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15~17 Side 蒼樹 03話
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翠葉の部屋から聞こえてきた声は――
「そんな状態じゃ仕事にも手が付かない。だからね、会いたくなったら会いに行くことにした。若槻のことが気になるから来たっていうのもあるんだけど、そっちはついでかな?」
あぁ、まったくこの人は……と思っていると、俺の後ろにいた若槻くんが前へ出た。
「秋斗さん、相変わらず人をダシに使うのがうますぎます」
翠葉は若槻くんに驚いたようで、こちらに釘付けになっている。
若槻くんも同じように翠葉を捉えていた。
部屋に一歩足を踏み入れ、
「お姫さん、ごめんね……」
「いえっ、あのっ――私こそごめんなさい」
「っつか、お姫さん悪いことしてないじゃん。俺が勝手に動揺してるだけだから」
そこまで言うと、一度深呼吸をして、
「申し訳ないのですが、慣れるまでちょこっとリハビリさせてください」
若槻くんは腰を直角に折り曲げた。
翠葉はその行動につられて身体を起こす。
「翠葉っ」
自分が駆け寄る前に若槻くんが手を伸ばした。そして、一番近くにいた秋斗先輩より先に翠葉の身を支えてくれる。
「お姫さん、こういうのは勘弁……」
「すみません……」
「……本当はさ、妹にこうしてあげられたら良かったんだけど――」
若槻くんが小声で話す。
視線の先には翠葉がいるけれど、きっと妹さんに言いたかったのだろう。
「こうやって手を差し伸べることすらしなかったんだ」
そっか……本当に何もしないうちに妹さんを亡くしたんだ。
それはかなりきついだろう……。
でも、どうしてだろう? なぜ、手を差し伸べることもできなかったのだろうか。
もしかしたら、家族関係にも何か問題があったのかもしれない。
「お姫さん、悪いんだけどしばらく俺の妹になってくんないかな?」
「……私が妹さん?」
「そう、少しの間だけ。うん、俺が満足するまでというか、やってやりたいと思っていたことをすべてやり尽くすまで」
翠葉のいつもの癖。困ったことがあると俺を仰ぎ見る。
俺が提案したも同じだ。「うん」と言ってやれ。
俺がコクリと頷いて見せると、翠葉はゴクリと唾を飲み込んだ。
視線を若槻くんに戻し、
「私を見ていてつらくないですか?」
「つらいよ。……でもさ、逃げてばかりもいられないみたい」
なんだ、ちゃんとわかってるんじゃないか……。
「今回はオーナーと秋斗さんに嵌められた感満載……。俺、お姫さんが身体弱いなんて聞いてないし、引越しだって打ち合わせの都合上だと思ってた。今日だって軽くパソコン設定出張サービスくらいに思ってたのにさ」
若槻くんはここぞとばかりに愚痴たれる。
こういうところは翠葉とは全然似てないな。
「すっごくわかりづらくて紆余曲解しそうになること多々なんだけど、でもこの人たち俺のことかなりちゃんと考えててくれるみたいだから。このままいるわけにもいかないんだよね」
若槻くんはちゃんと気づいているんだ。周りの人たちが自分のことを考えてくれていることを。
そこ、意外と重要だと思う。
それでいて、その好意を無駄にしない姿勢がとくに……。
そういうこと、翠葉に教えてやってくれないか……?
