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第三章 恋の入口
22話
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「あの……秋斗さんはどうして『俺』と『僕』を使い分けてるんですか?」
そう訊いたとき、図書室の入り口が開いた。
先に私を中へ入れると、
「それは、自分を抑制するため、かな……」
「なんですか、それ……」
カウンターへ歩きながら訊く。
「いや、翠葉ちゃん相手には『僕』であるほうが、翠葉ちゃんがいいと思ってね。もし、翠葉ちゃんがかまわないなら『俺』にするけど……どうする?」
怪しい光が目に灯る。
気分的にはライフカードの選択を迫られている気分なわけで……。
テーブルでカウンター寄りに座っていた春日先輩がこちらを振り向いた。
「秋斗先生、なんつー会話してんですか」
いつものように明るく会話に混ざってきた春日先輩に、
「何って、そういう話」
と、なんでもないことのように答える。
「それってつまり……」
「ん? 俺ね、今、翠葉ちゃん口説き中だから邪魔しないでね」
にこりと笑って答えると、私はカウンターの奥へと追いやられた。
秋斗さんの言葉にもびっくりしたけれど、春日先輩が気になって後ろを振り返る。と、「マジでっ!?」という顔をしていた。
そうこうしている間に仕事部屋のロックが解除され、中へ連行されてしまう。
春日先輩はどう思っただろう。……というよりは、あの場にいたメンバー全員に聞かれてしまったのではないだろうか。
ダイニングスツールに掛けた秋斗さんに、
「嫌だった?」
「……何が、ですか?」
「あそこにいたメンバーに知られるの」
「嫌、というよりは恥ずかしくて……」
視線は床に落ちてしまう。
「ごめんね? でも、翠葉ちゃんの周りにいる男どもは一応牽制しておかないとね」
と、にこりと笑う。
きっと何を言っても無駄だろう。秋斗さんが行動を改めるとは思えない。
「あのね、僕に好かれるのは開き直ったほうがいいと思うよ?」
そう本人が言うのだから間違いない。
「開き直れるように努力します……」
答えれば笑われてしまうのだからたまらない。
「あまり笑うと篭りますよっ!?」
少し睨んでみると、効果はあったようななかったような……。
「笑わないしいじめないから、そこにいて」
微笑むと、何事もなかったように仕事を始めてしまった。
一度集中してしまえばとくに何を意識することもなく、暗記科目に時間を費やすことができた。
三時を回ると司先輩が入ってきて、ダイニングテーブルに勉強道具を広げた。
「あれ? 司、今日は湊ちゃんのところに真っ直ぐ帰らないの?」
秋斗さんが尋ねると、
「御園生さんが迎えにくるまで」
「なんで?」
「見張り」
短いやり取りの末、
「こっちにかまってないで仕事すれば?」
司先輩の一言に秋斗さんは苦笑した。
五時半を回ると蒼兄が迎えに来た。
「翠葉、帰れるか?」
「うん。ちょっと待って、この問題だけ終わらせたい」
解きかけだった問題を解くと、問題集をかばんにしまった。
「司がこの時期ここにいるのは珍しいな? いつもだったら湊さんちで勉強してるだろ?」
蒼兄が司先輩を見やる。と、
「自分、感謝されてもいいと思います」
「は?」
「俺がいなかったら翠は秋兄に取って食われてたかもしれませんよ」
な、なんてことをっ!?
「ひどいな、司。取って食いやしないよ。ただ愛でるだけ」
秋斗さんもっ、そんな受け答えはやめてくださいっ。
慌てているのは私ひとりで、
「翠葉、人気者だな」
蒼兄は和やかに答えた。
なんか、いつもと違う……。
思わず蒼兄の顔をまじまじと見てしまう。
「翠葉ちゃん、ふたりとも知ってるから」
「え?」
何を……?
「僕が翠葉ちゃんに打診していること」
「何を、ですか?」
「つまり、僕が君に好きだと言ったことや、付き合いたいと思っていること、かな?」
……嘘っ!?
「本当は翠葉の口から聞きたかったんだけど……」
蒼兄が言えば、
「俺はちゃんと翠から聞きましたけど?」
と、答える司先輩。
何!? なんなのっ!?
