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第六章 葛藤
15話
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二時前には家に着き、三時半には必要なものをすべてバッグに詰め終わった。
洋服はたたんで入れられるものはバッグに入れ、ハンガーにかかっていたものはそのままハンガーにかけられた状態で一時掛けしてある。
引越し業者さんが来ると、ハンガーにかかった状態でボックスに詰めてくれるらしい。
私にとっては初めての引越し作業。
実質的には間借りするだけで、本当の意味での引越しではないけれど――
このフロアハープは、家に届いてから一度もこの家を出たことはない。
「あなたも私と同じね……」
ハープの高さは一四〇センチ、重さは十六キロもある。
この部屋ができるまでは二階のピアノが置いてあるスペースに置いてあった。この部屋ができてから、私と一緒に二階から下りてきた子。
少し考える。この部屋からフロアハープがなくなったら、と。
部屋の中央に置いてあるフロアハープがなくなると、三畳ほどのスペースがぽっかりと空く。
ただハープがなくなるだけなのに、寒々しい部屋に思えた。
「翠葉ちゃん、こちらはどうされるのですか?」
声をかけられてそちらを見る。と、高崎さんが「こちら」と言ったのは、この部屋に置いてある観葉植物だった。
「あ……置いていきたくはないんですけど――」
でも、持っていったとして、私が世話をしてあげられる余裕はない。
「ならばお持ちしましょう」
高崎さんが優しく微笑む。
「でも、世話をしてあげられるかはわからなくて――」
「それなら高崎くんにフォローしてもらいましょう」
栞さんが最後のアイテムをバッグに詰めながら話に混ざる。
「これでおしまい! 。葵くん、これも車に積んでね」
高崎さんが戻ってくると、
「私はあの敷地内にある植物の管理係でもあるんですよ。住民からのご要望がございましたら、ご自宅の植物もお世話させていただいております」
「彼、優秀よ? 意外とずさんな秋斗くんの家のベンジャミンやポトスが元気なのも、静兄様の家の植物が元気なのも、彼が世話をしてくれるからほかならないわ」
あ――確かに、お部屋においてある植物にはホコリすらかぶってはいなかった。それが示すところは、きちんと定期的に葉っぱを拭いてもらえているということになる。
でも、単なる間借りの身なのにそこまでしてもらっていいものなのか――
かといって、ここに置いていくのも気が引ける。
ずっと一緒に過ごしてきた子たちなのだ。私がつらい時期も何もかもを見てきてくれた子たち。
「翠葉、甘えちゃいな。葵ってさ、俺が知る中では唯一翠葉と対を張れるくらいの緑バカだから」
いつの間にか蒼兄がドア口に立っていた。
「緑バカって……蒼樹、おまえ少し口が悪くなったんじゃないか?」
「……『俺、やっぱり樹木師になる』って書置き残して音信不通、行方不明になる友人にはこんな対応で十分だ」
「あ、悪ぃ……。あのあと、とある樹木師に弟子入りして山中入ったら携帯つながらなくなっちゃってさ。そのまま放置してたら携帯どっかにいっちゃったんだ。あのとき使ってた携帯はお姉名義だったこともあって、いい機会だから解約してもらったんだよ」
蒼兄にとっては空白の数年間を、高崎さんはカラッと話して埋めていく。
「で、一年前に土を探しにやってきたお姉と山でバッタリ鉢合わせてそのまま強制送還食らって戻ってきた。それからは園芸店と花屋、植物リース会社でアルバイトしつつ、インテリアコーディネーター、園芸装飾技能士、フラワー装飾技能士の資格を取って、今じゃ華麗なるグリーンコーディネーターに転身?」
ものすごく行き当たりばったりな気がするのに、まともな人生を歩んでいるように思えるのはどうしてだろう……。
内容が濃いから、かな……。
「っていうか、葵が携帯なくした時点で俺たち連絡の取りようがないじゃん」
蒼兄が呆れたように口にした。
「……あ、本当だ。でも、たぶんどっかで会えると思ってたし」
「葵のその楽天的な考えは全然変わらないな」
蒼兄は呆れた表情のままに、仕方ないな、って感じで笑った。
「それがどうしてうちのコンシェルジュになったの?」
