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25~27 Side 司 01話
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四時ぎりぎりに仕事部屋のドアが開き、四人が出てきた。
カウンターから出てくると、スタンバイしていた放送委員が実況中継を始める。
「じゃ、俺は茜姫をエスコートさせていただこうかな」
朝陽が茜先輩に手を差し出したのを見計らって、俺も翠に手を出した。
何が始まるのか不安そうな表情が見て取れる。
「大丈夫だから……。翠には俺か海斗、佐野か簾条が必ず付く。ひとりにはならないし、参加者の男に触れられることもない」
翠が簾条を振り返ると、
「何があったかは聞いてない。でも、どういう状況なのかは聞いた。大丈夫よ、絶対に怖い思いはさせないから」
「そうそう、うちには腕の立つ男が多いのよ? 会長なんてデジカメ班と称してボディガードみたいなものだし」
嵐が輪をかけるように明るく話しかけた。
「翠、手……」
再度差し出すと、コクリと頷き俺の左手に右手を乗せた。
その手に優しく力をこめる。大丈夫だから、と思いをこめて。
「じゃ、行こうか!」
朝陽の声を合図に図書室を出る。
次は優太の合図があるまでは図書室前の廊下で待機。
テラスはすでに生徒で溢れ返っていた。
それを見た翠が一歩後ずさる。
「広場で参加できるのは総勢一〇〇人までだけど、基本全校生徒参加だから」
安心していい。俺だって最悪なイベントだと思ってる。でも、簾条は翠を喜ばせるためにこのプランを持ってきた。
隣を見ると、翠は不安に青ざめているように見える。
簾条、これで本当に翠が喜ぶんだろうな……。
簾条を見やると、勝気な視線が返される。
「あの……これはいつ決まったイベントなんですか?」
「簾条から話がきたのは先週の土曜日。間に全国模試を挟んだし、翠の薬飲み始めの時期も含めてどうなることかとヒヤヒヤさせられた」
「何から何まで……本当にいつもすみません」
「……今度こそ、貸し借りなしにしてもらいたい」
前方で優太の手が上がった。即ち、イベント開始の合図。
「ここからは、下手でも笑顔を貼り付けて歩いてもらおうか?」
自分にも、翠が氷の女王と名付けた笑みを装着する。と、翠が顔を引きつらせた。
「今考えたこと当てようか? それ、別名称があるらしい」
「あ、それはぜひともうかがいたいです」
「……絶対零度の笑顔だって」
翠は、「納得」という文字を顔に貼り付けた。
「階段を下りて、広場に着いたらすぐに座れる。そこまではがんばって。無理な場合は強制的に横抱きすることになるから」
後半は半ば仕返しのように付け足した言葉。すると、
「……そんな恥ずかしい思いはしたくないのでがんばります」
「努力して」
「ガラス戸開くよ!」
優太の二度目の合図に前を向く。と、途端に手に力がこめられた。
もうここまで来たら出ないわけにはいかない。
「男を見たくなければ目を伏せて歩けばいい。俺がエスコートしてるんだから転びはしない」
「……はい」
図書棟を出ると、甲高い歓声に耳がキンキンした。隣の翠も面食らっている。そこに、
「翠葉ちゃーん!」
聞き覚えのある声に翠も目を向ける。と、会長がカメラを構えていた。
翠がフリーズする間もなくシャッターが切られる。
レンズを向けられるのが苦手だという翠相手に、会長は絶妙なタイミングでシャッターを切った。
先に出た朝陽たちは三メートルほど前を歩いている。
階段に差し掛かる手前で、手をぎゅっと握られた。
隣を見ると、目が泳いでいる……というよりは視点が定まっていなかった。
眩暈か……?