「あ、どうやらパニック起こしてるみたいだから連れて帰りますね」
まるで物か何かを扱うみたいに言う蒼兄が信じられない。
背中を押されるがままに図書棟を出ると、真っ直ぐ駐車場へ向かう。
歩いている途中、蒼兄が口を開いた。
「森林浴から帰ってきた日、あまりにも翠葉がおかしかったし、夜中には高熱出すしでさ。翌日、先輩を問い詰めてしまったんだな……。それで知ってた」
「……そうなのね。今日くらいには蒼兄にも話せそうだったからいいのだけど……。でも、自分の知らないところで話をされているのはちょっと嫌……」
「そうだよな、ごめん」
「いつもなら牽制しに入るのに、普通に見守られているから何かと思っちゃった」
「それね……。いつものノリなら確かに牽制もするんだけど」
と、一度言葉を区切った。
なんだろう、と思って蒼兄の顔を見上げると、一陣の風が舞い込む。
蒼兄の柔らかい髪の毛も、私の長い髪の毛もふわっと舞い上がり、手で髪をおさえようとしたら何か聞こえた。
「何? 聞こえなかった」
「本気なんだってわかっちゃったんだ」
こちらを向いた蒼兄は苦笑い。
苦笑いというよりも、どこか諦めたような笑いだった。
「秋斗先輩、遊びでも気まぐれでもなんでもない。ちゃんと翠葉を見てるんだ。だから、その先は翠葉しだいだな、と思って」
その言葉には何も返せなかった。
十分わかったつもりでいたけれど、人から聞くのと自分でなんとなく理解しているのは違うみたいで……。
「さすがにさ、いくら兄バカでも妹の気持ちに介入するほど愚かじゃないよ。ここからは翠葉ひとりの問題だ。……迷ってることや悩んでることならいつでも聞く。でも、最後に答えを出すのは翠葉じゃなきゃだめだ」
言われていることは難しいことでもなんでもなくて、たぶん当たり前のこと。
そのあと、私に向けられた眼差しはとてもあたたかく優しいものだった。
「正直、どうしたらいいのかわからないの。お試しで恋愛なんて言われてもぴんとこないし……。ちょっと逃げたい気分。秋斗さんのこと嫌いじゃないけど、答えは『Yes』か『No』の二者択一なのがなんかやだな……」
そんな話をしていると車に着いた。
帰りはアンダンテに寄ってケーキを買ってくれた。
それは、「ちょっと立ち入りすぎたお詫び」らしい。
私には苺タルト、蒼兄はチーズタルト、栞さんには季節のフルーツタルトを買って帰った。
家に帰ればいつもと同じように栞さんが玄関まで出迎えてくれる。
今日の夕飯は栞さんのお手製ピザ。
生地からトマトソースまで全部栞さんの手作り。
家の中はすでにピザのいい香りがしていた。
「あと十分もしないで焼けるから、手洗いうがい済ませちゃいなさい」
「じゃぁこれ、お願いしてもいいですか?」
アンダンテの箱を渡すと、
「あら、どうしたの? ケンカでもした?」
蒼兄がアンダンテのケーキを買ってくるときは、たいてい私の機嫌が悪いからだろう。
「……そういうわけでもないんですけど、あとで話しますね」
と、一度自室へと引き上げた。
制服を着替え、手洗いうがいを済ませる。と、部屋に置いてある植物に視線をめぐらす。
ベンジャミンもアンスリウムもアイビーも、みんな元気。
少しだけ霧吹きで水をかけ葉水を与える。それらが終わるとリビングに戻った。
蒼兄は早くもダイニングテーブルに着いていて、栞さんが飲み物を運んできたところだった。
「なあに? 何があったの? 蒼くん、口割らないんだけど」
「んー……蒼兄曰く、立ち入りすぎてごめんなさいケーキ、でしょうかね?」
「あら、蒼くんたら、翠葉ちゃんかわいさに何かしでかしちゃったのね?」
「そんなつもりはなかったんですけど、箱を開けてみたらそんな感じで……」
苦笑しながら答える蒼兄がおかしかった。
ピザが焼けて、ダイニングテーブルに大きなお皿が二枚とサラダやフルーツが並ぶ。
