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第五章 うつろう心
03話
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「やっぱり翠葉ちゃんたちのほうが早かったわね」
「でも、栞さん来るの早いです。まだ一時ですよ?」
「学校を出る前に秋斗くんから連絡をもらっていたの。でも、実家にお客様がいらしてて、なかなか抜けられなくてこの時間」
秋斗さんを振り返ると、
「密室に翠葉ちゃんとふたりきりっていうのはそう長くいられないからね」
その言葉に少し前の会話を思いだして頬が熱を持つ。
「じゃ、僕はこのあと会議だからもう行くね」
玄関へ向かう秋斗さんを見て寂しいと思った。
「翠葉ちゃん、私、お肉とお魚を冷蔵庫に入れなくちゃいけないの。お見送り、お願いしてもいいかしら?」
「あっ、はい」
慌てて秋斗さんの背を追った。玄関では靴を履き終わった秋斗さんがドアノブに手をかけたところ。
「秋斗さん、今日は送ってくれてありがとうございました」
「……今は警護対象だから。でも、六日以降は違うからね」
と、笑みを深められる。
秋斗さんの車を見送ってため息ひとつ。
「顔は格好いいと思う。でも、好みかと言われると違う気がする。……なのに、どうしてあんなに格好良く見えるんだろう……」
家に入るとキッチンで栞さんが何かを作っていた。
栞さんの手元を覗き見ると、クラッカーの上にチーズやトマト、ハムやきゅうり、ジャムを乗せている。
「オードブル……?」
「うん。ちょっと目先の変わったものになれば食欲も湧くんじゃないかと思って」
確かに、ご飯という形で目の前にドンと出されるとどうしても身を引いてしまう。でも、ちょこっとつまんで食べる、という形ならばかまえずに食べられる気がした。
「ほかにはサラダを作りましょう」
「はい」
私は栞さんが切った食材をクラッカーに乗せる手伝いをした。
「そうだ、全国模試の日、前日からうちに泊りに来る?」
「え……いいんですか?」
「もちろん。前日は翠葉ちゃんの誕生日だし、腕を揮うわ!」
「あ……でも、お昼は秋斗さんとランチの約束をしていて……」
「あら、よかったわね。うちには泊るのだから夜でも大丈夫。秋斗くんの家はうちの隣だから、帰りは送ってもらえばいいわ」
「嬉しい……。蒼兄に連絡しなくちゃ」
「蒼くんは五日から一泊だったかしら?」
「はい。そうですけど……?」
「なんならその週はうちで過ごすのはどう?」
「嬉しいですけど……。でも、そこまで長居するのは迷惑じゃないですか?」
「迷惑なわけないじゃない。湊とも一緒にご飯を食べられるし、一石二鳥よ」
「……じゃ、甘えちゃおうかな?」
「一日の朝に持って行くものを用意しておいてくれたら、私が家に帰るときに車で運ぶわ」
「わかりました。朝までに用意しておきます」
「久しぶりにケーキも焼こうかしら?」
そんな話をしながら、半分はキッチンでオードブルをつまんで食べた。
お行儀が悪いけど、たまにはこういうのもいいな。
軽食を食べ終えると古典と英語のテスト勉強を始めた。
大嫌いな科目なのに、このノートだけは別物。嫌いとか苦手という意識がどこへいってしまったのかを不思議に思う。
黙々と勉強すること三時間。五時過ぎには蒼兄が帰ってきた。
両手に資料をいっぱい抱えた蒼兄が窓の外に見つけ、慌てて窓を開け、それらの荷物を受け取った。
きっと学会で使われる資料なのだろう。
「蒼兄あのね、中間考査の順位、三位だったよ!」
「お、がんばったな。でも、俺は万年一位だったけどな」
「むぅ……でも、一位の海斗くんと三点差だったもの」
「じゃ、あともう一息だな。でも、よくがんばったよ。未履修分野のテストもパスしてるし」
蒼兄の手が頭に置かれて満足する。
「蒼くんに翠葉ちゃん、ずいぶんと変な会話してないかしら? 自覚ある?」
栞さんに訊かれてふたり顔を見合わせる。
「藤宮よ? 藤宮で三位ってかなりすごいことだと思うんだけど……」
蒼兄が少し考えてから、「あぁ、そうでしたね」と答えた。