「翠、右手を俺の右手に。左手で腰から支える。歩けるところまで行こう」
歓声にかき消されないよう翠の耳元で話すと、翠は小さく頷いた。けれども、手を握る力は強まる一方で、顔が歪み始める。
周りに男がいるだけで苦痛なのかもしれない。
存在自体がだめなのか……? それなら――
「いつものシャットアウト機能使えば?」
翠は「あ……」という形に口を開いて俺を見上げた。しかし、間を置かずして、
「……先輩、何か話してくれませんか? 先輩の声だけに集中すればシャットアウトできるかも……」
「……話、ね。俺の苦手分野なんだけど」
「すみません……」
話をするのは苦手だ。でも、今それが必要だと言うのなら話してやる。
できる限りのフォローはすると決めていた。
来週の天気の話、部活の練習内容、二年次のカリキュラム――思いつくものを片っ端から口にしていた。
翠はそれらに相槌を打ったり、些細な質問を返してくる。そして、少しずつ笑みを見せ始めたところで芝生広場にたどり着いた。
ここには一年B組の人間と、その二倍の生徒しかいない。男女のバランスもきちんと取れているため、男ばかりが目に入ることもない。
翠は周りを見回し自分のドレスを見ると、
「先輩……みんなが着ている衣装はどこから調達したんですか?」
「持っている人間は自前。持ってない人間は演劇部や嵐の家から貸し出し」
「……荒川先輩のおうち?」
「嵐の家はウェディング系の貸し衣装店」
説明しながら会場に用意された仰々しい席に着くと、海斗がやってきた。
「翠葉、かわいいな! これ、絶対に蒼樹さん見たかったと思うぞ。あとで写真見せてあげな!」
どさくさに紛れて何枚か写真を撮っていった。すると、
「翠葉、カメラは写真部と海斗しか持ってないから安心して」
簾条がすかさずフォローに入る。
簾条はずっと翠の後ろに控えていて、ドレスの裾を直したり甲斐甲斐しく動き回る。
しばらくすると吹奏楽部の演奏が始まった。
翠がそちらに視線を移す。
……目に入ったか? 翠の好きなピアノだろ。
「……ベーゼンドルファーがどうして――」
と、俺を見上げる。
「弾けるように手配するって言っただろ」
「っ……!? まさかここでなんて言いませんよねっ!?」
「もちろん、ここで、だ。やってもらわないと困る。わざわざ業者に依頼して運んでもらったんだ」
戸惑っているのが見て取れるものの、それはどういった種類の戸惑いだろう。
「失敗が怖いならオリジナルを弾けばいい。ピアノにもオリジナル曲はあるだろ?」
挑発するように声を発すると、キッ、と勝気な視線が返された。
本当に意地っ張りの負けず嫌い。
「こんなすてきな舞台、台無しにしてもいいなら弾きますけど」
欲する返答を聞き、俺が手を上げると指揮者の側に控えていた佐野が吹奏楽部の演奏を止めた。さらにはそれが合図となり放送委員の司会進行が入る。
『今から、御園生翠葉によるピアノリサイタルが始まります! 曲は彼女のオリジナル曲! どうぞご清聴お願いいたします!』
ここまではシナリオどおり、何もかもが順調だ。
びっくりしている翠に手を差し出す。「お手をどうぞ」と。
抗議のような視線を向けられたが、人の視線が集まっているからかそれ以上の抵抗は見せなかった。
一段高くなった木製のステージの上にピアノはある。そこへ誘導すると、
「とりあえず二曲か三曲」
時間にして十分弱。翠は何を弾くか逡巡しているようだ。
「この際、即興でもなんでもいいけど?」
なんでもいい。このピアノで翠が弾きたいものを弾けばいい。
今日のイベントは翠のためにあると言っても過言ではないのだから。
「……あんまりいじめると泣きますよっ!?」
まるでライフカードのように口にするからおかしかった。でも――
「……四回続けてはどうかと思うけど?」
「……なら、少し体温分けてくださいっ。緊張しっぱなしで手首痛い」
震える両手を目の前に出された。
その手首を取ると、昨日と同様に冷たくなっていた。
六月だというのに、
「どうしたらこんなに冷たくなるんだか……」
「人が驚くようなことをサラッとするからでしょうっ!?」
まるで小型犬に噛み付かれた気分だ。
「それは申し訳ない」
と、表面上は謝って見せる。翠は不服そうな顔をしたけれど、
「……ありがとうございます。もう、大丈夫……。でも、本当にどうなっても知りませんからっ」
そうは言いつつも、ステージ中央に立つと自然な動作で礼をし、ゆっくりとピアノの前に座った。
鍵盤を前に頭が右に傾ぐ。けれども数秒後には元の位置に頭を戻し、鍵盤に手を乗せペダルに足をかけた。