週の半分以上は和食がメインなので、とても新鮮な食卓に感じた。
クリスピー生地のパリパリとした食感が癖になる。
「栞さん、お試しで恋愛ってしたことありますか?」
「お試しで恋愛? お見合いみたいなもの? 互いがまったく知らないで顔を合わせて試しに何度か会ってフィーリングを確かめるっていう方法のこと?」
それとは何か違う気がする。
「いえ、お見合いではなくて……。お互いのことは知っていて、なおかつお試し……かなぁ?」
「あら、翠葉ちゃん誰かに告白でもされたのね?」
う゛……。
「図星……?」
「……栞さんも知っている人なんです」
「……翠葉ちゃんの知り合いで私の知っている人って言ったら――そんなこと言いそうなのは秋斗くんしかいないわね。当たり?」
「……正解です。でも、テスト前で考える余裕ないのに、放課後には会うことになってしまうので、ちょっといっぱいいっぱい」
苦笑して答えると、
「あぁ、そっか。そこまでは考えてなかった」
と、蒼兄が零す。
「蒼くんを待つ時間、秋斗くんのところだものね?」
栞さんは少し考えてから、
「うちに来る?」
と、小首を傾げた。
「……え?」
「テスト前とテスト期間。うちに泊ってもいいわよ? もしくは夕飯をうちで食べて蒼くんと幸倉に帰ってくるか……。泊ってもらったほうが私は楽だけど」
思わず蒼兄に視線を向けると、
「好きにしていいよ」
と、言われた。
「本当にいいんですか?」
「いいわよ? 幸い、部屋は余っているの。蒼くんも泊れるわよ?」
栞さんが蒼兄を見ると、
「いや、自分は夕飯だけお邪魔させていただいて帰ります。家のパソコンじゃないとできない作業もあるので」
「じゃ、決まり! 明日から翠葉ちゃんはうちにお泊りね。そうと決まったら碧さんたちにも連絡入れなくちゃ」
と、すぐに電話をかけに行く。
「翠葉、電車通学とまでは行かないけど、登下校がひとりだな」
「……本当だ。中学以来初めて……」
登下校がひとりと言っても、本当に目と鼻の先なのだ。
それでも嬉しいと思う。
夕飯が食べ終わるとお泊りの支度をした。
支度といっても、制服と栞さんの家で着る洋服を何着か。それから勉強道具一式。
支度を一通り終えると、
「ケーキを食べましょう」
と、栞さんに声をかけられた。
「さっき碧さんに連絡して許可ももらったから大丈夫。それと、夕飯には湊と司くんと海斗くん。もしかしたら静兄様もくるかもしれないわ」
……全部で七人!?
「そんなに大人数で大丈夫なんですか?」
「あら、七人なんて大した人数じゃないわよ? 藤宮の集まりなんて一〇〇人近くなるんだから」
そもそも規模が違うということをすっかり忘れていた――
うちは多くても家族四人に祖父母と叔父が加わって七人がせいぜい。それ以上の人数で食卓を囲むことはまずない。
「秋斗くんは仕事で毎晩遅いから気にしなくても大丈夫」
「え?」
「だって、秋斗くん避けでうちに来るのでしょう?」
そう言われてみればそうなんだけど――
「蒼兄……避けないでほしいって言われたの。これは避けていることになる?」
「うーん……ならないこともないけど、気になるならテスト期間は栞さんの家に泊ることになったってメールしておけばいいんじゃないかな」
「そうね。そのくらいは教えてあげたほうがいいかもしれないわ」
ふたりに言われてメールを送ることにした。
件名 :テストが終わるまで
本文 :栞さんの家に泊ることになったので、
しばらく図書棟通いはありません。
避けてるわけではなくて、
今はテスト勉強に集中したいので……。
少しだけ、ごめんなさい。
メールを送ると一分と経たないうちに返信メールが届いた。
件名 :了解
本文 :会えないのは寂しいけど、
気が散って勉強に身が入らず
順位落とされるのも困るからね。
おとなしくテストが終わるまで待ってるよ。
