光のもとで1

葉野りるは

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第六章 葛藤

17話

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 エプロンをした栞さんが入ってきて、
「さ、遅くなっちゃったけど夕飯にしましょう」
 栞さんの手にはトレイ。載っているものがスープカップだから私のスープだろう。
「じゃ、俺は翠葉にスープを飲ませてから行きます」
「あらそう?」
 言いながらトレイは蒼兄の手に渡った。
 その様子を若槻さんがじっと目で追っている。
「……リィはそれしか食べないの?」
「……えと、今だけです。この時期だけ……」
 極力心配をかけたくなくて笑みを添える。
「あと少ししたら湊も来るわ。そしたら点滴入れてもらえるから」
 と、栞さんが補足してくれた。
 こんな状態になってからまだ一日しか経っていない。なのに、とても長い時間が過ぎたように感じる。
 昨日からの出来事を思い返し、今日もみんなはいつもと変わらない一日を過ごしているのだろうか、と思う。
 早く時間が過ぎてくれたらいい……。でも、そう思っているときに限って、時間は嫌みたらしくゆっくりと過ぎていく。
 まるで、一歩一歩を踏みしめて、周りの景色を見落とさないように歩いているのではないか、と思うほど。
 実際には一分の長さも一秒の長さも変わってなどいないというのに……。
「翠葉……?」
 心配そうな蒼兄の声。
「……何?」
「大丈夫か?」
「……大丈夫だよ」
 少し笑みを添えるだけなのに、表情がうまく作れない。思うように頬は緩んでくれない。
「……泣きたいときは泣いていいし、無理に笑わなくていい。無理に大丈夫なんて言わなくてもいいから」
 額に大きな手が乗せられる。
 その手があたたかくて、余計に涙を誘う。
「お姫――リィはなんで泣いてるの?」
「なんで、でしょう……。時間の流れが、ゆっくり過ぎて……かな」
「時間の流れ?」
 健康な人にはわかってもらえないだろうか……。
「……人ってさ、つらいときや嫌なことやってるときって時間が進むのがゆっくりに感じたりしない?」
 蒼兄が言うと、「あぁ、それならわかるかも」と若槻さんは答えた。そこへ栞さんの声が割り込む。
「蒼くん、そのスープは若槻くんにお願いしたら?」
 え……?
「あぁ、そうですね。若槻くん、頼める? このスプーンで一口ずつしか飲めないんだけど」
 と、トレイを指差す。
「最初は蒼くんがお手本を見せてあげたらどうかしら?」
 栞さんはそう言うと部屋を出ていった。
「……あーあ。その役、俺がやりたかったのに……。しょうがない、若槻に譲るか」
 言って、秋斗さんも部屋を出ていき、その場には私と蒼兄と若槻さんが残された。
「あ、の……蒼兄、やっぱり――」
 その先を言おうとしたら、蒼兄に制された。
「若槻くん、こうやるんだ」
 ティースプーンに少しスープを取り、口元に運ばれる。
 そこまでされたら口を開けるしかなくて、口に入れられたスープを飲み込んだ。
「一日にこれ三回だけ?」
「あ、えと……本当に、今だけ……だと思います」
「嘘うそ、疲れてるときや具合の悪いときはたいていこれしか口にしない。ほかにがんばって食べるとしたらアンダンテのタルトくらいだよ」
 蒼兄はくつくつと笑いながらすべて白状してしまう。
「蒼兄っ」
「だって本当のことだろ?」
 居たたまれない気持ちでいると、
「翠葉、しばらくは兄がふたりいるんだ。おまえのリハビリにもなるよ。人に甘える、頼るってことをもう少ししてごらん」
 優しく、諭すような声音で言われた。
 強要するのではなく、お互い様だからやってみたらどうかな、と提案された気分。
 すると若槻さんが動く。蒼兄を見て、
「じゃ、蒼樹さんは俺のあんちゃんですね」
「若槻くんは二個下だっけ?」
「二十二です」
「じゃ、そうだな。俺には当分の間は弟がいることになる」
 そして、シャツの胸ポケットから四角い紙を取り出すと、「唯」と若槻さんに声をかけた。
「なんかくすぐったいですね。俺のことを唯って下の名前で呼ぶの、今じゃ蔵元さんだけなので」
「……え? お父さんとお母さんは?」
 不思議に思って訊くと、
「いないよ」
 と、悲しそうな笑みを浮かべて口にした。
 そんな若槻さんに、蒼兄は頭をポンポンと叩き、「じゃ、あとは頼むな」と部屋を出ていってしまった。
「若槻さん、これ……」
 私は枕元に置いてあったティッシュの箱を若槻さんに向ける。
 泣いてると思ったから。
 下を向いて唇を強く噛みしめて――
 けれども、顔を上げた若槻さんはにっこりと笑っていた。
「泣いてないよ。俺、泣けないんだ」
「え……?」
 びっくりしてティッシュの箱を落としてしまう。
 泣いていると思ったのは錯覚……?
