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第二章 兄妹
14話
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お弁当を食べ終わると、テニスコートへ向かう途中にある噴水広場で佐野くんと合流した。
「仲間に文句言われつつ出てきちゃいました。それと……コーチがたまには顔出せって言ってました」
「……って、もしかして浜野コーチ?」
「そうです」
「じゃ、同じ人に指導してもらってるんだな」
話しながら歩き始める。
佐野くんはまだどこか緊張しているように見えた。でも、それは試合のときのとは別の緊張。
「インターハイ決まったね。おめでとう」
蒼兄が言うと、「まだまだ、ここからです」と口を引き結ぶ。
「まだ、切符を手にしただけ。インターハイで結果を残さないと……」
ストイック――そんな言葉が頭を掠める。
先ほど終わった試合のことはもう過去のこととしていて、次の高みを目指している佐野くんが目の前にいた。
けれど、肩に力が入っているような声と表情。
気負い――?
蒼兄は足を止め、佐野くんの背後に立って両肩に手を乗せた。
「ほら、力抜いて……」
ポンポン、と何度か叩くと佐野くんはとてもびっくりした顔をした。
「ついさっき、ひとつクリアしたところなんだ。常に目標を見失わずにいることも大切だけど、ひとつ終わったら一度身体の力を抜いて自分を緩めることも大切だよ」
「はい……」
佐野くんは嬉しそうにはにかみ、男の子らしい顔をした。
尊敬する人からの言葉をというものは、どんなものでも嬉しく、そして受け入れやすいものなのかもしれない。
「コートにいるの、海斗じゃない?」
桃華さんがテニスコートを指差す。
「観覧席に立花もいる」
ふたりの示す方に視線を向けると、コートでは海斗くんの試合が始まっていた。そして、観覧席にはテニス部の生徒が男女問わず駆けつけている。
「テニスって……ルール知らなくてもわかるもの?」
昨日のうちに予習くらいはしようと思っていたのだけど、突然の来客ですっかりと忘れてしまっていた。
「んー……サッカーやバスケみたいにゴールがあるわけじゃないけど、基本的には相手の球を打ち返してコート内に入れるっていうラリーを続ける。当然、打ち返せなければ点を取られる。で、点数はポイント制なんだけど、このポイントの取得法だとかはちょっと置いておいて、ワンセット六ゲームで、一ゲームにつき四ポイントを先に獲得したほうがそのゲームの勝者になる。ゲーム獲得までお互いが三ポイント獲得しているときはデュース。どちらかが二ポイント続けて入れるまで、そのゲームは終わらないんだ。見てれば試合の流れはわかると思う。
佐野くんは大雑把に教えてくれたのだろうけれど、意外とわかりやすかった。
佐野くんから聞いた話だと、ダブルスは負けてしまって、勝ち残っているのはシングルスの試合とのこと。
試合の終盤、相手が三ゲーム、海斗くんが二ゲームの獲得。このゲームで勝たなくては海斗くんが負けてしまう。
「Doing the best at this moment puts you in the best place for the next moment. 」
「え……? 何か言った?」
桃華さんがこちらを向く。すると蒼兄が、
「Doing the best at this moment puts you in the best place for the next moment.――今のこの瞬間に最善を尽くせば次の瞬間への最良の立場にいることになる。……珍しいな? 翠葉、英語苦手なのに」
「いつだったか、海斗くんが言っていたのを思い出したの。自分に負けそうになったとき、思い出す言葉だって……。今、そう思いながらがんばってるよね」