翠葉は少し悩んだものの、
「……かしこまりました。でも、その『お姫さん』はどうにかしてください」
どうしたことか、呼称の交渉を始める。
「どうにか、ねぇ……。スゥ、よりはリィ、だよなぁ……」
「はい?」
「うん、リィって呼んでもいい?」
「あの、それどこから出てきたんでしょう?」
「リメラルドの超簡易バージョン。だめ?」
「私、最近めっきりと呼び名が増えまして、反応できるか怪しい限りなんですけれども、努力はしてみます」
堅苦しい言葉のあと、ふたりはクスリと笑った。まるで内緒話をしているみたいに。
それまで穏やかな表情で場を見守っていた秋斗先輩が、
「若槻、翠葉ちゃんに手ぇ出したら締めるよ?」
「どっちがですか。俺も今となっては彼女の兄貴分なんで、秋斗さんがリィに変なことしたら許しませんよ?」
ふたりの会話に複雑な思いを抱きつつ、
「これは思わぬところで味方ゲットかな?」
不思議な関係に肩を震わせて笑う。すると、翠葉もクスクスと笑った。
「あ、翠葉ちゃんまで笑うなんてひどいな」
秋斗先輩の言葉に翠葉の笑いはもう少し大きなものへと変わる。そして、その場を巻き込むようにして笑いあった。
こんなふうに笑う翠葉を見るのはどのくらい久しぶりだろう……。
きっと、翠葉はこうやってみんなで笑えたらそれで幸せなんだよな。
なのに、どうしてそんなことすら難しいのかな。
俺はそれを目の当たりにするたびに切なくなるんだ……。
「さ、遅くなっちゃったけど夕飯にしましょう」
部屋に入ってきたのは栞さん。
帰宅してから三十分ほどしか経っていないものの、もう夕飯ができたらしい。
栞さんの手にあったトレイを確認し、その役を買って出る。
「じゃ、俺は翠葉にスープを飲ませてから行きます」
「あらそう?」
言いながらトレイを渡された。
その動作を若槻くんが目で追っているのがわかる。
スープカップをまじまじと見てから翠葉の方を向いた。
「……リィはそれしか食べないの?」
「……えと、今だけです。この時期だけ……」
翠葉は引きつった顔で答える。
「あと少ししたら湊も来るわ。そしたら点滴入れてもらえるから」
そう言われてみれば、今日はまだ点滴を打っていなかった。
今日口にした水分量と発汗した水分量。どう考えても現時点では見合わない。全然足りていない。
点滴を入れてもらったら少しは楽になるだろうか……。
改めて翠葉を見ると、表情が強張っていた。
「翠葉……?」
今度は何を不安に思ってる……?
「……何?」
「大丈夫か?」
「……大丈夫だよ」
強張った顔を必死で笑顔に変えようとしていた。
またか――また、言ってもらえない。
「……泣きたいときは泣いていいし、無理に笑わなくていい。無理に大丈夫なんていわなくてもいいから」
トレイをテーブルに置き、翠葉の額に手を乗せると、ひんやりとした体温が伝わってきた。
翠葉の目から零れた涙が頬を伝い落ちる。
「お姫――リィはなんで泣いてるの?」
「なんで、でしょう……。時間の流れが、ゆっくり過ぎて……かな」
「時間の流れ?」
毎年のことだな……。
この時期を翠葉は苦痛に感じる分、普段とは違う時の流れの中に身をおいているのだろう。
それは俺もさして変わりはないけど、翠葉は身体も自由に動かせない分、余計に時間が長く感じるのかもしれない。
俺は正真正銘の健康優良児で、怪我という大きな怪我もせずに過ごしてきているから、実際のところはベッドから動けない、という状況を体験したことがない。
それに比べ、毎年そんな時期があるという翠葉が感じるストレスはどれほどなのか……。
そんなことはいくら考え想像したところで、想像以上のものにはなり得ない。
「……人ってさ、つらいときや嫌なことやってるときって時間が進むのがゆっくりに感じたりしない?」
「あぁ、それならわかるかも」
「蒼くん、そのスープは若槻くんにお願いしたら?」
栞さんに言われて、それがいいと思った。
「あぁ、そうですね。若槻くん、頼める? このスプーンで一口ずつしか飲めないんだけど」
トレイを前に戸惑っているのがよくわかる。
「最初は蒼くんがお手本を見せてあげたらどうかしら?」
言うと、栞さんは部屋から出ていった。
きっと、栞さんも若槻くんが抱えているものを知っているのだろう。
「あーあ……。その役、俺がやりたいの山々なんだけど……。しょうがない、若槻に譲るか」
秋斗先輩も部屋を出ていき、部屋には俺と翠葉と若槻くんが残った。
「あ、の……蒼兄、やっぱり――」
翠葉も彼に負けないくらいには動揺しているらしい。
でもさ、ふたりとも少しがんばってみようよ。
「若槻くん、こうやるんだ」
スプーンに少しスープを掬って翠葉の口元へ運ぶ。と、翠葉は条件反射のように口を開いた。
「一日にこれ三回だけ?」
「あ、えと……本当に、今だけ……だと思います」
翠葉は口にした言葉に嘘が含まれてるかどうかを気にしているような話しぶり。