「翠葉ちゃんも、わかってる? 藤宮ってこのあたりでは偏差値トップの進学校よ?」
そう言われてみれば……。
「目標がいつも蒼兄だから、すっかり失念していました」
「翠葉ちゃんらしいわね」
栞さんは苦笑を漏らす。
今までの私は目標となるものが蒼兄しかいなくて、常に蒼兄のあとを追いかけてきた。迷わず、蒼兄の歩いた軌跡をたどってきたのだ。
でも、それも高校までだろう。私は大学には行かないと思う。そう、心のどこかで思っている。
大学に行かなければどうするのか――
その答えはまだ出ていない。いつか選択しなくてはいけないその日まで、少しでもいいから何かを見出しておきたい。じゃないと、不安でどうにかなってしまいそうだ。
「翠葉?」
「……ん?」
「どうかした?」
「ううん。あ、あのね、一日から六日まで栞さんのおうちに泊ることになったの」
蒼兄は話の方向転換に気づいたようだけれど、そのことについて問い詰めてくることはなかった。
「栞さん、いいんですか?」
キッチンに立つ栞さんに声をかけると、
「全然問題ないわ。そしたらその間の盗聴チェックも何も必要なくなるし、湊とも一緒にご飯食べられるし」
「あぁ、あのマンションなら安心だな」
と蒼兄も表情を緩ませた。
今日は夕方の五時に藤倉の駅前デパートで両親と待ち合わせ。
食事をするのはウィステリアホテルなので、車はホテルのパーキングに停めてかまわないとのこと。
朝ご飯を食べながら、
「四時過ぎには出るようかな」
蒼兄が腕時計を見て言う。
「じゃ、そのくらいまでには用意を済ませるね」
朝食を終えると食器洗い機に食器を入れて稼動させる。そのあとは洗濯物。
午前中に全部終わらせて、午後に少し休めば夕方には復調しているだろう。
体調には余裕を持って行動しているつもりだった。けれど、お庭で洗濯物を干しているとき、急に目の前が真っ暗になり、次の瞬間には意識を手放していた。
「……は、翠葉っ」
身体を揺さぶられて目を開ける。視界には蒼兄とその後ろに水色――
空……?
手や顔に触れているものはひんやりと冷たかった。土や芝の匂いがすぐ近くでして、ようやくブラックアウトの末に倒れたことを思い出す。
「大丈夫か? 具合は? 頭打ってないか?」
吐き気はない。眩暈もない。手足が冷たい感覚もとくにはない。右の腕がじんわりと痛い気がしたけれど、倒れるときに下になったか何かだろう。
「大丈夫……」
「今日、やめておくか?」
「それは嫌……。今、何時?」
「十時五十分」
洗濯物を干し始めたのが四十分だから、そんなに長い間気を失っていたわけでもない。
「たぶんね、痛み止めを常用してるから。だから血圧が下がってきているんだと思うの」
最近はあまり自分のバイタルを見ないようにしていた。日に日に下がっていく血圧と体温。それらの数値を見るだけでも気が滅入りそうだったから。
「痛みは?」
「大丈夫。定期的に時間がきたら飲むようにしているから」
痛くなってから飲むのでは、先日のようなことになりかねない。だから、六時間おきに飲むことにした。それも、模試を乗り切るために自分で決めたこと。でも――できれば六日までは投薬を開始したくない。
三日はテストが終わったら病院で検査をして、湊先生の診察を受けることになっている。そのとき、お願いしてみようか……。でも、さすがに却下されるだろうか。
「あとは俺が干しておくから、出かけるまで横になってな」
蒼兄の手を取って身体を起こし、自室の窓から部屋へ上がる。
「学会前で忙しいのにごめんなさい」
「そんなことは気にしなくていいから」
ベッドに横になり、蒼兄の後ろ姿を見てため息ひとつ。
楽しみなことはあるのに、その周りには不安因子ばかりな気がする……。
まるでバランスが取れない自分の気持ちに困り果て、助言を欲してメール画面を起動した。
件名 :こういうときはどうしますか?
本文 :自分の気持ちのバランスが取れなくて
気持ちを持て余してしまうとき、
司先輩ならどうしますか?
司先輩のイメージとして、簡潔な言葉しか返ってきそうにない。今はそれを期待して司先輩を選んだ。
返信はすぐに来た。
件名:Re:こういうときはどうしますか?