当たり前に浮かぶ疑問を栞さんが尋ねると、
「グリーンのリース会社がウィステリアホテルに出入りしてまして、そのときにオーナーに捕獲されました。自分、植物に携われるのなら職場はどこでもかまわなかったので……。そしたらホテルでも姉にばったり出くわしまして、俺を雇うならこのマンションにしてくださいって、姉がオーナーに直談判したみたいです」
「なんでまた」
蒼兄が訊くと、
「お姉、娘がいるんだよ。今年初等部に上がったばかりなんだけど。シングルマザーだから、子どもを預ける場所が欲しかったみたいでさ」
「なるほどね」
そこで栞さんが手をポンと叩いた。
「納得。その直談判の対価が里実さんの陶芸作品なのね。彼女の作品がうちの系列にしか出回らない理由がわかったわ」
途中から話の内容がわからなくなってしまったけど、「お姉」と「姉」を蒼兄と栞さんで使い分ける高崎さんはすごい。
蒼兄は呆れた顔のまま、
「それで葵は樹木師になれたのか?」
「まだ樹木師に関しては見習い中。あれ、実務経験が七年以上ないとだめでさ」
引越し業者が来るまでの三十分は、こんな話をしながらみんなでお茶を飲んで過ごした。
グリーンコーディネーターか……。
華道よりはこっちのほうが好きかな。
より自然に近い状態を作り、周りとの調和やアクセントを見出す職業。
けれど、何よりも植物の状態を一番に考えていて、植物を助ける立場にいる人たち。
きっと、ブライトネスチャペル周辺の森林もこういう人たちが管理しているのだろう。
だからこそ、人の手が入りすぎていない自然と、歩きやすさを併せ持つ場所を維持できているに違いない。
職業は、普段目にすることがなくても色んなところで密接に関わっているものなのね。
四時になると引越し業者が来て、ハープも厳重に梱包され無事にトラックに積み込まれた。
ハープが部屋からなくなると、想像していたとおりの空間になる。
寒々しい、寂しい部屋に思えた。
「どうした?」
蒼兄の穏やかな声に顔を上げる。
「ん……広いな、と思って」
「ハープがないだけでこんなに広く感じるものなんだな」
と、蒼兄も部屋を見渡す。
「うん……。次にこの部屋に帰ってきても自分の部屋って思えるのかがすごく不安……。ハープがないだけなのに、違う部屋に思える」
すると、ベッドの端に腰掛けた蒼兄から優しい手が伸びてきた。
私の髪を指に巻きつけ、
「大丈夫だよ。翠葉がここに戻るときはハープも一緒だ」
「……そうだね」
「さ、行こうか」
コクリと頷くと、視線を感じてそちらを見る。
「ね? 仲良し兄妹でしょう?」
栞さんと高崎さんがドア口に立っていた。
「自分は高校のときから蒼樹を知っているので、あの天然シスコンヤローは成長なしか、って感想くらいですよ」
なんだか新鮮。蒼兄のお友達、というものが……。
秋斗さんや司先輩と話している感じとはまた違う。
蒼兄の高校時代を知らないわけじゃない。でも、学校での蒼兄は知らない。
どんなふうだったのかな……。
私は色んな蒼兄を知っていると思う。でも、それのどれもが「兄」の顔でしかなかった。
高崎さんに蒼兄のお話聞きたいな……。
「葵、翠葉に余計なこと吹き込むなよっ!?」
「はいはい。翠葉ちゃん、なんでも教えるから訊いてくださいね」
にこりと笑みを向けられた。
「あのっ、たくさん知りたいです」
「喜んで」
「おい、葵っ!?」
そんな光景すら新鮮に思えた。
高校へ通うようになって気づいたことがある。
友達ができて、人と関わるようになって、私の世界は家だけではなくなった。学校という場所にも自分の居場所ができた。
それを感じることができて初めて、蒼兄のことを考えた。
普通に考えるなら、蒼兄にだって家以外の世界が、付き合いがあるだろう。けれども、私にかまう時間が長すぎて、それらの時間を持てないのではないか。
そのくらい、自分に時間を割いてもらっている気がして心苦しくなる。
蒼兄を自由にするには自分が高校を辞めるしかない。でも、そしたら今以上に私は蒼兄を求めてしまうだろう。
蒼兄にも家以外の世界があると、蒼兄独自の人間関係があると知ってもなお、自分の側にいてほしい、家以外に世界がない私と同じでいてほしいと思ってしまうに違いない。
自分の環境が変わるだけで、こうも考え方が変わってしまうのかと思うと、自分がひどく稚拙で薄情に思えた。