 確かに、若槻さんの顔には泣いた痕などどこにもない。
 若槻さんは私が落とした箱など気にも留めず、
「はい、お兄ちゃんより記念すべき第一回目のスープです」
 と、口元にスプーを差し出される。
 ほとんど条件反射で口を開いた。
「俺ね、十九のときに両親と妹を亡くしてから一度も泣いてないんだ。……ひどいだろ? それこそ血も涙もないような人間でね」
 と、悲しい出来事をあっけらかんと話す。
「葬式が終わってからは位牌や骨壷をコインロッカーに入れてたような人間なの」
「あのっ――」
「聞きたくない? そりゃそうだよね。人に聞かせるような話じゃないし、今食事中だもんね」
「そうじゃなくてっ、話したくないんじゃ――」
「話したくないわけでも話したいわけでもないんだよな……」
「無理はしないでください……」
「……リィも無理して笑うでしょ?」
 それを言われると少しつらい。
 そしてまた口元にスプーンが運ばれてきた。それを飲んで思う。
 この人はまるで私と鏡のようだ、と……。
「私たちは少し似てますね」
「え?」
「鏡を見ているみたいです。……だって、同じなのでしょう? 言いたくないことを言おうとしたり、したくないことをしようとしたり、やりたいと思っていてもできなかったり――」
 若槻さんは何も言わない。
「若槻さん、私が無理をしなかったら若槻さんも無理をしないでくれますか?」
「どうかな? 五分五分」
 五分五分と言われると、違う言葉が頭に浮かぶ。それは「Give & Take」。
「……若槻さんも『Give & Take』の人ですか?」
「……質問。それ、ほかに誰がいるのかな?」
「蒼兄です」
「……意味わからないんだけど。基本、兄妹に『Give & Take』も何もないでしょーよ」
 そうなのかもしれないけど――
「でも、私と蒼兄には必要なんです。……だから、もし若槻さんもそうだとしたら、若槻さんは私と蒼兄の関係に少し似ているかも……」
「じゃ、手始めにお兄ちゃんって呼んでもらえる? なんなら唯兄でもいいけど」
 にこりと笑われ言葉に詰まる。と、
「じゃないと、呼称をお姫さんに戻すけど?」
「若槻さん、それ脅迫……」
「なんとでも」
 だいたいにして、蒼兄以外の人を兄と言われても……。
 すぐには受け入れられないし、甘えろというのも無理な話だ。
「すごい顔。苦虫噛み潰したみたいな」
 と、頬をつつかれた。
「リィは表情がコロコロ変わるな。そんなところはセリに似てる」
 せ、り……?