弾き始めたそれは軽いタッチの曲で、ひとつのモチーフをどんどん変化させていくような変奏曲だった。おそらく即興演奏。
即興演奏でここまで自由に弾けるものなんだな……。
音を外すこともなければ、危うげな演奏もしない。
高度な技術を要するものではないものの、音の連なりを聴いて楽しめるものだった。
きっと翠が言ったとおりなのだろう。ハープよりも綿密な感情表現ができている気がした。それはまるで、ピアノと対話しているようにも見える。
二曲目はしっとりとした和を彷彿とさせる曲だった。
少し悲しげな旋律なのに、どこか希望が見えてくるような――そんな曲の展開。
弾き終わるとあたりから拍手喝采が沸き起こる。
これだけ弾けて、なぜあんなにも不安そうだったのかがわからない。
もう少し自信を持ってもいいようなものを……。
翠が深呼吸をひとつして、鍵盤に手を乗せると拍手が止んだ。
そうして始まった演奏は聞き覚えのあるものだった。
木曜日、翠が壊れたように弾いていたハープの旋律……。痛々しいほどに悲しみが伝わってくる旋律。
きれいすぎて脆すぎて、触れることすらできないような繊細な音たちがあたりに響き、風に吹かれて桜香苑へと吸い込まれていく。
何度となく、新しいフレーズへのきっかけになりそうな音が鳴るのに、それは次へ進めず悲しみの旋律を繰り返す。
結局、最後まで悲しい音のまま終焉を迎えた。
弾き終わっても会場からは拍手の音は聞こえない。皆が演奏に呑まれていた。どちらかというと、「負」の感情に。
中には泣いている人間もいた。
翠の演奏はある意味凶器だな――
でも、弾かずにはいられなかったのだろう。
翠は十分すぎるほどゆっくりと椅子から立ち上がり、ステージ中央に立つとドレスを少しつまんでお辞儀をした。
そこまでしてようやくパラパラと拍手が鳴り始めた。
翠は頭を下げたまま動かなかった。異変を感じ、すぐに彼女のもとへ行く。
客側に自分が立つようにして翠の右腕を取る。と、翠は静かに顔を上げ、涙をポロポロと零していた。
「つらいんだな……」
「…………」
「今泣いている聴衆が何人いると思う?」
「……だから、どうなっても知らないって事前に断ったじゃないですか」
「それ、泣きながら言い返すことか?」
「そうだ……私、泣いてるんですけど、どうしましょう……」
なんだか奇妙な会話だ。でも、対策はしてある。
「安心しろ。ステージの裏に四方を囲んだブースがある。そこで嵐が待ってる。それに、これから茜先輩のソロリサイタルだ。聴衆はそっちに気を取られる」
「え……里見先輩のリサイタルって……?」
翠の中でカチリと音が鳴った気がした。何かが切り替わる感じ。
「先輩は声楽をやってる。高一のときにアルバムも出した」
「知らなかった……」
自分では切り替えることができないけど、人に話を提供されれば意外と簡単に切り替えられるのかもしれない。
「それ、すごく聴きたいです……」
「なら、早く顔を直してこい」
言って、翠をブースの中へと押しやった。
カウンターから出てくると、スタンバイしていた放送委員が実況中継を始める。
「じゃ、俺は茜姫をエスコートさせていただこうかな」
朝陽が茜先輩に手を差し出したのを見計らって、俺も翠に手を出した。
何が始まるのか不安そうな表情が見て取れる。
「大丈夫だから……。翠には俺か海斗、佐野か簾条が必ず付く。ひとりにはならないし、参加者の男に触れられることもない」
翠が簾条を振り返ると、
「何があったかは聞いてない。でも、どういう状況なのかは聞いた。大丈夫よ、絶対に怖い思いはさせないから」
「そうそう、うちには腕の立つ男が多いのよ? 会長なんてデジカメ班と称してボディガードみたいなものだし」
嵐が輪をかけるように明るく話しかけた。
「翠、手……」
再度差し出すと、コクリと頷き俺の左手に右手を乗せた。
その手に優しく力をこめる。大丈夫だから、と思いをこめて。
「じゃ、行こうか!」
朝陽の声を合図に図書室を出る。
次は優太の合図があるまでは図書室前の廊下で待機。
テラスはすでに生徒で溢れ返っていた。
それを見た翠が一歩後ずさる。
「広場で参加できるのは総勢一〇〇人までだけど、基本全校生徒参加だから」
安心していい。俺だって最悪なイベントだと思ってる。でも、簾条は翠を喜ばせるためにこのプランを持ってきた。
隣を見ると、翠は不安に青ざめているように見える。
簾条、これで本当に翠が喜ぶんだろうな……。
簾条を見やると、勝気な視線が返される。
「あの……これはいつ決まったイベントなんですか?」
「簾条から話がきたのは先週の土曜日。間に全国模試を挟んだし、翠の薬飲み始めの時期も含めてどうなることかとヒヤヒヤさせられた」