テストが終わったら、また出かけようね。
そう訊いたとき、図書室の入り口が開いた。
先に私を中へ入れると、
「それは、自分を抑制するため、かな……」
「なんですか、それ……」
カウンターへ歩きながら訊く。
「いや、翠葉ちゃん相手には『僕』であるほうが、翠葉ちゃんがいいと思ってね。もし、翠葉ちゃんがかまわないなら『俺』にするけど……どうする?」
怪しい光が目に灯る。
気分的にはライフカードの選択を迫られている気分なわけで……。
テーブルでカウンター寄りに座っていた春日先輩がこちらを振り向いた。
「秋斗先生、なんつー会話してんですか」
いつものように明るく会話に混ざってきた春日先輩に、
「何って、そういう話」
と、なんでもないことのように答える。
「それってつまり……」
「ん? 俺ね、今、翠葉ちゃん口説き中だから邪魔しないでね」
にこりと笑って答えると、私はカウンターの奥へと追いやられた。
秋斗さんの言葉にもびっくりしたけれど、春日先輩が気になって後ろを振り返る。と、「マジでっ!?」という顔をしていた。
そうこうしている間に仕事部屋のロックが解除され、中へ連行されてしまう。
春日先輩はどう思っただろう。……というよりは、あの場にいたメンバー全員に聞かれてしまったのではないだろうか。
ダイニングスツールに掛けた秋斗さんに、
「嫌だった?」
「……何が、ですか?」
「あそこにいたメンバーに知られるの」
「嫌、というよりは恥ずかしくて……」
視線は床に落ちてしまう。
「ごめんね? でも、翠葉ちゃんの周りにいる男どもは一応牽制しておかないとね」
と、にこりと笑う。
きっと何を言っても無駄だろう。秋斗さんが行動を改めるとは思えない。
「あのね、僕に好かれるのは開き直ったほうがいいと思うよ?」
そう本人が言うのだから間違いない。
「開き直れるように努力します……」
答えれば笑われてしまうのだからたまらない。
「あまり笑うと篭りますよっ!?」
少し睨んでみると、効果はあったようななかったような……。
「笑わないしいじめないから、そこにいて」
微笑むと、何事もなかったように仕事を始めてしまった。
一度集中してしまえばとくに何を意識することもなく、暗記科目に時間を費やすことができた。
三時を回ると司先輩が入ってきて、ダイニングテーブルに勉強道具を広げた。
「あれ? 司、今日は湊ちゃんのところに真っ直ぐ帰らないの?」
秋斗さんが尋ねると、
「御園生さんが迎えにくるまで」
「なんで?」
「見張り」
短いやり取りの末、
「こっちにかまってないで仕事すれば?」
司先輩の一言に秋斗さんは苦笑した。
五時半を回ると蒼兄が迎えに来た。
「翠葉、帰れるか?」
「うん。ちょっと待って、この問題だけ終わらせたい」
解きかけだった問題を解くと、問題集をかばんにしまった。
「司がこの時期ここにいるのは珍しいな? いつもだったら湊さんちで勉強してるだろ?」
蒼兄が司先輩を見やる。と、
「自分、感謝されてもいいと思います」
「は?」
「俺がいなかったら翠は秋兄に取って食われてたかもしれませんよ」
な、なんてことをっ!?
「ひどいな、司。取って食いやしないよ。ただ愛でるだけ」
秋斗さんもっ、そんな受け答えはやめてくださいっ。
慌てているのは私ひとりで、
「翠葉、人気者だな」
蒼兄は和やかに答えた。
なんか、いつもと違う……。
思わず蒼兄の顔をまじまじと見てしまう。
「翠葉ちゃん、ふたりとも知ってるから」
「え?」
何を……?
「僕が翠葉ちゃんに打診していること」
「何を、ですか?」
「つまり、僕が君に好きだと言ったことや、付き合いたいと思っていること、かな?」
……嘘っ!?
「本当は翠葉の口から聞きたかったんだけど……」
蒼兄が言えば、
「俺はちゃんと翠から聞きましたけど?」
と、答える司先輩。
何!? なんなのっ!?