海斗くんのサーブ――空高くボールが上がり、それを目がけてラケットを振り下ろす。ネットすれすれで入るも、相手に難なくリターンされる。その球を追いかけて前に出る。ボレーで返すと相手は後方へと打ち込んできた。
どうにも、ゲームの流れを相手にコントロールされてしまっている感じ。
それを何度か繰り返すうちに、海斗くんのミスが頻発しだした。
それからはあっという間で、二ゲームとも相手に取られてしまい敗退――
海斗くんはとても悔しそうな顔をしていたのに、最後の挨拶では対戦相手にエールを送っていた。
相手は海斗くんの手をしっかりと握り、「ありがとう、がんばるよ」と答えていた。
どうやら相手は三年生だったらしい。
じわりと目に涙が滲む。自分が出た試合でもなんでもないのに悔しくて、悲しくて。
「えっ!? 御園生泣いてるっ!?」
佐野くんに気づかれ、
「ちょっと、なんか、悔しくて、悲しくて……」
「一番悔しいのは海斗くんだろ? 翠葉が泣いてどうする」
蒼兄に頭をくしゃくしゃとされた。
そうだよね……一番悔しいのは海斗くんだ。
「あれー? 翠葉、何泣いてんの?」
コートから出てきた海斗くんに声をかけられてびっくりする。
「具合悪い?」
「違う違う、海斗が負けたって泣いてたの」
「マジで?」
「マジで……」
海斗くんと佐野くんの会話を聞きながら、涙をハンカチに吸い込ませた。
「泣くな泣くな。確かに悔しいよ。けどさ、俺楽しかったから。だからいいんだ」
「楽し、かった……?」
訊くと、
「うん、楽しかった。相手の選手迫田さんって言うん だけど、俺より強いっ! 強い相手と試合するのってやっぱ楽しいし」
「そういう、もの……?」
「俺はね。きっとさ、俺よりも勝利につながる練習をたくさんしてきたんだと思う。二学年違えば試合の回数だって経験積んでるわけで……。俺はもっとがんばんなくちゃな」
海斗くんはとてもサッパリとした顔をしていた。
「だから泣くな。もっとがんばれって応援してよ」
私は涙が引っ込むように暗示をかけると、海斗くんを真っ直ぐ見据えてコクリと頷いた。
「うっし! じゃ、俺は着替えてくるから。飛鳥も今着替えてるとこだと思う。もうちょい待ってて」
言いながら更衣室へと消えて行った。
「あいつ、強いな……。試合が終わった直後にああ言えるやつ初めて見た……」
佐野くんが心底感心したような目で、海斗くんの後ろ姿を追う。
「そうね。でも、中等部のころからずっとあんな感じよ? 潔いっていうか……どんな現実からも目を逸らさずにしっかりと受け止めるっていうか……。そういうところは尊敬するわ」
「……確かに、稀に見る潔さだね」
三人の会話を聞いていたら大分落ち着いた。
そこに、
「翠葉ーーーっっっ」
全力疾走の飛鳥ちゃんがやってきた。
「翠葉、私服姿もかわいいっ」
と、抱きついて離れない。
「あれ? 何? 泣いてたの?」
顔を見て驚かれ、佐野くんが状況を説明すると笑われた。
「翠葉が試合に出てたわけじゃないのに。でも、それだけ真剣に試合を見守ってくれてたってことだよね」
「ん……」
「大丈夫だよ、翠葉。悔しさは絶対バネになるから」
飛鳥ちゃんはニッ、と口角を上げて笑った。
そのわざとすぎる表情に思わず笑みが零れる。
みんなでいると笑いが絶えない。
こうしていたら、悲しいことも悔しいことも全部笑って吹き飛ばせそう。
……友達って、なんかいいね。
佐野くんは陸上競技場へと戻り、着替えが終わった海斗くんも合流する。と、
「翠葉は四日の司の試合見に行くの?」
「うん、行くつもり」
「俺は部活が入っちゃって行けそうにないんだ」
海斗くんが言うと、「私も」と飛鳥ちゃんが続く。
「大丈夫よ。私が一緒に来るから。藤宮司が的でも外そうものなら、後日大声で罵ってやるわ」