「何から何まで……本当にいつもすみません」
「……今度こそ、貸し借りなしにしてもらいたい」
前方で優太の手が上がった。即ち、イベント開始の合図。
「ここからは、下手でも笑顔を貼り付けて歩いてもらおうか?」
自分にも、翠が氷の女王と名付けた笑みを装着する。と、翠が顔を引きつらせた。
「今考えたこと当てようか? それ、別名称があるらしい」
「あ、それはぜひともうかがいたいです」
「……絶対零度の笑顔だって」
翠は、「納得」という文字を顔に貼り付けた。
「階段を下りて、広場に着いたらすぐに座れる。そこまではがんばって。無理な場合は強制的に横抱きすることになるから」
後半は半ば仕返しのように付け足した言葉。すると、
「……そんな恥ずかしい思いはしたくないのでがんばります」
「努力して」
「ガラス戸開くよ!」
優太の二度目の合図に前を向く。と、途端に手に力がこめられた。
もうここまで来たら出ないわけにはいかない。
「男を見たくなければ目を伏せて歩けばいい。俺がエスコートしてるんだから転びはしない」
「……はい」
図書棟を出ると、甲高い歓声に耳がキンキンした。隣の翠も面食らっている。そこに、
「翠葉ちゃーん!」
聞き覚えのある声に翠も目を向ける。と、会長がカメラを構えていた。
翠がフリーズする間もなくシャッターが切られる。
レンズを向けられるのが苦手だという翠相手に、会長は絶妙なタイミングでシャッターを切った。
先に出た朝陽たちは三メートルほど前を歩いている。
階段に差し掛かる手前で、手をぎゅっと握られた。
隣を見ると、目が泳いでいる……というよりは視点が定まっていなかった。
眩暈か……?
「翠、右手を俺の右手に。左手で腰から支える。歩けるところまで行こう」
歓声にかき消されないよう翠の耳元で話すと、翠は小さく頷いた。けれども、手を握る力は強まる一方で、顔が歪み始める。
周りに男がいるだけで苦痛なのかもしれない。
存在自体がだめなのか……? それなら――
「いつものシャットアウト機能使えば?」
翠は「あ……」という形に口を開いて俺を見上げた。しかし、間を置かずして、
「……先輩、何か話してくれませんか? 先輩の声だけに集中すればシャットアウトできるかも……」
「……話、ね。俺の苦手分野なんだけど」
「すみません……」
話をするのは苦手だ。でも、今それが必要だと言うのなら話してやる。
できる限りのフォローはすると決めていた。
来週の天気の話、部活の練習内容、二年次のカリキュラム――思いつくものを片っ端から口にしていた。
翠はそれらに相槌を打ったり、些細な質問を返してくる。そして、少しずつ笑みを見せ始めたところで芝生広場にたどり着いた。
ここには一年B組の人間と、その二倍の生徒しかいない。男女のバランスもきちんと取れているため、男ばかりが目に入ることもない。
翠は周りを見回し自分のドレスを見ると、
「先輩……みんなが着ている衣装はどこから調達したんですか?」
「持っている人間は自前。持ってない人間は演劇部や嵐の家から貸し出し」
「……荒川先輩のおうち?」
「嵐の家はウェディング系の貸し衣装店」
説明しながら会場に用意された仰々しい席に着くと、海斗がやってきた。
「翠葉、かわいいな! これ、絶対に蒼樹さん見たかったと思うぞ。あとで写真見せてあげな!」
どさくさに紛れて何枚か写真を撮っていった。すると、
「翠葉、カメラは写真部と海斗しか持ってないから安心して」
簾条がすかさずフォローに入る。
簾条はずっと翠の後ろに控えていて、ドレスの裾を直したり甲斐甲斐しく動き回る。
しばらくすると吹奏楽部の演奏が始まった。
翠がそちらに視線を移す。
……目に入ったか? 翠の好きなピアノだろ。
「……ベーゼンドルファーがどうして――」
と、俺を見上げる。
「弾けるように手配するって言っただろ」
「っ……!? まさかここでなんて言いませんよねっ!?」
「もちろん、ここで、だ。やってもらわないと困る。わざわざ業者に依頼して運んでもらったんだ」
戸惑っているのが見て取れるものの、それはどういった種類の戸惑いだろう。
「失敗が怖いならオリジナルを弾けばいい。ピアノにもオリジナル曲はあるだろ?」
挑発するように声を発すると、キッ、と勝気な視線が返された。
本当に意地っ張りの負けず嫌い。
「こんなすてきな舞台、台無しにしてもいいなら弾きますけど」
欲する返答を聞き、俺が手を上げると指揮者の側に控えていた佐野が吹奏楽部の演奏を止めた。さらにはそれが合図となり放送委員の司会進行が入る。
『今から、御園生翠葉によるピアノリサイタルが始まります! 曲は彼女のオリジナル曲! どうぞご清聴お願いいたします!』
