光のもとで1

葉野りるは

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第六章 葛藤

31話

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「さて、そろそろゲストルームへ戻ろうか」
 秋斗さんの言葉にベッドサイドの時計を見ると五時を回っていた。
 栞さんも帰ってくるころだろう。
 秋斗さんは当然のように私を抱え上げようとする。
「あのっ……歩けるかもしれないから、だから……手を貸してもらってもいいですか?」
 短時間とはいえ、今日はベッドの上で身体を起こすことができた。だからと言って立ち上がれるかは不明だけど、それでも試さずにはいられない。
「俺に抱っこされるのはそんなに嫌?」
「……そういうことじゃなくて、自分で立てるなら自分で立ちたいし、歩きたいから……」
「……了解」
 秋斗さんはため息をつくように口にした。
 上体をゆっくりと起こしてからベッドに腰掛ける。一息ついてから秋斗さんの手を頼りに立ち上がると、途端に眩暈が襲ってきた。そしてすぐ、秋斗さんの腕に包まれた。
「無理、してるんじゃないの?」
「このくらいはいつものことです。少ししたら視界がクリアになるかもしれないから、もう少しだけ待ってください」
 少しの吐き気は否めない。それは仕方のないことだ。
 一分くらいだろうか。そのままでいると徐々に目の前が明るくなってきた。
 秋斗さんから離れようとしたら、
「残念……ずっと抱きしめていたいのに」
 と、頬にキスをされた。
「――もうっ、人前でキスしたら怒りますからねっ!?」
 秋斗さんを睨みつけても、「はいはい」と真面目に取り合ってはもらえない。
 そのまま手を引かれて玄関まで行くものの、決定的な事実が発覚する。
 靴がないのだ。
「やっぱり抱っこだね」
 嬉しそうに笑う秋斗さんを見たのは束の間で、すぐに抱え上げられてしまう。
 やっぱり恥ずかしい……。
「葵には腕を回していたのに、俺にはしてくれないの?」
「高崎さんは特別です……」
「……それ、面白くないな」
「……だって、蒼兄と同じ気がするから」
「なら別にいい、とか言ってあげられるほど心は広くないんだよね」
 そしてすぐ、唇にキスをされた。
「っ……秋斗さんっ」
「何? 誰も見てないよ?」
 と、揚げ足を取るような物言い。
「……秋斗さんは慣れているのかもしれないけど、私は……私は、慣れていないんです」
「……俺だって好きな子にキスをするのは慣れていないけどね」
 秋斗さんは無言で靴を履き、玄関のドアを開け家を出た。
 高崎さんはドアストッパーを使っていたのに、秋斗さんは何も使わずにできちゃうの? それならどうして高崎さんを呼んだのだろう……。
 エレベーターホールに行くと、ちょうどエレベーターが上がってきたところだった。
 ドアの中には蒼兄と若槻さん。
「蒼兄っ」
 思わず蒼兄に手を伸ばしてしまう。
 突如バランスを崩し、秋斗さんの腕から落ちそうになる。
「危ないっ」
 すぐさま受け止めてくれたのは若槻さんだった。
「翠葉ちゃん……今のはないんじゃないかな」
 上から降ってくる秋斗さんの声に、私は振り向くことができなかった。
 声音が、秋斗さんの家へ行くときに高崎さんに向けられたものと同じだったから。
 きっと怒ってる……。
 若槻さんに抱きとめられた私を蒼兄が抱き上げてくれた。
 その蒼兄の首に手を回し、ベッタリとくっつく。
 しばらく蒼兄から離れられそうにはない。
「秋斗さん、リィに何かした?」
「とくには? 恋人にすることをしたくらいじゃないかな」
 秋斗さんは淡々と答えた。
 その声を聞いて心臓が変にドキドキと鼓動を打つ。恥ずかしいとかそういう種類ではなく、なんだか心臓に悪いドキドキだった。
 そうこうしていると、急に雨がザーッと降りだした。
 エレベーターホールから外を眺める。
「緑が喜ぶね……」
「そうだな」
「最悪……。バケツひっくり返したような雨じゃん」
 若槻さんが蒼兄の隣に並んで辟易とした顔をした。