「あ、どうやらパニック起こしてるみたいだから連れて帰りますね」
まるで物か何かを扱うみたいに言う蒼兄が信じられない。
背中を押されるがままに図書棟を出ると、真っ直ぐ駐車場へ向かう。
歩いている途中、蒼兄が口を開いた。
「森林浴から帰ってきた日、あまりにも翠葉がおかしかったし、夜中には高熱出すしでさ。翌日、先輩を問い詰めてしまったんだな……。それで知ってた」
「……そうなのね。今日くらいには蒼兄にも話せそうだったからいいのだけど……。でも、自分の知らないところで話をされているのはちょっと嫌……」
「そうだよな、ごめん」
「いつもなら牽制しに入るのに、普通に見守られているから何かと思っちゃった」
「それね……。いつものノリなら確かに牽制もするんだけど」
と、一度言葉を区切った。
なんだろう、と思って蒼兄の顔を見上げると、一陣の風が舞い込む。
蒼兄の柔らかい髪の毛も、私の長い髪の毛もふわっと舞い上がり、手で髪をおさえようとしたら何か聞こえた。
「何? 聞こえなかった」
「本気なんだってわかっちゃったんだ」
こちらを向いた蒼兄は苦笑い。
苦笑いというよりも、どこか諦めたような笑いだった。
「秋斗先輩、遊びでも気まぐれでもなんでもない。ちゃんと翠葉を見てるんだ。だから、その先は翠葉しだいだな、と思って」
その言葉には何も返せなかった。
十分わかったつもりでいたけれど、人から聞くのと自分でなんとなく理解しているのは違うみたいで……。
「さすがにさ、いくら兄バカでも妹の気持ちに介入するほど愚かじゃないよ。ここからは翠葉ひとりの問題だ。……迷ってることや悩んでることならいつでも聞く。でも、最後に答えを出すのは翠葉じゃなきゃだめだ」
言われていることは難しいことでもなんでもなくて、たぶん当たり前のこと。
そのあと、私に向けられた眼差しはとてもあたたかく優しいものだった。
「正直、どうしたらいいのかわからないの。お試しで恋愛なんて言われてもぴんとこないし……。ちょっと逃げたい気分。秋斗さんのこと嫌いじゃないけど、答えは『Yes』か『No』の二者択一なのがなんかやだな……」
そんな話をしていると車に着いた。
帰りはアンダンテに寄ってケーキを買ってくれた。
それは、「ちょっと立ち入りすぎたお詫び」らしい。
私には苺タルト、蒼兄はチーズタルト、栞さんには季節のフルーツタルトを買って帰った。
家に帰ればいつもと同じように栞さんが玄関まで出迎えてくれる。
今日の夕飯は栞さんのお手製ピザ。
生地からトマトソースまで全部栞さんの手作り。
家の中はすでにピザのいい香りがしていた。
「あと十分もしないで焼けるから、手洗いうがい済ませちゃいなさい」
「じゃぁこれ、お願いしてもいいですか?」
アンダンテの箱を渡すと、
「あら、どうしたの? ケンカでもした?」
蒼兄がアンダンテのケーキを買ってくるときは、たいてい私の機嫌が悪いからだろう。
「……そういうわけでもないんですけど、あとで話しますね」
と、一度自室へと引き上げた。
制服を着替え、手洗いうがいを済ませる。と、部屋に置いてある植物に視線をめぐらす。
ベンジャミンもアンスリウムもアイビーも、みんな元気。
少しだけ霧吹きで水をかけ葉水を与える。それらが終わるとリビングに戻った。
蒼兄は早くもダイニングテーブルに着いていて、栞さんが飲み物を運んできたところだった。
「なあに? 何があったの? 蒼くん、口割らないんだけど」
「んー……蒼兄曰く、立ち入りすぎてごめんなさいケーキ、でしょうかね?」
「あら、蒼くんたら、翠葉ちゃんかわいさに何かしでかしちゃったのね?」
「そんなつもりはなかったんですけど、箱を開けてみたらそんな感じで……」
苦笑しながら答える蒼兄がおかしかった。
ピザが焼けて、ダイニングテーブルに大きなお皿が二枚とサラダやフルーツが並ぶ。