ここまではシナリオどおり、何もかもが順調だ。
びっくりしている翠に手を差し出す。「お手をどうぞ」と。
抗議のような視線を向けられたが、人の視線が集まっているからかそれ以上の抵抗は見せなかった。
一段高くなった木製のステージの上にピアノはある。そこへ誘導すると、
「とりあえず二曲か三曲」
時間にして十分弱。翠は何を弾くか逡巡しているようだ。
「この際、即興でもなんでもいいけど?」
なんでもいい。このピアノで翠が弾きたいものを弾けばいい。
今日のイベントは翠のためにあると言っても過言ではないのだから。
「……あんまりいじめると泣きますよっ!?」
まるでライフカードのように口にするからおかしかった。でも――
「……四回続けてはどうかと思うけど?」
「……なら、少し体温分けてくださいっ。緊張しっぱなしで手首痛い」
震える両手を目の前に出された。
その手首を取ると、昨日と同様に冷たくなっていた。
六月だというのに、
「どうしたらこんなに冷たくなるんだか……」
「人が驚くようなことをサラッとするからでしょうっ!?」
まるで小型犬に噛み付かれた気分だ。
「それは申し訳ない」
と、表面上は謝って見せる。翠は不服そうな顔をしたけれど、
「……ありがとうございます。もう、大丈夫……。でも、本当にどうなっても知りませんからっ」
そうは言いつつも、ステージ中央に立つと自然な動作で礼をし、ゆっくりとピアノの前に座った。
鍵盤を前に頭が右に傾ぐ。けれども数秒後には元の位置に頭を戻し、鍵盤に手を乗せペダルに足をかけた。
弾き始めたそれは軽いタッチの曲で、ひとつのモチーフをどんどん変化させていくような変奏曲だった。おそらく即興演奏。
即興演奏でここまで自由に弾けるものなんだな……。
音を外すこともなければ、危うげな演奏もしない。
高度な技術を要するものではないものの、音の連なりを聴いて楽しめるものだった。
きっと翠が言ったとおりなのだろう。ハープよりも綿密な感情表現ができている気がした。それはまるで、ピアノと対話しているようにも見える。
二曲目はしっとりとした和を彷彿とさせる曲だった。
少し悲しげな旋律なのに、どこか希望が見えてくるような――そんな曲の展開。
弾き終わるとあたりから拍手喝采が沸き起こる。
これだけ弾けて、なぜあんなにも不安そうだったのかがわからない。
もう少し自信を持ってもいいようなものを……。
翠が深呼吸をひとつして、鍵盤に手を乗せると拍手が止んだ。
そうして始まった演奏は聞き覚えのあるものだった。
木曜日、翠が壊れたように弾いていたハープの旋律……。痛々しいほどに悲しみが伝わってくる旋律。
きれいすぎて脆すぎて、触れることすらできないような繊細な音たちがあたりに響き、風に吹かれて桜香苑へと吸い込まれていく。
何度となく、新しいフレーズへのきっかけになりそうな音が鳴るのに、それは次へ進めず悲しみの旋律を繰り返す。
結局、最後まで悲しい音のまま終焉を迎えた。
弾き終わっても会場からは拍手の音は聞こえない。皆が演奏に呑まれていた。どちらかというと、「負」の感情に。
中には泣いている人間もいた。
翠の演奏はある意味凶器だな――
でも、弾かずにはいられなかったのだろう。
翠は十分すぎるほどゆっくりと椅子から立ち上がり、ステージ中央に立つとドレスを少しつまんでお辞儀をした。
そこまでしてようやくパラパラと拍手が鳴り始めた。
翠は頭を下げたまま動かなかった。異変を感じ、すぐに彼女のもとへ行く。
客側に自分が立つようにして翠の右腕を取る。と、翠は静かに顔を上げ、涙をポロポロと零していた。
「つらいんだな……」
「…………」
「今泣いている聴衆が何人いると思う?」
「……だから、どうなっても知らないって事前に断ったじゃないですか」
「それ、泣きながら言い返すことか?」
「そうだ……私、泣いてるんですけど、どうしましょう……」
なんだか奇妙な会話だ。でも、対策はしてある。
「安心しろ。ステージの裏に四方を囲んだブースがある。そこで嵐が待ってる。それに、これから茜先輩のソロリサイタルだ。聴衆はそっちに気を取られる」
「え……里見先輩のリサイタルって……?」
翠の中でカチリと音が鳴った気がした。何かが切り替わる感じ。
「先輩は声楽をやってる。高一のときにアルバムも出した」
「知らなかった……」
自分では切り替えることができないけど、人に話を提供されれば意外と簡単に切り替えられるのかもしれない。
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