光のもとで1

葉野りるは

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第五章 うつろう心

20話

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 公道に出てから左側にカーブする下り坂を下りて行くとバス停がある。そのバス停から終点の駅まで行けば藤倉市街。
 この時間は部活をやっている人が大半のため、私たちのほかに生徒の姿はなかった。そして、時間も時間なのでバス自体も混んでおらず、ふたり並んで座ることができた。
「先輩はなんの用事なんですか?」
「オーダーしていたものを取りに行く。それだけ」
「何を?」
「行けばわかる」
 どうしてここで教えてくれないのかな。優しいかと思えば秘密主義だ。
「あ、先輩。写真撮ってもいいですか?」
「却下。それ、海斗絡みか何かだろ?」
「当たり……。どうしてわかったんですか?」
「海斗の考えそうなことだから」
「……え?」
「翠はわからなくていい」
 と、その話は終わりにされてしまった。

 道が混んでいないと学校から駅まではバスで十五分くらい。
「先に翠の用事を済ませよう」
 言われて駅向こうの楽器店に行くことになった。
「ハープ、昨日弾いてた曲の曲名は?」
「え……?」
「昨日、繰り返し同じようなフレーズ弾いてたけど……」
「……ごめんなさい。私、あまりそのときのこと覚えてなくて……」
 蒼兄と話したのはなんとなく覚えている。でも、何を話したのかは覚えていないし、いつ眠ってしまったのかもわからない。
「……大丈夫なの?」
 何がだろう、と思って先輩を見上げると、
「いや、なんでもない」
 と、問いかけは取り下げられた。
「なんか、司先輩らしくないですね」
「俺らしいって?」
「うーん……俺様?」
 次の瞬間には司先輩に両頬をつままれていた。
「いはいえふ(痛いです)」
 無言で無反応かと思ったらこんな仕打ち……。
「俺、そんなに傲慢なつもりはないけど?」
 そんな言葉なら先輩らしいと思える。
「そういう物言いのほうが先輩らしくて好き」
 つままれた頬をさすりながら言うと、
「だから性質が悪いんだ……」
「え?」
 訊き返してみたけれど、今度は返事をくれなかった。

 楽器店に着くと、買おうと思っていたスペア弦を手に取り楽譜コーナーに視線を向ける。
「少し楽譜を見てもいいですか?」
「かまわない」
 私は作曲者別に並べられている本棚の一角に立ち、ショパンの楽譜に目を走らせる。
 たまにはモーツァルトもいいか、とそちらへ視線を向けたものの、違う棚でピース売りされているラフマニノフの嬰ハ短調プレリュードが目についた。
 何度か聴いたことがある。厳かで激しい、そんな曲。
 今弾くならモーツァルトよりもこっちかもしれない。
 そう思って、その楽譜とスペア弦を購入した。

 六月とあって、まだあたりは暗くならない。
 蒸し暑さと日の長さに、夏の気配を濃く感じる。
「ピアノとハープ、どっちが好きなの?」
「んー……長くやっているのはピアノです。ピアノは三歳から、ハープは小学五年生のときから。どちらも好きですけど、表現しやすいのはピアノかな? 長く弾いてきた分勝手度合いが違うみたいで」
「ピアノはベーゼンドルファーが好き?」
「なんで……って蒼兄しかいないですよね」
「当たり。うちの学校にベーゼンドルファーがあるって知った途端、御園生さんの目か輝きだしたから」
「でも私、その話は蒼兄から聞いてなかったんです。オリエンテーションでミュージックホールを回ったときに先生の説明で知りました」
「近いうちに弾かせてもらえるよう手配する」
「え!? 本当ですか!?」
「食いつき良好すぎないか?」
「だってっ、ベーゼンドルファーですよっ!?」
 言った直後にはっとする。
「……それ、また貸しになったりしますか?」
「さぁ、どうかな」
 先輩は言いながら笑みを深めた。