桃華さんが不敵に笑む。
「なら、大丈夫か?」
海斗くんに尋ねられ、
「あ、うん。気にしてくれてありがとう。大丈夫」
飛鳥ちゃんは相当疲れたのか、言葉少なにすごく眠そう。
「立花さん、大丈夫? 良かったら三人とも車で送るけど?」
蒼兄の申し出に、
「あ、大丈夫です。飛鳥のこれはいつものことですから。最悪、うちの車を呼びますからお気になさらず」
桃華さんが丁寧に断った。
結果的に三人はバスで帰ることになった。
「桃華さん、今日はお弁当をありがとう。とても美味しかった。四日、もしよかったら試合が終わったあとにうちに寄って? 家でなら簡単なおもてなしができるから」
「あら、楽しみ」
そんな会話をして、公園内の分岐路で別れた。
海斗くんたちは表の東口からバスで帰り、私たちは北口から出る。
蒼兄と並んで公園を歩いていると、芝生がスプリンクラーの水を受けてキラキラと輝いていた。
「翠葉は本当に緑を見るのが好きだな?」
「うん。なんかね、心が洗われる気がするの。それに、見ているとほっとする色」
言うと、「やっぱり前世は葉っぱだな」と烙印を押された。
でも、それでもいいかもしれない。
前世は葉っぱ、か……。
周りにはどんなお花が咲いていただろう。そこからはどんな景色が、空が見えただろう。
考えていると、
「今日、ずっと外だったけど大丈夫だったか?」
顔を覗き込まれる。
実のところは身体がとても熱い。でも、あとは家に帰るだけだから大丈夫。
「うん、大丈夫。とっても楽しかったし」
そう答えたにもかかわらず、隣から額に向かって手が伸びてきた。
「日焼け、ってわけじゃなさそうだな。熱、あるんじゃないのか?」
目が、「嘘はつくな」と言っていた。
「少しだけだよ。少しだけ、身体が熱い」
すると、やっぱり、という顔をされた。
「翠葉……どうして言わないんだ? いつもギリギリまで……」
どうして……か。
簡単なようで簡単じゃない質問。
今まで何度となく訊かれてきた。でも、自分の中でこれ、という答えは見つけられなくて、答えられたことはない。
今なら片鱗くらいは話せるだろうか……。
「心配をかけたくなから……。でも、それだけじゃないよ」
一度言葉を切り、心にある想いを言葉へ変換しようと試みる。
「蒼兄が心配している顔を見ると悲しくなるから……。あとは、具合が悪いって自分で認めてしまったら、自分が自分に負けちゃう気がするから……」
「……難しいな。俺はいつだって心配しているし、具合が悪いって言われたら、傍目に見てわかる程度には心配そうな顔をしているんだろうし……。自分に負けちゃう気がするっていうのはわからなくはないけど、それはやっぱり危ないと思う。熱いくらいならそんなこともないだろうけれど、ほかの場合、処置が早いほうがいいことは翠葉だってわかっているだろ?」
諭すように話され、「うん、そうだよね」と返事をする。けれども、気持ちが伴わない返事だった。
「本当は言ってほしい……。でも、それが翠葉にとってつらいことならいい。……顔を見てればだいたい気づけるから」
「っ……」
「俺も、翠葉観察歴が長いだけなわけじゃないよ」
最後に甘やかされるのはいつものこと。
きっと、負い目を感じているのだろう。本当は私がいけなかったのに。私の不注意だったのに……。
「蒼兄、あのね――あの日、私が倒れたのは誰のせいでもないんだよ? 蒼兄も、お母さんもお父さんも悪くない。ただ、私の身体が体温調節できなかっただけで……。写真を撮ることに夢中で、休憩もせず立ちっぱなしだったのがいけないの。全部私がいけなくて、蒼兄たちが負い目を感じることなんて何もないんだよ?」
「――翠葉、ずっとそんなふうに思っていたのか?」
頷くと、重力に負けて目から涙が零れた。
