光のもとで1

葉野りるは

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第六章 葛藤

27話

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 ここ二日、蒼兄と湊先生は同じ時間に出ていく。きっと学校まで一緒に歩いているのだろう。
「私も早く学校に行きたいな……」
 栞さんが掃除をする音を聞きながら小さくぼやく。
 栞さんは家事が終わるとこの部屋で一緒にお茶を飲んで、そのあとは髪の毛を洗ったり身体を拭いてくれる。
「髪の毛、切ってしまおうかと思ったんです」
「そんなもったいないっ」
「でも、洗うの大変でしょう? それは自分が洗うときにも感じていたことなんです。でも――昨日、秋斗さんに切らないでほしいって言われました」
「それで切るのはやめたの?」
 クスクスと笑って訊かれる。
「男の人って長い髪の毛が好きなんでしょうか? よくクラスの男子にも言われるんです」
 ことあるごとに、「その髪は切らないでくれっ」と懇願される。どこか切羽詰まった感じにも聞こえることから、いつも勢いに負けて切らない旨を伝えてしまう。
「男の人が長い髪の毛に惹かれるっていうのは統計的には多いかもしれないわ。でも、秋斗くんのは別だと思うわ」
「え……?」
 視線だけを栞さんに向けると、
「なんて言うのかしら……。単純な話、独占欲じゃないかしら?」
「……でも、髪の毛だけ独占しても私を独占できるわけではないでしょう?」
「あら手強い。でも、現に日中は自分のところで預かりたいなんて言いだすくらいだもの。そのくらいは察してあげなくちゃね?」
 ……どのあたりの何を察したらいいのだろう。
「あ、悩んじゃった?」
「だって……あれは私が空を見たいと言ったからで……」
「それは翠葉ちゃん側の理由であって、秋斗くんにしてみたら口実に過ぎないわ。実際は自分の手元に置いておきたいのよ。目の届くところに、すぐ手を伸ばせるところにいてほしいだけ。そういうのが独占欲」
「……それに似たことを司先輩が言っていました」
「えっ!?」
 今までに見たことがないくらいに栞さんが慌てだす。
「昨日ね、司先輩の恋愛話を聞いたんです」
「何を聞いたのかしら……」
「司先輩は失恋したばかりみたいです。私、びっくりしちゃいました。あんなに格好いい人を振ってしまう人がいるんですね? でも、先輩は諦めるつもりはないって。自分を見てくれるまで待つって……。今はその女の子が笑ってくれて、目の届くところにいてくれればいいって……。それも独占欲ですか?」
 栞さんは小さく息を吐き出した。
「それは独占欲じゃなくて見守るって感じかしらね。司くん、本当にその女の子のことが好きなのよ。だから、その子の幸せを心から願ってるんじゃないかな」
 と、少し切なそうな顔をした。
「……私、先輩の話を聞いて少し羨ましくなっちゃいました」
「え?」
「司先輩はその人しか見ていないだろうから、そこまで想われてるのがなんだか羨ましかったです」
「そうね、ほかの子には見向きもしないでしょうね。……でも、秋斗くんも今はそうなんじゃないかしら?」
「そうでしょうか? 秋斗さんは誰にも優しいですよ?」
「不安?」
「……よくわからないです」
 秋斗さんに対する不安よりも、今は司先輩の気持ちのほうが気になった。
 昨日はよくわからなかった。でも、栞さんが言うことが正しいのなら、それはとても切ない……。
 自分の好きな人が自分ではない別の人を想っていて、自分のことは見てくれない。でも、好きな人が笑顔ならいいなんて――そんなふうに私は思えるだろうか……。
 思えない気がする……。
 苦しくて苦しくて、その人を見ることすらやめてしまいそうだ。
 私の恋は自分主体……? 司先輩の恋は相手主体……? どうしたら――どうしたらそんなふうに相手を思いやれるのかな。どうしたら、そんなに優しくなれるのかな。
 ……司先輩が私に優しかったのは、自分がつらい恋をしていたからなのかもしれない。そんな人に、「がんばってください」なんて、簡単にかけちゃいけない言葉だったかもしれない。でも、だとしたらどんな言葉をかけられただろう。
 ――ないな。
 かけられる言葉なんてない。言えることがあるとしたら、つらくなったら話を聞きます、くらい。
 あ……だから、悩みがあったらいつでも聞くって言ってくれたの?
 ……すごく優しい人なのに、すごくわかりづらい。
 でもいつか、司先輩の心に届く優しさを持てるようになりたい――

