね」
 どこまでも過保護……。
「過保護が翠葉を育てたのか、翠葉が周りを過保護にしたのか。今となっては卵が先かニワトリが先かって話よ」
 そこまで話すとエンジンをかけ、若干荒い運転で車が走り出す。
 ……やっぱりこの車、姉さんには合ってないと思う。

 学校までの道のり、そして学園環状道路に藤山の私有地――見慣れた風景を見ながら思う。
 どっちが先でもかまわないじゃないか、と。
 最近、周りと自分が思っていることに少しずれがあることに気づいた。
 確かに翠は知っているべきことを知らなさ過ぎると思うこともある。けれど、別に知らなければ教えればいい。ただそれだけのことではないのか、と思う。
 俺の周りは翠が変わることを期待しているように思えてならない。
 どうしてそのままの翠じゃいけない?
 周りが合わせるという方法だってあるし、翠が周りに慣れる時間を一緒に過ごせばいい。
 俺の周りはまるで翠を急かすかのように、翠の変化を願っている気がした。
 俺は今のままでも別に困らないんだけど……。
 翠は翠で、変わらなくちゃいけないと暗示にでもかかっているかの如くだし。
 焦って手に入れたものは脆くも崩れる。
 翠はそれを知っているのだろうか。
「車停めたらすぐに行くわ」
「わかった、先に行ってる」
 正面玄関で下ろされ院内に入ると見知った顔があった。
 本来こんなところで見かける顔ではない。
「司さん、おはようございます」
 声をかけてきた女はとても健康そうで、病院へなど来る必要がない部類の人間。
「柏木さんがここになんの用?」
「父の仕事についてきたんです。でも、まさか司さんに会えるとは思ってもみませんでした!」
 彼女は得意そうに笑った。
「そう。俺は用があるから」
 あまり話したい相手ではない。加えて、人物特定が済んだ時点で、「面倒」という漢字二文字が頭に浮かんだ。
 足を止めることなく通り過ぎよう。そう思ったとき、
「待ってください」
 半身後方から腕を掴まれた。
 振り返り様に、「何」と声音を落として訊くと、
「家庭教師、夏休みからってお話でしたけど、できたら期末考査からお願いしたくて!」
 まるで断わられることを予測していない口ぶり。
「それはできない」
「なぜですか? 期間的にはさほど変わりはありませんでしょう?」
「君の家庭教師は夏休みだけだ。確約を無視する行動は困る」
「っ……」
「悪いけど、俺は君の友達になったわけでも先輩になったわけでもない。ただ、今年の夏休みに十五日三十時間家庭教師をするだけの人間。それ以上でもそれ以下でもない」
 目から涙を零す女を置き去りにして、俺はロビーをあとにした。
 別に泣かれても困りはしないし何を感じるわけでもない。今は秋兄の容態のほうが気になるし、翠の精神状態のほうが気になる。
 ふたつ絡んでの胃潰瘍ともなればなおさらだ。
 秋兄に限っては普段の不摂生というのも胃潰瘍の原因のひとつには上がるだろうけれど……。
 それにしても、柏木高志――柏木製薬の社長たる人間が仕事先に娘を同伴とはね……。常識が欠如しているんじゃないか? しかも、こんな早朝になんの用があるんだか……。
 今日は日曜で病院の通常診察はすべて休みだし、面会は十時以降からとなっている。
 夜勤スタッフは八時で交代になるからまだ残っているとして、製薬会社の社長がこんな時間に仕事で赴くのはおかしいとしか言いようがない。
 あとで父さんに報告したほうがいいな……。

 十階に着き、秋兄がいるであろう病室を軽くノックして中に入る。と、
「何……俺のオムツ姿でも笑いに来たわけ?」
「……別にそんなの珍しくもなんともないし」
「ふーん……」
「そんなの気にしなくても三日もすれば取れる」
 秋兄は管だらけの状況が嫌ならしい。
「で、おまえはなんで来たの?」
 なんでって……一応心配だから来たんだけど。そういう考えには至らないのだろうか。
「別に。来なければ良かったと思ったところ」
 自宅待機で連絡を待っていれば良かった。そしたらあの女にだって会うことはなかっただろう。
 ま、吐血して一時ショック状態にあった人間にも関わらず、これだけ喋ることができば問題もないか……。
「なんだよ……」
 まじまじと秋兄を見ていると、とても嫌そうに訊かれる。
「いや、秋兄、実は痛覚神経切れてたりするんじゃないかと思って」
 本来なら転げまわるほどには痛いはずなんだけど。
「あぁ、点滴入れてもらったら少し痛みが引いたかな」
 なるほど……。
 輸液に痛み止めやその他の薬が入っているのか。
 そこへ姉さんと看護師が数名入ってきた。
「さ、行くわよ」
 すでに術着に着替え、白衣を羽織った姉さんに言われると、秋兄は「はいはい」と適当に答えた。
 姉さんは俺に視線を移すと、
「オペ階の処置室に看護師を待機させてあるわ。司はそっちでやってもらって」
「了解」
「……なんの話?」
 秋兄は眉間にしわを寄せて訊いてくる。
「秋斗が貴重な血を輸血してるから、司が代わりに献血してくれるそうよ。ほら、司は行った行った」
 俺は半ば追い出されるようにして病室を出た。
 そのままオペ階まで下り処置室に向かう。
 俺が献血できるのは二〇〇ミリリットルまで。十八歳にならないと四〇〇ミリリットルも成分輸血もできない。それに、今回輸血を行ったことで秋兄は今後献血ができなくなる。
 秋兄はあと二、三日は輸血が必要な状態だろう。
 献血は一度やると次にできるのは四週間後――
 しばらくは月一で献血に通うかな。