週の半分以上は和食がメインなので、とても新鮮な食卓に感じた。
クリスピー生地のパリパリとした食感が癖になる。
「栞さん、お試しで恋愛ってしたことありますか?」
「お試しで恋愛? お見合いみたいなもの? 互いがまったく知らないで顔を合わせて試しに何度か会ってフィーリングを確かめるっていう方法のこと?」
それとは何か違う気がする。
「いえ、お見合いではなくて……。お互いのことは知っていて、なおかつお試し……かなぁ?」
「あら、翠葉ちゃん誰かに告白でもされたのね?」
う゛……。
「図星……?」
「……栞さんも知っている人なんです」
「……翠葉ちゃんの知り合いで私の知っている人って言ったら――そんなこと言いそうなのは秋斗くんしかいないわね。当たり?」
「……正解です。でも、テスト前で考える余裕ないのに、放課後には会うことになってしまうので、ちょっといっぱいいっぱい」
苦笑して答えると、
「あぁ、そっか。そこまでは考えてなかった」
と、蒼兄が零す。
「蒼くんを待つ時間、秋斗くんのところだものね?」
栞さんは少し考えてから、
「うちに来る?」
と、小首を傾げた。
「……え?」
「テスト前とテスト期間。うちに泊ってもいいわよ? もしくは夕飯をうちで食べて蒼くんと幸倉に帰ってくるか……。泊ってもらったほうが私は楽だけど」
思わず蒼兄に視線を向けると、
「好きにしていいよ」
と、言われた。
「本当にいいんですか?」
「いいわよ? 幸い、部屋は余っているの。蒼くんも泊れるわよ?」
栞さんが蒼兄を見ると、
「いや、自分は夕飯だけお邪魔させていただいて帰ります。家のパソコンじゃないとできない作業もあるので」
「じゃ、決まり! 明日から翠葉ちゃんはうちにお泊りね。そうと決まったら碧さんたちにも連絡入れなくちゃ」
と、すぐに電話をかけに行く。
「翠葉、電車通学とまでは行かないけど、登下校がひとりだな」
「……本当だ。中学以来初めて……」
登下校がひとりと言っても、本当に目と鼻の先なのだ。
それでも嬉しいと思う。
夕飯が食べ終わるとお泊りの支度をした。
支度といっても、制服と栞さんの家で着る洋服を何着か。それから勉強道具一式。
支度を一通り終えると、
「ケーキを食べましょう」
と、栞さんに声をかけられた。
「さっき碧さんに連絡して許可ももらったから大丈夫。それと、夕飯には湊と司くんと海斗くん。もしかしたら静兄様もくるかもしれないわ」
……全部で七人!?
「そんなに大人数で大丈夫なんですか?」
「あら、七人なんて大した人数じゃないわよ? 藤宮の集まりなんて一〇〇人近くなるんだから」
そもそも規模が違うということをすっかり忘れていた――
うちは多くても家族四人に祖父母と叔父が加わって七人がせいぜい。それ以上の人数で食卓を囲むことはまずない。
「秋斗くんは仕事で毎晩遅いから気にしなくても大丈夫」
「え?」
「だって、秋斗くん避けでうちに来るのでしょう?」
そう言われてみればそうなんだけど――
「蒼兄……避けないでほしいって言われたの。これは避けていることになる?」
「うーん……ならないこともないけど、気になるならテスト期間は栞さんの家に泊ることになったってメールしておけばいいんじゃないかな」
「そうね。そのくらいは教えてあげたほうがいいかもしれないわ」
ふたりに言われてメールを送ることにした。
件名 :テストが終わるまで
本文 :栞さんの家に泊ることになったので、
しばらく図書棟通いはありません。
避けてるわけではなくて、
今はテスト勉強に集中したいので……。
少しだけ、ごめんなさい。
メールを送ると一分と経たないうちに返信メールが届いた。
件名 :了解
本文 :会えないのは寂しいけど、
気が散って勉強に身が入らず
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