本文:精神統一、瞑想、寝る。
予想通りに簡潔な返信だったけれど、若干簡潔すぎて意味を解することが難しい。
精神統一も瞑想も、今の私にはできる気がしない。唯一できそうなのは「寝る」だろうか。
「……寝ちゃおう」
「でも、栞さん来るの早いです。まだ一時ですよ?」
「学校を出る前に秋斗くんから連絡をもらっていたの。でも、実家にお客様がいらしてて、なかなか抜けられなくてこの時間」
秋斗さんを振り返ると、
「密室に翠葉ちゃんとふたりきりっていうのはそう長くいられないからね」
その言葉に少し前の会話を思いだして頬が熱を持つ。
「じゃ、僕はこのあと会議だからもう行くね」
玄関へ向かう秋斗さんを見て寂しいと思った。
「翠葉ちゃん、私、お肉とお魚を冷蔵庫に入れなくちゃいけないの。お見送り、お願いしてもいいかしら?」
「あっ、はい」
慌てて秋斗さんの背を追った。玄関では靴を履き終わった秋斗さんがドアノブに手をかけたところ。
「秋斗さん、今日は送ってくれてありがとうございました」
「……今は警護対象だから。でも、六日以降は違うからね」
と、笑みを深められる。
秋斗さんの車を見送ってため息ひとつ。
「顔は格好いいと思う。でも、好みかと言われると違う気がする。……なのに、どうしてあんなに格好良く見えるんだろう……」
家に入るとキッチンで栞さんが何かを作っていた。
栞さんの手元を覗き見ると、クラッカーの上にチーズやトマト、ハムやきゅうり、ジャムを乗せている。
「オードブル……?」
「うん。ちょっと目先の変わったものになれば食欲も湧くんじゃないかと思って」
確かに、ご飯という形で目の前にドンと出されるとどうしても身を引いてしまう。でも、ちょこっとつまんで食べる、という形ならばかまえずに食べられる気がした。
「ほかにはサラダを作りましょう」
「はい」
私は栞さんが切った食材をクラッカーに乗せる手伝いをした。
「そうだ、全国模試の日、前日からうちに泊りに来る?」
「え……いいんですか?」
「もちろん。前日は翠葉ちゃんの誕生日だし、腕を揮うわ!」
「あ……でも、お昼は秋斗さんとランチの約束をしていて……」
「あら、よかったわね。うちには泊るのだから夜でも大丈夫。秋斗くんの家はうちの隣だから、帰りは送ってもらえばいいわ」
「嬉しい……。蒼兄に連絡しなくちゃ」
「蒼くんは五日から一泊だったかしら?」
「はい。そうですけど……?」
「なんならその週はうちで過ごすのはどう?」
「嬉しいですけど……。でも、そこまで長居するのは迷惑じゃないですか?」
「迷惑なわけないじゃない。湊とも一緒にご飯を食べられるし、一石二鳥よ」
「……じゃ、甘えちゃおうかな?」
「一日の朝に持って行くものを用意しておいてくれたら、私が家に帰るときに車で運ぶわ」
「わかりました。朝までに用意しておきます」
「久しぶりにケーキも焼こうかしら?」
そんな話をしながら、半分はキッチンでオードブルをつまんで食べた。
お行儀が悪いけど、たまにはこういうのもいいな。
軽食を食べ終えると古典と英語のテスト勉強を始めた。
大嫌いな科目なのに、このノートだけは別物。嫌いとか苦手という意識がどこへいってしまったのかを不思議に思う。
黙々と勉強すること三時間。五時過ぎには蒼兄が帰ってきた。
両手に資料をいっぱい抱えた蒼兄が窓の外に見つけ、慌てて窓を開け、それらの荷物を受け取った。
きっと学会で使われる資料なのだろう。
「蒼兄あのね、中間考査の順位、三位だったよ!」
「お、がんばったな。でも、俺は万年一位だったけどな」
「むぅ……でも、一位の海斗くんと三点差だったもの」
「じゃ、あともう一息だな。でも、よくがんばったよ。未履修分野のテストもパスしてるし」
蒼兄の手が頭に置かれて満足する。
「蒼くんに翠葉ちゃん、ずいぶんと変な会話してないかしら? 自覚ある?」
栞さんに訊かれてふたり顔を見合わせる。
「藤宮よ? 藤宮で三位ってかなりすごいことだと思うんだけど……」
蒼兄が少し考えてから、「あぁ、そうでしたね」と答えた。
「翠葉ちゃんも、わかってる? 藤宮ってこのあたりでは偏差値トップの進学校よ?」
そう言われてみれば……。
「目標がいつも蒼兄だから、すっかり失念していました」
「翠葉ちゃんらしいわね」
栞さんは苦笑を漏らす。