「嘘うそ、疲れてるときや具合の悪いときはたいていこれしか口にしない。あとがんばって食べるとしたらアンダンテのタルトくらいだよ」
すぐさま、「蒼兄っ」と抗議の目を向けられた。
「だって本当のことだろ?」
急には無理だろう。でも、若槻くんにリハビリが必要なのと同じで、翠葉にも必要なリハビリだと思う。
「翠葉、しばらくは兄がふたりいるんだ。おまえのリハビリにもなるよ。人に甘える、頼るってことをもう少ししてごらん」
徐々にでいい、少しずつでいいから。
少し沈んだ空気のところ、炭酸のように軽快な声が降ってくる。
「じゃ、蒼樹さんは俺のあんちゃんですね」
「若槻くんは二個下だっけ?」
「二十二です」
「じゃ、そうだな。俺には当分の間は弟がいることになる」
さっきもらった名刺を胸ポケットから取り出し、名前を確認して「唯」と声をかけた。
彼は目を丸くしてすぐに細める。
「なんかくすぐったいですね。俺のことを唯って下の名前で呼ぶの、今じゃ蔵元さんだけなので」
はにかんだ顔でそうは言うけれど――
「……え? お父さんとお母さんは?」
すぐに問い返したのは翠葉だった。
彼は、「いないよ」と苦しそうに答える。
妹だけじゃなくて両親もいないのか……!?
もしかしたら、俺が思っているよりももっと深い傷を負っているのかもしれない。
秋斗先輩に、少し彼のバックグラウンドを聞いておいたほうが良さそうだ。
そんな彼の頭をポンポンと叩く。
彼は下を向いたまま何も言わない。
泣けるなら泣いたほうがいい……。
「じゃ、あとは頼むな」
翠葉の食事は彼に頼み、彼のことは翠葉に頼む。
互いに互いを頼みながら部屋を出た。
若槻くん、君が深い傷を負っているのはなんとなくわかった。でも、もし翠葉と接することでその傷が癒せるのなら、今はその傷ついた羽を休めればいい――
「そんな状態じゃ仕事にも手が付かない。だからね、会いたくなったら会いに行くことにした。若槻のことが気になるから来たっていうのもあるんだけど、そっちはついでかな?」
あぁ、まったくこの人は……と思っていると、俺の後ろにいた若槻くんが前へ出た。
「秋斗さん、相変わらず人をダシに使うのがうますぎます」
翠葉は若槻くんに驚いたようで、こちらに釘付けになっている。
若槻くんも同じように翠葉を捉えていた。
部屋に一歩足を踏み入れ、
「お姫さん、ごめんね……」
「いえっ、あのっ――私こそごめんなさい」
「っつか、お姫さん悪いことしてないじゃん。俺が勝手に動揺してるだけだから」
そこまで言うと、一度深呼吸をして、
「申し訳ないのですが、慣れるまでちょこっとリハビリさせてください」
若槻くんは腰を直角に折り曲げた。
翠葉はその行動につられて身体を起こす。
「翠葉っ」
自分が駆け寄る前に若槻くんが手を伸ばした。そして、一番近くにいた秋斗先輩より先に翠葉の身を支えてくれる。
「お姫さん、こういうのは勘弁……」
「すみません……」
「……本当はさ、妹にこうしてあげられたら良かったんだけど――」
若槻くんが小声で話す。
視線の先には翠葉がいるけれど、きっと妹さんに言いたかったのだろう。
「こうやって手を差し伸べることすらしなかったんだ」
そっか……本当に何もしないうちに妹さんを亡くしたんだ。
それはかなりきついだろう……。
でも、どうしてだろう? なぜ、手を差し伸べることもできなかったのだろうか。
もしかしたら、家族関係にも何か問題があったのかもしれない。
「お姫さん、悪いんだけどしばらく俺の妹になってくんないかな?」
「……私が妹さん?」
「そう、少しの間だけ。うん、俺が満足するまでというか、やってやりたいと思っていたことをすべてやり尽くすまで」
翠葉のいつもの癖。困ったことがあると俺を仰ぎ見る。
俺が提案したも同じだ。「うん」と言ってやれ。
俺がコクリと頷いて見せると、翠葉はゴクリと唾を飲み込んだ。
視線を若槻くんに戻し、
「私を見ていてつらくないですか?」
「つらいよ。……でもさ、逃げてばかりもいられないみたい」
なんだ、ちゃんとわかってるんじゃないか……。
「今回はオーナーと秋斗さんに嵌められた感満載……。俺、お姫さんが身体弱いなんて聞いてないし、引越しだって打ち合わせの都合上だと思ってた。今日だって軽くパソコン設定出張サービスくらいに思ってたのにさ」
若槻くんはここぞとばかりに愚痴たれる。
こういうところは翠葉とは全然似てないな。
「すっごくわかりづらくて紆余曲解しそうになること多々なんだけど、でもこの人たち俺のことかなりちゃんと考えててくれるみたいだから。このままいるわけにもいかないんだよね」
若槻くんはちゃんと気づいているんだ。周りの人たちが自分のことを考えてくれていることを。
そこ、意外と重要だと思う。
それでいて、その好意を無駄にしない姿勢がとくに……。
そういうこと、翠葉に教えてやってくれないか……?