 雨は嫌いじゃない。でも、痛みが出ることが多いから、好きとも言えない。
「リィ?」
「なんでしょう……」
「なんか複雑な顔してる」
「……雨は嫌いじゃないんです。でも、低気圧は好きじゃないかな」
「それ、矛盾してない?」
 言われて少し困った。すると、蒼兄が代わりに答えてくれる。
「雨は好きなんだ。ただ、低気圧が来ると疼痛発作を起こしやすくなるから……。だから苦手なんだよ」
「疼痛まで持ってるのっ!?」
 若槻さんは目を見開く。
「……原因わかってなくて、あまり有効な対処法がないんです」
「そっか……」
 なんとなく暗い雰囲気が立ちこめる中、秋斗さんは一言も発しなかった。
 ただ、そこにいるだけ……。
 きっとさっきの出来事で不機嫌なのだろう。
 どうやって謝ったらいいのかな……。
 秋斗さんのことは好き。でも、少し怖いと思う自分もいる。
 最初のうちは抱きしめられるのもキスされるのも、ドキドキはするけれども嬉しいという感情もあった。
 でも、今は嬉しいよりも怖いという感情のほうが多く占める。
「キス以上」のことを意識したら、途端に怖くなってしまった。
 自分の知らない未知の領域だからだろうか。
 そんなことを考えていると、背後でエレベーターのドアが開いた。振り返った蒼兄が咄嗟に声をかける。
「司、ずいぶん濡れたな」
 エレベーターから降りてきたのは濡れ鼠の司先輩だった。
「……水も滴るいい男?」
 思わず口をついた言葉。
 その言葉にほかの人たちが絶句した。
「わ……余計なこと言ったかも」
「翠……感情駄々漏れっていうか、口から漏れてるから」
 呆れ気味に答えたのは司先輩本人だった。
「すぐそこまで来て急に降られた」
 司先輩は水が滴る前髪をうざったそうにかき上げる。
 うわっ――格好いいっ。
 いつも前髪を下ろしているから知らなかったけれど、司先輩は前髪を上げていても格好良かった。
「翠葉……それこそ感情駄々漏れだ」
 蒼兄にすら呆れられる。
「……だって、格好いいんだもの」
 私たちの隣で若槻さんがくつくつと笑い出す。
「リィは正直だな。彼氏に昇格した秋斗さん形無しだね」
 その場に秋斗さんがいることを思い出してはっとする。
 秋斗さんを見ると、不機嫌に拍車がかかっていた。
 どうしよう……。でも、だって……司先輩格好いいんだもの――
 ついつい物珍しい司先輩に視線を戻してしまう。
「……見られすぎると減る」
 司先輩はわけのわからないことを口にした。
「司、早くシャワー浴びないと風邪ひくぞ」
 蒼兄が言うと、
「そうします。ここにいると、自分がどんどん減りそうなので」
 司先輩は颯爽と湊先生の家へ向かって歩き始めた。
 じっと司先輩を目で追っていると、
「そんなに司の容姿が好き?」
 訊いてきたのは秋斗さんの声だった。
「……えと、すごく格好いいと思います。ど真ん中ストライクくらいには」
「……ここにいるのもなんだから、ゲストルームへ行こう」
 秋斗さんがエレベーターに乗り込み、私たちも続いてエレベーターに乗る。
 九階に着くと、秋斗さんは一言も喋らずゲストルームへ向かって歩きだした。
「……蒼兄、秋斗さん怒らせちゃったかな」
 蒼兄は軽くため息をつき苦笑する。
「好きな子がほかの男を褒めたら誰だって不機嫌になるよ」
「秋斗さんって、実はすっごく嫉妬深いんだ?」
 そう口にしたのは若槻さん。
「でも、彼は確かに格好いいよね?」
 それにコクリと頷くと、蒼兄と若槻さんの視線が私に固定された。
「……何?」
「「顔、真っ赤……」」
 ふたり声を揃えて言う。
「えっ!? だって、すごく格好いいからっ」
 ふたりはおかしそうに笑いだした。
「翠葉、これは先輩が妬いても仕方ないよ」
「確かに」
 若槻さんも蒼兄に同意する。
 先を歩いていた秋斗さんはすでにゲストルームへと姿を消していた。
「私……また秋斗さんに怒られちゃうのかな」
「「またっ!?」」
「うん。今日二度目かも……」
「とりあえず、その話聞きたいから部屋に戻ろう」
 蒼兄は急にスタスタと歩きだした。
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