今までの私は目標となるものが蒼兄しかいなくて、常に蒼兄のあとを追いかけてきた。迷わず、蒼兄の歩いた軌跡をたどってきたのだ。
でも、それも高校までだろう。私は大学には行かないと思う。そう、心のどこかで思っている。
大学に行かなければどうするのか――
その答えはまだ出ていない。いつか選択しなくてはいけないその日まで、少しでもいいから何かを見出しておきたい。じゃないと、不安でどうにかなってしまいそうだ。
「翠葉?」
「……ん?」
「どうかした?」
「ううん。あ、あのね、一日から六日まで栞さんのおうちに泊ることになったの」
蒼兄は話の方向転換に気づいたようだけれど、そのことについて問い詰めてくることはなかった。
「栞さん、いいんですか?」
キッチンに立つ栞さんに声をかけると、
「全然問題ないわ。そしたらその間の盗聴チェックも何も必要なくなるし、湊とも一緒にご飯食べられるし」
「あぁ、あのマンションなら安心だな」
と蒼兄も表情を緩ませた。
今日は夕方の五時に藤倉の駅前デパートで両親と待ち合わせ。
食事をするのはウィステリアホテルなので、車はホテルのパーキングに停めてかまわないとのこと。
朝ご飯を食べながら、
「四時過ぎには出るようかな」
蒼兄が腕時計を見て言う。
「じゃ、そのくらいまでには用意を済ませるね」
朝食を終えると食器洗い機に食器を入れて稼動させる。そのあとは洗濯物。
午前中に全部終わらせて、午後に少し休めば夕方には復調しているだろう。
体調には余裕を持って行動しているつもりだった。けれど、お庭で洗濯物を干しているとき、急に目の前が真っ暗になり、次の瞬間には意識を手放していた。
「……は、翠葉っ」
身体を揺さぶられて目を開ける。視界には蒼兄とその後ろに水色――
空……?
手や顔に触れているものはひんやりと冷たかった。土や芝の匂いがすぐ近くでして、ようやくブラックアウトの末に倒れたことを思い出す。
「大丈夫か? 具合は? 頭打ってないか?」
吐き気はない。眩暈もない。手足が冷たい感覚もとくにはない。右の腕がじんわりと痛い気がしたけれど、倒れるときに下になったか何かだろう。
「大丈夫……」
「今日、やめておくか?」
「それは嫌……。今、何時?」
「十時五十分」
洗濯物を干し始めたのが四十分だから、そんなに長い間気を失っていたわけでもない。
「たぶんね、痛み止めを常用してるから。だから血圧が下がってきているんだと思うの」
最近はあまり自分のバイタルを見ないようにしていた。日に日に下がっていく血圧と体温。それらの数値を見るだけでも気が滅入りそうだったから。
「痛みは?」
「大丈夫。定期的に時間がきたら飲むようにしているから」
痛くなってから飲むのでは、先日のようなことになりかねない。だから、六時間おきに飲むことにした。それも、模試を乗り切るために自分で決めたこと。でも――できれば六日までは投薬を開始したくない。
三日はテストが終わったら病院で検査をして、湊先生の診察を受けることになっている。そのとき、お願いしてみようか……。でも、さすがに却下されるだろうか。
「あとは俺が干しておくから、出かけるまで横になってな」
蒼兄の手を取って身体を起こし、自室の窓から部屋へ上がる。
「学会前で忙しいのにごめんなさい」
「そんなことは気にしなくていいから」
ベッドに横になり、蒼兄の後ろ姿を見てため息ひとつ。
楽しみなことはあるのに、その周りには不安因子ばかりな気がする……。
まるでバランスが取れない自分の気持ちに困り果て、助言を欲してメール画面を起動した。
件名 :こういうときはどうしますか?
本文 :自分の気持ちのバランスが取れなくて
気持ちを持て余してしまうとき、
司先輩ならどうしますか?
司先輩のイメージとして、簡潔な言葉しか返ってきそうにない。今はそれを期待して司先輩を選んだ。
返信はすぐに来た。
件名:Re:こういうときはどうしますか?
本文:精神統一、瞑想、寝る。
予想通りに簡潔な返信だったけれど、若干簡潔すぎて意味を解することが難しい。
精神統一も瞑想も、今の私にはできる気がしない。唯一できそうなのは「寝る」だろうか。
「……寝ちゃおう」
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