翠葉は少し悩んだものの、
「……かしこまりました。でも、その『お姫さん』はどうにかしてください」
どうしたことか、呼称の交渉を始める。
「どうにか、ねぇ……。スゥ、よりはリィ、だよなぁ……」
「はい?」
「うん、リィって呼んでもいい?」
「あの、それどこから出てきたんでしょう?」
「リメラルドの超簡易バージョン。だめ?」
「私、最近めっきりと呼び名が増えまして、反応できるか怪しい限りなんですけれども、努力はしてみます」
堅苦しい言葉のあと、ふたりはクスリと笑った。まるで内緒話をしているみたいに。
それまで穏やかな表情で場を見守っていた秋斗先輩が、
「若槻、翠葉ちゃんに手ぇ出したら締めるよ?」
「どっちがですか。俺も今となっては彼女の兄貴分なんで、秋斗さんがリィに変なことしたら許しませんよ?」
ふたりの会話に複雑な思いを抱きつつ、
「これは思わぬところで味方ゲットかな?」
不思議な関係に肩を震わせて笑う。すると、翠葉もクスクスと笑った。
「あ、翠葉ちゃんまで笑うなんてひどいな」
秋斗先輩の言葉に翠葉の笑いはもう少し大きなものへと変わる。そして、その場を巻き込むようにして笑いあった。
こんなふうに笑う翠葉を見るのはどのくらい久しぶりだろう……。
きっと、翠葉はこうやってみんなで笑えたらそれで幸せなんだよな。
なのに、どうしてそんなことすら難しいのかな。
俺はそれを目の当たりにするたびに切なくなるんだ……。
「さ、遅くなっちゃったけど夕飯にしましょう」
部屋に入ってきたのは栞さん。
帰宅してから三十分ほどしか経っていないものの、もう夕飯ができたらしい。
栞さんの手にあったトレイを確認し、その役を買って出る。
「じゃ、俺は翠葉にスープを飲ませてから行きます」
「あらそう?」
言いながらトレイを渡された。
その動作を若槻くんが目で追っているのがわかる。
スープカップをまじまじと見てから翠葉の方を向いた。
「……リィはそれしか食べないの?」
「……えと、今だけです。この時期だけ……」
翠葉は引きつった顔で答える。
「あと少ししたら湊も来るわ。そしたら点滴入れてもらえるから」
そう言われてみれば、今日はまだ点滴を打っていなかった。
今日口にした水分量と発汗した水分量。どう考えても現時点では見合わない。全然足りていない。
点滴を入れてもらったら少しは楽になるだろうか……。
改めて翠葉を見ると、表情が強張っていた。
「翠葉……?」
今度は何を不安に思ってる……?