「悪い……気づかなかった。でも、あのときは確かに負い目と感じていたけど……今は少し違う。ただ、嫌なんだ。自分の知らないところで具合が悪くなってたら……って考えるのが。いわば保身のために翠葉の側にいる。ほら、先輩たちにも言われてるけど、兄バカだからさ」
言いながらシャツの袖で涙を拭ってくれた。
「でも、そのせいで蒼兄の時間をもらいすぎている気がするの」
「……高校の行き帰りのこと?」
「うん……」
「それも五月いっぱいの話だよ。翠葉が生徒会に入ればまた変わってくる」
「でも、成績しだいではわからないし……。もし、生徒会に入れなかったら帰りはひとりで帰るってお父さんたちに言おうと思ってる」
「それは無理っ、俺が無理」
「でもっ」
「そんなことになるくらいなら、翠葉に大学に来てもらって研究室の隅にいてもらうほうが何百倍もマシ」
「蒼兄、大げさだよ……。私は一年遅れて高校生になれて、今という時間をとても楽しく過ごせてる。……すごく幸せだと思ってるよ。でもね、それで誰かにしわ寄せが行くのはつらいし、違うと思うの。そんなに人の手を借りなくちゃできないことなら、本当は諦めるべきことだったのかも、と思うの」
家族に心配されることが、とてもつらく悲しく圧し掛かる。自分が足枷にしか思えなくて苦しくなる。
今、自分が高校に通えているのは、家族や友達が助けてくれているからほかならない。
そこまでして自分が高校へ行く価値はあるのか……。
蒼兄のように、将来建築家になりたいとか、そういう目標すらない。
なのに高校へ通う。それは私のわがままなんじゃないだろうか――時々、すごく不安になる。
と、蒼兄が足を止め、私の前に立った。
見上げると、ぎゅっ、と抱きしめられた。
「蒼、に……?」
「もしかしたら、俺はすごいエゴを翠葉に押し付けてるのかもしれない。でも……自分の手の届かないところに翠葉がいるのは嫌なんだ。不安でほかのことが手につかなくなる。だから――負い目とかそういうんじゃなくて、俺が安心して手を放せるようになるまでは側にいさせてくれないか?」
わがままを言っているのは私なのに、蒼兄は「自分のエゴ」だと言う。
どうしたら――どうしたら蒼兄を自分から解放してあげられるんだろう。
少なくとも、今はまだ何ひとつとして安心材料になりそうなものを私は持っていない。
もっと健康な身体にならなくちゃ……。もっと普通の人と同じように動けるようにならなくちゃ……。
せめてこの先、倒れることだけは回避しなくちゃ……。
「蒼兄……ごめんね。いつもありがとう」
この言葉を言うと、蒼兄はいつもほっとした顔をしてくれる。そして、必ずこう言うの。
「バカだな。ありがとうだけでいい」
って。
そうして、少し悲しげに笑う。
何度この表情を見てきただろう……。
――「There's always something you can do.」
いつだって何かできることはある――
今、私にできることは何?
蒼兄と手をつないで歩く。
このあたたかくて大きな手を放せないのは、蒼兄じゃなくて自分なのかもしれない――
「仲間に文句言われつつ出てきちゃいました。それと……コーチがたまには顔出せって言ってました」
「……って、もしかして浜野コーチ?」
「そうです」
「じゃ、同じ人に指導してもらってるんだな」
話しながら歩き始める。
佐野くんはまだどこか緊張しているように見えた。でも、それは試合のときのとは別の緊張。
「インターハイ決まったね。おめでとう」
蒼兄が言うと、「まだまだ、ここからです」と口を引き結ぶ。
「まだ、切符を手にしただけ。インターハイで結果を残さないと……」
ストイック――そんな言葉が頭を掠める。
先ほど終わった試合のことはもう過去のこととしていて、次の高みを目指している佐野くんが目の前にいた。
けれど、肩に力が入っているような声と表情。
気負い――?