 十二時前になると栞さんが部屋に顔を出した。
「じゃ、私は実家に行くけど秋斗くんが来るまではゆっくり休んでいてね」
「はい」
「お昼ご飯は秋斗くんが何か買ってくるって言ってたけど、食べられなければスープがあるから気負わなくていいわ」
 お布団をかけなおしてくれる手を咄嗟に掴んでしまう。
 栞さんは「慣れよ」と言って部屋を出ていった。
 栞さんがいなくなってすぐは、しんとした部屋に自分の鼓動がうるさく思えたけれど、それも束の間で、私はいつしか眠りに落ちていた。


 ん……くすぐったい。
 くすぐったい場所へ手を伸ばす。と、自分の首には触れず別のものが手に当たった。
 びっくりして目を開けると、
「きゃぁっっっ」
 私は咄嗟に壁際まで移動していた。
「おはよう」
 そこにはベッドに腰掛ける秋斗さんがいた。
 私の手に触れたのは秋斗さんの手だったのだ。
 何がなんだかわからなくてもう一度秋斗さんの顔を見る。
「あぁ、ごめんね。すべすべの肌に触りたくなっただけ」
「……そうだったんですね」
 あぁ、びっくりした……。
「あれ? それで終わり?」
「え……?」
「……いや、こっちの話。とりあえず、うちに移ろうか」
 言われてコクリと頷いた。
 きっと高崎さんを呼ぶのだろう。秋斗さんは携帯を手に取り耳に当てる。と、空いている左手は私の手を捕らえた。
 とてもあたたかい手にドキドキする。
「今から来れる? ――じゃ、お願いね」
 それだけを言って切ると、「あ……」と何かを思い出したように口にした。
「どうかしたんですか?」
「社外秘のものが出たままだ。どうするかな……」
 秋斗さんが悩んでいる間に高崎さんがやってきた。
「葵、ちょっと待ってて。俺、上を少し片付けて戻ってくるから」
「了解です」
 秋斗さんはバタバタと部屋を出ていった。
「気分はいかが?」
「午前中に髪の毛を洗ってもらって、身体も拭いてもらってさっぱり」
「良かったね」
 にこりと笑うと高崎くんとそっくりだ。
「あの……毎朝蒼兄のランニングに付き合わされて大丈夫ですか?」
「最初はどうなることかと思ったけど、始めるとやっぱり楽しいよ」
 先日話したときとは口調が変わっていた。
 蒼兄に話すときと変わらない口調が嬉しく思えた。
「高崎さん、お願いがあるんですけど……」
「ん?」
「あの……秋斗さんの家まで連れていってもらえませんか?」
「え……それはちょっと――だって、秋斗先輩がやりたがってることだし……」
「……でも、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうで……」
 さっき手を握られただけでもドキドキした。それを抱っこなんてされたら――
「……俺、先輩に殺されるかも。……でも、いいよ。そんな困った顔をされたらだめとは言えない。俺、ドアストッパー持ってるからひとりでもドアの開け閉めはできるし」
「……良かった。本当にすみません」
「だけど、先輩に詰め寄られたらかばってね?」
「はい」
「じゃ、先輩が戻ってくる前に出よう」
 高崎さんはドアを開けに行き、すぐに戻ってきて私のことを抱えあげてくれた。
「俺、こういうのには慣れてないから、できれば首か肩に腕を回してつかまっててくれる?」
「はい」
 秋斗さんには絶対にできない。でも、高崎さんならできる。蒼兄も平気……。
 この差はなんなのかな? 秋斗さんはやっぱり好きな人だから恥ずかしいのだろうか……。
 高崎さんは玄関を出ると、足で器用にドアストッパーを外した。
 エレベーターに乗り込み、
「先輩は優しいでしょう?」
「はい」
「でも、こういうのは恥ずかしいんだ?」
「……手、つないだりとか……嬉しいけど恥ずかしくて……」