それでも、高崎さんと話している蒼兄を見てほっとしている自分もいるのだから矛盾している。
自分勝手だな……。
洋服はたたんで入れられるものはバッグに入れ、ハンガーにかかっていたものはそのままハンガーにかけられた状態で一時掛けしてある。
引越し業者さんが来ると、ハンガーにかかった状態でボックスに詰めてくれるらしい。
私にとっては初めての引越し作業。
実質的には間借りするだけで、本当の意味での引越しではないけれど――
このフロアハープは、家に届いてから一度もこの家を出たことはない。
「あなたも私と同じね……」
ハープの高さは一四〇センチ、重さは十六キロもある。
この部屋ができるまでは二階のピアノが置いてあるスペースに置いてあった。この部屋ができてから、私と一緒に二階から下りてきた子。
少し考える。この部屋からフロアハープがなくなったら、と。
部屋の中央に置いてあるフロアハープがなくなると、三畳ほどのスペースがぽっかりと空く。
ただハープがなくなるだけなのに、寒々しい部屋に思えた。
「翠葉ちゃん、こちらはどうされるのですか?」
声をかけられてそちらを見る。と、高崎さんが「こちら」と言ったのは、この部屋に置いてある観葉植物だった。
「あ……置いていきたくはないんですけど――」
でも、持っていったとして、私が世話をしてあげられる余裕はない。
「ならばお持ちしましょう」
高崎さんが優しく微笑む。
「でも、世話をしてあげられるかはわからなくて――」
「それなら高崎くんにフォローしてもらいましょう」
栞さんが最後のアイテムをバッグに詰めながら話に混ざる。
「これでおしまい! 。葵くん、これも車に積んでね」
高崎さんが戻ってくると、
「私はあの敷地内にある植物の管理係でもあるんですよ。住民からのご要望がございましたら、ご自宅の植物もお世話させていただいております」
「彼、優秀よ? 意外とずさんな秋斗くんの家のベンジャミンやポトスが元気なのも、静兄様の家の植物が元気なのも、彼が世話をしてくれるからほかならないわ」
あ――確かに、お部屋においてある植物にはホコリすらかぶってはいなかった。それが示すところは、きちんと定期的に葉っぱを拭いてもらえているということになる。
でも、単なる間借りの身なのにそこまでしてもらっていいものなのか――
かといって、ここに置いていくのも気が引ける。
ずっと一緒に過ごしてきた子たちなのだ。私がつらい時期も何もかもを見てきてくれた子たち。
「翠葉、甘えちゃいな。葵ってさ、俺が知る中では唯一翠葉と対を張れるくらいの緑バカだから」
いつの間にか蒼兄がドア口に立っていた。
「緑バカって……蒼樹、おまえ少し口が悪くなったんじゃないか?」
「……『俺、やっぱり樹木師になる』って書置き残して音信不通、行方不明になる友人にはこんな対応で十分だ」
「あ、悪ぃ……。あのあと、とある樹木師に弟子入りして山中入ったら携帯つながらなくなっちゃってさ。そのまま放置してたら携帯どっかにいっちゃったんだ。あのとき使ってた携帯はお姉名義だったこともあって、いい機会だから解約してもらったんだよ」
蒼兄にとっては空白の数年間を、高崎さんはカラッと話して埋めていく。
「で、一年前に土を探しにやってきたお姉と山でバッタリ鉢合わせてそのまま強制送還食らって戻ってきた。それからは園芸店と花屋、植物リース会社でアルバイトしつつ、インテリアコーディネーター、園芸装飾技能士、フラワー装飾技能士の資格を取って、今じゃ華麗なるグリーンコーディネーターに転身?」
ものすごく行き当たりばったりな気がするのに、まともな人生を歩んでいるように思えるのはどうしてだろう……。
内容が濃いから、かな……。
「っていうか、葵が携帯なくした時点で俺たち連絡の取りようがないじゃん」
蒼兄が呆れたように口にした。
「……あ、本当だ。でも、たぶんどっかで会えると思ってたし」
「葵のその楽天的な考えは全然変わらないな」
蒼兄は呆れた表情のままに、仕方ないな、って感じで笑った。
「それがどうしてうちのコンシェルジュになったの?」
当たり前に浮かぶ疑問を栞さんが尋ねると、
「グリーンのリース会社がウィステリアホテルに出入りしてまして、そのときにオーナーに捕獲されました。自分、植物に携われるのなら職場はどこでもかまわなかったので……。そしたらホテルでも姉にばったり出くわしまして、俺を雇うならこのマンションにしてくださいって、姉がオーナーに直談判したみたいです」