蒼兄は足を止め、佐野くんの背後に立って両肩に手を乗せた。
「ほら、力抜いて……」
ポンポン、と何度か叩くと佐野くんはとてもびっくりした顔をした。
「ついさっき、ひとつクリアしたところなんだ。常に目標を見失わずにいることも大切だけど、ひとつ終わったら一度身体の力を抜いて自分を緩めることも大切だよ」
「はい……」
佐野くんは嬉しそうにはにかみ、男の子らしい顔をした。
尊敬する人からの言葉をというものは、どんなものでも嬉しく、そして受け入れやすいものなのかもしれない。
「コートにいるの、海斗じゃない?」
桃華さんがテニスコートを指差す。
「観覧席に立花もいる」
ふたりの示す方に視線を向けると、コートでは海斗くんの試合が始まっていた。そして、観覧席にはテニス部の生徒が男女問わず駆けつけている。
「テニスって……ルール知らなくてもわかるもの?」
昨日のうちに予習くらいはしようと思っていたのだけど、突然の来客ですっかりと忘れてしまっていた。
「んー……サッカーやバスケみたいにゴールがあるわけじゃないけど、基本的には相手の球を打ち返してコート内に入れるっていうラリーを続ける。当然、打ち返せなければ点を取られる。で、点数はポイント制なんだけど、このポイントの取得法だとかはちょっと置いておいて、ワンセット六ゲームで、一ゲームにつき四ポイントを先に獲得したほうがそのゲームの勝者になる。ゲーム獲得までお互いが三ポイント獲得しているときはデュース。どちらかが二ポイント続けて入れるまで、そのゲームは終わらないんだ。見てれば試合の流れはわかると思う。
佐野くんは大雑把に教えてくれたのだろうけれど、意外とわかりやすかった。
佐野くんから聞いた話だと、ダブルスは負けてしまって、勝ち残っているのはシングルスの試合とのこと。
試合の終盤、相手が三ゲーム、海斗くんが二ゲームの獲得。このゲームで勝たなくては海斗くんが負けてしまう。
「Doing the best at this moment puts you in the best place for the next moment. 」
「え……? 何か言った?」
桃華さんがこちらを向く。すると蒼兄が、
「Doing the best at this moment puts you in the best place for the next moment.――今のこの瞬間に最善を尽くせば次の瞬間への最良の立場にいることになる。……珍しいな? 翠葉、英語苦手なのに」
「いつだったか、海斗くんが言っていたのを思い出したの。自分に負けそうになったとき、思い出す言葉だって……。今、そう思いながらがんばってるよね」
海斗くんのサーブ――空高くボールが上がり、それを目がけてラケットを振り下ろす。ネットすれすれで入るも、相手に難なくリターンされる。その球を追いかけて前に出る。ボレーで返すと相手は後方へと打ち込んできた。
どうにも、ゲームの流れを相手にコントロールされてしまっている感じ。
それを何度か繰り返すうちに、海斗くんのミスが頻発しだした。
それからはあっという間で、二ゲームとも相手に取られてしまい敗退――
海斗くんはとても悔しそうな顔をしていたのに、最後の挨拶では対戦相手にエールを送っていた。
相手は海斗くんの手をしっかりと握り、「ありがとう、がんばるよ」と答えていた。
どうやら相手は三年生だったらしい。
じわりと目に涙が滲む。自分が出た試合でもなんでもないのに悔しくて、悲しくて。
「えっ!? 御園生泣いてるっ!?」
佐野くんに気づかれ、
「ちょっと、なんか、悔しくて、悲しくて……」
「一番悔しいのは海斗くんだろ? 翠葉が泣いてどうする」
蒼兄に頭をくしゃくしゃとされた。
そうだよね……一番悔しいのは海斗くんだ。
「あれー? 翠葉、何泣いてんの?」
コートから出てきた海斗くんに声をかけられてびっくりする。
「具合悪い?」
「違う違う、海斗が負けたって泣いてたの」
「マジで?」
「マジで……」
海斗くんと佐野くんの会話を聞きながら、涙をハンカチに吸い込ませた。
「泣くな泣くな。確かに悔しいよ。けどさ、俺楽しかったから。だからいいんだ」
「楽し、かった……?」
訊くと、
「うん、楽しかった。相手の選手迫田さんって言うん だけど、俺より強いっ! 強い相手と試合するのってやっぱ楽しいし」
「そういう、もの……?」