「……何?」
「大丈夫か?」
「……大丈夫だよ」
強張った顔を必死で笑顔に変えようとしていた。
またか――また、言ってもらえない。
「……泣きたいときは泣いていいし、無理に笑わなくていい。無理に大丈夫なんていわなくてもいいから」
トレイをテーブルに置き、翠葉の額に手を乗せると、ひんやりとした体温が伝わってきた。
翠葉の目から零れた涙が頬を伝い落ちる。
「お姫――リィはなんで泣いてるの?」
「なんで、でしょう……。時間の流れが、ゆっくり過ぎて……かな」
「時間の流れ?」
毎年のことだな……。
この時期を翠葉は苦痛に感じる分、普段とは違う時の流れの中に身をおいているのだろう。
それは俺もさして変わりはないけど、翠葉は身体も自由に動かせない分、余計に時間が長く感じるのかもしれない。
俺は正真正銘の健康優良児で、怪我という大きな怪我もせずに過ごしてきているから、実際のところはベッドから動けない、という状況を体験したことがない。
それに比べ、毎年そんな時期があるという翠葉が感じるストレスはどれほどなのか……。
そんなことはいくら考え想像したところで、想像以上のものにはなり得ない。
「……人ってさ、つらいときや嫌なことやってるときって時間が進むのがゆっくりに感じたりしない?」
「あぁ、それならわかるかも」
「蒼くん、そのスープは若槻くんにお願いしたら?」
栞さんに言われて、それがいいと思った。
「あぁ、そうですね。若槻くん、頼める? このスプーンで一口ずつしか飲めないんだけど」
トレイを前に戸惑っているのがよくわかる。
「最初は蒼くんがお手本を見せてあげたらどうかしら?」
言うと、栞さんは部屋から出ていった。
きっと、栞さんも若槻くんが抱えているものを知っているのだろう。
「あーあ……。その役、俺がやりたいの山々なんだけど……。しょうがない、若槻に譲るか」
秋斗先輩も部屋を出ていき、部屋には俺と翠葉と若槻くんが残った。
「あ、の……蒼兄、やっぱり――」
翠葉も彼に負けないくらいには動揺しているらしい。
でもさ、ふたりとも少しがんばってみようよ。
「若槻くん、こうやるんだ」
スプーンに少しスープを掬って翠葉の口元へ運ぶ。と、翠葉は条件反射のように口を開いた。
「一日にこれ三回だけ?」
「あ、えと……本当に、今だけ……だと思います」
翠葉は口にした言葉に嘘が含まれてるかどうかを気にしているような話しぶり。
「嘘うそ、疲れてるときや具合の悪いときはたいていこれしか口にしない。あとがんばって食べるとしたらアンダンテのタルトくらいだよ」
すぐさま、「蒼兄っ」と抗議の目を向けられた。
「だって本当のことだろ?」
急には無理だろう。でも、若槻くんにリハビリが必要なのと同じで、翠葉にも必要なリハビリだと思う。
「翠葉、しばらくは兄がふたりいるんだ。おまえのリハビリにもなるよ。人に甘える、頼るってことをもう少ししてごらん」
徐々にでいい、少しずつでいいから。
少し沈んだ空気のところ、炭酸のように軽快な声が降ってくる。
「じゃ、蒼樹さんは俺のあんちゃんですね」
「若槻くんは二個下だっけ?」
「二十二です」
「じゃ、そうだな。俺には当分の間は弟がいることになる」
さっきもらった名刺を胸ポケットから取り出し、名前を確認して「唯」と声をかけた。
彼は目を丸くしてすぐに細める。
「なんかくすぐったいですね。俺のことを唯って下の名前で呼ぶの、今じゃ蔵元さんだけなので」
はにかんだ顔でそうは言うけれど――
「……え? お父さんとお母さんは?」
すぐに問い返したのは翠葉だった。
彼は、「いないよ」と苦しそうに答える。
妹だけじゃなくて両親もいないのか……!?
もしかしたら、俺が思っているよりももっと深い傷を負っているのかもしれない。
秋斗先輩に、少し彼のバックグラウンドを聞いておいたほうが良さそうだ。
そんな彼の頭をポンポンと叩く。
彼は下を向いたまま何も言わない。
泣けるなら泣いたほうがいい……。
「じゃ、あとは頼むな」
翠葉の食事は彼に頼み、彼のことは翠葉に頼む。
互いに互いを頼みながら部屋を出た。
若槻くん、君が深い傷を負っているのはなんとなくわかった。でも、もし翠葉と接することでその傷が癒せるのなら、今はその傷ついた羽を休めればいい――
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