「なんでまた」
蒼兄が訊くと、
「お姉、娘がいるんだよ。今年初等部に上がったばかりなんだけど。シングルマザーだから、子どもを預ける場所が欲しかったみたいでさ」
「なるほどね」
そこで栞さんが手をポンと叩いた。
「納得。その直談判の対価が里実さんの陶芸作品なのね。彼女の作品がうちの系列にしか出回らない理由がわかったわ」
途中から話の内容がわからなくなってしまったけど、「お姉」と「姉」を蒼兄と栞さんで使い分ける高崎さんはすごい。
蒼兄は呆れた顔のまま、
「それで葵は樹木師になれたのか?」
「まだ樹木師に関しては見習い中。あれ、実務経験が七年以上ないとだめでさ」
引越し業者が来るまでの三十分は、こんな話をしながらみんなでお茶を飲んで過ごした。
グリーンコーディネーターか……。
華道よりはこっちのほうが好きかな。
より自然に近い状態を作り、周りとの調和やアクセントを見出す職業。
けれど、何よりも植物の状態を一番に考えていて、植物を助ける立場にいる人たち。
きっと、ブライトネスチャペル周辺の森林もこういう人たちが管理しているのだろう。
だからこそ、人の手が入りすぎていない自然と、歩きやすさを併せ持つ場所を維持できているに違いない。
職業は、普段目にすることがなくても色んなところで密接に関わっているものなのね。
四時になると引越し業者が来て、ハープも厳重に梱包され無事にトラックに積み込まれた。
ハープが部屋からなくなると、想像していたとおりの空間になる。
寒々しい、寂しい部屋に思えた。
「どうした?」
蒼兄の穏やかな声に顔を上げる。
「ん……広いな、と思って」
「ハープがないだけでこんなに広く感じるものなんだな」
と、蒼兄も部屋を見渡す。
「うん……。次にこの部屋に帰ってきても自分の部屋って思えるのかがすごく不安……。ハープがないだけなのに、違う部屋に思える」
すると、ベッドの端に腰掛けた蒼兄から優しい手が伸びてきた。
私の髪を指に巻きつけ、
「大丈夫だよ。翠葉がここに戻るときはハープも一緒だ」
「……そうだね」
「さ、行こうか」
コクリと頷くと、視線を感じてそちらを見る。
「ね? 仲良し兄妹でしょう?」
栞さんと高崎さんがドア口に立っていた。
「自分は高校のときから蒼樹を知っているので、あの天然シスコンヤローは成長なしか、って感想くらいですよ」
なんだか新鮮。蒼兄のお友達、というものが……。
秋斗さんや司先輩と話している感じとはまた違う。
蒼兄の高校時代を知らないわけじゃない。でも、学校での蒼兄は知らない。
どんなふうだったのかな……。
私は色んな蒼兄を知っていると思う。でも、それのどれもが「兄」の顔でしかなかった。
高崎さんに蒼兄のお話聞きたいな……。
「葵、翠葉に余計なこと吹き込むなよっ!?」
「はいはい。翠葉ちゃん、なんでも教えるから訊いてくださいね」
にこりと笑みを向けられた。
「あのっ、たくさん知りたいです」
「喜んで」
「おい、葵っ!?」
そんな光景すら新鮮に思えた。
高校へ通うようになって気づいたことがある。
友達ができて、人と関わるようになって、私の世界は家だけではなくなった。学校という場所にも自分の居場所ができた。
それを感じることができて初めて、蒼兄のことを考えた。
普通に考えるなら、蒼兄にだって家以外の世界が、付き合いがあるだろう。けれども、私にかまう時間が長すぎて、それらの時間を持てないのではないか。
そのくらい、自分に時間を割いてもらっている気がして心苦しくなる。
蒼兄を自由にするには自分が高校を辞めるしかない。でも、そしたら今以上に私は蒼兄を求めてしまうだろう。
蒼兄にも家以外の世界があると、蒼兄独自の人間関係があると知ってもなお、自分の側にいてほしい、家以外に世界がない私と同じでいてほしいと思ってしまうに違いない。
自分の環境が変わるだけで、こうも考え方が変わってしまうのかと思うと、自分がひどく稚拙で薄情に思えた。
それでも、高崎さんと話している蒼兄を見てほっとしている自分もいるのだから矛盾している。
自分勝手だな……。
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