「あぁ、セリって俺の妹」
 と、少し寂しそうな顔で笑った。
 若槻さんは泣けないと言ったけど、たぶん、心ではずっと泣いているんじゃないだろうか……。
「セリはね、とにかくわがままで気が強い子だった。いったい何様だよ、って言いたくなるような子で、そんなところはリィとは似てない。セリがリィみたいだったら、こんなふうにスープを飲ませてあげられたのかな」
 言いながら、スープを口元へ運ばれた。
「……やっぱさ、長期的に付き合ってよ。少しずつ、無理のないように話すから。俺が抱えてるものってぞんがいダークなんだよね。だから、こんな状態のリィに話すことじゃないわ。それに俺も今はまだ話すの無理っぽいから」
 その言葉には嘘や無理が混じっていなくて安心して聞いていられた。
 だから、コクリと頷いた。
「リィもさ、いきなり俺があんちゃんだって言われても難しいだろうから、だから、少しずつ慣れてよ」
 その言葉が嬉しかった。「少しずつ慣れて」という言葉が――
「あれっ!? なんで泣くのっ!? どこら辺にスイッチあった!?」
「……嬉しかったから」
「ええええ!? 何がどの辺が!?」
「あ、えと……あの、どうしよう……」
 涙を手の甲で拭おうとしたら、
「ちょっと待って」
 と、私がさっき落としたティッシュの箱を拾い、何枚かティッシュを引き抜いて涙を拭いてくれた。
「この泣き虫め」
「……若槻さんの分まで泣いてるだけです」
「あ、意外と負けず嫌いちゃんだね?」
 言われて少し笑う。と、若槻さんもクスリと笑った。
 そうこうしていると、ドアの前で固まる人がいた。
「湊先生……?」
 湊先生は医療用のステンレストレイを手に持ち、
「……翠葉が、翠葉が蒼樹以外の男と普通に話してる」
 まるで何か恐ろしい光景でも見たかのような驚きぶりだ。
「こんなの普通でしょ」
 若槻さんが振り返って口にする。
 それからすると、湊先生とは初対面ではなさそうだ。
「翠葉の人見知りの激しさ、あんた知らないの? 蒼樹以外でまともに話せる男なんて海斗と司と秋斗。クラスメイトの男子ひとりくらいなものよ!?」
 湊先生は若槻さんの顔をまじまじと見る。
「翠葉、若槻の変な手管に引っかかったとか言わないわよね?」
「……えと、今日から私にはしばらくふたり目の兄がいるみたいです」
 先生は唖然とした顔で、若槻さんを指差す。
「これがふたり目?」
 コクリと頷く。
「これが、ねぇ……。あんた知ってんの? この子、かなり手ぇかかるわよ?」
「あぁ、人の手使ってご飯食べるとか?」
 と、若槻さんはスープカップを指差した。
「こんなの序の口よ。恋愛の悩みで知恵熱出すわ、勝手に我慢大会し続けてぶっ倒れるわ。あとであんたの携帯にもバイタルチェックの設定するのね」
「あぁ、あれ出来上がってたんだ。年度始めで忙しいってときに何やってるんだか、とは思ってたけど。なんだリィがつけてたんだ」
 と、視線が顔から腕に移る。
 どうやら現物を見たのは初めてのようで、じっくりと観察していた。
「了解。あとで自分のにも入れとく」
 若槻さんは自分の携帯を取り出すと、枕元に置いてあった私の携帯にも手を伸ばす。
「リィ、個人情報もらっていくし、リィの携帯にも俺のデータ入れておくから。あ、湊さん、リィのご飯お願いしてもいいですか? 俺、リィのパソコンの設定済ませちゃいます」
 と、すごい勢いでキーボードを打ち始めた。
 その様子を見て湊先生とふたり唖然とする。
「神の申し子ならぬ、第二の秋斗だわね」
 言いながら、湊先生はスープを口元へ運んでくれた。
 数分すると不満たっぷりの声がする。
「リィ、このパソコン適当に改良してもいい? 動作遅すぎ。全然タイピングについてこない」
 私の返事を待たず、若槻さんはパソコンを持って部屋を出ていった。
「翠葉の周りには一癖ある人間ばかりが集るわね」
「湊先生、それは違うと思うの」
「何が違うのよ」
「静さんの周りにいる人が、だと思いたいもの」
 言うと、湊先生は一瞬間を置いてからお腹を抱えて笑いだした。
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