 献血自体は二十分もあれば終わってしまう。
 糖分と水分を補給するために自販機でスポーツドリンクを買い、一息ついているところに看護師がやってきた。
「司くん、涼先生から見たいなら見にきてもかまわないって伝言預かってきたのだけど、どうする?」
 観覧か……。
「行きます」
「じゃ、案内するわね」
 看護師のあとにつき、手術が観覧できるブースへと通された。
「終わったら、今の道順で戻ってもらえれば大丈夫だから」
 看護師は一言残して出ていった。
 観覧窓から見る秋兄は意識がある状態で、手術用の内視鏡を見るなり、
「そんなの喉通りませんよっ」
 と、抵抗を見せる。
 確かに、普通の内視鏡よりも数段太いチューブであることは確かだ。
「うるさい。静かにまな板の上の鯉になれ」
 秋兄は姉さんに筋肉注射を打たれ、喉に麻酔用のスプレーをされて黙らされた。
 兄さんが、
「喉に通すときは一瞬意識なくすから大丈夫」
 などと言い、麻酔の操作を始める。
 秋兄の意識がなくなると、姉さんの手により素早く人工呼吸器が鼻からチューブで通される。
 そして、口が閉じないようにマウスピースを装着され、そこに秋兄が嫌がったチューブが挿入され始めた。
 モニターにはきれいに映像が映し出され、食道を通り胃に達すると、真っ赤な壁面が現れた。
 それを生理食塩水で流し吸引すると患部が見えてくる。
 俺に確認できるもので二ヵ所。
 直ちにクリップで留める治療が始まった。
 クリップで留めてあとは薬を塗るだけ。手術が終わってから数時間後に再度内視鏡で術後の様子を確認。
 その後は再出血がなければ一、二週間で退院ってところかな。
 しばらくは抗生物質の投与、もしくは服用が必要になる。そのほか、吐血量が相当数だったのであれば、造血剤なんかも追加されるだろう。
 観覧室に設置されているモニターを横目に長椅子へ横たわる。
 下の手術室には父さんと姉さん、それに兄さんと紫さん。患者すら藤宮の人間だ。
 どれだけ藤宮率が高いんだか……。
 それに、紫さんが病院へ戻ってこないか、と惜しむほどの人材である姉さんが器械出しってどうなの? それ、普通は看護師の仕事だろ。
 そんなことを考えつつ目を瞑る。
 俺、なんでこんなにまいってるんだろう……。
 秋兄が焦る必要なんてどこにもなかった。翠は秋兄しか見ていないのだから。
 一度断わろうが何しようが、常に秋兄しか見ていなかった。それは側にいた俺が一番よく知っている。なのに秋兄は急いてことを進めようとした。
 その結果がキスマークであり、翠の自傷行為。果てには、秋兄自体がこの様だ。
「何やってるんだか……」
 まさかとは思うけど、俺の存在が気になったから――?
 それこそありえない。翠を見ていれば、翠が誰を見ているのかなんて一目瞭然だ。
 秋兄、秋兄は翠の何を見てたんだよ……。

 手術が終わるのを待つ気も失せ、観覧室を出た。
 ロビーでも通ってまた柏木桜に出くわすのは面倒だから裏口へ向かった。すると、そこには柏木親子が車に乗り込む姿があった。
 すぐ近くの処置室に身を潜めたが、製薬会社の社長が裏口を使うとは……。
 何かがあるような気がしてならない。
 しかも、あの女まだ泣いていたし……。
 それをかばうようにして歩いていた社長。
「……これ、今夜には父さんに苦情の電話が入ったりするのかな……」
 しかし、最初に確約を破ったのは向こうだ。
 俺たちの接触は家庭教師の日のみ。日時場所は俺の都合を一方的に通してもらえることになっていたし、その予定を連絡し合うのは親であり、子ではない。
 よって、今朝の接触が偶然だったとしても、その場で家庭教師の話を持ち出し、期末から見てほしいと口にするのは確約破りになる。
 それは互いが席に着いたあの日に納得済みだったはず。
 柏木桜、マリアンヌ女学院中等部三年――この学校は世間一般の金持ちが通うお嬢様学校だ。
 金さえ積めば必ず入れるという噂もある。
 ゆえに、学力レベルの高低差が激しく、入学試験によりクラス分けが徹底されているという。
 俺が普段勉強を見る相手は海斗と翠。ふたりは素地がきちんとしているから教えることに苦痛を覚えたことはないが、柏木桜はどうだろうか……。
 俺は堪忍袋をいくつ用意すれば事足りるのか、そのほうが心配だ。
 期末考査からなんて冗談じゃない。
 夏休みならば出された課題を適当に見ればいいが、期末考査ともなれば対策を練る必要が出てくる。興味の欠片もない人間にそこまで時間や労力を割く気は毛頭ない――
 そんなことをつらつらと考えながら学校へ向かった。
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