「俺はね。きっとさ、俺よりも勝利につながる練習をたくさんしてきたんだと思う。二学年違えば試合の回数だって経験積んでるわけで……。俺はもっとがんばんなくちゃな」
海斗くんはとてもサッパリとした顔をしていた。
「だから泣くな。もっとがんばれって応援してよ」
私は涙が引っ込むように暗示をかけると、海斗くんを真っ直ぐ見据えてコクリと頷いた。
「うっし! じゃ、俺は着替えてくるから。飛鳥も今着替えてるとこだと思う。もうちょい待ってて」
言いながら更衣室へと消えて行った。
「あいつ、強いな……。試合が終わった直後にああ言えるやつ初めて見た……」
佐野くんが心底感心したような目で、海斗くんの後ろ姿を追う。
「そうね。でも、中等部のころからずっとあんな感じよ? 潔いっていうか……どんな現実からも目を逸らさずにしっかりと受け止めるっていうか……。そういうところは尊敬するわ」
「……確かに、稀に見る潔さだね」
三人の会話を聞いていたら大分落ち着いた。
そこに、
「翠葉ーーーっっっ」
全力疾走の飛鳥ちゃんがやってきた。
「翠葉、私服姿もかわいいっ」
と、抱きついて離れない。
「あれ? 何? 泣いてたの?」
顔を見て驚かれ、佐野くんが状況を説明すると笑われた。
「翠葉が試合に出てたわけじゃないのに。でも、それだけ真剣に試合を見守ってくれてたってことだよね」
「ん……」
「大丈夫だよ、翠葉。悔しさは絶対バネになるから」
飛鳥ちゃんはニッ、と口角を上げて笑った。
そのわざとすぎる表情に思わず笑みが零れる。
みんなでいると笑いが絶えない。
こうしていたら、悲しいことも悔しいことも全部笑って吹き飛ばせそう。
……友達って、なんかいいね。
佐野くんは陸上競技場へと戻り、着替えが終わった海斗くんも合流する。と、
「翠葉は四日の司の試合見に行くの?」
「うん、行くつもり」
「俺は部活が入っちゃって行けそうにないんだ」
海斗くんが言うと、「私も」と飛鳥ちゃんが続く。
「大丈夫よ。私が一緒に来るから。藤宮司が的でも外そうものなら、後日大声で罵ってやるわ」
桃華さんが不敵に笑む。
「なら、大丈夫か?」
海斗くんに尋ねられ、
「あ、うん。気にしてくれてありがとう。大丈夫」
飛鳥ちゃんは相当疲れたのか、言葉少なにすごく眠そう。
「立花さん、大丈夫? 良かったら三人とも車で送るけど?」
蒼兄の申し出に、
「あ、大丈夫です。飛鳥のこれはいつものことですから。最悪、うちの車を呼びますからお気になさらず」
桃華さんが丁寧に断った。
結果的に三人はバスで帰ることになった。
「桃華さん、今日はお弁当をありがとう。とても美味しかった。四日、もしよかったら試合が終わったあとにうちに寄って? 家でなら簡単なおもてなしができるから」
「あら、楽しみ」
そんな会話をして、公園内の分岐路で別れた。
海斗くんたちは表の東口からバスで帰り、私たちは北口から出る。
蒼兄と並んで公園を歩いていると、芝生がスプリンクラーの水を受けてキラキラと輝いていた。
「翠葉は本当に緑を見るのが好きだな?」
「うん。なんかね、心が洗われる気がするの。それに、見ているとほっとする色」
言うと、「やっぱり前世は葉っぱだな」と烙印を押された。
でも、それでもいいかもしれない。
前世は葉っぱ、か……。
周りにはどんなお花が咲いていただろう。そこからはどんな景色が、空が見えただろう。
考えていると、
「今日、ずっと外だったけど大丈夫だったか?」
顔を覗き込まれる。
実のところは身体がとても熱い。でも、あとは家に帰るだけだから大丈夫。
「うん、大丈夫。とっても楽しかったし」
そう答えたにもかかわらず、隣から額に向かって手が伸びてきた。
「日焼け、ってわけじゃなさそうだな。熱、あるんじゃないのか?」
目が、「嘘はつくな」と言っていた。
「少しだけだよ。少しだけ、身体が熱い」
すると、やっぱり、という顔をされた。
「翠葉……どうして言わないんだ? いつもギリギリまで……」
どうして……か。
簡単なようで簡単じゃない質問。
今まで何度となく訊かれてきた。でも、自分の中でこれ、という答えは見つけられなくて、答えられたことはない。
今なら片鱗くらいは話せるだろうか……。
「心配をかけたくなから……。でも、それだけじゃないよ」
一度言葉を切り、心にある想いを言葉へ変換しようと試みる。
「蒼兄が心配している顔を見ると悲しくなるから……。あとは、具合が悪いって自分で認めてしまったら、自分が自分に負けちゃう気がするから……」