 答えると、高崎さんはクスクスと笑った。
「蒼樹が大事に守ってきた理由が少しわかったかな」
「……あのっ……」
「ん?」
「今度、蒼兄の高校のときのお話を聞かせてもらえますか?」
「いいよ。じゃ、蒼樹がいないときがいいね」
 なんて、いたずらっぽく笑ってくれる。
 そんな話をしている間にエレベーターは十階に着き、高崎さんの表情が強張った。
 エレベーターの前で秋斗さんが仁王立ちしていたのだ。
「葵くん……どうして君が彼女を抱っこしてるのかなぁ」
 きれいな笑顔からは冷気が漂う。
 笑顔なのに目が笑っていない。
「あのっ……ごめんなさい――」
「どうして翠葉ちゃんが謝るの?」
「私がお願いしたから……」
 答えると、秋斗さんの顔から笑顔が消えた。
「とりあえずうちへ……」
 と、葵さんにエレベーターを出るように促す。
「ね、このあとふたりで大丈夫?」
 高崎さんに小声で訊かれた。
「自信はないです……」
「ふたりして何こそこそ話してるの?」
 抑揚すら感じる声にビクリと身が震える。
「先輩……彼女、先輩に抱っこされるのが恥ずかしかっただけなので、あまりいじめないでください」
「そんなの、慣れてもらわないと困るんだよね。葵、ここまででいい。彼女をこちらへ」
 と、手を差し出す。
「翠葉ちゃん、力になれなくてごめんね」
 苦笑をされて、「いいえ」と答える。
「こちらこそごめんなさい。重かったでしょう……?」
「そうだな、肩車したときよりはね」
「ほほぉ……葵はそんな幼少のころの彼女を知ってるわけだ?」
 秋斗さんが強引とも言える動作で私を抱き受ける。
「一度だけですってばっ! 一回会ったことがあるだけですからっ、今度蒼樹にでも言ってアルバム見せてもらってくださいっ。俺、先輩の家のドア開けてきますっ」
 秋斗さんは何も言わずに歩き始める。そして、玄関に入ると高崎さんは静かに玄関のドアを閉めた。
 そのまま廊下を抜けリビングも素通りする。
 寝室のベッドに下ろされても秋斗さんは何も口にしなかった。
 どうしよう――
「さて、どうお仕置きしようかな」
 秋斗さんは先ほどと同じ笑みを浮かべた。
「……ごめんなさい」
「まずは、翠葉ちゃんの口から理由を聞きたいかな」
 ベッドに腰掛けると右手を取られた。
 それだけで鼓動がうるさくなる。思わず手を引っ込めたくなるくらいには……。
「これも嫌?」
「違うのっ――あの……恥ずかしいだけなんです。今までに何度も抱っこされてるし、何度も手を貸してもらっているけど……好きって意識してから、すごく恥ずかしくて……」
 視界に秋斗さんを入れることができず横を向く。と、秋斗さんの手が首筋に伸びてきて顎を捕らえられた。
「……でも、慣れて?」
 と、唇にキスをされる。
 右手は秋斗さんに掴まれたまま。左手もベッドの上に押さえつけられてしまう。
 唇から離れたかと思ったら、こめかみや額、耳から首筋にかけて何度も口付けられた。
「んっ……秋斗さ――や……」
 恥ずかしくてどうにかなってしまいそう。顔だって赤いに違いない。
「お仕置き終了」
 そう言った秋斗さんはいつもと変わらない穏やかな表情をしていた。
 ……もう、怒ってない?
「もう怒ってないよ。これだけキスさせてくれればね」
 どうしたらいいのかわからないくらい恥ずかしくて、でも、隠れようがなくて、手も押さえられたままで――
 気づけば頬を涙が伝っていた。
 嫌だったわけじゃないのに……。
 なんの涙なのか自分でもわからない。
 秋斗さんは涙を吸い取るように口を寄せた。
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