「駅に戻ったら休憩しよう」
「はい」
 デパートの一階にあるカフェに、先輩は慣れた足取りで入っていく。私は少し緊張しながらその後についていった。
 カウンターで私はルイボスティーをオーダーし、司先輩はコーヒーをオーダー。
 席に着いてコーヒーを口にすると、先輩の表情が緩む。
 普段あまり見ることのない表情を見られると少し嬉しい。
「何を笑ってる?」
 訊かれて、答えようかどうしようか悩んで答えることにした。
「先輩、いつもコーヒーを飲むときに少しだけ表情が優しくなるんです。それを見られると得した気分になれるの」
「――ずいぶんと安上がりだな」
 これは照れ隠しだろうか。
 少しずつだけど、先輩のことがわかってきた気がする。
 先輩はコーヒーを飲み終えると、「ちょっと待ってて」と席を立った。
 先輩はレジカウンターに並んでいる。店員さんがコーヒー豆を手に取ったところから、コーヒー豆をオーダーしていることがうかがえた。
 それを見て、用事とはコーヒー豆を買うことだったのか、と思う。
「あれ? でも、オーダーしてあるものを取りに行くって言ってなかったっけ……?」
 不思議に思って首を傾げると、右肩に軽い衝撃があった。
「ねぇ、ひとり?」
 声の主を振り返る。と、知らない男の人が立っていた。
 誰だろう……?
「こんなところでひとりでお茶してるくらいなら遊びに行こうよ」
 ……テーブルには私の飲んでいるカップとコーヒーカップがあるわけだけど、この人の目には入らないのだろうか。
「あの、人を待っているのでごめんなさい」
「いいじゃん。そんなのすっぽかしちゃえば」
「……あの、知り合いではないですよね?」
 どこかで会ったことがあるのだろうか……。
 ないと思うのだけど、何分、自分の記憶に自信が持てない。こと、人の顔の記憶には拍車をかけて。
「今、知り合ったってことでいいじゃん」
 言っている意味がよくわからない。
「翠」
 後ろから先輩に腕を掴まれた。
「あ、先輩……」
 振り返り見上げたら、すごく怖い顔をした先輩がいた。
 切れ味抜群の目が見ていたのは私ではなく、声をかけてきた人に向けられていた。
「彼女に何か用でも?」
「ちっ、男連れかよ……」
 その人は近くの椅子を蹴飛ばし、人ごみへと見えなくなった。
 司先輩はひとつ深く呼吸をすると、
「翠、今の何かわかってる?」
「今の……? 今のが何かって、何がですか?」
「世間知らずにもほどがあるだろっ!?」
「ごめんなさいっ」
 怒鳴られたことに萎縮し、条件反射で謝罪の言葉を口にした。
 でも、本当は何を怒られているのかまったくわかっていなかった。ただ怖くて、怖くてたまらなくて……。
 普段から人に怒鳴られることなどない。また口を開いたら怒られるんじゃないかと不安になる。それでも――
「ごめん、なさい――でも、理由がわからない……。どうして? どうしてそんなに怒ってるんですか?」
「……大声出して悪かった。今の、ナンパだから。もしくはキャッチ。ついて行くと痛い目みるよ」
「ナンパ……? キャッチ? それは何?」
「――要は、身体目当てに女を漁ってる連中」
 衝撃的な言葉に絶句する。
 そんなの知らなかったし、私、ちゃんと人を待ってるって断わったのに……。
「ごめん……泣かすつもりはなかった。ただ、翠があまりにも無防備すぎるから」
「ごめんなさい……。でも、ちゃんと人を待ってるって伝えたし、ついていこうなんて思ってなかった――」
 涙が次々と溢れだす。
「悪い……立って、少し歩ける? ここで話すような内容でもないから」
 言われて、「こっち」と手を引かれるままに歩きだした。

 涙で前が見えない。でも、手を引かれるままについていくと、誰にぶつかることなく歩くことができた。
「座って」
 言われてベンチに腰掛ける。と、先輩は私の前に立った。
「さっきみたいなの初めて?」
 コクリと頷く。
「今まで一度もなかったわけ?」
 少し驚いた声が降ってきた。
「ないです。だって……ここまで来るときは両親か蒼兄が一緒のときだけだし……」
 先輩は額に手を当て、「なるほど」と呟いた。
「この駅周辺、ああいうの多いから。翠の性格を考えると難しいかもしれないけど、ああいうのは無視するんだ。じゃないと付け込まれる。ひどい場合は力ずくで連れていかれる。――ひとりにして悪かった」
「……人攫い?」
「――ちょっと違うけど、まぁそんなところ。少しえぐい言葉を使うならレイプ。連れていかれたら強姦されてもおかしくない」
「っ……!?」
 止まったはずの涙が再び出てくる。
 だから――だから、先輩はあんなに怖い顔をしたんだ。
「ごめんなさい……。本当にごめんなさい」
「わかればいい……。二日も続けて泣き顔なんて見せるな」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていいから。少し落ち着いて……頼むから泣き止んでほしい」
 すごく困った顔でお願いされた。
「手……少しだけ貸してもらえますか?」
「……手?」
 先輩は不思議そうにしつつも右手を差し出してくれる。
 緊張したからなのか、急激に手先が冷えて痛くなっていた。
 差し出してくれたその手を両手で握る。と、
「ひどく冷たいけど……」
「体温、少しだけ分けてください」
 泣き笑いでお願いする。
「……寒気は?」
「いえ……ただ、手首まで冷たくなってしまってちょっと痛くて……」
 先輩は隣のベンチに座り、両の手で私の手首を握ってくれた。
「……悪い、すごい緊張させた」
「いえ……知らない人に声をかけられた時点で緊張はしてましたから……」
「だから、ひとりにして悪かった」
「……先輩、ごめんと悪い禁止です」
 そう言って少し笑うと、先輩がほっとしたような顔を見せた。
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