「……難しいな。俺はいつだって心配しているし、具合が悪いって言われたら、傍目に見てわかる程度には心配そうな顔をしているんだろうし……。自分に負けちゃう気がするっていうのはわからなくはないけど、それはやっぱり危ないと思う。熱いくらいならそんなこともないだろうけれど、ほかの場合、処置が早いほうがいいことは翠葉だってわかっているだろ?」
諭すように話され、「うん、そうだよね」と返事をする。けれども、気持ちが伴わない返事だった。
「本当は言ってほしい……。でも、それが翠葉にとってつらいことならいい。……顔を見てればだいたい気づけるから」
「っ……」
「俺も、翠葉観察歴が長いだけなわけじゃないよ」
最後に甘やかされるのはいつものこと。
きっと、負い目を感じているのだろう。本当は私がいけなかったのに。私の不注意だったのに……。
「蒼兄、あのね――あの日、私が倒れたのは誰のせいでもないんだよ? 蒼兄も、お母さんもお父さんも悪くない。ただ、私の身体が体温調節できなかっただけで……。写真を撮ることに夢中で、休憩もせず立ちっぱなしだったのがいけないの。全部私がいけなくて、蒼兄たちが負い目を感じることなんて何もないんだよ?」
「――翠葉、ずっとそんなふうに思っていたのか?」
頷くと、重力に負けて目から涙が零れた。
「悪い……気づかなかった。でも、あのときは確かに負い目と感じていたけど……今は少し違う。ただ、嫌なんだ。自分の知らないところで具合が悪くなってたら……って考えるのが。いわば保身のために翠葉の側にいる。ほら、先輩たちにも言われてるけど、兄バカだからさ」
言いながらシャツの袖で涙を拭ってくれた。
「でも、そのせいで蒼兄の時間をもらいすぎている気がするの」
「……高校の行き帰りのこと?」
「うん……」
「それも五月いっぱいの話だよ。翠葉が生徒会に入ればまた変わってくる」
「でも、成績しだいではわからないし……。もし、生徒会に入れなかったら帰りはひとりで帰るってお父さんたちに言おうと思ってる」
「それは無理っ、俺が無理」
「でもっ」
「そんなことになるくらいなら、翠葉に大学に来てもらって研究室の隅にいてもらうほうが何百倍もマシ」
「蒼兄、大げさだよ……。私は一年遅れて高校生になれて、今という時間をとても楽しく過ごせてる。……すごく幸せだと思ってるよ。でもね、それで誰かにしわ寄せが行くのはつらいし、違うと思うの。そんなに人の手を借りなくちゃできないことなら、本当は諦めるべきことだったのかも、と思うの」
家族に心配されることが、とてもつらく悲しく圧し掛かる。自分が足枷にしか思えなくて苦しくなる。
今、自分が高校に通えているのは、家族や友達が助けてくれているからほかならない。
そこまでして自分が高校へ行く価値はあるのか……。
蒼兄のように、将来建築家になりたいとか、そういう目標すらない。
なのに高校へ通う。それは私のわがままなんじゃないだろうか――時々、すごく不安になる。
と、蒼兄が足を止め、私の前に立った。
見上げると、ぎゅっ、と抱きしめられた。
「蒼、に……?」
「もしかしたら、俺はすごいエゴを翠葉に押し付けてるのかもしれない。でも……自分の手の届かないところに翠葉がいるのは嫌なんだ。不安でほかのことが手につかなくなる。だから――負い目とかそういうんじゃなくて、俺が安心して手を放せるようになるまでは側にいさせてくれないか?」
わがままを言っているのは私なのに、蒼兄は「自分のエゴ」だと言う。
どうしたら――どうしたら蒼兄を自分から解放してあげられるんだろう。
少なくとも、今はまだ何ひとつとして安心材料になりそうなものを私は持っていない。
もっと健康な身体にならなくちゃ……。もっと普通の人と同じように動けるようにならなくちゃ……。
せめてこの先、倒れることだけは回避しなくちゃ……。
「蒼兄……ごめんね。いつもありがとう」
この言葉を言うと、蒼兄はいつもほっとした顔をしてくれる。そして、必ずこう言うの。
「バカだな。ありがとうだけでいい」
って。
そうして、少し悲しげに笑う。
何度この表情を見てきただろう……。
――「There's always something you can do.」
いつだって何かできることはある――
今、私にできることは何?
蒼兄と手をつないで歩く。
このあたたかくて大きな手を放せないのは、蒼兄じゃなくて自分なのかもしれない――
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